9/16/2013

ブログを引っ越しました

突然で申し訳ないですが、ブログを「はてな」に引っ越すことにしました。
このGoogleのBloggerというツールですが、なかなかログインができなかったり、どうにも具合が悪かったからです。というか、きまぐれです、すみません。

新しいブログはこちらです↓。

http://taach.hatenablog.jp/



しばらく↑で更新していきます。

9/12/2013

沖縄から帰ってきた




 沖縄から帰ってきました。一ヶ月半くらいいました。友達がバイクを貸してくれたので、自由に行動していたら、とっても楽しくなってきました。名古屋に帰って第一印象は、空が青くない、でした。やっぱり沖縄の空は真っ青だったのです。毎日、毎日、青と白のコントラストでした。

沖縄は、小さい子をのんびり育てるにはとってもいい場所だなって思った。毎日海で遊ばせてれば丈夫で気持ちのゆったりした子に育つ気がする。近所付き合いもあって、地域全体でこどもの面倒を見るという感じらしいし。高校くらいになると、内地に行きたくなるかもしれないけど、沖縄の子はたいてい、沖縄に戻ってくると聞いた。本人もいってたけど、やっぱり沖縄が居心地がいいらしい。どういうことろが?と聞くと、時間に間に合わせようと急いでる人がいないところ、みたいなことを言っていた。

そういえば、むかし、会社員をしていて電車通勤をしているころ。人身事故で電車が止まると、おいおいまたかよ、困るんだよ、としか思えない自分に驚いたりしていた。ひとひとりが亡くなっている。でも、そのせいで会社に遅刻するのも面倒だ。そういう感情しか湧いてこなかった。都会は人が多すぎる、ただそれだけのことなのだろうけど。


実家に帰ったら姪が来ていた。2歳の姪は、夜、電気を消して眠れない。正確に言うと、夜中に目が覚めた時、真っ暗だと火が着いたように泣くのだ。だから電気をつけたまま寝たりしている。

ぼくは不思議だなあと思って見ていた。でも、そういうものか、とも思う。でも、いったいどうして夜中に目が覚めて、暗闇だと泣くのだろう。怖いのだろうけど、夜が暗いのは悠久の昔からの自然で、人類はずっと暗闇で眠ってきたはずなのだ。それも漆黒の暗闇で。一万年前の二歳児は暗闇で泣いたのだろうか?

謎解きがしたいわけじゃない。ただ、2歳時なりにいろいろあるんだな、っていう以外さだけだ。幼児なんて、バーーっと遊んでバタンキュー、いちど寝たらてこでも起きない、みたいなのを想像していたからだ。もちろんそういうときも多いんだけど、なんだか気難しい人に相手をしているような気分になることも多い。わけのわからないことで機嫌が悪くなったりするのだ。とってもいじわるだったり。でも、それが悪魔の2歳時と言われる普遍的な現象みたいだし、これからもそうやっていろいろありながら成長していくのだろう。

つまり、暗闇で目覚めて泣いたり、突然むずかったり、わけのわからないことで頑固になったりするのが、幼児の「健全」な状態だということなのだろう。





「風立ちぬ」を見た


 先日、「風立ちぬ」を見てきました。沖縄の嘉手納基地近く、連日、米軍最新鋭のF22戦闘機が飛び回っている、北谷の映画館です。

僕には、まず、この映画は戦争と自然災害を描いいるように見えました。戦争、この不思議な人間行為。そして、突然命を奪う自然災害。もっとも、ヒロインの菜穂子は災害ではなく結核という病で亡くなります。しかしそれは、自然が命を奪っていったと言えるものではないでしょうか。自分の日々の行いとは関係なく、もちろん感染経路や体調管理、遺伝体質など、因果関係はたどれるのかもしれませんが、本人が悪いことをしたわけでもなく、危険な行為をしたわけでもなく、ただ普通に暮らしているだけで、患ってしまったと言えます。そして、そんな風に突如やってきた病に、刻々と命の温度を奪われていくのです。東北が思い浮かびます。大勢の命が召されましたが、それは突然で、本人たちの日頃の行いとは、微塵も関係なかったと断言できるでしょう。ただ、大きな自然がやってきて、連れ去っていったのです。

主人公の二郎は、戦闘機づくりに命を燃やします。もちろん本人は戦争の道具など作りたかったわけではないでしょう、ただ美しい飛行機を作りたかったのです。でも時は戦時。自分の力を最大限に発揮できる場所は大手の飛行機会社であり、当時の大手の飛行機会社は戦闘機を作ることになっていたのです。

たぶん当時の時代背景を考えると、戦闘機じゃない飛行機を作れる場所などどこもなく、戦闘機づくりを拒否しても、どのみち徴兵で戦争へ、そんな時代だったはずです。すべてを飲み込んでゼロ戦を設計していたのです。二郎本人の行いや思想とはかかわりなく、戦争という大きな集団のうねりがあって、できることは所詮、そのなかで少しばかりあがく方法があるかないかといったところだったはずです。

まあ端的に言えば、そういう中で、ひとりの人間としてどう生きるのか、という映画だった気がします。それも、どう抗うのか、というよりは、抗いようのない流れに押し流されながらも、いかに輝く日々を生きるのか、という映画だった気がします。

映画を見終わったとき、以外な気持ちになっていました。宮崎駿はここに着地したのか、と。あっちもこっちも睨みながらも、いろいろな思いや昂ぶりを抱えながらも、ふわりとそこへ降り立ったのか、そんな気がしました。

8/30/2013

沖縄でも波乗り

先日、ついに念願の沖縄でのサーフィンに行ってきました。台風が近づいて波がたってきたのです。沖縄では恐れ嫌われている台風ですが、サーファーにとっては恩恵をもたらす風でもあります。

沖縄在住の友人たちにシークレットっぽい場所に案内してもらい、ゲットイン。果たして一年ぶりの波乗りは。。。

案の定、パドリングができない。。10かきくらいで腕がぱんぱんになってしまいます。沖へとぐんぐんパドリングしていく友人達にかなり置いてきぼりになりました。ボディボーの女の子たちが憐れみの眼でみているのがつからったです。

しかし、かなり遅れてようやく追いつくと、もうみんな波をつかまえて波乗りを楽しんでいました。先客を含め、10人ほどでポイントをシェアします。みんな笑顔で気持ち良い人たちでした。僕はといえば、波にのるどころか、カレントに流されるのを必死で元にもどるだけで、ぜんぜん波乗りの余裕がありません。あーでも、どこか満足。こうしてボードの上に腹ばいになって波を待っているだけで、すこし幸せな気分です。またこうして波乗りできてる。

そして、一時間も過ぎたでしょうか、セットの波が2,3個続き、みんながひと通り波に乗っていったころ、忘れたようにもうひとつ波がやってきました。これだ!ぼくは必死でパドリング、あっという間に波に追いつかれましたが、気がつくと、ボードの上に立っていました。

あれ、立ってるぞ!おもわず両手をあげて声をあげてしまいました。友達がこっちに気づいて、グッドサインを出してくれます。あー立てたんだなーっと、しみじみ喜びを感じる時間を、波は与えてくれました。かなりのロングライドとなりました。

僕は嬉しかったのです。波乗りが僕を覚えてくれた、そんな気がしました。一年ぶりなのに、一発で立てた。この波に乗る、と心で決めてからはあとは体が勝手に動いたのです。もちろん考える暇などないのがサーフィンです。体が勝手にベストなタイミングでパドリングを開始、ベストなタイミングで立ってくれたのです。ああ、覚えていたんだね、ありがとう。自分の体が誇らしく、波乗りの神様にやさしくされた気がしました。

その日は結局、その一本だけ。でも大満足。爽快な気分で帰途につきました。友人達に感謝です。

また同じ友人たちに連れていってもらった、真栄田岬のシュノーケリング、青の洞窟までのぷち旅行も、すごく楽しかった。崖っぷちの階段を降りれば、そこはもう水族館でありました。カラフルな魚たちがいっぱいいました。それに負けないくらい、スキューバのお客さんもいたけどね。でも、予想外に本格的なシュノーケリングができて、ぼくはうれしかったです。船でいくダイビングは今回は面倒で行きたくないな、って思ってたから。

そして今、よる10時、嘉手納基地ちかくのマクドナルド。満席です。老若男女です。都会と田舎。そんなことを考えました。沖縄は、ざっくり言えば田舎です。都会ではありません。だから、どんどん人に出会っていったり、コアな欲求をみたしてくれる娯楽もありません。仕事的なものがどんどん展開しそうな予感もありません。つまり、チャンスや出会いが転がっている感じはありません。

それが物足りないと思うのですが、海があって、広い空がどこからでもいつも見えています。そのことが気持ちを広くするのは間違いありません。入ろうと思えば毎日海に入れる環境も、やはり心身の健康にはいいことです。

沖縄では、近所づきあいが残っているようで、都会とはちがって、みんな顔見知りのしがらみ社会を生きることになるのでしょう。それは面倒くささや窮屈さにつながりますが、いつも知ってる人に声をかけられるという安心感にもつながります。とくに子どもたちがとっても近くにいます。沖縄にきて、子どもと遊ぶ機会が多かった気がします。そういうのも心身の健康にいいと思われます。

でも、と思います。でも僕はやっぱりもう一度都会の戻るでしょう。たぶんバンコク、そうでなければ台北、日本の都会かもしれません。でも、と思います。でもまたしばらくしたら海が恋しくなって、沖縄や、バリ島やに行くでしょう。実際、そんな風に動いてきています。

そんなどっちつかずな状態を、なんでだろう?どっちかにすればいいのに、と他人ごとのように眺め、困ったな、と思っているのですが、もしかすると、これはとても自然な感情なのかもしれません。都会と田舎、どっちもいいし、どっちもいまいちだし、両方とりたいけど、1ヶ所で両方そなえた場所はたぶん、ないんじゃないかな。だから、僕は移動しつづけることになるんだろう。

都会と田舎、だけじゃなく、外国と国内、ひとりでやる仕事と、みんなでやる仕事、パソコンでやる仕事と、体を使う仕事、そういうのは本当はひとつに決める必要ないのかなって思ったり。現実を見れば、何かを選ばなくちゃいけないかもしれないけど、何かひとつを選んだ時に、それでバランスがとれているわけではないし、ひとつにすることだけが正道ではないと言う気もする。とはいえ、やはり本腰は入れたほうがいい気がするし。いったい何おれはいつまでもをいっているんだろう。。

とにかく、もうすぐ長かった沖縄滞在が終わります。お世話になった友人達に感謝しています。




8/24/2013

沖縄のこと

沖縄滞在が一ヶ月を過ぎた。これくらいいると、日常と非日常が入れ替わってくる。けっこう前から沖縄に住んでいるような気になってきた。そして、果たしてどこから来たんだっけと遠い昔のように思い返す。

こんな話を聞いた。これは、又聞きになるのだが、下北沢のカフェで偶然出会った、ある旅人作家のひとから聞いた話。その人曰く、日本全国いろんな場所にいったけど、沖縄のおじいちゃんたちも面白いよーとのこと。

なんでも、こういう会話があったらしい。沖縄はブラジルなどに集団移民した土地柄でもある。沖縄のあるご老人と話しているときに、その老人は若い頃にブラジルに渡ったそうである。その理由が「戦争が始まりそうだったから、」だそうだ。戦争がおっぱじまりそうだったから、ちょっとブラジルさ行っただよ、ということらしい。

この話あくまでも、ビールを飲みながらの聞きかじりであることを前提で話をすすめます。

なんだかスケールが大きいな、と思ってしまった。戦争はじまりそうだったから、ちょっとブラジルいってくるわ、と聴くと、なんてたくましいんだ、と思ってしまう。これは、お国のために戦うぞ、とか、逆に、命をかけて戦争に反対する、とはまた別の種類のたくましさだ。

おもえば、社会が大きくうねり、ある方向へ雪崩をうって動き出しているとき、それに抗うのは非常に非常に困難なことである。そのとき、俺はこのゲーム降りるぜ、というのもひとつの命の張り方なのだと思う。というか、命の大切の仕方、だね。

まあそんなことより。沖縄いるのに海にぜんぜん入ってない。 というか、この一ヶ月でどう過ごしていたのか記憶があいまいだ。たぶん夏バテでぼーっとしていたのだろう。最近ようやく頭がはっきりしてきた。すこし涼しくなってきたのだろうか。沖縄も暑いが、本土も暑いと聞く。

というか、そんなことより。仕事場にしていたマクドナルドががら空きだったのにほぼ満席になっていた!いま夜の10時。子連れも多い。あ、今日は土曜の夜だ。

 フィンランドは原発の核燃料の処分場を作ったそうである。地中に埋めるのだという。日本も淡々と廃炉して処分してという工程を進んでいかなくてはならない。例えば福島はそれ以外に選択肢はない。福島の原発を廃炉にする工程をしっかりと歩めば、ほかの原発にも応用できるだろう。最終処分の方法はたぶんまだ決まっていない。国を割る議論が起こるかもしれない。でもこれは、脱原発、原発推進を問わず、決めなければいけない課題である。どっちみちもう、使用済み燃料棒は福島で不安全な形で待っているだから。より安全な方法でどこかに「保存」しなければならないのだ。ああ、どっちに転んでもスッキリしない未来である。燃料棒の無害化はまず不可能だからである。ただどこかへ移動できるだけなのだ。海へ流れた放射性物質も、どこかには漂う。海の中で無害化したりはしないのだ。ただ薄まったりするだけである。

 原発のことは国内だけで議論しないで、フィンランドなどの人も交えて、妥当な議論をしていかないといけない。イデオロギーの問題ではないのだ。もっと合理的な問題なのだ。いずれどうにかしなければいけないことを、いつどうするのがいいのか、そういう問題なのだ。













姪のこと

姪がファミリーのイチ員に加わってから、ファミリーというのは血族というようば意味ですが、加わってから、僕の感覚がすこし変わってきている。

まず、なにより、突然やってきたごく近い親族に驚く。突然現れた。傍若無人に大人たちを振り回している。そして、顔が姉のこどものころにそっくりなのだ。もちろん僕は姉が2歳やらのことを覚えてはいない。だが、写真などでみる姉の幼児期の顔にそっくりであり、ぼくがかすかに覚えている面影にも似ている。姪といると二重の意味で子供時代がフラッシュバックする。まず、子どもと遊ぶことで、子供時代の感性が少し思い出すような気持ちになるとともに、姉と遊んだ子供時代をダイレクトにデジャブーするような気もする。

まあ、それはどうでもいいか何よりも、2歳児ひとりにいい大人が4人も5人も振り回されるのを見ていると、これが幸せなんだと思う。こうやって人は突然やってくるのだ。闖入者なのだ。突然やってきて、周囲の人間をさんざん振り回し、また唐突に「俺」や「わたし」になるのだ。すべてが周囲や本人の準備とは関係なく、ガシガシと進んでいく。だがそのことが騒々しい幸せを運んでくるのだ。

沖縄が思わぬロング滞在になっている。いろいろ事情があって伸びているのだが、そのことでまた沖縄の印象も刻々と変わっていく気がする。例えば、とある地元のエイサーも見れた。とても感動した。

正確にはエイサーの練習を見れたのだ。若者たちが50人ばかり、男は太鼓を片手に、女は踊りと歌をうたって、一生懸命練習しているのを見た。風が強く、ときおり雨がばばばーっと降ってくる夜だった。

みんなすごく真剣だった。エイサーがこんなに真剣なものだとは知らなかった。もっとプロたちによる観光ショー的なものだと思っていた。そうではなく、それぞれの地域で、年に一度、旧盆に、儀式のようなかたちで捧げられるもののようだ。その土地の若者が踊りつぐもののようだ。つまり、ある年齢、たとえば18歳から25歳までの男女しか踊れない踊りなのだそうだ。それってなんだかイイよね!



8/22/2013

原点

いま、原点というコーヒーショップに行ってきた。こだわりのコーヒーが出てきた。手作りケーキもいただいた。コーヒーひとすじ30年的なお店だった。

店内にすごいきれいな絵がかざってあって、姪の絵だという。画家の名前は中原ありさというらしい。店内には手作りの凧も飾ってあって、皇室にも献上されたそうである。布張りのかっこいい凧だった。骨組みが竹でできてて、風で音が鳴るという。バリ島でも風で音がなる竹の楽器?がありますよ、という話をしたら、どういう構造なのかとかなり関心をもっていた。小さな穴が開いてるだけです、というと、こんどやってみよう、と言っていた。おまけにその店主は、シャンソンも歌うらしい。まったく芸術家なのだった。

やっぱり芸術家などはうらやましく思う。なにはともあれ、表現する手段と場を持っているということだ。絵本作家の五味太郎は、なぜ表現するのですか?とは愚問であり、それは、なぜ呼吸するのですか?と同じような質問である、と語っていた。とにかく表現する必要があるからするんだ、理由などない、ということらしい。何かを表現せずにはいられない、それも人間の本性のひとつなのかもしれない。

そして、積み上がるものと積み上がらないものについて考えていました。
人類が人類ぽくなってからきっとうん十万年が過ぎた。もっと限定していけば、少なくともここ数千年は、ほぼ現代と同じタイプの人類が歴史を歩んできた。歴史も伝承されている。これだけの歴史がありながら、積み上がってきていないこともある。

歴史などといわずとも、大人から子どもに伝えられないものがある。たとえば、初恋のとき、いや、初めての失恋をどう乗り越えればいいか。それはただ乗り越えるしかなく、大人の体験談をいくら聞いてもほんの少しのなぐさめにしかならない。いや、例が悪かったようだ。

もっと抽象的に言えば、人ひとりが生きていくということに関しては、ほとんど、歴史から学ぶことはない。もちろん、数々の文学、芸術、映画、音楽、TVドラマ、もろもろが、 人生で起きる一大事をさまざまなシミュレーションとして見せてはくれるし、詩人の言葉がこころのよりどころになったと言う人もいるだろう。しかし、どんな一冊の本だって、本当のところ人生を無難なものにする力などないのだ。

振りかかる火の粉は、文学では振り払えない。ただ、やけどしたあと、傷がいえるまでの時間を少しだけ慰めてくれるだけである。火の熱さは火傷して覚えるしかなく、また、火傷をしない人生などは人生と呼べるものだろうか、と言ってみたりさえする。

もっと簡単にいえば、人類が人類らしくなってから、累計800億人の人間が生まれては消えてきったと言われる。それだけの人生がおりなされながらも、人生必勝マニュアルが未だに完成していないのは何故なのか。800億人もいれば、ありとあらゆる人生の迷い道、落とし穴のパターン、正しい選択の仕方が完全に解明されていてもいいのではないか?

シェールガス掘ってる暇があったら、火星までロケット飛ばす暇があったら、人生必勝マニュアルの完成に叡智を結集すべきではないのか。結局火星にロケット飛ばすのは、人類が幸福になるためではなかったか。

実は必勝マニュアルがないわけではない。数々の仏典などはそれに当たるだろう。およそ人間とはなにか、人間が織りなす世間とはなにか、生命の織りなす血宇宙とはなにかを、科学とはちがう方法で徹底的に解明してきたのが仏教ではなかったか。

しかし、である。仏典を熟知に熟知を重ねた弘法大師でも、人生の悩み苦しみからは片時も開放されることはなかったと僕は想像する。これはどういうことなのか。

思考実験してみよう。子どものころから超がつく秀才で、古今東西のあらゆる文献を読みあさり、ほとんど森羅万象の真実に近い知識を身につけた12歳がいるとする。彼はここから、自ら作り上げた人生マニュアルにそって生き、悩み落ち込むこともなく、危機に陥ることもなく、人と争うこともなく、つつがなく、そつなく、賢く、優雅に生きていくとする。すべては彼のコントロール下にあるのだ。彼ほどの叡智の前では、人生など取るに足らない楽勝のゲームでしかないのである。

あなたはそのうような人生を望みますか?  ということになる。

積み上がらないものが苦しいから、積み上がるものにすがろうとした。人類の歴史をそう読み解くことだってできるだろう。

などと言いながらも、ただちょっと仕事をさぼりたかっただけの俺だったのかもしれない。もどります。






8/18/2013

沖縄でお盆が過ぎて




 前も書いたけど、沖縄は空が広い。朝起きて、外に出て、スカッと晴れ渡った空を見ると気分もスカッとする。そして入道雲は僕は好きなのだ。なんかエネルギーを感じる。

沖縄は、適度に起伏があって、丘にさしかかると海がさあーーっと見えてくる。ちょっとスタバに行くだけでも海を見ずに過ごすのが難しいくらい海が身近にある。やはりそれは精神にいい気がする。

沖縄でも僕は観光意欲に恵まれず、近所のマクドナルドやA&Wにパソコンをもって通う日々を過ごしている。それでも、いまこのマックから見える風景は紛れもない沖縄なのだ。すべての色が鮮やかだ。

沖縄の前半は、車がなかったので、少し苦しかった。バスの移動は疲れるし高いのだ。後半は友人にバイクを借りられたので、行動が一気に自由に。それとともに、沖縄っていいところだなーって気持ちが湧いてきた。それまでは、沖縄って不便でやたら暑いところだな、とうんざりする気持ちもあったのだ。

雨もよく降るので、車があれば最高だ。沖縄では何気ないドライブがとても気持ちいい。走っているだけで海がずーーと見えている。自分の車さえ持てたら沖縄に長期滞在も悪くないなと思った。(逆に車がないなら一ヶ月が限界だろうとも)

気付くのは、カフェやマクドナルド、コンビニなどでの店員の対応のよさだ。みんなフレッシュで気持よく対応してくれる。あまりにきらきらした笑顔にうろたえる日々だ。基本、いい子たちなんだな、と思う。沖縄のよさなのかもしれない。




8/13/2013

沖縄の空



沖縄はどこからでも広い空が見える。そして入道雲が浮かんでいる。それが開放感になっている。夏バテをしていました。とにかく暑いです。

そして、クーラーのことを考えていました。いまの仕事、クーラーなしではありえません。パソコンをぱちぱち叩くという作業は、汗を流しながらする仕事ではありません。暑いと頭だってぼーっとしてくるし、とても翻訳なんてできませんね。扇風機があっても昼間は無理です。

ああ、僕がしているのは、クーラーに依存した仕事なんだなーってしみじみ。もちろん、事務系の仕事は全部そうだと思いますけどね。

とある道の駅の、海の見えるテラス席で仕事しようとしたら、すぐに潮風で体がべたべたになってしまいました。パソコンも壊れそうなので、早々と退散。なかなかイメージ通りにはいかないものです。

だから今日も、A&Wというバーガーチェーン店でひとりパソコンを叩いています。窓から真っ青な空が見えるのがおなぐさみ。

さて、暑いからか、気の緩みか、帰国してからめっきり仕事の生産性が落ちてしまいました。移動が多くなってきたのも原因でしょう。移動しながらの仕事、なかなか難しいものです。いつまでもペースがつかめずにいます。

社会をものすごく引いた目でみれば、職、賃金、収入、そのあたりのあらゆる仕組みが、人々の移動と変化を制御しているように見えます。

いま、上空の入道が中から湧いてくるように形を変えていくのを見ていました。この真っ青の中に真っ白ってきれいですね。

A&Wのコーヒーはちょっと薄いです。沖縄に来てから、チョコレートを食べたいと思わなくなっています。痩せるかも?

