7/23/2013

沖縄


沖縄に来ています。国頭という北の方にいます。
久しぶりに海に浸かって、うれしかったです。夕方に、温泉みたいに海に浸かりに行きます。ビーチではなく漁港の隅っこです。

震災後、沖縄に多くの友人たちが移住しました。懐かしい顔を拝みに来たのです。みんな、しっかり暮らしを始めていました。

思えば同じ頃、僕はバリ島へ発ち、タイへ渡り、いま日本に戻ってきたのだと思い出します。2年も経っていませんが、遠い過去のような気もします。

思えば、津波と原発事故を描いた園子音の映画「希望の国」で、津波で両親を亡くした恋人に、「一緒に暮らしを始めよう」と言ったのは、バイクが好きな青年でした。

思えば、沖縄に来たのは10年ぶりなのでした。10年前は、現地の尋ねられる友人もほとんどおらず、那覇のゲストハウスを中心に、バイクで観光めぐりをした2週間でした。旅人たちとの出会いはありましたが、それはやはり、旅人同士で沖縄を楽しむ、という視点を出るものではありませんでした。

今回は、沖縄で暮らしている友人ばかりに会う旅です。暮らしている人と行動を共にすることで、前回とはちがった沖縄が見えてくるようです。すくなくとも、那覇の国際通りと、風光明媚なビーチばかりが沖縄ではないのだとわかります。

生まれた場所、職業、ご縁、もちろん意志も含めて、いろいろなファクターが暮らしの形を規定します。何の制約もなく、まっさらな状態から始まる暮らしなどどこにもないはずです。

そして、つくづく感じたことは、子どもを抱えた母は強くなる、ということです。なんか、どっしりしますね。迷いがないというか、そういう感じになります。

そして、久しぶりの顔を見ていると、やっぱり来てよかったと思います。顔を会わすというのも、ひとつの喜びなんですね。時間とお金が許す限り、人には会いに行ったほうがよさそうだな、なんて思ったり。でもいつも億劫なんですけど。

でもひとつわかっているのは、いろんな人と交流していないと、鬱屈してくるという自分の傾向です。




7/17/2013

移動を開始

ずっと愛知の実家にこもっていたのですが、昨日から移動を開始しました。いま大阪にいます。

友達にあったり、大阪のコワーキングスペースを訪ねたりしています。しかし、移動ってなんだろうと思います。

名古屋から大阪へ向かう近鉄電車の車中のことです。金券ショップで3,200円の格安チケットを買って、駅に向かいました。僕は長距離列車に手ぶらで乗り込むことができません。さいて飲みたくもないコーヒーなど買ってしまう。

ガタゴトと近鉄電車が動き出しした。名古屋をでるとすぐに田園風景が広がります。ああ、やっぱり名古屋って大きな田舎なんだな、と思う。すると、さっきまで大阪に行くのがなんだかめんどくさい気持ちでいたのに、車窓の風景が流れると、なんだかじんわりと幸せな気持ちになる。移動すること自体の喜びっていうものがあるのだろうか。ほのかにウキウキとした気分が沸き起こってきた。

大阪から神戸へ乗り継ぎ、友人のところへ。駅まで迎えにきてくれた。神戸はやっぱりいいな。山が見えたときそう思う。風もさーっと吹く。街だけど、海風なのだ。町並みは4−5年前とあんまり変わってなかったな。

そういえば、この前、9月にオープン予定のウェブマガジン「旅とスタイル」の第一回インタビューに行ってきた。名古屋のアパレル会社の社長だ。とりとめのない旅の話を2時間以上もお聞きした。さて、面白い記事に仕上げねばならない。録音できなかったからメモと記憶が頼り。

ちょうどマガジンのスタッフが名古屋に出張してきたので名古屋駅で企画会議をした。これからインタビューしていく人をリストアップする。おもに、彼らが。 自分の知り合いと思うとなんかピンと来なかったからだ。でも聞けば面白い人はいるはずだろう。

フリーランスの翻訳を2年弱やってきて、困っていたことのひとつは、前から書いているが、仕事上で人としゃべらなくて済んでしまうことだ。今日は朝から誰ともしゃべってない、なんて日が続くと、それだけで気が滅入る。ぼくは、黙々と文章を書くようなのは向いていないのだ。なので、人に会い、そして書く、みたいなスタイルを半分くらい取り入れて行きたいということでもあってのマガジンなのである。

ところで、いま、大阪なんばのひっかけ橋にある巨大なスターバックスに来ている。広くてなんだか落ち着く。高城剛がメルマガで、仕事をしにカフェにいくくらいならマクドナルドに行くと言っていた。トークショーのときに聞いてみたら、本当だとのことで、マクドナルドに何時間でもいられるんだ、と言っていた。
というのあって、高城的にマクドナルドで仕事をしようと、マクドナルドを探したのだが、どこもなんか狭くて落ち着かない感じがして、勇気が出なかった。ちょっとだけ高いが、やっぱりスタバのほうがいい。居心地もいいし、なんといってもネットが無料で使えるのがいいのだ。

そして、僕はついにMacbook Airを手に入れた。Macbook Proが壊れてしまったのだ。もう5年も使った。毎日酷使した。ある意味よくがんばってくれた。で、Air、一番うれしいのはバッテリーがもつことだ。実測したわけではないが、使いっぱなしでも5〜6時間は普通にもつ感じだ。これはありがたい。もう電源を探すことから開放されるのだ。これがどれほどトラベルワーキングを縛ってきたことか。

どんなおしゃれなカフェを見つけても、電源がなければそそくさと立ち去ったものだ。電源のあるカフェにいっても、やっぱり電源が使える席は人気で、座れなかったりする。そういうストレスから解放されたのだ!

