どうも日本という国は、飽きているのかもしれない、などとふと思った。
ここで突然だけど旅の話をしよう。旅で一番大事なのは好奇心である。好奇心がなくなった旅ほど苦しいものはない(筆者はこれを体験した)。せっかくイタリアはミラノにいるのに一日中、ホステルに閉じこもっていたりした。隣の駅で「最後の晩餐」が見れるというのに、歴史的な名画を見たいという気持ちよりも、だるい、しんどい、なんだがつらい、という気分が勝ってしまったのだ。ぼくはこれをいろんな国で何度も経験した。だいたい旅が長くなってくるとこれが起きる。旅が日常と化したころにそうなるらしい。それはキューバだったり、メキシコだったり、スペインだったり、スイスだったりした。
それは旅の疲れというものだったのかもしれないし、お金が尽きていくことへの恐怖だったのかもしれないし、目的のない旅のその目的のなさに疲れたのかもしれない。しかし総じていえることは、好奇心が枯渇していたということだ。
もはや「旅=好奇心」と言ってもいい気がする。
そしてひるがえって日本の話である。
先日、いまいるバンコクの和食屋さんでテレビを見ていたら、なんとか音楽祭みたいなテレビ番組がやっていた。懐メロがかかっていた。80年代、90年代の懐かしい歌を当時の歌手本人が出てきて歌っていた。ぼくは、ああ懐かしいなあ、という気持ちで見ていた。懐メロは大好きなのである。松田聖子である。ただ、もうひとつ、いままで味わったことのない感情がもちあがっているのに気づいた。なんだかつまんないな、という感想である。
ぼくはこのことに驚いた。なぜなら、日本にいるときは懐メロ番組は大好物であり、テレビにかぶりついて見て、あのときはこうだった、この歌はこうだったと誰かとしゃべったり、記憶を温めたりするのが好きだったからである。懐メロ保護主義者と言ってもいいくらいなもので、流行のちゃらい曲聞く暇があったら、80年代の懐メロ聞いた方がいい、と人にも言いたいくらいなものである。
ところが、あーなんだか窮屈だなあ、この感じ、と思う。それはバンコクがそうさせたのかもしれないし、なんだか知れないが、つまりは、あ!と思ったのだ。
あ!もしかすると日本は変わりたくないのかもしれないな、と。
日本は、ざっくり言っちゃうと日本人は、もう自分たちの状況にほとほと飽きているのに、未来への好奇心をなくしたままでいる、そんな感じがやってきた。もうすっかり飽き飽きしているのに、変わりたくないという原初の衝動の中に浸っている。好奇心をなくしてしまっている。旅先でYoutubeで懐メロを聴いているバックパッカーみたいな。ちょっと違うかな。
懐メロも時にはいいだろう。しかし、しっかりと記憶を温め、自分のルーツを確認し、「あの頃」を思い出せたなら、Youtubeから顔を上げなければならない。好奇心だ。自分の好奇心が発動してくる様をゆっくりと感じるのだ。
そういうボクはさっきまで、Youtubeで懐メロを見ていた。もうそれはしょうがない。しかし、まだ、ここバンコクでタイ人たちと知り合いになりたいという好奇心が残っているのを感じる。まだ大丈夫。好奇心があるうちは旅をつづけられるのだ。
日本という国は、日本という国に飽きている。そうではないか?そんな気持ちがいま湧いています。
日本という国に、いま一番必要なものは、希望でも安心安全でも絆でも共感でもなく、好奇心なんじゃないか、って思ったのです。好奇心はどうすれば湧いてくるんでしょう。好奇心の湧かせ方がわかる人いますか? ぼくはそれをよく無くしてしまって路頭に迷うのです。好奇心があれば、ただ好奇心があれば…
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