昨日は勝連城址というお城の跡へ観光にいきました。かつて、ここにお城があり、勇敢な城主は王府に逆らって兵を挙げたのだそうです。

そして、もちろん、ここは沖縄戦の戦場でもありました。

僕がこどものころ、歴史を学んでいくうちに、不思議に思ったのが、太平洋戦争の前に、わりと平和で文化も賢そうな時代があったことです。大正時代です。大正時代、ひとびとは、ヨーロッパの小説をよんだり、ダンスをしたり、なんだかんだで文明的な生活を楽しんでいました。そのことが、不思議でした。その何十年か後には、血で血を洗う戦争に突入したからです。急に特高警察とか出てきて、軍国教育が行われます。時代とはそんなふうに封建時代へと逆行することもあるのかな、と不思議だったのです。

もちろんその裏では富国強兵であり、いつでも戦争ができるように準備が整われていたわけで、戦争の準備をすることは当たり前のこと、もっといえば、戦争が強い国になることは善きことでさえあったのです。それは列強の侵略支配から日本国を、そして「国民」を守るためであったのですから。

当時のエリート軍人は、純粋な心で、胸を張って、軍事教練に勤しんだはずであり、有事の際には敵の戦艦をいかに沈めるか、撃沈するかをピュアな向学心と情熱をもって、考えぬいたに違いありません。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の時代です。

昨日、オスプレイが飛んでいくのを見た気がしました。遠目でしたが、プロペラが2つある戦闘機が、ジェット機に先導され、飛んでいくのを見たのです。

たぶん、沖縄に基地があることが悪いとか、おかしいとかのその前に、なぜ沖縄に米軍の基地があるのか、それが説明されていないのだと、気づきます。「習ってない」です。

つまり、沖縄に基地があるのは、歴史的経緯もあるが、まずなんといっても、日本としての国防戦略に合致しているから、そこにある、と考えるのが筋です。でも、それがよくわからないのです。首相がかわるごとに違うことを言います。基地が移設されるかされないか、その前に、いったいどういうプランで国防をしようとしているのか、それを議論しないと、個別の基地の是非を問うても仕方がない気がします。もしかすると、そんなプランなどどこにもないのかもしれません。もっといろいろな諸事情が入り乱れて、とりあえず米軍基地がここにある。それだけなのかもしれません。

なんだかよくわかないことが多すぎるな。むかしからそうだったのかな。太平洋戦争の前から、混沌として進んできたのが政治であり、国防だったのでしょうか。

とはいえ、結局は裏で、軍事ってお金になるよねーみたいな世界が展開しているのだとしたら、馬鹿らしい話です。ほんと馬鹿らしい話です。英霊に申し訳がたちません。

なんてこともつらつら考えながら、あ、仕事の手が止まってた!と気づく午後三時なのでした。










7/23/2013

沖縄


沖縄に来ています。国頭という北の方にいます。
久しぶりに海に浸かって、うれしかったです。夕方に、温泉みたいに海に浸かりに行きます。ビーチではなく漁港の隅っこです。

震災後、沖縄に多くの友人たちが移住しました。懐かしい顔を拝みに来たのです。みんな、しっかり暮らしを始めていました。

思えば同じ頃、僕はバリ島へ発ち、タイへ渡り、いま日本に戻ってきたのだと思い出します。2年も経っていませんが、遠い過去のような気もします。

思えば、津波と原発事故を描いた園子音の映画「希望の国」で、津波で両親を亡くした恋人に、「一緒に暮らしを始めよう」と言ったのは、バイクが好きな青年でした。

思えば、沖縄に来たのは10年ぶりなのでした。10年前は、現地の尋ねられる友人もほとんどおらず、那覇のゲストハウスを中心に、バイクで観光めぐりをした2週間でした。旅人たちとの出会いはありましたが、それはやはり、旅人同士で沖縄を楽しむ、という視点を出るものではありませんでした。

今回は、沖縄で暮らしている友人ばかりに会う旅です。暮らしている人と行動を共にすることで、前回とはちがった沖縄が見えてくるようです。すくなくとも、那覇の国際通りと、風光明媚なビーチばかりが沖縄ではないのだとわかります。

生まれた場所、職業、ご縁、もちろん意志も含めて、いろいろなファクターが暮らしの形を規定します。何の制約もなく、まっさらな状態から始まる暮らしなどどこにもないはずです。

そして、つくづく感じたことは、子どもを抱えた母は強くなる、ということです。なんか、どっしりしますね。迷いがないというか、そういう感じになります。

そして、久しぶりの顔を見ていると、やっぱり来てよかったと思います。顔を会わすというのも、ひとつの喜びなんですね。時間とお金が許す限り、人には会いに行ったほうがよさそうだな、なんて思ったり。でもいつも億劫なんですけど。

でもひとつわかっているのは、いろんな人と交流していないと、鬱屈してくるという自分の傾向です。




7/17/2013

移動を開始

ずっと愛知の実家にこもっていたのですが、昨日から移動を開始しました。いま大阪にいます。

友達にあったり、大阪のコワーキングスペースを訪ねたりしています。しかし、移動ってなんだろうと思います。

名古屋から大阪へ向かう近鉄電車の車中のことです。金券ショップで3,200円の格安チケットを買って、駅に向かいました。僕は長距離列車に手ぶらで乗り込むことができません。さいて飲みたくもないコーヒーなど買ってしまう。

ガタゴトと近鉄電車が動き出しした。名古屋をでるとすぐに田園風景が広がります。ああ、やっぱり名古屋って大きな田舎なんだな、と思う。すると、さっきまで大阪に行くのがなんだかめんどくさい気持ちでいたのに、車窓の風景が流れると、なんだかじんわりと幸せな気持ちになる。移動すること自体の喜びっていうものがあるのだろうか。ほのかにウキウキとした気分が沸き起こってきた。

大阪から神戸へ乗り継ぎ、友人のところへ。駅まで迎えにきてくれた。神戸はやっぱりいいな。山が見えたときそう思う。風もさーっと吹く。街だけど、海風なのだ。町並みは4−5年前とあんまり変わってなかったな。

そういえば、この前、9月にオープン予定のウェブマガジン「旅とスタイル」の第一回インタビューに行ってきた。名古屋のアパレル会社の社長だ。とりとめのない旅の話を2時間以上もお聞きした。さて、面白い記事に仕上げねばならない。録音できなかったからメモと記憶が頼り。

ちょうどマガジンのスタッフが名古屋に出張してきたので名古屋駅で企画会議をした。これからインタビューしていく人をリストアップする。おもに、彼らが。 自分の知り合いと思うとなんかピンと来なかったからだ。でも聞けば面白い人はいるはずだろう。

フリーランスの翻訳を2年弱やってきて、困っていたことのひとつは、前から書いているが、仕事上で人としゃべらなくて済んでしまうことだ。今日は朝から誰ともしゃべってない、なんて日が続くと、それだけで気が滅入る。ぼくは、黙々と文章を書くようなのは向いていないのだ。なので、人に会い、そして書く、みたいなスタイルを半分くらい取り入れて行きたいということでもあってのマガジンなのである。

ところで、いま、大阪なんばのひっかけ橋にある巨大なスターバックスに来ている。広くてなんだか落ち着く。高城剛がメルマガで、仕事をしにカフェにいくくらいならマクドナルドに行くと言っていた。トークショーのときに聞いてみたら、本当だとのことで、マクドナルドに何時間でもいられるんだ、と言っていた。
というのあって、高城的にマクドナルドで仕事をしようと、マクドナルドを探したのだが、どこもなんか狭くて落ち着かない感じがして、勇気が出なかった。ちょっとだけ高いが、やっぱりスタバのほうがいい。居心地もいいし、なんといってもネットが無料で使えるのがいいのだ。

そして、僕はついにMacbook Airを手に入れた。Macbook Proが壊れてしまったのだ。もう5年も使った。毎日酷使した。ある意味よくがんばってくれた。で、Air、一番うれしいのはバッテリーがもつことだ。実測したわけではないが、使いっぱなしでも5〜6時間は普通にもつ感じだ。これはありがたい。もう電源を探すことから開放されるのだ。これがどれほどトラベルワーキングを縛ってきたことか。

どんなおしゃれなカフェを見つけても、電源がなければそそくさと立ち去ったものだ。電源のあるカフェにいっても、やっぱり電源が使える席は人気で、座れなかったりする。そういうストレスから解放されたのだ!

そして姪っ子がもうすぐ2歳になる。いつもドキッとする瞬間がある。それは、これは前もちょっとかいたけど、姪っ子がひとりにならないように、家族で見張っているのだが、例えば僕が見はり役をしていたとしよう、姪っ子がひとりで遊んでるかと思ったら、すくっと立って隣の部屋に行こうとしたとする、となりの台所では母が炊事をしている。姪っ子が立ち上がって、たたたっと歩いていこうとするときに、僕は台所の母に声をかける。メイ子がそっちへ行くよ〜! すると、姪っ子は必ず、必ず、立ち止まって僕の方をワシっと振り返って僕を見つめるだ。じっと。その瞬間、ドドドキっとしてしまう。100%の注意力が僕に向かってくる。

姪っ子は何を思って振り返るのだろうか。相手は魔の二歳児である。わがまま放題なのだ。言うことなんか聞きはしないのだが、このときばかりは絶対立ち止まって、僕の反応をうかがうのだ。別に大声だしてないし、鋭い声も出してない。でも、僕の意図がわかるまで、じっと僕を見つめているのだ。僕は慌てて、いいよいいよ、行っていいんだよ、と姪っ子に告げる。すると、たたたっと台所へ行ってしまうのだが、残されたぼくはドギマギの余韻がまだ残っていたりする。

姪っ子と再会して一ヶ月あまり。日を追うごとには発する言葉が増えていく。理解できる言葉も増えていく。先日などは、ついに自分のことを、自分の名前で呼んだ。自分の名前をはっきりと認識したのだ。うわ、すげー!と感動するとともに、少しだけ寂しい気もした。着実に大人の階段を登っていくのだ。もはや、理解不能なかわいい生命体であることをやめ、意思疎通ができる、かわいいけど憎たらしい小さな人間へと変化を遂げていくのだ。ああ、そのプロセスにぼくは立ち会っているのだった。これがライフでなくて何がライフというのだろう。

もっとも、僕のこどもじゃないんだけどね。えへへ。みたいなことを考えながら、やっぱり翻訳がうまく進まなくて、ちくしょうって気持ちで不必要に苦いスタバコーヒーをちびりと飲んだ。



7/10/2013

ジブリの新作

気がつけば、宮崎駿の新作がもうすぐなんだね。いいタイミングで日本にいられた。今日、TVでジブリ特集みたいなのをやってたので見ていた。

すると、新作「風立ちぬ」のワンシーンとか、ストーリーとかがチラチラと出てきた。そのたびに僕はひゅっと息が止まるような気がした。かすかにだけど。つまり、緊張するのだ。

そして、背景画が映ると、あれ、あの感じだと天空の城みたいな夢見る映画じゃないんだろうなーとか、でも、色はいいね、スカッと気持ちいい空のシーンを見せてくれそうだな、とか、なんかそういうのを一瞬で考えて、ヒヤッとしているのだ。

あれ、なんでジブリの新作のことで俺が緊張しなければならないのだ? とふと我にかえる。関係ない。おれの作品じゃない。しいていえば、やっぱり期待しているのだ。いい映画であってほしい、感動させてほしい。と。

で、次から次へと出てくる、ほかのエンターテイメントとは違うのだろう。TSUTAYAで映画を選ぶのとは違う。これがつまらなかったらあっちを見よう、というのではない。宮崎駿の映画、今回の次は、また何年後になるかわからない。もちろん、今までの映画はほとんど見た。だから、今回の映画でやっぱり、あの気持にさせてほしい。ナウシカや、魔女の宅急便や、耳を澄ませばの気持ちに。

あの気持にさせてもらうのは、意外とないのだ。ということを改めて気づく。事実、ぼくがバンコクで日本が恋しくなて手を伸ばしたのは、ジブリ映画だったのだ。もちろんすでに見た作品だ。でもDVDを買って見たのだ。

わかっている。宮崎駿の映画が、ある意味きれいごとであり、あんな純粋な人間いないだろうし、青春はあんなに潔くない。だから、世界観のみならず、人物描写も含めてファンタジーであることぐらいは。でも、そういうのを見たい、という欲求が存在する。こんな世界はありえないとわかりつつ、でも、見る。

しかし、いま2歳になる姪っ子が泊りにきていて、何日も一緒にいると、ここにあるじゃないか、などと思ったりもする。無邪気な世界がここにある。いつか失われるであろうファンタジー世界が局所的に広がっている。ばかみたいなことでうれしくなってはしゃいでいる姪っ子の顔をみつめながら、この子もいろいろ複雑で不安がちでたまに陰気でたまにいじわるで、自意識過剰のくせいに自信がなくて、昔のことをいつまでもぐちぐちと思い返してはへこんだりする大人になるときが来るのだろうかか、まさか、いやしかしある程度は確実に、などという気持ちでいた。

返す返すも、だたの予告編で僕を緊張させる、宮崎駿映画ってすごいな、とは改めて認識。いま、わざわざ見に行きたい映画は宮崎映画くらいしかないのが、僕の現実だったりする。でもあまちゃんは毎朝見てる。最高!


6/21/2013

めいのことしか

最近、地元にこもっている。東京で飲みづかれたのと、人に会い疲れたのと、仕事がたまっていたのと、姪に会いたいのと、毎日飯が出てくるのはいいなあ、というのと。

このまえ、姪の家にいってきた。

こんなことがあった。たわいないことだ。朝から行って、午後3時くらい、姪をかわいがるのも一段落したので、ちょっと散歩してくるわ、と言った。ちょうど運動不足の昨今だ。そんで、じゃあ、ちょっといってくるでね、と言ってテクテクと玄関の方へ歩いていくと、姪が、なにごとかという感じで廊下に出てくて僕の方を見ていた。あいつはどこへいくんだろう?というよりそれより以前に、あいつは何をしているんだろう?くらいの原始的な疑問が体中をとらえていた。

全身で、「なんだなんだ?」という疑問符になって、玄関から出て行こうとする僕を見つめていた。それを見たときに、ああ、とうれしい気持ちになった。癒された。

あれほど純粋な「なんだなんだ?」を見たのは久しぶりのような気がした。それは、もうすぐ2歳の人からしか放たれない「なんだ」なのかもしれない。

どれほど純粋かというと、たぶん、ぼくが玄関から去った後、10秒もせずに忘れてしまうだろうし、けっして、周りの大人たちに「あいつはどこへ行ったのか?」と尋ねることもないだろう。次の興味に移るだけで、それはたぶんお気に入りのキャラクター「しまじろう」のぬいぐるみか何かだろう。

だが、けっしてただの生まれたての赤ちゃんとかと違うのは、それは確かに僕の行動に向けられた好奇心なのだ。ぼんやりとした興味ではなく、明確に、あいつが何か変わったことをするらしい、という気づきがあり、その行方を見逃すまいと、瞬きもせずに見つめていた。その瞳は黒かったのだ。

あのような黒い瞳で、世の中をながめられたら、それはさぞかし楽しいだろう。それはどれくらい楽しいかというと、楽しいという言葉さえ思いつかないくらい、楽しさを世界全体としているのだ。ああ、こうしている間にも、ほんの瞬間だけ、あの頃の感覚がよみがえる気がする。が、それはやはり気のせいなのだ。それほど純粋な時間が流れていたことが、かつてあったのだ。



6/09/2013

ウェブマガジンを

バンコクで知り合った友人に誘われて、ウェブマガジンを立ちあげようか、ということになっている。テーマは「旅とスタイル」だ。

旅ならよくしてるから何か書けるだろうと、誘われたときにYESと言ったのだが、なんと、お前が編集長をやれ、ということに。えーーっと腰が引けるも、とりあえず、やりましょう、と言ってみた。

とはいえ、まだ完全な白紙なのだった。

4月末、吉福さんが逝かれました。このブログでもたまに登場していた、ハワイに住んでいた、恩人です。吉福さんについて何か書こうと、何度も書こうとして、なんか書ききれずに消していたのだった。なので今回はちょい出し作戦で書いていくことにします。

その前に。とりとめのないことを挟むぜ。

いま実家に滞在中なんだけど、さっき、親が超古い手紙や年賀状なんかが入った箱を出して来て、要らないものを捨てるから仕分けしてくれと言う。それで、ひととおり目を通していたのだ。

いくつか、ハっとする手紙や、写真やなんやが出て来る。読み返してこんなにハっとするのに、ぜんぜん記憶にない。当時は、スルーしていたのか、受け止められなかったのか、単に忘れたのか。

たとえば、小さいところで言えば、高校時代の部活のエースからの年賀状。まず、そいつと年賀状やり取りしてたことも覚えてない。だが、その年賀状にはこういうことが書いてあった。「Y先輩の後はおまえだからな。しっかり頼むよ」

たぶん、ぼくが高校一年の冬なのだろう。Y先輩はきっと次の春が来る前くらいに引退することになっていたのだろう。そして、Y先輩と僕は同じポジションで、僕はまだ補欠だったのだろう。

で、すでに一年生ながらレギュラーになっていた同期のエースから、俺に激励のハガキが届いたということだろう。次はお前だぞ、しっかり頼むぞ、と。

意外だった。僕は高校生の部活は、たしかにレギュラーではあったが、いつも自信がなく、試合のたびに自分の不甲斐なさがつらく、後ろめたく、嫌な思い出しかないと思っていたのだ。

この年賀状を見たとき、あれ?と思った。あの同期のスーパースター、エース君が、俺にこんな声をかけてくれたこともあったのか、と。情けないことを書いてしまった。でも、運動神経がよくないのに運動部にいた奴なら、こんな気持ちをわかるかもしれない。

自分が、次期レギュラーの一員として、チームメイトとして見られていたのが意外だったのだ。なんとなく、申し訳ないことをしたな。と思った。つまりは期待に応えられなかったからだ。いつもチーム足をひっぱりつづけ、やる気もあまり見せることもなかったように思う。

そして、こんなことが何十年たった今でも心臓がどきりとするほどの何かなのだというのも意外だった。思春期のころの記憶はけっこう根強いのだね。

俺は奮起したのだろうか、と思う。このハガキをもらって、よーし、春から俺もレギュラーだ、チームを優勝させてやる!と心を燃やしただろうか。そこは覚えていない。というか、そういう記憶は無い。たぶん、プレッシャーでニガい気持ちになっていたのが大半だろう。

こんなことを書きたくなったのは、さっきAKBの総選挙を見ていたからかもしれない。

でなんだ。そうだ。ほかにも、あれ、こんな手紙もらってたんだ?という手紙がちらほら。二十歳そこそこのころの手紙だ。さっきの年賀状にも共通するが、誰かからどういう思いをかけられていたのか、まるで覚えていないのだ。ほかの余計なことはいっぱい覚えているのに。あれ、あいつこんなこと書いてきてたんだ?といまさら驚く始末。記憶とはいいかげんなものだ。

吉福さんがあっと言う間に逝ってしまった。それほど親しかったわけじゃないけど、なんかお世話になったなあという気持ちと、もっと吉福さんからいろいろ学んでおくべきだったという気持ちと。

吉福スピリットみたいなものがカケラが残された気がする。それは僕の周りにぼんやりと漂っている。つかめそうでつかめないものとして漂っている。

そこでウェブマガジンなのだが、何から始めればいいのか。。とりあえず、言い出しっぺのパートナーになんか書いてもらえばいいけど、俺的にもコンセプトなりを打ち出したいところだ。

なんだか不思議なものになればいいと思う。そこで僕はいきなり保坂和志の言葉を持ち出す。小説の価値は、小説を読んでいる時間の中にしかない。これだ。

とりとめのないブログを、また再会します。


5/31/2013

姪っ子がなつかない

怒濤の東京ツアーが終わって、実家に寄っています。

待ちに待った姪っ子にご対面。1歳10ヶ月。だがしかし。。なつかない!

