2/16/2013



タイ人アーティストシリーズ。
この人は、同じ顔でいろんなバリエーションを描いていた。自分の顔なのかな、と思った。それだけ繰り返し描くくらいだから。でも、どうして自分の顔を何枚も何枚も描きたいのだろう?と疑問が浮かぶ。果たして本人かどうか、しばらく待ってみたが、画家に会うことはできなかった。


インドネシア、タイと回ってきて、1つ感じることは、やはり、両国とも急速に近代化しているということだ。つまりは欧米化と言ってもいいかもしれない。

日本が過去にたどった道を忠実にたどろうとしているかのようだ。もちろん、風土の違いはあるが、それよりも、近代化する、という大きな流れのほうが圧倒的に力をもっているように見える。

マンションを買い、車を買い、iPhone、iPadを買い、洋服に身を包み、化粧をして、クラブで遊び、外国に留学して経営学を学び、ビルを建て、企業を運営し、簡単に言えば豊かになりたい。おなじみのその方向だ。

たまに、結局その方向行くの?面白くないね。と思う事がある。アジアがいま熱い、といってもそれは、遅れて来た近代化、ならびに経済成長をこれから遂げるのだ、という熱気の中にあるだけで、何かとんでもなく新しいものが飛び出す予感はみじんもない。

別に悪く言ってるわけではなく、アジアに日本にないものを求めてたどり着いたとしても、数十年後には似たような感じになっちまうだろうな、という予感を言っているだけだ。

じゃあ欧米に何かあるのかというと、そうも思えない。こっちで出会う欧米人たちも、まあ普通の人たちだ。何かとんでもなく新しい価値観で迫れて、腰抜かしちゃった、ということもない。

国際社会が均質化に向かっているということかな、などと思う。もちろん、このまま均質化するわけはなく、何かとんでもないことも起きてくると思うが、少なくとも今の流れはそうだ、ということだ。

だから何だというと、つまりは、世界の特定の地域に何か新しい文化がある、これから起こって来る、というのはもうないのかもしれない。あるとしたら、国をまたいでくる現象の中に生まれるのだろう。などと言ってみたが、何か具体的なものに触れたわけではない。

でもまあ少しいうならば、例えば日本人同士というだけよりも、国がちがっても、たとえば、同じ職業同士、社会的に同じ立場同士、のほうが断然話が通じるのは、わかるだろう。

苦労の種類が同じというか、そこが問題なんだよねーという会話がすぐに成立する。国際間で違うことといえば、税率とかバケーションの長さ、社会保障の厚さ、くらいなもので、どれもそれほど本質的な問題ではない。

どんな仕事をどう展開するか、というコアな部分は、ほとんどどこの国も似たような条件になっている気がする。似たような障害があり、似たような理由で諦め、似たような理由で諦められないでいるのだ。

とくに国際的な仕事をしていない僕だってそう感じるのだから、国際的な仕事をしている人はビンビン感じていることだろう。

だから何だというと困るのだが、国際競争力、みたいな問題がそれほど重大な問題に思えなくなってきたな、ということだ。もちろん円が強い方が今のぼくは助かるが、じゃあ円が高ければ未来安泰かというと、やはりそれは本質的な問題ではないのだった。

景気がいいときには本質的な問題が勢いの中にまぎれてしまったていただけなのだ。とりあえず金がじゃんじゃか入るし、欲しい物も買えてるし、みんな同じだし、まあいいか、てなことだろう。景気が悪くなって、問題が表面化しただけなのだ。

景気が超調子いいタイにいるからこそそう思うのかもしれない。まあでもたしかに景気はいいほうがいい、のは間違いないけどね。やっぱり人が明るくなるんじゃないかな、景気がいいほうが。でも景気とは一体なんなの?というのはじっくり考えてみないといけないと思う。

景気とは、ある意味、人びとが向かう方向性、欲しいもの、やりたいこと、がはっきりしていて、エネルギーを注いでいる状態を言うのかもしれない。その活気の総量だ。マネーとは実は関係がないのかもしれない。

次の日本の景気が浮上するのは、みんなが「まさか」と思っていた生活を自分たちが実現できると知ったときなのかもしれない。そこに向けてみんながエネルギーをそそぎ始めたら。「まさかできるとは思わなかった」そこにしか未来はない、とぼくは断言する。

その「まさか」は、もちろん豊かさに関することになるはずだが、その豊さとは、個人の絶対感に基づくものになるはずだ。もちろん絶対感だけではないだろうが、よりその度合いが増すだろう。絶対感をぶつけ合うところに調和が存在できうる、というコペルニクス的発見によって、僕たちはもう一度歓喜の中に入っていくのだろう。


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