そして姪っ子がもうすぐ2歳になる。いつもドキッとする瞬間がある。それは、これは前もちょっとかいたけど、姪っ子がひとりにならないように、家族で見張っているのだが、例えば僕が見はり役をしていたとしよう、姪っ子がひとりで遊んでるかと思ったら、すくっと立って隣の部屋に行こうとしたとする、となりの台所では母が炊事をしている。姪っ子が立ち上がって、たたたっと歩いていこうとするときに、僕は台所の母に声をかける。メイ子がそっちへ行くよ〜! すると、姪っ子は必ず、必ず、立ち止まって僕の方をワシっと振り返って僕を見つめるだ。じっと。その瞬間、ドドドキっとしてしまう。100%の注意力が僕に向かってくる。

姪っ子は何を思って振り返るのだろうか。相手は魔の二歳児である。わがまま放題なのだ。言うことなんか聞きはしないのだが、このときばかりは絶対立ち止まって、僕の反応をうかがうのだ。別に大声だしてないし、鋭い声も出してない。でも、僕の意図がわかるまで、じっと僕を見つめているのだ。僕は慌てて、いいよいいよ、行っていいんだよ、と姪っ子に告げる。すると、たたたっと台所へ行ってしまうのだが、残されたぼくはドギマギの余韻がまだ残っていたりする。

姪っ子と再会して一ヶ月あまり。日を追うごとには発する言葉が増えていく。理解できる言葉も増えていく。先日などは、ついに自分のことを、自分の名前で呼んだ。自分の名前をはっきりと認識したのだ。うわ、すげー!と感動するとともに、少しだけ寂しい気もした。着実に大人の階段を登っていくのだ。もはや、理解不能なかわいい生命体であることをやめ、意思疎通ができる、かわいいけど憎たらしい小さな人間へと変化を遂げていくのだ。ああ、そのプロセスにぼくは立ち会っているのだった。これがライフでなくて何がライフというのだろう。

もっとも、僕のこどもじゃないんだけどね。えへへ。みたいなことを考えながら、やっぱり翻訳がうまく進まなくて、ちくしょうって気持ちで不必要に苦いスタバコーヒーをちびりと飲んだ。



7/10/2013

ジブリの新作

気がつけば、宮崎駿の新作がもうすぐなんだね。いいタイミングで日本にいられた。今日、TVでジブリ特集みたいなのをやってたので見ていた。

すると、新作「風立ちぬ」のワンシーンとか、ストーリーとかがチラチラと出てきた。そのたびに僕はひゅっと息が止まるような気がした。かすかにだけど。つまり、緊張するのだ。

そして、背景画が映ると、あれ、あの感じだと天空の城みたいな夢見る映画じゃないんだろうなーとか、でも、色はいいね、スカッと気持ちいい空のシーンを見せてくれそうだな、とか、なんかそういうのを一瞬で考えて、ヒヤッとしているのだ。

あれ、なんでジブリの新作のことで俺が緊張しなければならないのだ? とふと我にかえる。関係ない。おれの作品じゃない。しいていえば、やっぱり期待しているのだ。いい映画であってほしい、感動させてほしい。と。

で、次から次へと出てくる、ほかのエンターテイメントとは違うのだろう。TSUTAYAで映画を選ぶのとは違う。これがつまらなかったらあっちを見よう、というのではない。宮崎駿の映画、今回の次は、また何年後になるかわからない。もちろん、今までの映画はほとんど見た。だから、今回の映画でやっぱり、あの気持にさせてほしい。ナウシカや、魔女の宅急便や、耳を澄ませばの気持ちに。

あの気持にさせてもらうのは、意外とないのだ。ということを改めて気づく。事実、ぼくがバンコクで日本が恋しくなて手を伸ばしたのは、ジブリ映画だったのだ。もちろんすでに見た作品だ。でもDVDを買って見たのだ。

わかっている。宮崎駿の映画が、ある意味きれいごとであり、あんな純粋な人間いないだろうし、青春はあんなに潔くない。だから、世界観のみならず、人物描写も含めてファンタジーであることぐらいは。でも、そういうのを見たい、という欲求が存在する。こんな世界はありえないとわかりつつ、でも、見る。

しかし、いま2歳になる姪っ子が泊りにきていて、何日も一緒にいると、ここにあるじゃないか、などと思ったりもする。無邪気な世界がここにある。いつか失われるであろうファンタジー世界が局所的に広がっている。ばかみたいなことでうれしくなってはしゃいでいる姪っ子の顔をみつめながら、この子もいろいろ複雑で不安がちでたまに陰気でたまにいじわるで、自意識過剰のくせいに自信がなくて、昔のことをいつまでもぐちぐちと思い返してはへこんだりする大人になるときが来るのだろうかか、まさか、いやしかしある程度は確実に、などという気持ちでいた。

返す返すも、だたの予告編で僕を緊張させる、宮崎駿映画ってすごいな、とは改めて認識。いま、わざわざ見に行きたい映画は宮崎映画くらいしかないのが、僕の現実だったりする。でもあまちゃんは毎朝見てる。最高!