なんということでしょう。待ちこがれた姪っ子が俺になつかない。。バリ島では3歳児に毎日もてまくってた俺に姪っ子がなつかない。。血を分けた姪っ子が。。なぜだ・・・

おばあちゃんには抱っこをせがむのに、僕が抱っこをしようとするとイヤイヤという。まあ抱かせてくれないこともないんだけど、神妙な顔で固まってしまう。おれ?おれ子ども扱いこんなに下手だったかな?と疑問がよぎる。

でも、そんなふうになつかなくても、やっぱりかわいい。それだけに憎らしい。

今日、2階でパソコンを打ちながら、姪っ子と(姪の)おばあちゃんが外で遊んでいるのを見ていた。少し蒸し暑いがたまに風がさーーっと通るいい日だった。下におりてそばに行ってみた。姪っ子はやっぱりなつかないけど、おばあちゃんと楽しそうにしていた。

あーー、こういうのが幸せなんだ、と思う。このシーンはまぎれもなく幸せの一形態なのだと思う。何事も起きなければいいと思う。こんな日が続けばいいな、とか思う。2歳は2歳のままでいてくれはしない。僕らだってこのままではいられない。だけども今日のこの日は、幸せな日々だったと記憶するのは間違いない。そんな日々をいま過ごしている。

では姪っ子がいない日常は幸福じゃないのかというと、そういうわけじゃない。ほのぼのするだけが幸福ではないだろう。明日が見えないハラハラドキドキの日々も僕は幸福のうちに入れている。

さてと、と思う。これからどう生きていきますかね。

先週、蒲田でやっていた高城剛のトークに行ってきた。なんだか穴場イベントで、お客が40人くらいしかいなかった。5分くらい高城さんと話す時間がもらえた。その中で面白かった話をいくつか。友人が高城さんに質問した。AかBか、どちらをとるか迷ったときはどうすればいいですかね? 高城さんは即答する。「三日休む!」そういうときは3日そのことを考えないようにするとよいそうだ。他のことで気をまぎらわせて、3日間はそのことについて本当に考えないようにする。まったく考えない。すると三日後に、AでもないBでもない、Cが浮かんでいたりするそうだ。

それから、もうひとつ。頭の中にぼんやりとアイデアが浮かんでいるんだけど、何から手をつけていいかわからないときはどうすればいいですか? またもや高城さんは即答する。「人に話す!」アイデアをいろんな人にどんどん話す。そうすれば、何をすればいいか見えてくるし、いいアイデアかダメなアイデアなのかも自分でわかってくる、という。どんどん話す、どんどん話す。といいらしい。

そこで僕が追い打ちの質問。でもね、高城さん、アイデアは固まった。もうこれでいこう!と思える。でも、あと一歩が踏み出せない、そんな時はどうすればいいですかね? 即答だ。「もっと人に話す」。だそうだ。とにかくどんどん人に話すこと、それが秘訣みたい。

そして僕から最後の質問。高城さんはよく楽しいことをしろ、と言っていますが、僕はよく「楽しい」って感覚がわからなくなるんですよ。どうしたらいいですかね。これも即答。「歩く!」そういうときはもっと体使って!だそうだ。

高城さんと直でしゃべれてなんだか舞い上がってる間にイベントが終わってしまった。不思議な人だ。楽しそうでいいなあ、と思う。

そうだ、僕はこういう質問もしたんだった。どうしてこのイベントに来たんですか? つまり、高城さんと言えば、何百人のホールを埋め尽くすこともできる。そして超多忙な人だ。事実、このあとすぐ韓国に飛ぶという。なのに、このマイナーなイベントにノコノコ現れてどういうことですか?と。高城さんいわく、「面白そうだから」以上!だそうだ。

あ、それから具体的な質問もしてみた。まず、本当に定住してないんですか?イビザとか行くとき、バルセロナの家はキープしてんじゃないですか?と。すると、本当に定住してないそう。部屋は解約していくそうだ。じゃあ荷物どうするんですか?さすがに全部持ち歩けないですよね?と詰め寄ってみた。そういうときは貸し倉庫を借りるそうだ。日本でもそうしてるらしい。4畳半くらいで月数千円から借りられるのだとか。あと、友達の家の倉庫に入れてもらうらしい。

それから、個人的な質問。おみやげってどうしてます? 今回もお土産買わないつもりが、やっぱりいるかなと思って買ってきたけど、やっぱりかさばって大変な思いをした。それで聴いてみた。すると、「おみやげ?ぜんぜんもってかない。だってめんどくさいもん!」ということです。ありがとうございます。次回からぼくもそのようにいたします。


なんだかわからんけど、とにかく楽しそうにしてるなあ、と高城さんをうらめしいような、でも自然と顔がにやけてしまうような気持ちで眺めていました。俺と何が違うのかなー。そりゃあね、実力が違うんだよ。そう言ってはおしましです。そういわないように、いかにやっていけるか、そこが勝負な気がします。

あ、それから高城さんにもうひとつ質問したんだった。高城さん、おれ、フリーランスになったばかりで、これから看板張ってかなくちゃいけないんですよ。仕事とらないと。。なにかアドバイスありますか? 高城さん笑いながら、「えー、俺なんて仕事の9割は断わっちゃう。できるだけ働かないように、働かないようにっていつも考えてるんだから」、、、だそうだ。

さすがに、「おい、」って思いましたね。いいご身分ですね、って。

まあだけど少なくとも、もっともっと話を聞きたいなって思う人物ではありました。こんどはインタビューがっちり行きたいな、と思ってます。そんな機会を作っていきます。








4/26/2013

伊豆にいったり

知人を尋ねて伊豆にいったりしていました。

伊豆は2回目。朝の小田急線に乗って向かいます。朝の7時台、東京方面とは逆向きなのにかなり混んでいて、小田原ちかくまで座われませんでした。東京(を中心とした生活圏)って本当に広いんだなーってあたらめて思います。バンコクは、30分も電車に乗れば、端から端までついてしまいます。

久しぶりに日本に来て、見かける人がぜんぶ日本人かと思うと、妙にわくわくしました。この人たち全部、しゃべりかけて知り合いになることができます。友達の友達とすぐに友達になれる。そういうのがやはり東京はスムーズです。バンコクではあれほど苦労している友達づくりが、サクサクいきます。そうだ、やっぱり環境だったんだ。と一応、環境のせいにしておく。

伊豆へ向かう途中。真鶴あたりで海が見えた。サーーっと広がる深く少し色あせた群青色の海が見える。海はいい。やっぱり海はいいな、と思う。伊豆では、図書館を作る手伝いをしました。送られてくる寄贈書をパソコンで登録していく作業です。古い本もたくさんありました。ぱっと手にとって、きれいだけど古そうな本だなと思って発行日付けをみたら、40年前の本でした。40年。。本ってもつんだなー。物理的に保存がきくんだなって改めて思う。40年の時をへて、僕の手の中にある。ページをめくることができる。やっぱり紙の本で残しておくってことが何か大事なことな気がした。紙の本を旅をする。電子書籍も旅をするのだろうか。

会う人ごとに、いつまで日本に?と聞かれる。あいまいな答えを返す。別に帰る場所があるわけでもない。ああ、本当の根無し草になったんだな、と思う。東京で久しぶりに会った友人たちはみんな地に足付けて生活をしていて、街に根を下ろしている。街の友人たちとリアリティーを共有しながらしっかり結びついて生きている。僕はもうその輪の中にいないんだな、としみじみした。すぐにこの地を離れていく人、昔の仲間からさえもそんな目で見られている気がして、さみしいような不思議なような感じがした。もちろん、僕自身がそう言っているのだから当然のことなんだが。

それでも、友人たちが家に泊めてくれたり、会おうと言ってくれるのはうれしいものだ。不思議な気がする。自分は淡白で冷たい人間であることを知っているからだ。だが、もうそういうことで自分語りをするのもよそう、と思う。友人に会う、ということが昔より大事なことになってきている。お互いに会いたいと思える友人がいる、それは得難いものかもしれない。一杯の杯をともに傾けておいしい、それは得難いものかもしれず、まさに、友あり遠方より来る、また楽しからずや、なのであろう。

日本に帰ったら本を読みまくるつもりでいたが、その気持ちもすっかり薄まっている。不思議なものだ。


4/22/2013

晴れたね

東京がやっと晴れてくれました。毛布と寝袋にくるまって迎えた朝、窓一面の朝日を見て、うきたちました。嬉しいな。あったかいのはいいですね。

今日は、新宿に免許の更新に行って来たのですが、失効手続きが必要とのことで、試験場に出向かなければならないようです。ああ面倒だ。でも、あと一ヶ月の猶予があるらしく、少し落ち着く。まあ失効してもいいかも、ぐらいのペーパーなんですが。

そして、新宿の人の波に圧倒されて、そそくさと吉祥寺へ帰還。やはり落ち着く。地元感が出て来ている。これまでの一年半がまるでなかったかのような錯覚を覚える。一瞬の夢でも見ていたような、超短期の旅行から帰ってきただけのような、そんな気持ちになる。全部知ってる感じだからか、まだたくさんの友人が住んでいて、ひととおり会ったからか。

そして、いつのまにか使える電源カフェに変身していたエクセルシオールへ。カウンター席に1つづつ電源タップがあり、みんなPCや勉強などしている。いつ来てもほぼ満席だ。

今朝は、久しぶりに井の頭公園を朝の散歩をした。泊めてくれているタクローくんと散歩した。ここは、バリ島に発つ前、毎朝のようにタクローくんと散歩して、語り合った場所だ。お互いに動き出す前のウダウダとした状態にいたあの頃。懐かしく、日だまりの中で思いめぐらした。いったいあの日々はなんだったのだろうか。あれから何か変わったのだろうか。

なぜこんなに居心地のよい吉祥寺を離れようと思ったのだろうか。なんか、思い出せないような感じ。言葉では言えるけど、実感をともなっては言えなくなっている感じ。タクローのほうもずいぶん生活のあれやこれやが変わっているから、なんだかあの日々をうまく思い出せないで、じっと池のほとりでひなたぼっこしていた。

そして、人に会うごとに話すことになる、バリ島、バンコクでの生活ぶりについて、あんまりバラ色のことなど言えず、もっと悠々自適にやってるんだと思ってた、などとがっかりされながら、何か興味深いことでも話してあげたいと思いながらも、とくに口をつく言葉もなかった。

自分自身、なんであれほども長くバリ島やタイにいたのか、そして、東京の楽しさを感じながらもまたタイに帰るのだろうなと思っているのか、わからないでいるのだが、あえて言葉を探すならば、もっとわけのわからない状態になりたい、というおぼろげな願望なのだろうかと思った。

吉祥寺のゲストハウスに仲間と住んで、渋谷のオフィスに通い、金曜日は酒を飲んで週末は本屋と公園を巡る。

バリ島に住んで、朝から夕方まで仕事して、日が暮れるころにサンセットサーフィン。夜は読書。たまに仲間と酒を飲み、語らう。

バンコクのコワーキングスペースで国際的なフリーランスたちと机をならべ、夜9時、遅めの仕事がはけたら、近所の屋台でビールを一杯。つたない英語でたわいない話をする。

どの生活も、それで事足りるような気がするのに、でも何かが決定的に足りないのだった。それは恋人だろうか? それは、一緒に仕事をする仲間だろうか? 親友だろうか? 家族? 出会い? パーティー? エクササイズ? 勉強? やりがい? 刺激? 安らぎ? 夢? 現実? 


いや、足りないわけではないのかもしれない。ただ、いつだってただ不満なだけなのかもしれない。不満でいたいのかもしれない。

とはいえ、今日も翻訳の依頼メールが送られてくる。ほぼ平日は毎朝、送られてくる。ピコンという音をたてて、「本日の編集候補です」と編集者からメールが送られてくるのを見ると、やべ、溜めてる分を早く片づけないと、という焦りとともに、ありがたいことです、とほっとする気持ちがする。まだ出版社の人たちとは顔を合わせたことがない。顔もしらずに仕事を送ってくれる、不思議な足長おじさんのような気がした。でも、今週、会いに行く。









4/21/2013

帰国の洗礼

いま、ジャパンからの手痛い洗礼を受けています。まず、なんだこの寒さは。あったかい服など持ち合わせていません。毎日震えています。今日は友人にダウンジャケットを借りてきました。なんとかそれで一息。春のぽかぽか陽気を期待していた僕には、まるで日本が歓迎してくれていないと感じてしまいました。

とはいえ、やはり友人たちと会い、語らうのに勝る楽しい事はありません。あーーたのしいなーーー。日本はやっぱりいいな!

ところが、そんな今なのに、僕は風邪を引いてしまいました。しばらく風邪なんてひいてなかったのに。たぶん微熱かなんかあるのでしょう、頭がぼーーっとしています。なんだよ、こんなに毎日友達に会う日々なんてそうそうないのに、なんでよりによって風邪ひくんだよ、と自分の体を叱責したいところですが、調子に乗って何時間も水かけなんてやってたのはお前のほうだろう、と言われて返す言葉がないのです。

ソンクラーーンの後は風邪を引きます。みなさん、気をつけて!
そんなこんなでぼくは、本来なら寝ていたいところを、重い体を起こし上げて、今日も友達に会いにいく。そしてもちろん、カフェでお仕事にいそしむ。ふう。喉が乾き、トイレが近いです。風邪です。

ということなので、とりあえずあんまり予定を詰め込むのをやめにしました。すでにある予定をこなすので精一杯です。なので、しばらく待ってくださいね。5月に入る頃には、体調も取り戻してるはずです。しかし、寒いぜ。

久しぶりの日本、居心地のよさがはんぱないので、思わぬ長期滞在になるかもしれません。もちろん、諸条件が許し合えば、ですが。。

しかし面白いものですね。一年半前、東京からバリ島へ飛んだとき、夜の便で到着し、朝、静かで真っ青な海に連れていってもらって風の音を聞いたとき、視界に収まりきれないほど広い青空を見上げたとき、ああ、おれは、疲れていたんだな、東京で、としみじみ思ったものでした。東京は物理的にも精神的にも慌ただしすぎたんだ、としみじみした。ところが、いま、逃げてきたはずの東京に戻ると、こんなに楽しい場所ある?ああ、おれは海外にいて、さみしかったんだな、もっとこうやって友人たちと毎晩、語らいたかったんだな、などとしみじみしてしまったのです。

もしかすると、どちらが良い悪い、どちらが自分に合ってる、あってない、ということではなく、ただ、移動するとしばらくは楽しい、というだけのことかもしれません。いま東京が懐かしくて新しい場所に感じられていますが、2週間後はどうなのか。それはわかりません。

といいながらも、今日は古巣の仲間たちがお好み焼きを焼いてくれるというので、そそくさと行ってきます。たぶん、ソファーでぐったりすることになるのですがね。カフェで3時間くらい仕事してたらもう頭がぼうっとしてきました。

しかし、物価はほんとに高いね東京! 財布を開くたびに、ああいつまでも日本にいると大変なことになるぞ、と危機感が襲ってきます。早くアジアへ逃れなければ。。

どこへいってもお金の苦労から逃れられない、そんな日々です。疲れます。でも、まあ、とりあえずは生きております。




ソンクラーーン最終日。

無事に帰国しています。

しかし、その前に、15日のソンクラーーン水かけ祭り最終日についてかくべきでしょう。バンコク最大の激戦地帯と言われるカオサーン通りに行ってきたのです。人ごみに行きたくないと渋るマイケルに、とりあえずどんな感じかだけでも見たいから、といって無理矢理ひっぱっていきました。

もう少し過去のことなので、多くを語る気はないですが、パーティーがあまり好きでない僕でも夢中になってしまった5時間でした。
歩くのもままならない、そう、大晦日の初詣状態で歩きながら、沿道からは氷水がびしゃーん、びしゃーんと飛んでくる中を、こっちも水鉄砲で打ち返しながら、クラブ系DJの爆音の中を、お立ち台の上から踊りながら大砲みたいなやつで水をびしゃびしゃ浴びせてくる中を、うおりりゃー、水かけてやるぜー、誰やいま顔面狙ってきよったのは!あいつか、ほらマイケル、敵発見だ、撃て撃て!こら、やっちまえ!あ、水がきれた、補給だ、補給だ、しっかし疲れたちょっとビールでも飲もか。うわ冷て、背中に氷水ぶっかけられたぞ今! こっちも氷水や、めっちゃめちゃ冷たい水補給しよ、どこや、どこで入れれるんやーーー!

という狂乱が昼から深夜まで続くのでした。僕たちは5時間くらいで、マイケルが、「Maybe I feel tired (ちょっと疲れたかも)」みたいなこと言い出して、それを俺が、あと30分いいだろ?的に押し問答していたところを、マイケルが、オーケー、でもとりあえず、出口の方へ歩きながら水鉄砲撃ったらいいんじゃない?みたいに言うところを、いいよ、じゃあそうしよか、と歩き出したところを、ガツっと音をたてて遂に俺の水鉄砲のポンプが折れた。それで、やっと本気で帰る気になれて、あ、壊れてもうた、どうしよ、とマイケルのを顔をみれば、ものすごーーーくほっとした顔で、「つまり帰れというサインだね」と言うので、「まあそういうことやな」と言ってやっと帰ったのだが夜11時ごろになっていました。ちなみに夕方6時頃にインしたはずです。

面白すぎた。それがぼくの感想です。でもマイケルはそれほどでもなかったそうです。そして、多くのタイ人たちも、そういうのは10代で卒業したよ、と吐き捨てるように言っていました。そんなお祭り、ソンクラーーンです。でもタイ人の大人もいっぱいいました。

とりあえず、ソンクラーーンの報告はこれで。

4/15/2013

ソンクラーンは水びたし


4月13−15日はタイのお正月です。ソンクラーンといいます。
そして、盛大な水かけ祭りの日でもあります。

13日はさっそく水かけイベントに行ってきました。
まずは、チットロム駅ちかくセントラルワールドの特設会場です。飲料メーカーがスポンサーになって、コンサート&水かけのイベントが開催されていました。

まず当日の朝、出歩くだけで水をかけられると聞いていたので、完全武装を試みます。といっても、上はTシャツ、下は短パン、ビーサンでOK. ただし、携帯と財布を守るため、あらかじめ買っておいた防水ポシェットを装着します。そして、おそるおそるアパートの外へ出てみると。。あれ? なにも起きていません。人々は普通のかっこうで普通に歩いています。あれ?水かけないの? 

そのまま待ち合わせ場所のショッピングモールまで10分ほど歩きます。何も起きません。してショッピングモールは全く普通に営業しており、人もわんさか詰めかけていました。あれあれ?なんか聞いてたのと違うな。若干テンション下がりながら、友達と合流。

オフィスのスタッフたちが手伝っているイベント会場へ急ぎます。会場に近づくと、特設会場で子どもから大人までが200人くらいかな?もっとかな?入り乱れて水をかけていました。でも、思ったよりずっと小さな規模です。普通のデパートの夏祭り、といった風情。うーん、なんかがっかり。でもせっかくなので、入り口で水鉄砲を購入して、集団の中にインしてみました。

そこかしこから水が飛んできます。気がついたら戦闘モードになって、そこらじゅうの奴らと水のかけあいをしていました。ビシャーーと顔に水がかかります。振り向くと、子どもがこちらを狙っています。すかさず応戦。すると今度は右前方2時の方向から、ドハーーっと大量の水。バズーカ砲みたいなのをもった外人が撃ってきます。そちらにも応戦します。とやっていたら、当然水浸し、あっという間に2時間ほどたっていました。

そんで、たいがい遊んで次どうする?ということに。いま午後3時。友人のうち2人は疲れたということで帰宅。もう一人と一緒に、最大の激戦区と言われるシーロムエリアに移動します。駅についたら。。。もう人だらけで動けない!駅から降りて最寄りのファーストフード店にいくまでに、30分くらいかかりました。花火大会を思い出してくれればそんな感じです。そして、そこに行くまでにもう水浸しの、粉かけられまくりです。

なんとか腹ごしらえとトイレをすまし、改めて外に出てみると、、なんでしょう、道路いっぱいに人がそぞろ歩いています。うん万人という人でですね。ほんと花火大会だと思えばいいです。それで、当然水の掛け合い。消防の放水車が出て、水をぶっかけてきます。もうカオス。怖じ気づいたぼくらは、ちょ、ちょっと、はずれの方へ歩こうね、ということで、一番の密集地帯を避け、集団の外の方へ移動。それでも人、人、人、です。途中、粉を顔に塗られます。ハッピーニューイヤーと言っています。あ、そうか、これニューイヤーのお祭りだもんね。みんな楽しそうです。

途中、泡の出るマシンが置いてあって、みんな泡をかぶって遊んでいます。ぼくらも泡を浴びにいきます。なんだかんだわけがわからず、とりあえず集団を抜けます。疲れた。。ちょっと座りにいこうということで、集団を離れ、道路を歩いていきます。しかし、そこもまた戦場でした。道のところどころに巨大なバケツが置いてあり、子どもたちが待ち構えています。通りかかると、びゅんびゅん撃ってきます。車からも飛んできます。ここも戦場なんだ、、俺たちも応戦します。水浸し、粉だらけ、へとへとになってなんとか屋台街に到着。ご飯を食べました。もう疲れきって少し寝てしまいました。いま夕方5時くらい。人ごみに疲れたので、集団から離れる方向へお散歩。ところどころに水かけ部隊がいて、かけてきます。たまに氷水をぶっかけてくる奴もいます。つめてーー。

一駅ほど歩いて、駅の階段に座ってお休み。一時間くらい動けません。夜はどうする?クラブのある地域でもいってみる?ということで、動き出しましたが、途中で、なんか今日はもう無理だね、ということで解散に。もう体が追いつきません。8時くらいに屋台でラーメンを食べて帰宅しました。そんなソンクラーン初日でした。

ちなみに2日目の昨日は、午前中にチャトチャックのウィークエンドマーケットに買い物に。頼まれていたシルバーアクセを見に行ったのですが、お店もけっこうシマッってて、いまいちいいのがなく、残念。歩き疲れたので、フットマッサージ、45分600円に。
あーきもちいいー。途中で寝てしまいました。そして、昨日の疲れが残りまくりの体と、フットからくる心地よさ、マーケットのにぎわい、よく晴れた空を見ていたら、なんだか、気持ちが前向きになってきました。んー、いろいろ考え過ぎていたなー、まあ、あれがだめならこれでいこう、みたいなw 

そして、午後家に帰ったら、睡魔が。もう体も動きたくないと訴えています。夜に水かけに行きたかったのですが、この日は休憩日とすることに。ひたすら寝ていました。

そして今日ソンクラーン最終日、夕方くらいから、最大の激戦区カオサンを攻める予定です。それまで体力が持てば、ですけどね。。




4/10/2013

結局なんとか

今日は、記念すべき、人生で2冊目の洋書を読了した。日本語で「クローディアの秘密」と題する児童書だ。7割くらいの理解だが、面白かった。ちょっとうるっときた。英語の本でうるっとくるのって、なんか新鮮だ。

しかし、2冊目でわかる通り、僕は洋書を読むのがすごく苦手だ。翻訳を一年やってるのに、本は読めない。新聞も読めない。なんか別のことらしい。でも、なんとか洋書を読めるようになりたいと一念発起して、数々挫折してーの、やっとたどり着いたのが、薄い薄い児童書だった。友達に、いいよ!と教えてもらった本だが、たしかに良かった。

まあ、春だし、なんだかちょっとだけ気分がよくなっているようだ。タイではまったく気候がちがって、いまはむしろ真夏なのだが、それでももはやDNAに刻まれているのか、春がきたんだな、って感覚に少しなっている。日本から入って来る情報のせいかもしれない。

今日、タイの昔話を教えてもらった。嫉妬深い娘と、腹違いの気だてのよい娘の話だ。嫉妬深い娘が意地悪なことばかりをする。でも、最後は気だての良い娘が幸せになるというハッピーエンドらしい。タイ人たちはどんな昔話を聴いて育ってきたのか、にわかに興味がわいた。タイ語はまったく読めないので、タイ語の絵本を読む、あたりを今後の目標にしてみようか。

