そして戦争論だ。ぼくは自分が右翼的なのか左翼的なのかよくわからなくなる。
ぼくは子どものころ、軍国少年だった。と言っても過言ではない。これは大人になって気づいたことで、前にも書いたのかもしれないが、ぼくの小学生時代の愛読書は、軍記ものだったのだ。なぜか家に日中〜太平洋戦争までの子ども向けの軍記本があったのだ。
その本は、明らかに日本軍万歳!的な本で、日本の兵隊がいかに勇猛であったか、敵を蹴散らしていったか、が威勢のいい筆致でつづられている。それを愛読していた。何度も何度も読んだ。そのせいなのか、ぼくの奥深いところに、日本軍万歳!的なノリがどしっりと居座っているようなのだ。
爆弾三勇士をご存知だろうか?日中戦争のころ、敵陣地に張り巡らせてある鉄条網を破るために爆弾を抱えて特攻した3人の兵士のことだ。これは実話だ。そんなエピソードを、すごいぞ日本軍!という歓喜の思いで読んでいたのだ。それはいわば冒険小説さながらだったのだ。
それはそれとして。
先の戦争を語る時に、困るのは、知れば知るほど、世界は「勝てば官軍」的に成り立っているんだということがわかってくることだ。
東京裁判を引くだけでもいい。なぜ戦争に負けた側だけが裁かれなければならないのか。B級C級戦犯? 捕虜を虐待した? そういう君たちは原爆を投下して一般市民を何十万人も殺したじゃないか!としか思えないのだ。それは罪ではないということになっているのだ。現在の国際社会では。
だから南京大虐殺の有無を問う時に、まずその前に、戦時中に一般市民を大量に殺すことはそもそも犯罪なのか?と問わなければならない。戦時中ならアリなのか、戦時中といえどもそれは罪なのか。ならば原爆は?
そういうものを全部同じ皿の上に載せて議論しなければ、本当の議論にはならない。なにか永遠のアメリカ恐怖症の中にいるような気がするのだ。日本社会全体が。ぼくはこのことを以前、父親にぶつけてみたことがある。父親はそのとき中国の文句ばかりを言っていた。僕は食ってかかった。ならばアメリカは、アメリカは許せるのか、と。親父はしばらく沈黙した後、「アメリカには敵わない」と小さくつぶやいた。
もしかするとこれが戦中、戦後直後世代の正直なる感想なのかもしれない。僕はその是非を問わない。ただ、未来のために戦争や国防や国際社会のことを議論するなら、その基準を一定にしなければならないと思うだけだ。中国、韓国とアメリカとで違う基準を適用してはいけないだろう。 アメリカには敵わない、結局はそう言っているだけのことが続いているだけなんじゃないだろうか。
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