12/31/2011

冬休みの宿題

いい子だから自分がわからなくなってしまった奴へ、冬休みの宿題を出す。

悪事を働け

ただし、条件があって、悪事とはいえども、次のような悪事でなければならない。
悪いことだと言われていたり、思っていたりして、それをすることを想像するとそこはかとない罪悪感が湧いてくるが、よくよく冷静に考えてみると、本当は悪いことじゃないんじゃないか、とごまかしなく思えること。そして、もちろん、自分がやりたくもないことは悪事になりません。悪いと言われており、罪悪感や不安からやることを躊躇しているが、実はずっとやってみたいと思っていたこと。

そういう「悪いこと」をまず探すのが宿題です。

小さなことがよいでしょう。実現可能な小さな悪事がよいです。

もちろん、人を傷つけるようなことはいけません。ほとんど他人も迷惑をかけず、こっそりできるようなことがいいのです。卑近な例で申し訳ないのですが、中学生がタバコを吸っても、まず他人は傷つきはしません。親が心を痛めるくらいです。でも本格的な痛めではありません。もしあなたがどうしても吸ってみたいなら、吸ってもよいでしょう。もちろん、ニコチン中毒は後々あなたの自由を奪いますから、私は絶対オススメしませんが。

例が悪かったようですね。たとえばあなたがいきなり金髪にしても誰も傷つきません。周りの目が冷たくなる程度でしょう。やってみたかったならやってみるといいでしょう。どんな気持ちがするか味わうといいでしょう。だれかがやめて、と言うかもしれませんが、聞く耳を捨てましょう。そのことでその人を本格的に傷つけていると思うならもちろん別ですが。その場合はどうして傷つくのかと対話を始める必要がありますので面倒がらずにやりましょう。

そして悪事は秘密であれば、なおよいのです。
秘密の悪いことをこっそりやって誰にも言わずにいましょう。
そして、実はやっちまったんだよね、とほくそ笑みましょう。
もちろん、悪事の全責任はあなた自身がとらねばなりません。100%自分で決めたことなのですから。

ちょっと意味不明ですかね。
まあ、こんな意味フで2011年の幕を閉じるのもよしとしましょう。もとよりたいしたブログではないのですから。では、悪事、がんばってみてください。また来年お会いしましょう!

12/29/2011

キッチンがあった

最近、いままで見えていなかった事実がつぎつぎと明るみに出ている。
おれはいったい何を見ていたんだ、と不可思議な気持ちになる。

たとえば
ぼくはこっちにきて1ヶ月目くらいのときに、三井住友銀行の国際キャッシュカードを紛失してしまいました。いつもこのカードで現地のATMから預金を引き出していたのです。1回数百円の手数料だけで利用できて、便利でした。ところがこれをたぶんどこかのATMに置き去りにしてしまいました。
もちろん即座にネットからカードの利用停止処置をして、被害は免れたのですが、預金がおろせなくなりとても不便です。
一応、Skypeで日本の三井住友銀行に電話をかけて、紛失したのでカードを再発行してほしいと言ったところ、本人が店に来ないとだめだ、の一点張り。家族の代理とか、郵送で、とかだめですか?といっても、だめだ、の一点張り。そして、気にしてくれるのはカードを利用停止にしましたか、ということだけ。一応、ネットからやったよ、と言っても、念のためこちらでも利用停止処置をとらせていただきますね、という。
まあ念を入れてくれるのはありがたいんだけど、おれが今必要なのはカードの再発行なんだけど・・・
そっちは、少しも一緒に頭を悩ませてくれることなく、できかねます、の一点張り。
これが三井住友クオリティーなのか、と諦める。まあ、客の利便性はどうでもいい、とにかく問題発生のリスクだけは最低限にする、ということだね、君たちは。いずれ解約してやるからな!

そして、しぶしぶクレジットカードで現金をおろす日々。
そして、今日ふと明細をみたら、年利18%もとられとる!しかも手数料が1回420円?!高い。
こんなことを2ヶ月もやっていたなんて・・しかもこれから他にお金をおろす方法のめどはたたない。

あらーーと思っていたら、そういえば、おれ、もう1枚キャッシュカード持ってるじゃん、と気づく。
念のため、新生銀行の口座を作ってきたのだった。こっちが現地のATMで使えるかまだ試してなかった。
たしか、住友のカードを紛失したときも、思いついたはずなのだが、すっかり忘れていた。
で、試しに行ってみたところ、無事使えました。ほ。あとはネットバンキングで三井住友の口座から新生銀行の口座に振込すれば、預金を引き出せるようになるということだ。なんだ、できるんだったらなんでもっと早く試さなかったんだろう・・・