最近、なんかふと、「利益団体」を作りたいと思い始めた。というのは、夜な夜なインタネットを徘徊して、いろんな人の世直し論を聴き過ぎて、正反対の意見をいう専門家やなんやで頭が混乱してきて、結局、何がいいやらよくわからん、という結論に至る。

どういう日本になれば、人々が幸せになれるのか。ひいては俺が幸せになれるのか。それが見えない。短期的よくても長期的に悪いとか、いろいろいろいろ考えることはある。だから、もうわかんないから、自分と自分の知り合いだけがハッピーになるように助け合っていけばいいんじゃないか、って思うようになった。

とりまそこに力を集中したほうが。でも、じゃあどうすればいいかはわからなかった。ただ、そう思った。身近な人だけが幸せならそれでいいかも、って。とりあえずはね。というか、まあ、不特定多数にとって何がいいことなのか、わからないからさ。体感的にわかる範囲で考えていけばいいやんね、ということで。

というかね、サーフィンしたい。もうバリ島も乾期になった。いい波来てるはず。海に浸かりたい。最近、不健康だと自覚がある。体がバリバリだ。海に浸かってわーーって言いたい。サーフィンしてるときは、知らずと大声だしてた。キターーーとか、言ってた。ふう。でも総合的にはバンコクのほうが心は安定しているみたいな気はする。毎日あいさつする人々がいる。それだけで少し気分が定まるし、週末にひとりで街や本屋をうろつくことができる。それも必要。

なんか、気がついたらまたオフィスに俺一人になっていた。もう夜の9時になるのだ。なんというか、人生何があるかわからないようで、きっちり自業自得だったりもする。とにかく、晩年に、死ぬ間際に、「結局なんとかなったなあ」と言って死にたいものだ。









4/09/2013

英語とはいえ

先ほど、英語ができればどんだけいいのか、と書いたが、書き終わったあとで、あれ待てよ?と思う。

例えば、アメリカの貧困層。かれらは英語ぺらぺらのはずだ。母国語だから当然だ。なのになんで貧困なのだ。アメリカに職がないなら、アジアにくればまだそういう優遇されるし、英語教師の職もある。

まあここで、教育レベル、という壁があることにも気づく。英語がぺらぺらのアメリカ人だって、教育されてなくて、ヤンキーことばしか話せないようでは、英語教師もできないだろうし、ましてや企業は雇わないだろう。

だから、英語圏の奴は英語だけで飯が食えるからいいね、というのは撤回すべきだろう。そこまでじゃない。

とはいえ、英語を1つの学習科目だとすると、ほかの科目に比べて現実的な使い勝手が段違いに大きいぞ、とは断言できる。まあ今の学校教育でいい成績とっててもだめだけどね。もっと無意識でぺらぺらしゃべれるレベルまで行かないと。ま、そういうところで、英語の話はいったん終わろう。


しかし、円安こまるぜ。
おれ怒ってるぜ。一生懸命仕事してても、日銀がちょっと円を刷ったら、相対収入が1割2割と減って行くんだぜ。タイのバーツに変換したときに。家賃が3万円だと思ってたら、いつのまにか3万5千円になってたら、怒るよね? というか、とにかく俺は円高のほうが絶対的に都合いいので、アベノミクスを早く見直して欲しいです。

というように、今の時代、大きな変動に右往左往させられる時代なんですね。リーマンショックなんて、株とか買ってなくてぜんぜん関係ないのに、あおりをくらって失業した人もいっぱいいますよね。困るよね。株買ってた人だけが損するなら自業自得だけど、サブプライム?なにそれ?という人まで人生投げ出し級の影響を食らう。これが現代です。

岡田斗司夫も言ってるけど、Amazonのせいで、街の書店がばんばん潰れてるそうだ。そういえば、おれも最近Amazonでしか本買ってないし。書店、かわいそうだよね。何にも悪い事してないのにお客が減って。じゃあAmazonが悪いかといえば、あんな便利なものないわけでね。辞められないよね。今日もAmazonの古本2冊かったよ。どちらも送料混みで一冊300円くらいで買えた。ブックオフで探すより断然便利だもんね。アマゾンありがとう!って思うのが事実で。でも書店かわいそう、って思うのも事実で。

こういうのってどう考えればいいんだろうね。運が悪かったね、でいいのかな。かつて大型スーパーが解禁されて、商店街がどんどんつぶれたけど、あの流れが続いてるってことだよね。いまだってなんだかんだいってもスーパーで買い物するもんね。便利だから。安いし。商店街は復活してほしいけどね。

こういうのって、時代だから、で済ましていいのかね? それとも、Amazonで買わないで近所の書店で取り寄せ注文するべきなのだかな。多少の不便さは我慢して。でも2週間とか待てないよね。今読みたいのにさ。

まあ、別に新しくもない問題について書いたけど、そういうことがバンバン起きるのかもしれないなTPPなんか加入しなくてもーというのはあるよね。

んーまた答えのないことを書いてしまった。
まあおれは書店じゃないから、とりま関係ないから。Amazon便利で助かった派だからね。でも、そういえば母ガタの実家が呉服屋で、着物が売れなくなって大変そうだったのは、子どもながらにつらい気持ちになったな。だって、悪い事なんにもしてないのに。着物買ってくれなくなっちゃうわけでね。何十年も真面目に商売してきたのにね。まったく世の中なんてあてにならんな、って子どもごころに思ったよね。

さて、こんな世の中、どうやって楽しくサバイブしていけばいいんでしょうね!






英語格差、貧富


バンコクにいて、しみじみ感じるは、英語格差だ。
タイだと、英語が話せるのは1−2割だそうだ。若者に限っても半分以下だろう。たぶん3割以下。
英語が話せる人はたいてい、インターナショナルスクールに通った人だ。基本は高校だろうが、中学とかもあるのだろう。
そういう人は、もうベラベラだ。英語うまいね、というレベルじゃなくて、本とかも普通に英語で読むレベル。
もっと端的にいえば、英語で普通に仕事ができるレベル。僕の周りのタイ人はそういう人がけっこう多い。

彼らは、簡単に言えば、家が金持ちなのだ。だからインターナショナルスクールにも通えたし、留学した人も多い。そして、みんないい車を乗っている。
そして、そういう階層同士でやっぱりネットワークしていて、一緒に仕事をしたり、プロジェクトをしたりしている。
彼らは資金力もあるので、新しいことにもどんどんチャレンジする。ある若者は、まだ30歳未満のはずだが、3つ目の事業を手がけているところだと言う。
先の2つは飲食店らしく、経営的にはうまくいかず撤退したのだという。2つ失敗しても3つ目ができる体力がある。

それは親の資金力だけに限らず、投資をうけるコネクションもあるということかもしれない。
もちろん、彼らに実力がないとは言っていない。実力もあるだろう。だが、チャンスの濃度はかなり違うだろうな、という印象だ。

そして、やっぱり英語ができるといいみたいだ。
給料の高い外資系に就職するにも英語は必須だ。英語ができれば、タイ人枠としてではなく、一般社員として勝負できるのだ。
そういうことは前々から日本でも言われているが、タイはすでにそれが当たり前に起きている印象だ。経済成長する途中でグローバリゼーションがも先に来ちゃった、ということかもしれない。日本は、高度成長が先にあって、その後にグローバリゼーションの波にさらされようとしているわけだ。

で、タイでもみんな英語を覚えたがっている。収入にダイレクトに響くからなおさらだ。
かつての日本みたいに、英語が話せるとかっこいいわね、なんてことではないのだ。生活レベルが変わるのだ。というか、ある階層以上に登りたければ、英語で足切りがあるのだ。

でも、やっぱり英語を覚えるにはそれなりの質の高い教育が必要で、それはやっぱりお金がかかるのだ。
もちろん、英語圏で育ててしまうという手もあるが、それもやっぱりお金がかかるのだ。

だから、偏見かもしれないが、お金持ちがますます有利になっていく、という風にも見えてしまう。
いや、そうじゃない、ただ、階層社会だというだけなのかもしれない。当たり前のことなのかもしれない。
自分の階層にあった職業につけばよく、下層階級には未だに英語は不必要、ということかもしれなく、逆に上流階級では英語ぐらいできないとコミュニティーに参加すらできない、という現実なのかもしれない。

だから、家がすごい金持ちなのに、英語があまりうまくない(といっても十分話せているのだが)タイ人の友人は、僕は英語がうまくないから。。とコンプレックスを持っている。友人のネットワークの中でも英語力のなさを実感させられてしまうのだろう。

はっきりいって俺は悔しい。英語、つまりはイギリス語が、いよいよ世界共通語としてのさばってきたのだ。
すでになっているのだ。世界で活躍したいなら英語は必須なのだ。明らかに。英語圏に生まれたどんだけ楽ができたことか。
例えば、これから発展するというミャンマーでは、英語教師の収入がかなり高くなっているそうだ。上の方の階級はこぞって子どもに英語を学ばせるのだろう。世の中が見えていれば当然そうなるだろう。

俺たちが時間と労力を使って英語を必死に覚えてる裏で、英語ネイティブたちは、何ら努力せず仰ぎ見られ、おまけにお金まで稼げてしまうなんて!
でもこれが現実である。アジアにいるとよくわかる。やっぱりなんとなく、西洋人が上に位置づけられているのだ。悔しさがにじむ。

もちろん、これは単なるやっかみに過ぎない。日本人に生まれたメリットもたくさんあって、僕だってそれを享受しているはずだ。
だから、何が言いたいかわからなくなったが、いま、子どもに英語を学ばせた方がいいのは事実なのだ。まず、それを実感しているということ。

もしかすると、高性能の自動翻訳機が発明されて、語学力というのが一切価値を失う未来があるかもしれない。これはSFではなく、どうもあり得ることらしい。けっこう開発が進んでいるらしい。コンピューターがまさかの将棋名人に勝つ時代である。10年前は考えられなかった。はっきりいって俺はショックだった。

だから、きっとそういう未来は来るだろう。でも、それが30年後なのだとしたら、やっぱり今の子どもには英語を習わせておくほうがいいのだ。

身もふたもないことを言っているのだろうか。でも僕にこどもができたら、そしてお金があれば、インターナショナルスクールに通わせてあげたいとは思う。それが事実。

別の未来としては、日本語がもっともっと世界に広まって、日本語で十分世界相手の仕事ができるようになるかもしれない。だが、今のところその兆候は見えない。

もちろん、英語さえできればいいのか、というとそれはノーだ。当たり前だ。その職業のスキルが一番大事だ。でも英語ができれば、同じスキルレベルでもチャンスは段違いに広がるぞ、ということなのだ。

もう僕は、いまから英語ペラペラを目指すのもしんどいので、ネイティブ並の人たちと全く同じ土俵で勝負することは考えもしていないが、ちくしょう、まだまだ西洋のターンは続くのか、とは思うのだ。これはなんだ、なんとかならんのか。



4/07/2013

好きな事やってるんだな


昨日、MBKという大衆大型デパートに買い物にでかけた。すると、野外の特設ステージで何かやってる。盛り上がってるので、見に行くと、JAPAN-TRENDなる催しをしていた。日本祭りだ。よく見れば、たこやきとか日本風の屋台がでている。そして、そこは、まさに小さな秋葉原になっていた。

ステージはまだ誰もいなかった。そこに、なにやら音楽が流れた。前奏だ。すると、僕の斜め後ろくらいから突然怒声があがった。そして、5、6人の男の子たちが狂ったように叫び、踊り出した。ステージには、セーラー服姿の高校生らしきタイ人たちが7人くらい出て来ていた。

あ、これはAKB48的ななにかだ!これがオタ芸か!そうなのです。もうここまで及んでいたのです。ステージにはなにやら日本語のアイドル曲が流れています。聞いたことはないけど、AKB的な曲です。そして、振り付けを合わせて一生懸命踊っています。そして、ステージの下では、オタク風の男の子たちが、秋葉原と同じようなかけ声をかけていました。いったいどこで覚えてきたんだ。。まるでそっくりです。

ああ、文化が丸ごと輸入されている。少し感動です。しかも、面白いのは、きっと、この子たちはTVに煽られたり、メディアに乗せられてやっているのではないのです。タイのメディアにそこまで秋葉原文化は浸透していないはず。彼らは、Youtubeなりを見て、独自に研究、独自にダンスを覚え、独自に衣装をつくり、独自に「日本語」の歌を覚えて、今日のこのステージを迎えたのでしょう。

そして、ステージ上のアイドルたちだけじゃなく、ファンのあり方まで輸入されていた。日本で見て来たのかもしれません。とくかく、こちらも独自でかけ声の掛け方を覚え、独自でファンの衣装をそろえ、独自のコミュニティーを築いていたのです。

そして、なによりも、とっても楽しそうでした。ステージも、ステージの下も。通りすがりのアラブ系?の旅行者風の女子たちもめっちゃテンションがあがった風で、ステージに駆け寄っていきました。たぶん秋葉文化はしらないでしょうから、単純にこの場の雰囲気にときめいてしまったのでしょう。

そして見渡せば、コスプレイヤーがたくさんいて、そこらじゅうでプチ撮影会が開かれていました。僕もカメラを向けると、ニッコリわらってくれました。コスプレしている男の子も結構いました。小学生かな。みんなかわいかったです。

そして、お、なんか聞いた事ある曲が流れてきたのでステージに目を戻します。女の子たちが、とっても楽しそうに、たぶん完コピしたのでしょう、見た事あるような踊りを踊っていました。ふいに、涙がにじんできました。あれ、なんか今感動したぞ。ああ、そうか、みんな本当に楽しそうだなあ。好きでやってるんだなあ。

そして、よく見れば、真ん中左に立っている女の子は、その身長や体つきからして、男の子のようでした。セーラー服でかわいく踊っています。ああ、すごいな、タイなんだな。

まったく違和感ない。見てる方も、ふつうに応援している。この男の子だって、本当にこのアイドルが好きで、踊りたかっただけなのだし、そして、ほら、こんなに楽しそう。

なんかいいもの見たなー、って気持ちで会場を立ち去りました。まあいろいろ思ったけど、ひとつは、タイ人ってやさしいんだな、ってことです。みんななんかやさしいな。


追伸すると、バンコクで半年間、コワーキングスペースで働いてきてわかったことの1つは、ヨーロッパ人でもいわゆるコミュニケーション苦手な奴らがいっぱいいるんだなってことです。ここにくる外国人は、たいてい、フリーランスのプログラマーです。そして、たぶん、タイまでわざわざやってくるヨーロッパー人のプログラマーとなると、けっこうな特殊な部類に入るんでしょうか、変わった奴が多い。ロシアやスイスなんかからもけっこう来てる。

そして彼らが、お前ら西洋人だろうが?と言いたくなるほど、人付き合いが悪い。というか、お前、あいさつぐらいできんのか?と言いたくなる奴もいる。見るからにコンピューターしかできませんという顔をしている。ぜったいリア充ではない。でも、話すとめちゃくちゃ人がよかったりして驚くんだけどね。シャイにもほどがあるだろ!って日本人のおれが説教したくなるレベル。それが実に半数を超えます。

なんか、こういうのも世界的な傾向なんだな、なんて感慨にふけったり、というか、おれも全く同類なんじゃないか、とにわかに胸に手を当てたりしていました。こっちではかなり無口な俺です。

そして、最近ともに思うことは、人間、いじわるなのは嫌だね、ということ。意地悪にはなりたくないなー。いじわるとは、つまり、意地悪なことを言う、ってことね。言わんでもいいイジワルなことを言うとかね。たとえば女装する男の子がいたとして、別にいいじゃん、かわいいじゃん、と言うのか、げー気持ちわるい、と言うのか。そう思っても何もいわずにおくのかわざわざ言いにいくのか。そういうらへんのことね、例えば。

自分にさしたる害がないのなら、ほっといてあげたらいいし、もっといいのは応援してあげたらしい。好きなことを見つけて楽しくやってるんだから。でも反射的になにかいちゃもんをつけてしまう自分は日本人の嫌なところを持ってるな、って思ったよ。





4/03/2013

ちくしょう翻訳上達しねえ

翻訳の話を書こう。

僕の場合、翻訳といっても短い記事を訳すだけだ。
それでも、一日一回は自信を喪失する。うまく訳せない、なんでだ?という文章が必ずあるのだ。わずか数行に、あ、もう一時間以上悩んでる、なんてこともザラだ。

翻訳とは不思議なものだ。自分で考えた文章を書くなら、さすがにここまで悩まない。というか、そもそもそんなに文章に書きにくいことを頭の中で考えたりしない。

やっぱり、翻訳しずらい部分というのは、原文筆者が言いたいことをいまいちつかんでいないときなのだ。どんなに辞書を調べてもわからないこともあるし、意味はわかっても、なんでここでそんなこと言う?という疑問がわくこともある。そういうときは腹がたちます。お前、なんでそんな複雑なこと言うんだよ。もっと素直な言葉吐けよ、アメリカ人なんだから!という感じです。

アメリカ人なんだからロジカルにさくさく行こうぜー、おい。。そう何度つぶやいたことでしょうか。でもね、もしからしたらそういうものなのかも。英語だって日常語なんだから、気の利いたことも言うし、婉曲表現も使うだろう。それが人間同士のコミュニケーションというものなのだ。中学の教科書みたいな会話ばかりではないのだ。

というときに、翻訳について誰かなにか言ってないかな、とインターネットをあさっていたら、山岡洋一さんという著名らしい翻訳家の人がいろいろ言っているのを見つけた。彼はベストセラーのビジネス書とかの翻訳をしていたらしい。

彼がいうには、こと翻訳という世界では35歳ではほんの駆け出し、50歳でもまだまだ修行が足りないくらいなのだそう。翻訳は難しいのだ、と言っている。

もちろん、彼の場合は一冊の本を訳し上げる専門家だ。それがどれほど難しい事かと思うと、寒気がする。ほんの半ページの翻訳で苦しんでいるおれ。300ページの翻訳ってそれどんだけーーーー。

その道のりが想像できない。一年とかかけるのかな? 想像できないほどの積み重ねだ。でもそれでも、世の中には翻訳された本が五万とある。五万どころじゃない、もっとある。そして、それみんな誰かが翻訳したのかと思うと、絶望的な気持ちになる。だって、売ってる本の翻訳、どれもすげーうまいじゃん? つまり、あー翻訳下手だな、なんて思ったことないもんね、本読んでて。つまり、おれが想像できないほど高い領域で仕事をしている翻訳家が、まあ過去を含めてだけど、何千、何百といるってことでしょう? 恐ろしい。。自分が小さく見えることこのうえない。

そして、さらに恐ろしいことに、山岡さんは、しきりに翻訳で食えなくなった、と嘆いている。例えば、既刊の古典の翻訳をやり直したいのだが、古典翻訳ではとても食えないので、積極的になれない、仲間も誘えない、的なことを言っている。

困るなあ。別におれは翻訳家でいくと心に決めたわけではないが、明るい希望がある道ではなさそうだ、というのはわかる。難しいくせに食えない、そんな仕事があるだなんて。それが乗りかかった船だったなんて。。

とひとしきり愚痴ってみても、目の前の文章が急にわかりやすい日本語に変換されていたりはしないので、仕事に戻りますが、なんというか、悔しいですね。こういう悔しさはあんまり味わったことがない種類のものです。このもどかしさは、何なんだあー。うまくできん、うまくできん、うまくできませーん。ああ、ちくしょう!






4/01/2013

最近かいてないがしかし

ブログ、ご無沙汰ぎみ、すまそ。

なんだか時間がない。昨日はオフィスで知り合ったアーティストがイベントをするというので行ってきた。川沿いのぽっかりとしたスペース。

オフィスのスタッフも何人か行くというので、行ってみることに。でも、みんな仕事で遅れるというので僕だけ先に行ってみた。

ドアを開けると、西洋人ばっかりが40人くらいいて、引く。ホストがテンション高く迎えてくれる。ビールを手渡される。なんでも、彼は日本を回って日本のグラフティーアートの本を作ったのだそうだ。見せてもらったが、すごくかっこいい本になっていた。「落書き」というタイトルがついている。日本のグラフティーはすごいんだぞ、と言っていた。確かにすごいクオリティーだった。渋谷とかにあるらしい。帰国したら見に行こう。

なんとなくひとりぼっちでさみしかったので、いったん外に出てみた。さて、どうしようかな、やっぱりパーティーなんか一人でいくもんじゃないな、とトボトボ歩いていたら、おーいと呼ぶ声。オフィススタッフのひとりが遠くから呼んでいた。今着いたのだという。ふたりで会場へ戻る。

会場どんな感じ?というので、西洋人ばっかりだった、と言うと、そっかあ、じゃあ楽しくないかもね、とささやき合いながら。会場に戻ると、またホストがテンション高く迎えてくれて、いまフードができたところだ、と言うので取りにいく。パスタとサラダとガーリックトーストだった。まあ、おいしい。そうこうしているうちに、オフィススタッフが集まりだした。会場ではなにやらアートな演劇っぽいパフォーマンスが始まっていた。

そんなこんなで最後のほうはほかのお客ともしゃべったりして、そこそこ楽しめた。来てよかった。うっかり帰るところだった。でも不思議な気持ちがしていた。アートの集まりなんて、日本ではまあ行かないけど、バンコクだと、わけがわからなすぎて、うっかり来てしまう。年齢層は以外と高く、30、40代以上が中心といった感じだった。子連れもいた。50人ほどいるお客の大半がアーティストやクリエイターだそうだ。みんなバンコク在住だ。

なんというか、西洋カルチャーのいいところの1つは、こうして、ある程度の年齢になってもパーティーやなんやを普通に楽しむところだね、と思った。たぶん50代、60代もいたはずだ。みんな少しだけおしゃれして、少しだけお酒を飲んで、おしゃべりを楽しんでいた。こういうのはいいよね。なんだか年を取る事がそんなに悪い事じゃない気がしてくるというかね。

一緒にいたタイ人たちはみんな20代とか。それはそれで元気がもらえていいんだけど、やっぱ同年代の中にいるとなんだか落ち着くのも事実だったりする。というか、いろいろミックスしてるのが一番だね。ホスト役のひとたちもそういうのを目指してる、もっとタイ人にも来てもらいたいんだ、と語っていた。ナイスガイだった。

まあ、なんだかんだで、人生それぞれに苦しくて大変だけど、それなりに生活を楽しんでいく、そういう技法がいろいろあるのかなって気がした。少しの工夫でいいのかもしれない。もちろん、パーティーしたって根幹のところの大変さは全然かわらないんだけどね。でもなんだか、そーいうものかな、って気もするね。生きて行くって。

というか、なんだ、もっとさ、気軽でいいんじゃない? って言われた気がしたイベントだった。


3/24/2013

犬に追いかけられTrueMoveしてオフィスにいる




今日は、朝から洗濯をした。そのあいだに少し近所を散歩してみた。思えば、ここに住んで数ヶ月、オフィスへの往復ばかりで意外と近所を歩いていない。いつもいく屋台ストリートの奥へと進んでみた。ふむふむ、日曜で車も通らず、静かでいい感じだ。緑もある。すこし行くと、芸能関係の社長宅といわれる大豪邸がある。生け垣でぐるっとなってて中が見えないが、すごい門構えだ。もう少しいくと、最近できたばかりのコンドミニアムが建っている。たぶん2LDKくらいで20万/月くらいする感じだろう。

ふむふむ、バンコクもすごいよね、と歩いていたら、赤ん坊が道ばたに立っている。ゴミ捨て場でゴミ袋とたわむれている。おいおい、なんでここに赤ん坊いるんだよ、と思う。おむつの赤ん坊だ。

あれあれ、と見に行くと、あ!家があった! ゴミ捨て場のすぐ脇の空き地に、バラックでつくられた家らしきものが2、3軒見えた。ビニールシートの屋根で壁がない感じの家だ。住人たちが座ってくつろいでいた。赤ん坊の母親らしき人もいて、ゴミを拾っているようだった。

ほぼホームレス、という感じか。日本でもホームレスの人は見かけるが、赤ん坊ははじめて見たので、ちょっと驚く。

もう少し奥まで行ってみよう、ずんずん歩いていくと、犬がめっちゃ吠えて来た。家の敷地の中からだ。なんだか怖い。さらに進んでいくと、道の向こうに一匹の犬がじっとこちらを見ていた。ずーーっと見ている。若干不穏な空気がでているので、念のため棒切れを探す。でかいエンドウ豆のカラみたいなのが落ちていた。50センチくらいか。結構かたい。いざとなれば武器にはなるだろう。エンドウを持ってさらに歩いていくと、、、突然新しい犬がとびだしてきて、ガウガウガウガウと吠え出した。そして3匹くらいで向かってくるではないか!やべえ、ぼくはすぐにきびすを返した。走ると追いかけられそうなので、たまに棒を振りかざしてメンチを切りながら、早足で歩き去ろうとする。しかし、着いて来る。わんわん言いながらついてくる。。じゃっかん冷や汗がでる。近くに人もいない。百メートルほど歩くころには犬は追いかけてこなくなっていた。

彼らなわばりだったのだろう。知らない人間に警戒したのだ。ということは、ここは、知らない人間はめったに通らない道なのだろう。百メートル歩けば渋滞するほどの目抜き通りだ。なんだか不思議な気持ちなった。

そして、携帯のキャリアを乗り換えたので、その設定をしてもらいにいった。TOTというキャリアからTrueMoveに乗り換えたのだ。
理由は、TOTの電波が悪いことと、後払いしか選べないことだ。そのせいで偉い目にあった。まあ少しぐらい超過料金払ってもいいやと思ってiPhoneでYOUTUBEみたりしていたら、目ん玉とびでるくらいの金額が請求されたのだ。といっても月一万円くらいだが。基本料金が千円だったから、あまりの差額にびびった。せめて3千円くらいで着地すると思っていた。。

そこで、急遽、プリペイドが選べる回線に切り替えたのだ。これなら安心だ。使い過ぎても、ネットが使えなくなるだけだ。また入金すればその分だけ使えある。シンプルである。しかも、WiFi無制限のプランがあったのでそれを選ぶ。
3G通信は2Gまで、WiFiは無制限、音声通話は200分で、月に2100円だ。まあ悪くない。

WiFiは、Trueカフェと呼ばれる直営のカフェが市内いたるところにあるので、そこで使える。あと、大きなショッピングビルならたいていTrueもWiFiが飛んでいる。これは便利だ。あと、日本に帰ったときは止めておけるし、便利だ。

そして、今日はなんとなくオフィスに行きたくない、観光でも出掛けようかと思ったが、とりあえず2時間くらいは仕事するか、と思ってオフィスに来た。こういうフレキシブルさはやっぱりいいね。

だが、やはり日曜日は日曜らしく、休暇を過ごした方がいい気もするな!









3/21/2013

暑いけど風がある


今朝、起きて、オフィスへ向かうとき、風が吹いてきた。
いま、バンコクは夏に向かうところで、日増しに暑くなっている。
昼間などは頭がぼーっとなってくる。
この先、いったいどうなるんだ?と思っていたが、朝方、風が吹くようになった。

前から吹いていたのかもしれないが、朝、オフィスに向かって歩き出すと、まず、排気ガスの臭いがむわああっと漂ってくる。うへー臭い、と顔をしかめるも、この道を歩いていくしかない。

タイ人たちも耐えかねるようにで、女の人などは口にハンカチをあてていたりする。
そういえば、タイ人の女性は、モタサイ、つまり、バイクタクシーに乗るときに、横乗りをする。いわゆるお嬢様座りをするのだ。みんながみんなだ。

見ていてもアブなっかしい。うしろにコケたらどーするのだ?でもみんな優雅に、でも暑さと匂いに顔をしかめながら乗っている。

そんな大通りのわきの歩道を、テクテクと一駅分歩くのが日課だ。
そんなとき、ふわーーーっと風が吹いてくると、一瞬、心だけ立ち止まる。

あー気持ちいいな、と思う。そして、いま外国にいるんだな、という感じがふわっとやってくる。あ、いま俺タイにいるんだな。

あ、この感じは、と初めての海外旅行、インド旅行を思い出す。
あの日、あの朝、夜中の便でデリーについて、真っ暗な中をホテルまでたどりつき、泥のように眠った翌朝。目が覚めて、一瞬、ちいさなパニックにおちいる。あれ?ここはどこだ? 明らかに見慣れない風景。石の壁、石の天井。木の扉で閉じられた小さな窓。

あ、そうか、おれはインドにいるんだ。と、思った瞬間、体中をじわーーと喜びと興奮が駆け抜けた。あーおれ、インドに着いたんだ。

まだ信じられない感じのボクは、ぼうっとした頭のままで、小さな窓を開けてみた。うわー。見た事の無い風景。赤茶けた大地と、赤茶けた建物たち。徹底的に乾いた空気。
あーーここはインドだ。ほんとうにインドに来たんだ!

あの朝の感動は忘れられない。わくわくが止まらない、わくわく死してしまいそうな感じ。その後、帰国するまでの3週間は、まるで夢の中にいるようだった。

あのときの感動の何十分の一でしかないかもしれないが、それでも、ささやかな実感は湧いてくる。ああ、俺は、いま、外国にいるんだ。

でも今の僕には、外国の風景よりも、日々の仕事や生活が大事で、今日も、急ぎ足でオフィスへ向かう。今日中に片付けたいことがあれとこれと。そして、今日は、いつものブランチプレートのカレーを少し多めにしてもらおう。と野望する。

今日は、となりに日本人の男の子が座っている。2週間いるのだという。バンコクでも何かをやりたいと言っている。俺はなんだかうれしくなった。でもこれはなんだろう?と思う。普段、道や、ラーメン屋や、アパートのエレベーターなどで、大勢の日本人とすれ違う、でも、僕はなぜか顔をうつむかせてしまう。あまりしゃべりたくないのだ。ただの人見知りもある。だが、どこか、避けたくなる気持ちがある。

でも、オフィスで日本人に会うと、うれしくなる。どこか仲間的な意識になるからだろうか。それとも、自分が気に入っている場所で出会う同胞だからだろうか。僕はアリジゴクのように待っている。この場所で、このHubbaというコワーキングスペースで、面白い人たちがやってくるのを待っている。待ち受けている。

僕は、積極性がないので、こうした場所はありがたい。出不精なので、いろんな場所やイベントに出掛けていって、人と知り合うということがほとんどない。僕は待ち受けタイプなのだ。じっと息をひそめて待ち、窪地に落ちて来たアリには、そそそと歩み寄るのだ。

よく日の当たった白い壁を見ている。木の陰が揺れている。意識は子ども時代に飛びかけている。よく晴れた日に、母と姉と洗濯物を干した。そんな記憶があるような、ないような気がした。




3/20/2013

ルーチンとかアートとか

さいきん、毎朝、帽子屋さんカフェに通っている。8時に目覚ましが鳴る。もぞもぞ起きて、なんだかんだで9時頃家を出る。てくてく歩いて9時すぎにカフェに到着だ。

カフェではモーニングセットを出してくれる。フルーツやコーヒーが飲み放題で、目玉焼きやお肉、トーストなんかもついてくる。それを食べにいくのだ。

たまにお米が食べたくなると、タイ飯のお店に行くこともある。なんにせよ、朝方をキープするために、ルーチンをつくろうとしているのだ。

今日、なんとなく前から気になってたけど声をかけずらかった2人組に声をかけてみた。オフィスでのことだ。彼らは何枚かの絵をテーブルにならべて何ごとかを真剣に話し合っていた。僕が絵に興味を示すと、彼らはこっちにおいでと手招いてくれた。

初めてしゃべった。彼らはイギリス人で、アジアのアーティストを発掘する仕事をしているらしい。それぞれ、写真家だったり、ドキュメンタリー作家だったりもするらしい。ふむふむ、刺激的なひとたちだ。そのうち一人は下北沢に住んでいたことがあるらしく、吉祥寺も知っていた。話も盛り上がる。

なんかおもしろい人たちと知り合えたな、とこころが踊った。バンコクにいつまでいる?と聞くと、3年くらいいる、と言う。長いね!と言うと、ゆっくりやっていこうと思うんだ、とのこと。なんでも、ここに来る前はインドネシアに一年半ほどいたらしい。

ひとしきり話したあと、なぜ今まで話しかけにくかったのか、わかった。自分と領域が違いすぎるからだろう。彼らはアート系ど真ん中だ。やっぱり僕はIT業界が長かったせいか、相手がプログラマーなんかだと話し易いし、話題もつなげる。アートの奴に何を聞いていいかわからないし、なんかオーラ的に怖かったりする。

でも最近少し変化もあって、ITにどんどん興味がうすれてきている。新しいプログラミング言語の話を聞いても、わくわくしない。むかしはとにかく試してみたい衝動にかられたものだが。ときにこちらから聞きたいこともない。だから会話が弾まなくなっていた。

どういう人となら話が弾むのかなあ、って思っていた。スタートアップの人とビジネスモデルの話をしても盛り上がらないし、社会起業家の人と地球環境について話しても盛り上がれなかった。

アーティストとなら盛り上がるのかというと、そうでもないけど、まだ、なんでこんなことしてるの?という個人的な興味は持ちやすい。なんでこんな絵描いてるの?みたいな。でも、何か情報交換をするわけでもなく、話のネタはつきてしまう。

そういえば、昨日、Tシャツを買いに、アソークという駅のターミナル21というショッピングモールにでかけてみた。ぐるぐる回っていると、おもしろいTシャツ屋がいっぱいあることに気づく。各店がそれぞれオリジナルに溢れている。あるTシャツ屋さんで足が止まる。なんか、日本的というか、日本の浴衣みたいな柄をTシャツに入れこんでいる。おもしろいな〜と思ってみていたら、お店のおばさんがニコニコしていた。

おばさんに、自分で作ったの?と聞くと、イエス!と言う。へーーと言っていたら、あ、娘がつくったのよ、という。そうかー。なんかいい感じだね、と思う。そんな感じで、手作りっぽい服の店がずらーっと立ちならんでいる。見事な刺繍が入ってるTシャツもある。うーん、買っちゃおうかな、と何度も思ったが、結局無難なものを買ってしまった。でも、こんど一枚ぐらいは、あの刺繍Tを買ってみよう。決して高くない。高くても1500円だ。

なんだか、バンコクってひそかにTシャツ天国になってんじゃない?って思ったり。みんな工夫をこらしている。それでいて手頃な価格で買える。楽しみが1つ増えた気がした。

前回、ズボンを手作りしたいと書いたが、その気持ちの延長にこれもある。自分で作らなくても、なんとなく手作りっぽい服を来たいな、という気持ちもあるようだ。安価な大量生産品を着るのも飽きたし、がんばって高価なブランド品を買うのも疲れる。

少々、難があったとしても、若手のメイカーが手作りしてくれた服をきるのは気分がよさそうだ。あとは、いい出会いがあればいいなあ、という感じかな。でも、ことズボンに関しては、僕の要求を満たしてくれそうなものは見つけられなかった。また探しにいくよ。






3/18/2013

ズボンにご立腹

昨日、ジーンズを買おうと思ってデパートを巡った。こっちはジーンズが高い。というか、それなりに名前を知ってるブランドの服は日本よりずっと高い。たとえば、リーバイスの普通のジーンズが9千円くらいする。高いよね?

で、なんとかお気に入りの見た目のジーンズを見つけて試着してみた。サイズを合わせて、座ってみたりしていたら、だんだん腹がたってきた。

着心地がいまいちなのだ。なんでもう何十年もズボン毎日履いてるのに、着心地がびったりのズボンに出会ったことがない。着心地とルックスの両方が合格、ということね。どちらかだけならある。着心地だけいいズボンなら、ゆったり目で生地がうすいものを買えばいい。サラサラと気持ちがいい。でも、デザイン的にかっこいいのがあまりない。たまに、お!と思って値札を見ると、2万円とかしている。なぜか高いのだ。

で、ジーンズとかならかっこいいのがいくらもあるが、ほぼ、着心地は期待できない。ごわごわするのだ。あれがいやなのだ。昔はそれでも見た目重視でスリムなんてのを履いたりしていたが、もう嫌だ。そこまでがんばれない。でもダサいのも嫌。それでいて、高すぎるのも嫌。となると、本当に選択肢がないのだ。

世にアパレルブランド、ショップたくさんあれど、僕の要求を満たすズボンを作れないとはこれいかに。そんなに厳しい要求してるか、おれ? ユニクロより高くてもいいんだよ。リーバイスくらいのかっこよさでいいんだよ。着心地もシルク並みでなんて言ってない。綿パンくらいでいい。

でも、それが難しいんだってよー。毎日のものなのにね。ちくしょう。同様に、靴もいつだって不満。この靴最高!って靴に巡り会ったことない。こんなに靴があふれているのにね。もう自分で作るしかないのかなー。

世の中は、これからメイカーブームになるらしい。つまり、ネットよりリアル。製品を自分で作っちゃおう!という時代になるという。
それなら僕は服をつくりたいよ。自分の服を。ミシンとか覚えないかんのかな? 高い金はらって特注しないといかんのかな? そこをなんとかならないかな。

なんてことを考え始めています。タイだけになんとかなるんじゃないのか。

大量生産品だから買えている。それが現実なのだろうか。それがユニクロ的現実なのだろうか。庶民はオーダーなんかしてる場合じゃねえよ、ということなのだろうが。

しかし、昨日見た、ALWAYS 三丁目の夕日2 では、ろくちゃんのドレスをミシンで生地から自作していたぞ。思い出せば、こどものころ、お母さんが自分のワンピースをつくっていたような気がするぞ。僕の幼稚園の服とかもお母さんがミシンでつくってくれた思い出があるぞ。あのころは、作れていたんだ。

そういえば、昔はミシンが一家に一台だったが、今はあるだろうか。ミシンの時代に戻ろうじゃないか。でもせっかくの新時代なのだから、一家に一台などとケチなことは言わず、みんなでシェアして、高性能ミシンを使えばいいじゃないか。そんな毎日毎日使わないのだからね。なんてことにならないか、ちょっとしらべてみるぞ。ラジコン自作してる暇あったら、服を自作したいものだよ、ほんとに。おれは怒ってる!



3/14/2013

朝起きるようになったら

朝起きるようになったら、逆に時間が飛んでいく。
なんでだ??
あっという間にオフィスの閉館時間になっている。買い物にいく時間もなくなっている。これで仕事の効率があがっていなかったら、泣けるな。それは月末になるまでわからない。

バンコクに移動して、たぶん2割くらいは仕事量を増やすことができた。でも、それ以上に、生活コストも上がってしまったので、収入支出の効率的にはバリ島時代より厳しくなってしまった。いったい何をやっているのか。。

でもまあよしとしよう。生活コストを下げるのが今の目的ではないのだから。むしろ上げていくのだ。そして収入を押し上げるのだ! と思ってはいるが、なかなかそう簡単にはいかないね。なんか自分の一日の生産量に限界があるのかもしれない。仕事時間を増やせばその分できる、みたいな風にはなってない。残業しても生産量は少し増える程度らしい。これは教訓にしなければならないだろう。だが、一応4月まではこのままの体制で実験期間とする。

オフィスにも人が増えて来た。タイ人がどどっと増えた。いま、毎日15人くらいは来ているだろうか。全体では100人近くいるかもしれない。オーナーたちはやる気まんまんで、年内にバンコクでコワーキングスペースをあと3つつくる予定だという。明らかにタイの若手スタートアップシーンを牽引している。まだ26歳。やり手だね。

というか、なんせこの若さですごいホスピタリティーがあるから、彼がやれば成功するだろうね。思えば最初からいい環境に巡り会えたな、という感じだ。ここにいるだけで、タイのスタートアップシーンがかいま見れるのは楽しい。いろんな企業が表敬訪問にやってくる。日本からもちらほらやって来る。俺はここのヌシとして君臨して、日タイのスタートアップをつなぐ何かをしてもいいかもしれない。といいつつ、彼らの会話にまじると、シーンについて何も知らないおれだった。ぜんぜん流れについていってない。。

このまえ彼らが新しいプロジェクトをするというので聴いていたら、苦学生向けのクラウドファンディングをやるという。政府には期待できないからね、と。もう日本より少しも遅れていない。スピードも速いし、ぜんぜん大手企業の介入ぬきで、がんがんやってる。どこから資金が出ているかわからないが、タイには個人の資産家がいっぱいいるから、そういうところから出ているのかもしれない。事業として採算があってるのかはまだ不明。今は度外視しているのかもしれない。とにかくスピーディーにやろうとしている感じだ。

僕も何かタイの文化に絡んだことをしてみたい気が湧いてきている。けど、何やっていいかわからないね。タイ語できないしね。でも、翻訳やってます、というと、まず、タイ語から?って聴かれるから、できません、って言うのがおっくうになってきてる。タイ語の文字は難しそうだなあ。。でもかわいいから好きだけどね。

あと、日本語から英語の翻訳はできないか?とも聞かれるね。そこにニーズがありそうだが、逆翻訳はそうとう難しい。でも、ニーズは増えるかも。日本人が海外で商売するなら、英語で、ってことになる。そのとき、日本語から的確な英語に翻訳できる人がどれほどいるか、ということだ。あんまりいなそうだ。

今頼まれているのは、帽子屋さんのキャッチコピーの翻訳。日本語から英語。過去にネイティブやバイリンガルに頼んできたけど、しっくりいかないのだという。ただの文章じゃなくて、キャッチコピーとかは、やっぱりそれらしく訳してほしという。

僕もできないよ〜ということで、今、ネイティブの友達に相談中。ネイティブネットワークを広げたら、ひと商売できるかもしれない、などと思う。

まあでも、とりあえず、目の前の仕事に追われている日々が当分は続きます。


3/09/2013

「Always 三丁目の夕日」を見た

「Always 三丁目の夕日」を見ました。
タイ人の友達が、絶賛してたので彼に借りてみた。いままで、毛嫌いして見てなかった。だって、昔はよかった、みたいなのってつまんないよね。きれいごとうそっぱち映画見たってしょうがないよ、って。

で、見た感想は。。泣けました。なかなかいい。続編も見たい。
とはいえ、やっぱり、きれいごと映画だな、って思うけどね。ぜったいあんなじゃなかったと思う。でも、あれは未来の思い出なんだなって。かつて一度も実現したことのない、暖かい世の中。もしくは、記憶の中で美しくなった子ども時代の思い出。かな。

実際のところはわからないけど。その時代を生きていないから。

でも、続編も見たいな。

集団就職で青森から出て来る女の子がやっぱいいよね。
金の卵の時代かな。あれはもうちょっと後かな。

東北の高校を卒業する17歳の女の子が、学校で一枚の求人票を見ている。東京で住み込みの仕事があるという。この仕事なら資格も取れるかもしれない。そして、独り立ちできるかもしれない。東京でひとりで生きていけるようになるかもしれない。

今のようにインターネットなどない時代。テレビさえない時代。行ったこともない東京は、どれほど遠かったことだろうか。

求人票を握りしめて、係のところへ行く。私、ここに応募します。17歳がそういうことをする時代があった。

今日、朝、オフィスに行く前にコーヒーを買った。コーヒーを待つ間、外を見ると、ガラスごしに風が吹いているの見えた。木々が揺れていた。それを見て、なんだかほっとしている。なぜだろう? 世の中に風がなくなればどうなるのだろう? などと思う。

17歳が旅立ちを決めたときには、必ず、風が吹いていたはずだ。それは、いつも通学の途中で通りすぎる漁港だったはずだ。海を向いていたはずだ。風は髪をたなびかせたはずで、スカーフを顔のあたりまで巻き上げたかもしれない。

いつも、何かを決めるときには、風が吹いている。






3/07/2013

忙しい

なんだか忙しい。やってもやっても仕事が終わりません。
おかしいなあ、こんなだったかな。もっとできる男だったはずだが。。

もう眼が痛いです。ということで、ブログの更新がないのは、たんに時間がないからですので、ご心配なく。

ところで、緊急にお知らせ。ぼくは気づきましたよ。というかある仮説を思いつきました。

X-JapanのHideは、シンディーローパーを継承しようとしていたのではないか、と。

少し前、鬼束ちひろがシンディーのTime after timeを歌うのを聞いて、なんだ最高じゃないか!と思ってたまに聞いていたのですが、すると、最近の鬼束ちひろのファッションってシンディーみただな、とか思いはじめたところ、シンディーの昔のPVなどつらつらと見ていたりするころ、あ!これはHideだ!と思い至ったのです。

シンディーも赤い髪をしていた。そしてあのファッションセンス、あの眩しいような眼のメイク。そして、なんとなく伝わってくるものも似ている気がします。いまにも踊りだしそうなこどものイメージです。

赤い髪のエイリアンは、シンディーローパーを好きだったのだろうか。ググってみたが何も見つかりませんでした。

ぼくもあの眩しい眼が好きです。



3/04/2013

たこ

今朝も、8時頃に起きた。朝型になってきた。シャワーを浴びて、アパートのすぐ前にある小さなレストランに入る。最近開店した店で、ほぼアパートの住人向けのお店だ。僕は、ここに4回ほど通ったのだが、お店のママはなぜか僕のことを「tako」と記憶してしまった。

takaだと何度かいったはずだが、翌日になるとtakoになっている。面白いからそのままにして、今日まで来てしまった。アパートには日本人もたくさんいるので、名前のうしろに「さん」をつけることを、ママは覚えたようだ。

だから、僕は「takoさん」と呼ばれることになる。満面の笑顔で、タコさん今日も元気ですかあ!、と聞かれたら、元気だね〜とニヤけるしかなくなる。

今は、夜の9時を回ったところ。仕事がたまっているんだよ。明日も朝起きるんだ。

最近、オフィスに仲間が増えた。いまこの時間だって、まだ6人くらい残ってる。少し前は、ひとりぼっちになることも多かった。やっぱりにぎわってるほうがなんだか仕事もしやすかったりする。つまり、なんとなく、うきうきするんだろう。そのほうが、集中することもできたりするのだろう。図書館みたいなもんだな。

いま、となりにデンマーク人のプログラマーがいる。タイに住んで2年になるという。だから聞いてみたんだ。ねえ、デンマークって世界で一番幸せな国なんでしょう? それってほんと? って。そしたら、うーん、それは本当だけど、幸せにもいろいろな幸せがあって。。と言う。ふむふむ、それで? それで君はなんでタイにいるの?