これは本当に感慨深いものがありました。
だって、クレジットカードで現金をおろすたびに、このままではいかんなー、なんとかしなくちゃいかんなーといつもイライラと焦る気持ちになっていたのです。そして、新生銀行のカードがあることはいつだって覚えていたのです。なのに、新生銀行カードを試しにいくことが思いつかなかった。なぜだ。
焦りの大きさのわりに、新生銀行を試す手間などはないに等しい。歩いていけるATMにカードをつっこんでみるだけだ。そのつっこんでみるだけ、が2ヶ月間もできなかった。具体的行動プランとして頭に浮かばなかった。カードの存在は知っていたのに。

どういうことなんでしょうか。
たぶんぼくは、この3ヶ月間、軽いパニック状態にあったのだと思います。
やはり環境の急激な変化、ショックを受けていたはずです。
頭のなかもかたときも冷静ではなかった。軽い思考停止状態が続いていたのだと思います。

こんなシンプルで何のリスクもない選択肢が行動に移せなかったなんて。

で、懸念だったキャッシュカード問題にかたがついて、あーなんか肩の荷が降りた〜とほっとしていたここ数日だったのですが、そして、今日、サーフィンに行けないので近所を散歩することにして、いつものビーチと逆の方向のビーチに歩いていってみました。

そしたら、そこは素晴らしいリゾートが広がっていたのですW
徒歩5分の圏内です。徒歩5分にこのような風景が広がっていることに、ここに引っ越してから2ヶ月間、まるで気づいていなかった。ばかじゃないのか。なにをやっていたのか。
そして、歩きながら思っていました。
ぼくはここサヌールという街がどこか嫌いになっていました。
さみしすぎるのです。歩いているのは高齢者ばかり。若者も日本人もみかけません。
これでは友達ができないじゃないか!ぼくがさみしいのは街が悪いんだ、この街がすべていけないんだ!と。

でも、今日散歩していて、ああ、のどかでいいな、って素朴に思っている自分がいました。
こんなにきれいなリゾートなのに、観光客でごったがえしていない。少しさびれたここサヌールだからこの雰囲気が味わえるのです。
今をときめくクタエリアならば、人の波をかき分けてビーチを歩く、という感じになっているでしょう。

なんだ、こんな近くにこんな好条件のビーチリゾートが会ったなんて・・
なにをやっていたんだ、おれは。もったいないじゃないか。
そんな気持ちで痛めた股関節をかばいながらとぼとぼと歩き、よさげなカフェに陣取り、海をながめていました。

気がつけば、超いい波が沖の方でブレイクしています。いまのぼくではあの距離までパドリングしていくことはできませんが、うまそうな人たちはみんなパドリングしていっていました。
そして、グッドウェーブを少人数(わずか3人とか)で堪能して、満足顔で返ってきているのを眺めていました。
おれ、もしかしてなんかすげーいいとこに居る?

そんなことを呆然と考えながら、いったいこの3ヶ月はなんだったんだろうか、と頭をひねっていたのでした。

そして、今晩、夜になって、あることに気づいて驚愕しました。
うちのアパート、キッチンがないのが玉にきずだね、とずっと思っていました。
長期滞在なら、やはり自炊したいじゃないですか。ソバとか食べたいじゃないですか。でも部屋にキッチンがついてないんです。これじゃあイタリアンコーヒーもいれれない。

ところが、今日、アパートの1Fに、共同キッチンがあることを発見したのです。
というのも、ぼくのとなりに住むドイツ人のギャルが見慣れない部屋に入っていくので、何やってんのかな?と思って見ていると、なんと、そこにキッチンがあったのです!

このドイツギャル、このアパートにきてまだ2週間くらいです。その人が普通に知っているのに、なぜぼくは気づかなかったのか!キッチンがあれば、キッチンがあればと嘆いていたのに。
管理人に共同キッチンとかないの?と聞いてみることさえしなかった。というか、だまって探してみることさえしなかった。まったく人の家にいくとすぐ探検したくなる僕らしくないことです。

なにをやっていたのか。。ほんとに。
何も見ていなかった。ほしいものがそこにあるのに、できることがすぐあったのに、できない、ない、と思い込み、周囲を見渡してみることがなかった。そのくせ気ばかりあせって他の地域のアパートを必死に見に行ったり、探索しにいったりしていい物件がないないないと疲れたりしていたのです。