彼は言う。デンマークは素晴らしい国なんだけど、少し退屈なんだ、と。例えば、みんなめったに外食しないんだ、という。外食がすごく高いらしく、みんなおとなしく家にかえって家族で食卓を囲むのだ。それは素晴らしいことなんだけど、少しばかり退屈でもあるんだ。バンコクみたいに、毎日外で飯くって、毎日カフェでお茶飲んでってわけにはいかないんだよ、と。

あ、ちなみにその人独身ね。ふーむ、そういうこともあるんだね。幸せな国は少し退屈な国でもあるのかもしれない。

なんにだって両面があるってことで、まとめちゃおうかな。それでいいよね。

あと10分で閉館だって。帰りますか。今日もフルーツジュース買って帰るよ。ミックスでいいよね。トマトも人参も入ってるんだって。





バンコク観光勝負:ウィークエンドマーケット



2日目の朝は、チャトチャック・ウィークエンドマーケットに朝から出かけた。僕がバンコクに来る前から聞いていた観光スポットだが、今日のこの日まで来れずにいた。友人が行くというので、これ幸いとついていく。

朝9時半、最寄り駅につくと、すでにマーケットに向かう人の列ができていた。そそくとついていく。途中、観光案内のブースに立ち寄ると、ものすごく感じのいいスタッフが応対してくれた。公務員のはずだが、いい感じだった。朝から気分も上がる。そして、道を歩いていると、友人が、はたと足を止めた。道ばたで営業している屋台を凝視している。ここで食べて行こう、といきなり朝食に。

人のよさそうなおばちゃんとおじちゃんがやってる屋台。魚の唐揚げと、ゆで卵と、野菜のなんか、をご飯によそってもらう。これが、、うまイ!最高!これがタイのローカルフードなのだ。またしてもアローイ!を連発しながら完食。わずか60バーツ。

なんでも、友人は、見た瞬間に最高フードの匂いがしたという。美味しい屋台の雰囲気をぷんぷんかもしだしていたとのこと。こういう発見は旅の醍醐味でもある。

そして、目的のウィークエンドマーケット。もう服屋だらけ、雑貨だらけ。。2時間ほどぐるぐる回ったら、目も回ってしまった。午前中で切り上げることに。すごく疲れたけど、バンコクに来たなら一度は行くといい場所だな、と思う。バンコクの活気がよくわかる。

友人は言う。バンコクは世界の市場なんだよ、と。なるほど。市場だと考えると、バンコクがよくわかる。とにかく何でも売っている。この街がまるごと巨大なマーケットなのだ。

人ごみと暑さでぼーっとしながら、ようやくたどり着いた帰りの電車の中、今日は朝から「勝ち」だね、とほくそ笑みあう僕たちであった。







3/01/2013

Time after time

友人が帰り、今日からまた日常が始まった。6日間いた友人は、少しうれしい置き土産を置いていった。それは早起きだ。行動をともにしていたので、ここ数日は朝8時には起きていた。その余韻で今日は9時頃自然に目が覚めた。あ、朝型に戻ってる。二度寝しないように急いでベッドから体を起こす。

いつまで続くかはわからない。でもやっぱり朝から起きていると一日が長くなる気がする。オフィスの向いの帽子屋さんカフェで、毎朝グリーンスムージーを出してくれるという。とりあえず、明日の朝、来るのでスムージーよろしく、と言って店を出た。

シンディーディーローパーのTime After Timeを聞いていた。好きな歌だ。そして、この曲に付随するさまざまことが思い起こされた。たぶん、この曲になんの理由でかわからないが、結びついた記憶たちだ。例えば、今浮かんでくるのは、ひとりで3週間歩き倒したニューヨークの道々、10年前に友人に始めて会ったときのこと。 はじめてバンドを組んで、友達が買ったボンジョビのテープを興奮しながら眺めたこと、記憶は芋ずる式に出て来るね。

ところで、記憶とは不思議なもので、記憶がなければ自分ではいられない。さりとて、人は過去の記憶に生きるではなく、今を生きしかないのはわかりきったことである。でも、その今を生きるのは、私という記憶でもあるのだ。

そして、記憶とは何だろうか。記憶とは「すべて」だろうか。僕が経験したすべてのことが、覚えている、いないにかかわらず、記憶なのだろうか。覚えていることを中心に、うろ覚えなことがグラデーションしているのが記憶なのだろうか。

ときどき、誰かの思い出話を聞いていると、その人の記憶が自分の記憶かのようになってしまうこともある。そんな場面を経験した気になってしまうのだ。

昔読んだ児童小説なんかも、いくらかは記憶の一部になってしまったにちがいない。

 記憶は重ね合わせてそこにあるものなのだろう。友人としゃべっているとき、出会ってからいままでの記憶もまた、重ね合わされている。

「トップガン」という映画があった。たしか中学くらいのころ、大ヒットした。トムクルーズだ。今でもテーマ曲を聞くと興奮する。かっこいいー!って思いながら憧れて見ていたころを思い出す。しかし、そのトップガンたちが、イラクやアフガンで「誤爆」をやらかし、たくさん子どもが死んでいる。憧れの飛行機乗りたちが、ベトナムに枯れ葉剤を撒いたと知ったのは大人になってからで、そのことを現実として少しは実感できるようになったのは、ごく最近のことだ。

アメリカだけがどうこうじゃなく、かっこいいトップガンの裏には、はらわたがむかつくような人間のずるさが張り付いている。

歴代戦争は「ずるさ」が引き起こしてきたのだ。闘争本能でも、暴力性でもなんでもない、ずるさ、なのだ。

人間がずるさを克服するのは、あと何千年か、かかるだろう。いや、何百年、くらいかな。それとも一気にニュータイプが生まれて、わずか数十年のことなのかもしれない。

しかし、ずるさ、と言ってもそれは、頭で考えだしただけの概念なのかもしれない。よくわからない。あまり深く考えてもしかたがないだろう。

それよりも、シンディーローパーってなんだかいいよな〜、なんでかな〜ってことを考えたり、最近の鬼束ちひろはひどいけど何だか好きだな〜って、 なんでかな〜考えたりしてるほうが、意味があることかもしれない。

今日、タイのミルクティー、というのを注文してみたら、インドのマサラチャーイみたいに少しスパイしーでおいしかった。



バンコク観光勝負:タイ東北料理店「ティダイサーン」



水上マーケットアムパワーで惨敗した僕たちは、気を取り直してタイ東北料理店の「ティダイサーン」へ向かった。ビクトリーモニュメント駅のランナム通りにある。

少し迷いつつ、なんとか到着。客席はがらがらだ。若干心配になりながらも、とりあえずシンハービールを注文。友人がたったと料理を注文してくれた。

ビールで乾杯。きゅーと胃に染み渡る。うまい。料理もたったか運ばれてきた。まずは、サラダ。激辛だ。そして、鶏肉の炭火焼。激ウマだ。肉厚でジューシーだ。今、思い出したらよだれが湧いてきた。そして、豚肉のなんとか。激ウマだ。そして、エビの唐揚げ。激ウマだ。もう全部激ウマで、アローイ、アローイと歓声をあげながらの晩餐となった。(アローイはタイ語で「おいしい」の意味)

これは勝ちだね、と勝利を噛み締める二人。午前中は完敗だったが、夕食は完勝。腹一杯たべて、最後はスープ。トムヤムとはちがう、しょうがベースの薬膳料理みたいなスープが出て来る。具も魚介と野菜がてんこもりだ。これが、酸っぱうまい!。また、アローイ、とため息をついて、完食。本日の晩餐を終えた。そして、お会計もビール2本飲んで、ひとり1200円な感じ。満足度に比べると、安い!であった。

タイのオーソドックスなイサーン料理(東北部の料理)を堪能したいなら、ティダイサーンで決まりではないでしょうかね。もっとも、僕が見つけた店ではありませんがね!ぜんぶ友人が調べて来てくれました。

ということで、帰りに近所の屋台でフルーツのスムージーを買って、少し早めに帰宅です。ちなみにマンゴーとストロベリーです。






ワイルド



これを描いたのはブラジル人アーティストです。バンコクのギャラリーで出会いました。かっこいいですね。全体の下地にトライバルな模様が入っています。どうやって思いつくんでしょうね。彼はこの下地模様を使った絵をたくさん描いていました。


しかし、このブログも元を正せば、仕事をしながら外国をゆっくり移動する、という体験をレポートしようと思って始めたのですが、何をどうレポートすればいいのか、計りかねているうちに、はや一年が過ぎ去ってしまったのでした。

生活費やビザの取り方、ざっくりした物価、インターネット事情などはそれとなく報告してきましたね。今でも、ビザの取り方など問い合わせのメールが来るので、それなりに役立っているのかもしれません。



バンコク観光勝負:アムパワース水上マーケット



ここ一週間ほど、日本から友人が来ており、いろいろ観光巡りをしていました。

初日は、アムパワー水上マーケット。バンコクから南へ一時間半ほど車を走らせたところにある、有名な観光スポットです。運河の上に市場が開かれているという。写真のとおり、カヌーのったおばちゃんがココナツを売りにきたり、チキンを売りにきたりします。運河の両岸には土産物屋が並びます。

ここがアムパワー水上マーケットかあ。。しかし、結果を言うと、敗戦しました。
 来る価値のないところでした。

まずもって、ここまで来るのが大変。電車でいけないので、車でいくしかありません。僕たちは、ビクトリーモニュメント駅から出ている小型の乗り合いバンに乗っていきました。

まず、バンがなかなか来ない。小一時間はまったはずです。ほとほと待ち疲れたころに、バンが登場。乗り込むとすでに車内はほぼ満席。全部で10席ほど。一番後ろの席に乗り込むと、これが大失敗で、超せまい。膝が胸にくっついちゃう感じ。エコノミーの飛行機より狭い。この状態で2時間弱。しかも運転手が飛ばしまくりの車線変更しまくりで、命の危険さえ感じる状況。苦痛。

そして、やっとこさ気を取り直して、さあ水上マーケットを見にいくぞ!となったのですが、なにやら、ボートに乗らなきゃいけない、と言われます。 ボートでしかマーケットまで行けないと言うのです。で、そのボートがまた高い!1時間ひとり300バーツ!(900円)。そんなに高いわけないだろ!

言い忘れましたが、バンコクからここまで来るバンの料金はわずか80バーツ(240円)でした。

一緒にいた西洋人のおじさんも若干キレています。交渉しても、ぜんぜん値下げしてくれません。タイ人もこの値段で乗るのか!と聞くと、外人は別料金だ、と言います。

でもここまで来たのだからと自分をなぐさめ、300バーツ払って乗り込みます。しかし。。
これがしょぼすぎる。狭い運河をボートで行くのですが、その両側には、まったくどこにでも売っているしょーもない土産物屋が立ち並んで、しかも何倍も高い値段で売っています。さあ買ってくれ、と言わんばかりにいちいちボートが横付けされます。誰が買うか!そういうんじゃないんだよ、俺たちが見たいのは。もっと普通の地元の人たちがわいわいと買い付けしてる、にぎわってる市場を見たいんだよ、、、でも、そんなのはどこにもありません。

たまにボートにのった、明らかに観光用にひっぱり出されたおばちゃんが、ココナツなんかを売りにきますが、何の風情もありません。そして、あっというまに終わってしまいました。なんだこれ??観光地のていもないしていません。

ボートですれ違う観光客たちは、みんな無表情。こんなはずじゃなかった、と心の声が聞こえてきそうでした。

すっかり落胆した僕たちは、もう帰ろう、ということで、すぐに帰りのバンを予約。そそくさと家路についたのでした。まあ、でも、バンを待ち間に、近所の商店街を散策したのは、これは楽しかった。バンコク郊外のローカルたちの生活が垣間見える感じがしました。

 しかし、、往復3時間かけてきて、これかよ。。僕たちはがっかりさえも通り越して、こういうこともあるんだね、と話ながら、どっかの掲示板に最悪だった、って書き込まないといかんね、などと話ながら、バンコクに帰り着いたのでした。まずは一敗です。。

 夕方前にバンコクに帰りついた僕たちは、気を取り直して、東北地方のイサーン料理のお店へ向かったのでした。

2/16/2013



タイ人アーティストシリーズ。
この人は、同じ顔でいろんなバリエーションを描いていた。自分の顔なのかな、と思った。それだけ繰り返し描くくらいだから。でも、どうして自分の顔を何枚も何枚も描きたいのだろう?と疑問が浮かぶ。果たして本人かどうか、しばらく待ってみたが、画家に会うことはできなかった。


インドネシア、タイと回ってきて、1つ感じることは、やはり、両国とも急速に近代化しているということだ。つまりは欧米化と言ってもいいかもしれない。

日本が過去にたどった道を忠実にたどろうとしているかのようだ。もちろん、風土の違いはあるが、それよりも、近代化する、という大きな流れのほうが圧倒的に力をもっているように見える。

マンションを買い、車を買い、iPhone、iPadを買い、洋服に身を包み、化粧をして、クラブで遊び、外国に留学して経営学を学び、ビルを建て、企業を運営し、簡単に言えば豊かになりたい。おなじみのその方向だ。

たまに、結局その方向行くの?面白くないね。と思う事がある。アジアがいま熱い、といってもそれは、遅れて来た近代化、ならびに経済成長をこれから遂げるのだ、という熱気の中にあるだけで、何かとんでもなく新しいものが飛び出す予感はみじんもない。

別に悪く言ってるわけではなく、アジアに日本にないものを求めてたどり着いたとしても、数十年後には似たような感じになっちまうだろうな、という予感を言っているだけだ。

じゃあ欧米に何かあるのかというと、そうも思えない。こっちで出会う欧米人たちも、まあ普通の人たちだ。何かとんでもなく新しい価値観で迫れて、腰抜かしちゃった、ということもない。

国際社会が均質化に向かっているということかな、などと思う。もちろん、このまま均質化するわけはなく、何かとんでもないことも起きてくると思うが、少なくとも今の流れはそうだ、ということだ。

だから何だというと、つまりは、世界の特定の地域に何か新しい文化がある、これから起こって来る、というのはもうないのかもしれない。あるとしたら、国をまたいでくる現象の中に生まれるのだろう。などと言ってみたが、何か具体的なものに触れたわけではない。

でもまあ少しいうならば、例えば日本人同士というだけよりも、国がちがっても、たとえば、同じ職業同士、社会的に同じ立場同士、のほうが断然話が通じるのは、わかるだろう。

苦労の種類が同じというか、そこが問題なんだよねーという会話がすぐに成立する。国際間で違うことといえば、税率とかバケーションの長さ、社会保障の厚さ、くらいなもので、どれもそれほど本質的な問題ではない。

どんな仕事をどう展開するか、というコアな部分は、ほとんどどこの国も似たような条件になっている気がする。似たような障害があり、似たような理由で諦め、似たような理由で諦められないでいるのだ。

とくに国際的な仕事をしていない僕だってそう感じるのだから、国際的な仕事をしている人はビンビン感じていることだろう。

だから何だというと困るのだが、国際競争力、みたいな問題がそれほど重大な問題に思えなくなってきたな、ということだ。もちろん円が強い方が今のぼくは助かるが、じゃあ円が高ければ未来安泰かというと、やはりそれは本質的な問題ではないのだった。

景気がいいときには本質的な問題が勢いの中にまぎれてしまったていただけなのだ。とりあえず金がじゃんじゃか入るし、欲しい物も買えてるし、みんな同じだし、まあいいか、てなことだろう。景気が悪くなって、問題が表面化しただけなのだ。

景気が超調子いいタイにいるからこそそう思うのかもしれない。まあでもたしかに景気はいいほうがいい、のは間違いないけどね。やっぱり人が明るくなるんじゃないかな、景気がいいほうが。でも景気とは一体なんなの?というのはじっくり考えてみないといけないと思う。

景気とは、ある意味、人びとが向かう方向性、欲しいもの、やりたいこと、がはっきりしていて、エネルギーを注いでいる状態を言うのかもしれない。その活気の総量だ。マネーとは実は関係がないのかもしれない。

次の日本の景気が浮上するのは、みんなが「まさか」と思っていた生活を自分たちが実現できると知ったときなのかもしれない。そこに向けてみんながエネルギーをそそぎ始めたら。「まさかできるとは思わなかった」そこにしか未来はない、とぼくは断言する。

その「まさか」は、もちろん豊かさに関することになるはずだが、その豊さとは、個人の絶対感に基づくものになるはずだ。もちろん絶対感だけではないだろうが、よりその度合いが増すだろう。絶対感をぶつけ合うところに調和が存在できうる、というコペルニクス的発見によって、僕たちはもう一度歓喜の中に入っていくのだろう。


2/14/2013

親子ライダー



タイ人アーティストシリーズ。

仮面ライダーみたいんだね。家族かな。母と父がお面をつけている。子どもはウインクしている。お面の下には顔が描かれているのだろうか。

ここのところ、翻訳の宿題を結構片付けることができた。少しずつ集中力が戻ってきたようだ。翻訳スランプは脱したのかもしれない。

ひとつの理由は、いままでなんとなく基礎理論なく翻訳を続けてきたことにあるのかもしれない。というか、翻訳に基礎があるとは考えていなかった。いや、翻訳というよりは日本語の文章そのものかもしれない。

とにかく、ある時から自分が書いた訳文を「読みずらい」と感じるようになった。でも直し方がわからなかった。1つのヒントはあった。とある編集さんが、文を簡潔にする作業が大変だとつぶやいていたのだ。

例えば、「行うことができます」を「行えます」にするだけでずいぶんリズムがよくなる。なるほど。たぶん文章術の基本事項なのかもしれない。意識していなかった。その目で自分の訳文を見ると、「xxすることができます」のオンパレードだった。汗がでた。

まず、それを改善することから始めて、なるべく簡潔な訳文を意識しはじめた。まだ始めたばかりで、それが成功しているとは言えない。が、思わぬ副産物があった。それは、とにもかくにも「指針」が生まれたことで、途方に暮れていたところにやる気が戻ってきたのだ。

それまでは、書き直しても書き直しても、改善しているのかすらわからない、状態が続いていたのだ。最後は勘で提出。

いまでも最後は勘なのだが、それでも最低ラインが生まれた。冗長な表現はとりあえず削ってあるはずなのだ。

そして、ああ、翻訳を仕事にしているくせに翻訳の本を読んでいなかっことに気づく。そして、アマゾンで翻訳術なる本を見つけて買ってみた。まだ読みとおしていないが、「なるべく英語の語順で訳す」など、指針となりそうなことがいろいろ書いてあった。

なんだか少しほっとした。指針が手に入りそうだ。少なくとも「改善」への道が開けた気がした。

日本語だと思ってなめてたな、、これが今の感想である。英語はいまやっているテック系やビジネス系ならまあ理解できる(背景がわかるからね)。あとは日本語力だ。日本語は母国語だ。しかも国語は得意だった。そんなこんなで、翻訳にもスキルがあることをそれほど意識していなかったのだ。

話ちょっと変わるけど、たまにGoogle翻訳に負けることがあります。。20勝1敗ぐらいだけど、たまにGoogle翻訳のほうがすっきりした良い訳文を出してくることがある。たいていは、そんな文章おかしいだろ、って感じだけど、たまに、スコーンといい文章あげてくる。Googleあなどれない。

たまには仕事のことも書いてみました。


2/13/2013

涅槃ロボット



タイ人のアートシリーズ。ロボットの絵。なんかいいですね! ロボットが宇宙の果てで涅槃に入るところです。みたいな。下にちらばっているのも全部ロボットだよ。かわいいね。

フランス人のふうらい画家君が、この人の絵が好きだと言った。へーと思ってじっくり見てみて、あ、おれも好きだな、と思うと同時に、なんか真似したみたいでいやだな、と思う。と同時に、でも少し通じ合えたみたいでうれしいね、とも思う。恋愛かっつーの。画家君は男です。

絵を連続で見て行くという行為は、どこか心の琴線試しみたいなところがあって、自分がどの絵を気に入り、どの絵を気に入らないか、自分でも見てみるまでわからないし、へーこういうのが好きなんだって驚く事もあった。

不思議なこともあった。ある小さな男の子を一生懸命描いてるタイ人の若い画家がした。夜の10時くらいなのにせっせと描いていた。そいつの腕には入れ墨があって、よれよれのきたいないTシャツを着ていて、がりがりだった。

街であったら、眼中にも入らない。つまり、あまりに接点がなさそうな奴だった。ちょっと怖いような感じね。でも、そいつが絵の前にしゃがみこんで、せっせと絵の具を塗込んでいる。ブランコに乗った男の子だ。さびしいトーンだ。閉じ込められた世界にある永遠の公園、という感じの絵だった。