まず身の回りに何があるかを確かめもせずに。
そう、ぼくは軽いパニック状態だったのです。

なんか急に、生活を楽しもう、という気持ちがむくむくと湧いてきました。
どんな理由にせよせっかく海の近くに住んでいるのです。憧れの海近の家に住んでいるのです。
徒歩五分で海なのです。なぜそれを楽しもうとしてこなかったのか。足りない、ない、と嘆いてばかりいたのか。そんな反省がやってきました。

そしてたぶん、それは、いまこのアパートで友達ができはじめ、一緒に波乗りに行ける人もできて、さみしいという感情がどんどん減ってきたからこそなのかもしれません。

とにかく、なんかおかしなモードの時期をやっと過ぎたな、という気持ちで海からの風に吹かれていたのでした。

アパートを出て海に向かう道。真ん中にかすかに見えるブルーが海です。

5分歩けばこのようなビーチが広がっていました。知らなかった。

こんな空があった

このカフェに陣取り、長いこと海を眺めていました。あとで友達もやってきてお話しました。
そうそしてこう思ったのでした。作戦を練ろうよ!って。
このような場所に数名で集って、作戦を練ろうよ、って。自分はどうやって生きて行くか、日本をどうするか、どうやったら楽しく暮らせるか、作戦をね、練ろうよね、って。

PS
決して自慢してるんじゃないからね、本当に今日はいつになく風景が美しく見えたのです。明日はわかりません。でもいつでも遊びにきてね。一緒にマンゴージュースを飲みましょう。

アラーの神とご縁ができる

人生ではじめて、アラーの神とご縁ができました。

先週知り合ったインドネシア人のY君とお酒を飲んできました。
Y君は、日本在住12年のジャワ人で、日本に日本人の奥さんと息子がいるそうで。

そのY君、いまは里帰り的にインドネシアに来ており、バリにも寄ったということなのですが、
日本を発つときにアラーの神に祈ったそうです。「どうか日本人と会わせてください」

でもインドネシアに来て以降、なかなか日本人と知り合いになれなかったそうです。
で、先週レゲエクラブでぼくに会ったときに、神様が会わせてくれた!と喜んだそう。

それで、先日、Y君がバリでやっているお店にいってお酒を飲みかわしてきました。
Y君は日本語が堪能です。どれくらい堪能かというと、日本語で
「男ならやっぱり天下をとりたいじゃないですか」とか、
「ぼくも日本で命がけでやってるんですよ。そういう覚悟して海渡ってきたんですから」
などと言うのだ。なんか漢(おとこ)なのだ。

で、Y君、酒が入るとはじけるように日本に渡ってからいままでのいろいろあった出来事を話し始めた。
ずいぶん苦労したようである。

なるほど〜と言って聞いていると、ごめんなさいね、ぼくの話ばっかりで、でも日本人に聞いてもらいたかったんですよ。と言った。
爆発寸前のあれやこれやが頭に溜まっていたのだ、と。

どうして日本人に聞いてもらいたかったかというと、
インドネシア人に話しても、ああそうなんだ、と言うだけで、誰も自分の大変さを理解してくれない。
ともすれば、とはいえ日本で出稼ぎして金かせでるんでしょ?という目線でしか見てもらえない。
だから日本人に聞いてもらいたかった、と。

だから、聞きました。
しかも、これはアラーの神のおぼしめしで出会わされているようなので、ぼくもおろそかにできません。夜中の1時までとことん語り合いました。

Y君、どうやら満足したようで、ありがとう、うれしいですよ、と何度もお礼をいい、何かあったら言ってください、お助けしますよ、という心強い言葉をくれて、帰途についたのでした。


そして後日、思ったのですが、
以前、バリ人は悩んでいなさそうなので、ぼくが話をきく意味はなさそうだ、と書いたのですが、
日本在住、日本人で働き、日本人の奥さんがいるY君の場合は、日本人に話を聞くのと大差なかったです。みんな悩んでいるんだな、といつものように思うだけです。

そしてこう思いました、そうかY君は知らなくてもいいことを知ってしまった人なんだ、と。
ジャワ島では家族はみんな農業をしていたとのこと。
もし、日本人と結婚し、海を渡らなければ、ジャワで農民として家族親戚に囲まれて平和に暮らしていったのかもしれません。何の因果か、日本に住み、日本でで働くことになり、ゼロから日本語を覚えて日本文化にとけ込もうと努力した。日本に息子もできてしまった。でもやはり心落ち着くのはインドネシア。両方の文化に足をかけてしまったインドネシア生まれの男性30ウン歳。19歳で海を渡った。

世の中でいったいどれほどの人が彼の心情を共感してあげられるのでしょうか。
ぼくは話は聞きましたが、共感まではできていないでしょう。彼の苦悩は正直わかりません。
日本人に会わせてください、と神に祈った男、孤独を知っている男です。