へーお前こんな絵かくんだ。なんでこんな絵かくんだろう? 話を聞いてみたい気もした。やはり絵とはなんらかその人の中の風景を描きだすものだと思うし、そんなムードが彼の中にある、ということだ。それってどんな感じ? まあ絵をみてくれればいいよ、ということだろうけどね。なんかそういうギャップが面白いな、と思う。

五味太郎さんは、美術館を早歩きでさささっと回るそうだ。自分が見るべき絵は向こうから語りかけてくる、みたいなことを言っていた。早歩きで十分なんだと。

バンコクの美術館でも回ってみようかな、と思う。美術館というより現代の作家の絵を見たい。今を生きている人の絵がみたい。そんな風に思ったのは始めてだ。タイ人の描いた絵が、思いのほか自分好みなのが多かったからかもしれない。歴史の残った名画ばかりが僕に「効果」を及ぼすわけではないはずだ。

以前、走馬灯の正体を教えてあげたが、今度はテレパシーの正体を教えてあげたいと思う。と思ったけど上手く書けなかった。まあ、わかると思うけど、受信機の問題で、すでに受け取ってるメッセージをゆがめなければそれがテレパシーになる。人間、いろいろ期待をするからどーしてもメッセージをゆがめて認知してしまうのだ。すでに受け取っているメッセージをそのまま感受できれば、人間の感情や頭の中なんて筒抜けでわかるだろう。

まあ思いつきだけど。あのロボットは、あの絵のロボットね。彼は、きっとわかりすぎてつらくなったから、ロボット涅槃に入りにいったんだろう。ロボットこそがテレパシー使いにもってこいだ。

なんのこっちゃあ、だな。今夜中だからさ。こんな感じ。


カズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」のボディーブローが今頃効いてくるのを感じていた。読んだのはもう、4ヶ月前だ。いま、久しぶりに本を手に取ると、中は読んでないけど差し込むような痛みが。ボディーブローだ。

この本にも、テレパシー問題、いや、走馬灯問題なのか、が描かれていたのを思い出すからだ。期待が希望と作り出し、希望が情熱をねつ造する。それは確かに本物の情熱なのだが、どこか作り物だった。偽物の希望につき動かされて、主人公は半生を生きた。社会で活躍した。いつから?それが僕の疑問符だ。君はいつから気づいていたんだい? もしかすると、最後まで気づいていなかったのかもしれない。でも、きっとどこかでは予感が始まっていたはずだ。真実の予感が。表面的には、ある意味では、彼は偽物の人生を生きた。自ら作り上げた。でもそれは、結論的に偽りだっただけで、個別の断片的時間には、本物のときもいくらかは存在したはずだ。いや、たぶんもっと多くだ。

そこで次の問いが生まれる。果たしてそれではダメなのか?と。

ゲーテは死の間際に「もっと光を」と言ったとされている。カーテンを開けてくれと頼んだという。それは、なにやら詩人らしい最後のことばにも思えるし、ある人が言うには、それはある種の挫折を表しているそうだ。最後の最後になって自らの人生を挫折と知ったのかもしれない。だが、たとえそうだとしても、それではいけないのか、と問うことはまだできる。

「今を生きる」という言葉があるが、今を生きてしまっている、が正しいのではないか。なにがどうあろうと、あなたは生きてしまっているし、自分の中の時を止めることすら失敗しつづけている。眼をとじ耳を塞ごうと感受性は記憶しつづける。あなたにできることはそうは多くはないのだよ。いや、むしろ逆なのかもしれない。できることが多すぎてつらくなっちゃうくらいなのかもしれない。いったい何の話なのか。

遅れてきたっていいじゃない。はるか上空に舞い上がってふわふわと追いつけないできたあの日別れた分身が、遅れてきたっていいじゃないか。いま、あなたは、重ならなかった人生の、いや、重ならなかったという強烈な出会い方をしたあの女の手紙を読みながら、遅れてきた自分におかえりを言っているんだろう。そしてまたすぐ忘れてしまうんだろう。そうだ、君には愛する娘がいるからね。ジェニファーがね。

ちょっと主人公にうまいこと言ってみた。うまくもないか。なんだかわからなけど、なんか少しなぐさめてみたくなるのが、カズオイシグロの作り出す主人公なわけで、どこか知ってる人の感じがするのが、カズオイシグロの主人公なわけでね。

そんなこんなしてたら、iTunesから斉藤和義が流れてきて、空気を一気に消し去ってしまったので、ここで終わりにしまーす。




2/10/2013

影のところ注目!



影のところ注目!

最近ちぐはぐだ。最近でもないけど。ずっとだけど。重い重い腰をあげようとしたムエタイに行く予定が諸事情でキャンセルになって、逆にとくに乗り気でもなかったのに朝方まで酒飲んじゃったりして。なにやってんだろーって。時間もお金も使い方間違いまくりで。頭ではわかっている正しいことに一歩進まないこのジレンマ。というか怠け心よ。自分に失望する日々です。

律する心の弱さよ。ちくしょう。なんか腹立ってくる。くそー。

バンコクに波乗りできる海があればなあ。うまくいかねーもんだなあ。バリ島にもっと人がいてコワーキングスペースがあればなあ、、、オーストラリアやハワイの物価が半分だったらなあ、、なんて言っててもしょうがないんだけど。

タイ語を覚える気もすっかり失せた。だって英語で十分だもんね。というよりもっと英語スムーズにならないと。今日もオフィスのメンバーと4人くらいでコーヒー飲みにいったけど、おれだけ会話ついてけてないもんなー。タイ人だってついてけてるのに。なんだかなあ。

前向きな事言わないと、せっかくブログだから。

あーhideみたいなかっこうして歩いてみてーなー。真っ赤な髪して。今日はずっとhideを聞いてたよ。かっこいいよねー。好きだなー。かわいいし。

最近コーヒーがおいしい小さなカフェが家の近くにできた。なんとなく通ってる。豆がいいみたいね。そこでジャパニーズのビーフボールってのがあったから注文したら、ごはんがべちゃっとしてた。。そっちは得意じゃないみたいね、というか日本人が監修してないのかな。

うまいコーヒーがあれば、とりあえず朝を始めることができる。これはまじで。いいことか悪いことか知らないけど、朝ベッドの中でうだうだしてるときに、起き上がるきっかけを見失ってるときに、よし!おいしいコーヒーのみに行こう!と思うとさっと立ち上がれる。

HARRY GO ROUND聞いてるぞー。いま。かわいいいな、かわいいな。

ガンダム、hide、卵かけごはん。その共通点は。外国の連中にわからないなら、それでいいぜ、ということ。おれらだけで愛でてるからそれでいいぜ、100年遅れてこいや、ってこと。

なんの話だか。

また春に会いましょう、ってことだからね。



追記:
冒頭の絵の全体像載せ忘れた。これはバンコクのギャラリーで見たタイ人アーティストの絵です。



2/09/2013

大人の世界



チャオプラヤー川のほとりの下町。なんとなく昭和。狭い路地にこどもがいっぱい。駄菓子屋におばちゃんが鎮座。なつかしい気持ちになる。

バンコクの下町に引っ越したい気持ちにもなった。オフィスに通うのに1時間かかる。ちょっと現実的じゃないな。でもただ滞在するなら、下町のほうが楽しそうだ。物価もさらに安いそうだ。

昭和といえば、花柄のポットだ。象印だ。あのころは、花柄プリントのキッチン用品であふれていた。家具調コタツもあった。家具調とは何だ? 家具のような風合いの、という意味だろう。コタツはそもそも家具じゃないのか。つまりは、木の木目が印刷してあるピラスチック合板だったのだろう。それを木製の家具のように見て使ってね、という不思議な打ち出しだったのだ。

家具調のTVもあった。木目が入っていた。覚えている。家具調の車まであった。木目っぽいペインティングがほどこされていた。あれはいったいなんだったのだろうか。

「文化住宅」というのもある。ぼくは文化住宅の由来を聞いたとき、びっくりした。文化住宅とは、僕の中では、ちょっと家賃が安い木造2階建てくらいの古いアパート、という意味になる。高層マンションもいいけど文化住宅も味があるぜ、という感じで使う。

しかし、もともと文化住宅とは、文化的な生活を送れる住宅、という意味であり、庶民の、若い夫婦の憧れの的だったという。田舎の農家から出て来て、都会の文化住宅に住むのがステータスだった時代があった。それもまた昭和の一側面だ。

で、なんだっけ。

なんとなく、「言葉」やネーミングのおかしさ、とか、庶民はイメージを生きるんだ、とか、なんとかいう方面を書こうと思ったが、その気がなくなってしまったよ。

そして、いま、タイトルを「大人の世界」に決めた。
いま、思い出していた。神戸は三宮にあったお好み焼きやのことを。
おばあちゃんが1人でやっていて、深夜まで開いていて、何十年も使っている鉄板が油が盛り上がってでこぼこになっていて、でも、そこのお好み焼きが一番おいしいことを誰もが知っていて、それでいてすごく安くて、そばめしもあって、深夜族たちにこよなく愛されていたお好み焼きやのことを。

ぼくはそのころ、水商売のはしっこみたいなところでアルバイトしていて、そのお好み焼き屋には本格的な水商売のおねーちゃんやお兄さんたちが仕事空けに空腹を満たしにやってくるところで、なんとなく、わくわくしたものだ。

20そこそこの僕にとって、神戸三宮の夜の世界は「大人の世界」で、ちょっと背伸びしてはじっこにひっかかっておきたい、ちょっとした憧れの、未知の世界の、ドキドキさせてくれる入り口のような感じだった。夜の先輩たちに連れられて遊んでいることが誇らしかったりした。

そして、さらにさかのぼると、僕は覚えているのは、小学6年生くらいのとき、親戚のお兄ちゃんがよく車で僕の家にきていた。大学生だった。そして、夏休みになったら、友達同士で車で海へ行くと言っていた。

僕は、夏、家族や親戚一同で海へいった。海へと走る高速道路で、窓から山がちな景色を眺めながら、海の予感にわくわくしながら、窓から走り去る緑を目で追いながら、今頃、あのお兄ちゃんは友達と海へいっているのだろうか、と思った。そして、僕も大学生になったら、車で、自分たちだけで、男女混合とかで、海へ行くのかなあ、と思ったら、現実感のないわくわく感が襲ってきた。

そんな日がいつか来るとは到底思えない。小6と大学生ではあまりにも距離があった。僕もいつか親とじゃなくて、自分たちだけで、海へ。まさか、でも、普通だ。きっとそうなる。普通にそうなる。そう思ったらにわかにドキドキとしてきた。無視しておきたいくらいにドキドキしていた。

というように、大人の世界へ入る予感、その入り口にいるんだという臨場感、そういうものがかつてあった。

いま思う。大人の世界を欲している。自分が大人になったら、まわりに大人がいなくなってしまった。

いや、本当は今でも大人はいて、大人の世界は僕を待っているのかもしれない。ただ、かつてのように、ただ月日がたつだけで、彼らと同じになる、なってしまう、という人生に押し出されていく、生物として成長させられていく、というあの感覚だけはもう戻ってこないのかもしれない。それが生物的に子どもと大人の分かれ目なのかもしれない。

ああ、大人たちよ、ぼくもあなたたちの世界へ仲間いりする未来がくるのでしょうか。大人たちよ!

なんてことを書いている今聞いている曲はビックポルノの「キングタイマー」です。




2/07/2013

遊びのルール

こんな事を思い出していた。
小学生のとき、地面に足をつかない、という遊びをよくやっていた。あれは小学1年から6年までの親友、水野くんとの思い出だと思う。

地面につかないとは、つまり、石の上でも、ガードレールでもなんでもいいんだけど、とにかく少しでも地面より高くなっている何かの上を移動すること、というルールだ。

このルール1つで、家の周りがサバイバルの地と化す。大きな家のコンクリの塀を、数センチのわずかなでっぱりに足をかけながら、横へ横へと移動していくこともある。すっかり夕方だ。

それで半日は遊べた。なにが言いたいかというと、あの頃は自分たちで遊びを作り出していたんだな、ということだ。たった1つ、地面に足をついたら死亡ね、と言うだけで、めちゃ真剣に何時間も遊べた。つまりは半分くらいそんな気になって遊べたのだ。本当に地面に足をついたら、爆発する。そんな気持ちをお互いの中で高めて、若干張りつめた顔で、最初の壁にとりつくのだ。

公園でやったこともある。ブランコからシーソー、鉄棒から木の上へと、なんとか石の上などつたいながら、たまにどうしてもダメなときは3秒以内ならセーフなるルールを勝手に作り出しながら、ふたりっきりで永遠に遊んだ。

退屈するということがなかった。気にするのはもっぱら、あまり遅くなると親に怒られる、ということだったり、水浸しの服で帰ると親に怒られるということだったりした。つまりは、遊びを永遠と続けることができた。際限なく思いつくことができた。

いや、もしからしたら誇張や美化をしているのかもしれない。あの頃だってみんなで退屈して、おい何するー、何するー、と言いながら、誰もいいことが思いつかずにひたすらだらだらしていたり、つまんないから早く帰りたいな、とか思っていた日もあったにちがいのだ。とはいえ、いかなる環境でも遊びを作り出せた日々があった、という事実は否めないだろう。

振り返って、大人になった僕はよく退屈してしまう。時間があっても何もしたくないから寝ていよう、と思うことも多い。友達といても、別に話すこともないし、君とやりたい遊びもない、と思うこともなる。何が変わったのだろうか。ファンタジーを作る力が減ったのだろうか。

なんだか少しさみしいのだ。おい、何して遊ぶ? 会うなり顔つき合わせて、結局は何をしたって没頭してしまったあの頃がなつかしいのだ。

おい、みんなどういう気分で生きてるんだ? かつての同級生たちに聞いてみたいような、聞いてみたくないような気がする。モラトリアムというには長過ぎる時間をもう過ごしてしまった。空き地はあるのだが、遊びを思いつけない午後3時30分。まだ日が暮れるまでは時間がある。でも、何かをするなら今から始めないと楽しめない。でも、気がつけば空き地に一人で立っている。そんな風景が見えているのだ。

さみしーことを書いてしまった。感傷だ。

おかしなもので、一声かける相手はすぐとなりにもいるし、向こうにもたくさんいる。でも僕は、今から、ひとりでUCCコーヒーに行ってコーヒーを飲みたいのだ。そしてブログを更新したいのだった。さみしーのが好きなのかもしれないね。



手紙が届く

手紙が届くときの気持ちを忘れてしまった。

かつて、手紙をもらったのはいつだったか。絵はがきなら2、3もらったし、2、3出したりする。しかし手紙は。

切手を貼って封をして、手紙を出したのはいつだっかた。しかし、便せんを買いにいくのが好きだったのを覚えている。小学生のときだ。便せんと封筒のレターセットをいっしょうけんめい選んだ。

赤と青とストライプのついている、エアメール用の封筒があって、いつかこれを空の向こうのだれかに送ることがあるのだろうか、とふわっと考えた気がする。

僕はある時期から年賀状廃止論者になった。義理のように慌てて書きなぐるはがき、もらったら出さなくや、出したらもらわなきゃ、の気持ちになるのが嫌いだったのかもしれない。たんに「あけましておめでとう!今年もよろしく」ばかりを20枚も30枚もかくのがめんどうだったのかもしれない。

干支のマークを考えるのもめんどうだった。でも、母親宛に毎年送られて来る、きれいな重ね刷りですられたカラフルな年賀状を見るのが楽しみだった。それは母の昔の同級生かなにかで、すっかり年賀状だけの付き合いになってはいたようだが、それでも毎年、いろとりどりの刷り物を送ってくれていた。

年賀状をさぼり始めたせいで、連絡がつかなくなってしまった旧友も何人かいる。ぼくから年賀ループを断ち切ってしまった。少し後悔しているが、いまではFacebookのおかげでまた探し出すことが可能になった。それはうれしいことだ。


届かない手紙こそが手紙だということもある。
いや、届くのだ。たしかに届くのだが、それは、大きな手紙として届くのであって、紙にかかれた文字の列として届くのではないこともある。

お正月、バンコクで友達になった人たちと書き初め大会をした。ぼくは「手紙」と書いた。意味はわからなかった。あ、いま、少しわかった気がした。手紙とは、宛先があるものだ。そろそろ僕も宛先を書く年齢になったということなのかもしれない。

そういえば面白いことがあって、僕は絵はがきを書く時、宛先は最後に書くのだが、うっかり宛先を書きそびれた絵はがきは、数日でしなびてしまう。つまり、数日たつと、出す気がなくなってしまうのだ。そんなかわいそうな絵はがきたちが何枚もゴミ箱に消えた。

その日のうちに、宛先を書かれた絵はがきだけが、ポストへ投函されることになる。まあそれはただ、こんなくだらない雑事をわざわざ書き送る意味があるのだろうか?という疑問と戦うときに、宛先が未記入の絵はがきは、はなはだ弱い、というだけのことなのかもしれない。宛先が書かれてた絵はがきは、それはすでに手を離れたもので、あとはポストに投函されるのだが、それは、もはや手紙を書いたときの僕とはちがう僕が実行を任せられたタスクなのだ。それはただのタスクであり、ただ、郵便局まで歩き、ポストに投函するだけの仕事なのだった。

そんな手紙を意識しだした僕なのだが、絵はがきの裏に自分の住所を書かなくなった。バリ島にいるときは、郵便物が届かないことがあったからで、送ってもらっても届かないとわるいな、と気になる。また、いつでも気が向いたら引っ越ししようと思いながら生活しているので、来月同じ場所にいるかわからないからだ。出してもらった手紙を受け取れないことほどさみしものはないし、送り主から、届きましたか?と聞かれるのも無粋なことだ。と書きながら、でもなんだかんだいって今の部屋に半年は住みそうだな、と思って、なんだかばかみたいだな、と思う。


なんとなく今、書こうとしたことに近づけていないのを感じている。
ぼくが書きたかったのは大きな手紙のことだ。大きな手紙が届いたから、何度も読み返したけど、返事が書けずにいる、ということについて書きたかったのだ。

そして、直接手渡された手紙よりも、人を介して手渡された手紙のほうがうれしかったりするのはなぜだろうと考えたりしています。

まあすごく簡単にいえば、今、眠いのです。
今日は少し早起きの用事があったので、目覚ましで無理に起きたから、もう、脳が回転をやめたがっている。でもそんなときは、ブログなどを書くのに絶好のときなのであって、つまり、なんとなく、無責任な気持ちになれるタイムだったり、言葉がすべりやすいタイムだったりするのでしょう。

いったんおわる。





2/05/2013

もう少し書く


久しぶりなのでもう少し書いてみよう。

4月18日の羽田行きのチケットを買ったことによって、にわかにジャパンが近くなった。とはいえ、その頃はタイのお正月らしくめぼしいチケットは売り切れ。非常に便利の悪いチケットしか残っていなかった。たぶん到着は深夜、空港で夜明かしになるだろう。うっかりしていた。

タイの面白いところは、よくタイ人に間違えられることだ。この前も、公園でベルギー人と遊んでいたら、タイの学生グループが声をかけてきて、英語の課題でインタビューさせてほしい、と言う。そう、ベルギーくんに話しかけたあと、僕に向かってタイ語でなにかぺらぺらっと言った。ということなんでお友達をお借りしますね、という感じだろう。僕はいちいち僕だって外国人で英語も話しますよ、と言うのもおっくうなので、にっこり笑ってうなずいておいた。

タイには中華系がいるし、ミックスもいるので、アジア人ならほとんどタイ人と言っても通用してしまうだろう。服装だってみんなおしゃれで日本と変わらない。みんなiPhoneもってるし、iPadだって持ってるし、もう日本人を見分けるのは僕だって困難なくらいだ。

ということはつまり、ほぼ街に埋没してしまうことになる。あ、外人がいる、という目線では見られない。どっちかな?的な目線はときどきあるが、結構な確率でタイ語で話しかけられてしまう。最初は喜ばしかったが、外国人と話したい、というタイ人には逆に興味を持ってもらえないこともある。

まあどうでもいい話。あ、でもこうして外国にいるのに埋没してしまうというのはどこか居心地がいいものだ。これと同じことはニューヨークでも感じた。
数年前ニューヨークに行ったときは僕はまだ外国慣れしてなくて、どっからみても日本から来た日本人に見えたと思うが、人種の多様さがそれを凌駕した。いろんなところで道を聞かれたりした。おいおい、おれに道聞いてどーすんだよ!と不思議だったが、たぶん道を聞く人も観光客、アジア系も多いし、お互い見分けがつくわけはないのだ。

日本もそんなんになると面白い。街を歩くと、日本人の顔をしたけど外国人とか、完全なる帰国子女とか、日本のノリが通じない人がいっぱい歩いていたら、なんとなく自由な感じになるのにな、と思う。それが「いい社会」になっているかはまた別だけど、たぶん大丈夫だだろう。そんな気がする。もちろん外国人の顔をした外人がたくさんいるのもいいことなのだが、それだと日本人は甘えてしまう。

あいつらは外人だからということで外人モードに切り替えてしまうのだ。つまりは楽をするのだ。外人にどんな失礼を言われたって平気。年下にため口きかれたってかわいいものだ。だって外人なんだから。でも完全に日本人の顔したやつに日本語で話しかけたら、いまいち通じなかったり、完全に年下なのにため口でばばばっと言われたら、むっとするだろう。そして、当然のようにむっとした態度を見せた後で、相手が実は外国人だとわかったら。。恥をかくにはこっちだ。でも、生理的にはむっとしてしまう。そのはざまで苦しむがいいさ。

と書きながら、それはなんか疲れるなあ、などとも思う。いちいち、こいつはどっちだ?って気にしながら話しかけるのも大変だ。

またどーでもいい話を書いてしまったようだ。

どーでもいい話ばかりを書くのは、自分にとって今大事なことってやっぱりなかなか言葉にならないからだ。書いては消す、消しては書く、で、やっぱり消す、ということになる。

そういうものなのだろう。

このまえ久しぶりに紀伊国屋にいって、日本語の本を物色してみた。1.5倍するから買う気は失せてるんだけど、話題の本など立ち読みする。いろいろ見た結果、一番読みたかったのは椎名誠の新刊エッセイだった。「岳物語」の孫バージョン、みたいに帯に書いてあった。椎名誠にも孫だできたのだ。

僕は実は一番良く読むのは「新書」というか、何か誰かが社会についてもの申しているような本をよく読んでいたのだが、そのときはそーした本を手にとってぱらぱらしたとき、なんだかイヤーな気持ちになった。

社会学者たちの著書たちだ。普段なら大好物なのだが、なんだか、嫌だね、という気分になってすぐ放り出してしまった。

椎名誠の本は、冒頭、しきりに一人称の呼び名について悩むことから始まる。この本をどの一人称で始めればいいか。僕というほど若くないぞ、私などと言うのもたいそうだ、俺が一番しっくりくるのだが今回はなんか違うぞ、わしも使い易いのだがやっぱり違うな、そこで椎名誠はおもぬろに宣言する。「読者たちよ!! 今回は”私”でいくぞ!」と。(記憶がたしかならね。)

おーーと拍手したくなる。うれしい気持ちになる。ぼくは読者たちのひとりなのだ。いまたしかに語りかけられたし、これからもそれが続くのだ。

今思えば買えばよかったなあの本。。そのときは知人のプレゼントを買いにいったので、自分用の本は買わないと決めてしまっていたのだ。

そしてずっと図鑑のコーナーをうろついていた。そして学研の動物図鑑を手に取ったら、ふとある記憶がよみがえった。それは、子どものころぼろぼろになるまで読んでいた動物図鑑にあったアライグマの解説文だ。いろいろ説明が書いてあって最後のしめくくりに、「うっかり近づくとなかば引きずりこまれる。」みたいな文がスパッっと書いてあったのだ。なかば引きずりこまれる?? こどもの僕は「なかば」の意味がわからず悩んだ。しかし、なにやら恐ろしい事が書いてあるのは間違いないようだった。アライグマが爪をがっとのばして僕を穴蔵に引きずり込む映像が繰り返し浮かんだ。それがいわばプチトラウマになった。そのイメージを浮かべては、アライグマ怖え〜と武者震いしていた。よく見ればイラストもどこか凶暴そうに書いてあった。

で、あれは今でもあれなのか!とアライグマを探してみたが、その解説文はなく、当たり障りのないことが書いてあるだけだった。あれはぼくの記憶違いなのだろうか。。

てなことを思い出したり、僕がバリ島でめっちゃ好んで食べていた「バターフィッシュ」なる魚のお姿をはじめて図鑑で拝見したりしながら、うーん図鑑ってやっぱり面白い、とうなっていた。だからプレゼントに図鑑を買った。

図鑑も絵本も、こどもからこどもへと受け継がれていくものだ。紙も丈夫だし。だから図鑑や絵本は普通の本とはちょっと違うのだ。紙の本は自分の興味のため、知識欲のため、そのときの気分で買ったりする。勉強用だとしても、まあ自分用だ。
でも図鑑や絵本は、買うときから未来が少し顔をだしている。図鑑や絵本はきっと、親戚や近所や自分のガキに手渡され、ぼろぼろにされる未来を予見している。それが図鑑の運命だ。

時にはラジコンカーのジャンプ台にされ、ときには昼寝の枕になり、ときには兄弟げんかの武器になりながら、踏みつけにされ、繰り返し開かれ、とじ糸がほつれて飛び出すころには、すっかり飽きられ見向きもされなくなる。成熟したのだ。もはやゲームやワンピースのほうがずっとずっと面白いというわけだ。

でもまた、どこかの小さなこどもが動物図鑑を見つけ、開き、指をさす。キリンさん!











ジャグリング


先週末は珍しく予定がいっぱいだった。ほんとに珍しいんだけど。

金曜は、帽子屋さんとフランスの風来画家と一緒にバンコクのアートギャラリーを見学に行ってきた。20組くらいのアーティストがアトリエ兼展示ブースを借りて、おのおののアートにふけっていた。素人目に見てもレベルが高い。

ぶらぶら見てあるくうちにあることに気づく。たいていの画家が、同じものの絵をたくさん書いていることだ。同じキャラクター、同じ人物、同じモチーフ。そういえば奈良美智とかもそうだったなあ。

僕は絵を描かないのでわからないが、何か同じキャラを繰り返し書く必然性があるのだろう。なんか不思議だな、と思う。例えば書く事に置き換えるとどうなるのだろう。同じテーマについてたくさん書く?なんとなく違うきもする。

フランス人の風来画家は日本にもよく行くそうで、日本のインディーズミュージシャンの曲をたくさんiPhoneに入れていて、タクシーの中で聞かせてくれた。いろんな国のイベントに呼ばれて渡り歩く日々だそうだ。なんだかいいなあ、それ、と思う。

土曜日は、ラオス行きと帰りの電車で偶然一緒になった友達と久々に遊んだ。彼の住む場所まで行ってきた。チャオプラヤ側のすぐ近くだ。僕が住む地域とちがってかなりローカルで車も少ない。路地で写真を撮っていたら子どもたちがピースした。

公園でジャグリングを教えてもらった。彼はとっても上手だ。3ボールに挑戦するももちろんすぐにできるわけではない。でも普段使わない脳を使った気がして疲れたけど楽しかった。彼の彼女と待ち合わせて近くのカフェへ。

お前はプールをやるか?聞かれる。いやー水着もってないよ〜と不思議に尋ねると、いやいやこっちだよ、とビリヤードを突くまねをした。
3人でビリヤードをした。タイ式のビリヤードは日本のナインボールとはちがって、玉を15個つかう。もう何年かぶりだったのに、生涯で一番いいぐらいの出来だった。不思議。ビリヤードてスキルじゃないのかな。精神状態により大きく左右されるのかもしれない。とてもリラックスした時間だった。

日曜日は、知り合いの誕生パーティーに呼ばれて料亭へ。プレゼントを買っていこうと昼前からデパートに出かけたが、何を買えばいいのかわからず、5時間も徘徊してしまう。人のプレゼントは鬼門だ。自分ならこの予算で何を買うかな?と自問するが、ポロシャツがもう1枚必要だ、とか、パンツを買い替えたい、とか、日本語の本を何冊か買うぞ、とか、実用的なものしか浮かんでこなかった。

本も服も人にあげるには難しいものだ。結局、さんざん迷ったあげく、図鑑を購入。めったに自分で買うもんじゃないから、まあ暇つぶしになるしいいかな、と思う。

そして、会場につき、気がついたら徹底的に酔っぱらっていた。焼酎をがぶ飲みしたらしい。酔っぱらいついでに酔っぱらい占いと称して、同じテーブルにいた全員にあることないこと放言してきた。何人かは気分を害し、何人かは感心してくれた。またやっちまった。。まあ暴れたりするよりはずっといいでしょ、と自分をなぐさめつつとぼとぼ徒歩で帰った。

ジャグリングを続けるように、毎日3分間やるように、という言いつけを今日も守った。







1/31/2013

誰も帰ってこいと言わない問題

ちょっとまたスランプしていました。今日あたりから復活。おれは習慣の力をなめてるんだな、という感想。最近、ライフハッカーでも「良い習慣をつくる」的な記事が増えている。アメリカでもみんな習慣作りに苦労しているのだろう。

会社勤めにはいろいろメリットがある。まず、習慣がつくれること。とりあえずよっぽどのことがない限り決まった時間に会社に行く。前日に飲み過ぎても、どうも不眠症が続いていたとしても、よっぽど体調が悪くない限り、オフィスへ足を運ぶことになる。

よくも悪くも生活が規則正しくなっているのだ。人間とは弱いもので、というか俺は弱い人間で、強制されないとひたすらダラダラしてしまう。そしてそのことがまたネガティブな思考を生む。負の連鎖だ。ダイエットやエクササイズがなかなか続かないような感じだ。

ついダラダラしてしまう。だからたいした量の仕事をしていないのに、いつも仕事に追われている感じになる。やばい、そろそろ提出しなくちゃ、という「締め切り感」だけが俺を管理しているのだ。これではジリ貧だ。

とはいえ、直接の知り合いではいないが、聞くところによるとおもに夜中に仕事をしている人たちもいる。彼らは自分専用のオフィスを持っていて、好きな時間に好きなだけ仕事をするようだ。僕がウォッチしている五味太郎氏も夜中派らしい。朝日が出てから眠るそうだ。夜の方が集中できるのだろう。

でも僕の場合、夜に集中できる環境がない。自宅ではどうもだめだ。そうなると、やはり朝方とはいかなくても昼型くらいでがんばっとかないといけない。あと夜型になると孤独感がはんぱなくなるのも痛いところだ。

まあ永遠の課題なのだが、今すぐどうこうなりそうもない。思えば朝に強い時期など人生で一度もなかったのだ。いつも眠かった。

まあそんなこともありつつ。でも意志の強さでなんとかする、みたいなモデルはどうも難しい。なんとか意志の力を使わずにものごとを整えていく、っていうのが今後の主流になるだろう。

たとえば、失業率の問題があるとする。日本で失業率があがっている、としたらそれは、ある必然があるのかもしれない。例えば、日本は物質的、社会資本的に十分に豊かになったので、つまり、効率がかなりよくなったので、みんながみんな働かなくても社会が回っちゃうようになった、のかもしれない。

そこに意志の問題を導入して、探せばある、だの、今の若者は、だの、老害だ、だの言っていても始まらないのかもしれない。つまり、誰かの意識を変えろ、という問題にしてしまっては。

そうではなく、単純に「社会」のサイズを変えるだけでいいのかもしれない。社会のサイズが大きくなると、仕事にあぶれる人が増える、というのが人間のつくるシステムの法則なのかもしれない。

ならば、道州制でも、経済ブロックでもなんでもいいから、結ぶ付きの強い社会のユニットサイズを今の半分にしてみる。それだけで、世の中に「仕事」が増えるかもしれない。

一時的には社会の効率が落ちるかもしれない。市町村合併と逆のことをするのだから。でも、社会を効率化したあげくに失業者が増え、効率化から受ける恩恵よりも、失業などの痛手のほうが大きいようでは元も子もない。つまり、社会が効率化したので、一部の人は遊んで暮らしててもいいですよ、とはなかなかならないのが人間社会だ。

ちょっと何の統計データも調べずに書いているので大間違いを言ってるのかもしれないが、なんとなく、そういう、横から攻める、みたいな解決方法こそが有効な気がするのだ。

具体的にどうするか、はなかなか言えないけど、「意識」や「意志」の問題にしているうちは何事も解決しねーだろうーなー、という漠然とした予感がある。

それを自分にもあてはめると、なにか自分の習慣や意識を変えたいなら環境をいじるのがよさそうだ、となるわけ。

なんか長くなっちゃった。

というか、最近、ふと、このまま翻訳とかそっち系の仕事していくなら、東京に帰った方がいいのかな、と思いはじめてて、それとなく何人かにこぼしてみたところ、みんな見事に、帰ってこなくていいよ、的なことを言う。まあ、そうだね。。おれもそう思う。なんとか、海外に居ながらサバイバル道をもう少し探ってみようと思い直す。

そんな日々。はあ〜。なかなか、なかなか。








1/24/2013

帽子屋さんカフェ



今朝起きるとき、なにかさみしげな夢を見たようで、起きてからしばらくベッドから動きたくなかった(昨日は流星の夢をみて超きれいだったんだけど)。

でも、とりあえず今日も元気じゃないか、と気合いを入れてシャワーを浴びる。タイのシャワールームは簡素だ。換気扇もないし、シャワーとトイレが本当にいっしょくたになっていて、シャワーを浴びれば便器も水びたしだ。というかシャワーのついでに水洗いしちゃうぞ、という手軽さである。

どれもこれもタイの気候のおかげだ。つまり、冬がないので、シャワールームの窓なんて開けっ放しでいいし、床だってそのうち乾いている。暮らすのがイージーな土地だ。日本なんて、ご先祖よくがんばったな、あんな夏熱くて冬寒い土地で、と思う。梅雨も台風もある。でもそのおかげで、あれほど繊細でバラエティー豊かな文化が育まれたのだと思う。

そして朝の瞑想を執り行う。前にも書いたが、iPhoneのおかげですっかり習慣になった。手軽に時間を計測できるというだけのことで、習慣が1つ成り立つのだ。意志の問題ではなかった。

そして、オフィスへ向かう途中でいつものようにご飯を食べて行こうとするが、今日はなんだかどこもま満杯。お昼時間とガチンコ合ってしまったようだ。んーーと迷うも、並ぶのもいやなので、そのまま帽子屋さんへ行ってみた。

昨日行った帽子屋さんだ。コーヒーがお目当てだ。帽子屋さんは外のテラスでランチを終えたところだと言う。もうランチは食べられましたか?と聞くので、まだです、と答えると、試作中のサンドイッチをいかがですか?と言う。ぜひぜひ、ということでちょうどよい感じになった。

帽子屋さんの話がおもしろすぎて、2時間くらい居座る。コーヒーのおかわりもごちそうになった。ものすごくかいつまんでいうと、帽子屋さんはタイや日本だけのマーケットだけを考えているのではないという。日本人がタイで帽子をつくってほかの国に売ったっていいはずだ、と言う。中国や台湾華僑やユダヤ人はみんなそうやってるぞ、と。

たしかに。なんかそれを聞いた瞬間にアドレナリンが少し出た。おっとそういう発想なかったね、俺。スケールでかいね、帽子屋さん。そのほかにも、タイの格差社会の仕組み、日本の「常識」のおかしさ、ビジネス成功者のアンテナの張り方、などなどたくさんのお話を聞く。

最後に年齢を交換したら、わりと年下だったので、まあ見た目からわかっていたけど、うっっとなる。お若いのにご立派。おれなんておれなんて。。うう。。でも、面白いからまた来ます、ということで席を立つ。


いろいろ新しいことを聞き過ぎて、あたまがぼやーんとしているけど、ひとつだけ書くと、タイの社会システムについて、んーどう考えればいいんだろう、と、なった話。

タイは、超格差社会らしい。王族と官僚、一部のお金持ちが富の大半をぎゅうじっていて、それは親から子へとひたすら受け継がれるそうだ。相続税もなく、所得税もとても低いそうだ。ある意味、一部の上流階級が庶民から富を吸い上げているとも言える。でも、庶民はひたすら王族を愛し尊敬し、王族は庶民のためにそれなりのインフラと社会保障を整備している。

だから、庶民が庶民として生きていく限りは、それほど困らない。通常医療もほとんど無料らしいし、学校だって行ける。ただ、階層を移動することは非常に難しい。貧乏な家に生まれた人が、お金持ちになるのは難しいらしいのだ。日本などよりはずっと。

でも、それはそれで社会は安定している。国民は各階層に分かれて、おのおのの生活を謳歌している。微笑みながら暮らしている。ぼくもタイの印象はとにかく「明るく平和」な国だなあ、というものだ。

でも、この仕組みを日本に持ってって、階層社会つくって安定させて、それぞれの階層でそこそこ楽しく生きていきましょう、と言ったらみんな納得するだろうか。しないだろう。平等への志向がずいぶん強いのが日本の特徴のようだ。そういうことも、アジアで暮らしていると見えてくる。日本での実感とは逆というか、世界から見たら日本はまだまだ平等社会なのだという事実。まあどこと比べるかによるけどね。北欧なんかはもっと平等度が高いのだろう。

幸せってなんだかよくわからないな、って思い始めてしまった。格差社会と知っても、タイってみんな(日本より)幸せそうな顔してるよなあ、っていう体感はやはり変わらないのだ。

でも、僕の周りのタイ人は比較的裕福な人たちばかりだからかもしれない。知らないうちに金持ち階層とだけつき合ってるのだろう。英語が話せるというだけでそれは上流階級なのだ、たぶんこの国では。だから、中流以下の人とは友達になりにくいのだろう。

で、やっぱり思うのが、上流、中流、といってるけど、それはいったい何の指標なのか、ということだ。まあお金のことだけど。教育レベルも比例しているし。

まあまた話飛ぶけど、日本はタイを参考するわけにはいかないだろうな、と思う。やはり日本国民は、格差がなるべく少なくて、それでいてみんなそこそこ自由、という方向へ舵を切りたがってるはずだ。じゃあお手本はやっぱりスウェーデン、デンマーク? なんか違う気もする。

てなことを考えながらも、帽子屋さんみたいな人に出会うと、もう少し海外にいてみようかな、という気持ちもワイてくる。なんとなく、やっと今ぐらいから何かがわかってくるんじゃないか、という予感がした。









1/23/2013

帽子屋さん

オフィスの向かいに、帽子屋さんができていた。
オーナーは日本人だった。アパレル関係の仕事をずっとしてきたらしい。帽子屋さんはコーヒーショップも兼ねていた。ネルドリップの美味しいコーヒーをいただく。おもちで作ったワッフルもサービスしていただいた。おいしかった。

久々に本当においしいドリップコーヒーを飲んだ。こっちではどこの店でもマシンでコーヒーを淹れている。自然と濃い感じになる。スッキリしたドリップコーヒーはやっぱり僕は好きだ。

一緒にいったドイツくんが、そろそろ名前で呼ぼう。マイケルが、モチって何?と言ってきて、なぜか僕は爆笑してしまった。もちを知らない人がいる。当たり前だけど。もちの説明に苦しむ。一緒にいったタイの子、ポイは、ライスブレッドだよ、と説明していた。お米のパン。かわいい表現だね。でも、イメージつかめないだろうな、と思ったらまた笑えてきた。

そう、その帽子屋にいくときのこと。前から日本人の店だ、コーヒーもある、とは噂に聞いていた。でも、言った人が皆、あそこは本当のコーヒーじゃない、カフェイン抜きのデカフェだ、と言っているのを聞いていたので、なんとなく足が向かなかった。

でも、今日、一度くらい行ってみるか、と思って、でカフェでもいいから行ってみるよ、言うと、マイケルも行くと言う。よし行こう!と出かけようとしたところ、ポイが、私も行きたい、と言った。帽子が見たいのかもしれない。でも、なんだかクスっと笑ってしまった。

そして3人で本当に真向かいの、歩いて10秒のお店に探検に出かけるとき、なんだか幸福感があった。わくわく。とても小さい気持ち。でも、なんだか、いい感じ。

そして、こんにちわ〜っと入っていくと、しゃれおつなオーナーと、品のいい、タイ人スタッフたちがサワディーカーっと出迎えてくれた。すごくおしゃれで、すてきなお店だった。ソファーもある。ゆっくりした。

珍しく、ああ、こんな家に住めたらいいな、と思う。ここは大きな邸宅の1階をお店に、2階を住居にしているそうだ。お庭も明るくて静かですてきだった。ほっこりした。ああこんなところで午後のコーヒーを飲めたら、いい暮らしだな、と思う。

普段、家的野心はあまり持たないように抑圧しているのだが、今日ばかりは素直に、こんな家に住めたらすてきだな、って思っちゃった。

明日も来ます、てなことを言いつつ、オフィスへ戻る。これからここでおいしいドリップコーヒーが飲めるのかと思うと、ほかほかとした気持ちになった。

そして、このオフィスには危険な特徴がある、それは、リッツが食べ放題なことだ。あのお菓子の王様、パーティーの陰の立役者、リッツが、毎日毎日、いっぱいになっているのだ。基本的に僕しか食べていないようで、昨日から減っていない。でもぼくは一日に、リッツ半箱分くらい食べちゃうので、スタッフの人はたぶん2日に1回は補充する目にあっている。すまない。でもおいしいのだ。こんなに毎日食べられるお菓子ってほかにある?

昨日などは、昼間オフィスでさんざんリッツを食べたのにもかからず、家の帰る途中のコンビニでまたリッツを買ってしまった。リッツ中毒の様相だ。

と思っていたら、昨日あたりから、リッツにクリームがはさまっている新種が現れていた。オフィスに。おいおい。。これではおれに溺れろ、といっているのに近い。書いてるそばからいま、リッツをとりに行っちゃった。言うまでもない。

今日は三島由起夫の動画を見ていた。やっぱり、三島がなんであんな行動で自決したのかさっぱりわからない。最後の演説も聡明な三島にしては支離滅裂に聞こえた。いったい何がしたかったのか。とはいえ、気がおかしくなってるようにも聞こえなかった。そして、三島の幼少のころの写真を見たら、あ、おれに似てる!と思った。非常に珍しいことだ。自分に似ている人にはめったに会ったことがない。でもぼくの子どものころの写真にどこか似ていた。顔にしまりがないところが似ていた。

慌ててトイレで鏡を見てみたら、もう似ていなかった。ぼくの顔はしまりがついてしまっていた。なんだか残念な気持ちになる。そんな険しい顔しなくていいのに、って自分に言いたくなった。

でもマイケルが撮ってくれた帽子をかぶった自分の写真をみたら、しまりのない顔をしていた。まだしまりのない顔もできるじゃない、と少し安心した。でもそれはよそ行きの顔なのかもしれない。この顔がみんなが僕をみるときのベースの印象なのだとしたら、それはかなりよそ行きだよ、ってことだなと思ったら少し悲しくなった。

そして今度は久しぶりに横尾忠則のツイッターをぐいぐい読んでみた。やっぱり横尾さんは面白い、なんでこんなひょうひょうとしているのだろう、もうかなりのお歳なのだが。ぼくはなぜか横尾さんの書いているものを読むと、心が安らいでくる。えらいお坊さんの話やスピリチュアルリーダーや、ビジネルリーダーや、そのほかのアーティストの前向きなお話を聞いているよりずっと、横尾さんのいまいち意味不明のよもやまばなしを聞いているほうがずっとずっと元気がもらえるのはどういうことなのか。

横尾さんの絵は、怖いからいまいちよくわからないんだけど、ぼくはかつて資生堂が主催する横尾さんのトークショーに行って、横尾さんに何かを質問してじきじきに答えてもらったんだけど、何を質問したのか忘れてしまった。

いや、本当に思い出せない。意外だ。あ、思い出した、横尾さんは未来のことを心配しないのはなぜか、とか、なんとかそういう質問だった。
横尾さんは、1時間後くらいのことしか考えないそうだ。たとえば、1時間後の新幹線に乗らなくちゃ、くらいのことしか。明日の予定は知らないことが多い、みたいなこと言ってた。すごい境地だ。

人類の宝みたいな人だから、もう一回、生で会いたい。というか、一度お話をしてみたいな。よもやまばなしを。

今日は、なんとなく、やることが尽きた。まだ8時半。マイケルも帰ってしまった。夜をどうやってすごそうかな、と思ったら、んーって気持ちになった。

なにかひたすらそればっかりやっていたいようなことがあればらくなんだけどなあ。