そして、こう思いました。
このような、知らなくてもいいことを知ってしまった人のために、ぼくは書くのだ、と。
ちょっとかっこつけちゃいましたが、ほんとにふと思ったので書いちゃいます。

なんの因果か、何もなければ平和に生きていけたかもしれないところが、状況の巡り合わせのあれこれのせいで、知らなくてもいいことを知ってしまった、誰もが共感してくれるわけではない状況に身を置いてしまった、そんな人ですね。おっと、そうかくとおおげさに聞こえますね。そこまでの覚悟はぼくにはありません。本格的に特殊な状況に身を置いた人はぼくには手に負えません。
だから、少し、少しみんなからズレてしまった人。そういう人に向けてぼくはこのブログを書いているのです。

ということにしておきましょう。今日のところは。

股関節やられた

またバリの波にやられてしまいました。
昨日、同じアパートに住む元気なロシア人アレクシーが、サーフボードを買ったよ!と見せにきました。じゃあさっそくお試し行こうよ!ということで近くのビーチに行ってきました。
夕方5時くらいでしたが、意外にもいい波がたっていました。
腰〜胸、セットで頭といった感じです。
で、久々にテンションがあがってローカルに混じって波乗りです。
ですが、なかなか乗れません。やはり足が速いバリの波、パドル力のないぼくではなかなか乗れないのです。
で、そろそろ腕の乳酸も溜まってもうパドルする力が尽きたな、と思ったころのことです。
あたりはすっかり夕暮れといった雰囲気。
向こうの方から壁のようなものがやってきます。
ローカルも叫んでいます。
でかいセット(大波)がやってきたのです。

ぼくも思わず、グエ〜〜!とわけのわからない声をあげてしまいました。
でかい。。怖い。。。まあ体感的には3メートルくらいの壁がせまってくる感じです。
実際は1.5メートルくらいだったのかもしれません。でも腹這いになっている目線からみると巨大な波です。

やばい!と思いつつも、勇気を振り絞って波に向かってパドルします。
下手に波から逃げようと岸へ向かうと、一番危ない形で巻き込まれることがわかっているからです。
必死の思いですでに力つきた腕をふりまわして波に特攻します。
なんとか波の中に潜ってやり過ごしことができました。
はあ、助かった。。
と、また次の壁が迫っていました。げげーーー!心が叫びます。
また必死の思いで波に突撃します。またなんとかやり過ごすことができました。
しかし、すぐまた次の波が来ており、ついに波にまかれながら岸のほうへ流されてしまいました。
もうもみくちゃです。ボードがどっから飛んでくるかわからないので腕で頭をガードします。
ボードが足のあたりにぶつかってくるのを必死に蹴りますw 脇腹とかにきたら最悪です。

ふう。なんとか波がおさまり、海上に顔を出すことができました。ボードを探します。ありました。
リーシュコードでたぐり寄せます。なんとかボード確保、と、そのときです。頭上に壁が迫っていました。あっという間もなくまた波にもみくちゃにされます。
岸の近くだったため、崩れる波をまともにくらってしまいました。海中でぐるんぐるんと回転します。
必死で頭を抱えます。

何秒か意識が飛んだあと、気づいたら水上に顔を出していました。あーー死ぬかと思った。
ボードもありました。すぐさま沖を見ると、どうやらもう大波は来ていないようです。
次の波が来る前に、岸に上がれるか?パニクりながらも必死に頭を回転させます。
大波が来るなら岸より沖へ行かなくてはなりません。そしてここにいるのが一番危険です。決断を早くしなければ。気がつけば底に足がついている。ぼくは岸に向かって水中を走り出しました。急げ急げ。
もちろん首まで水の中ですから思うように進みません。それでもなんとか進みます。
沖を見ます。まだ波はきません。でも遠くの方にまた大波らしきうねりがみえます。
もう水面は腰ぐらいになりました。ぼくは必死でばちゃばちゃと岸へ走りました。
また波が迫っています。岸にたどり着きました。2、3メートルビーチを走り、振り返るとバチャーーンとでかい波がブレイクして跳ね返った波がそそり立っていました。

おーー助かった。
しかし、なんでこんな急にでかい波くるんだよ〜。こんなビーチで。。。油断してたー。
沖をみるとローカルは平気な顔で波待ちしていました。大波をやり過ごすすべを熟知しているのです。
さすがだなあ。。そしておれはまだまだなんだなあ。。

そして、翌日、朝起きると股関節に激痛が。
どうやら昨日の波にまかれたときにいためたようです。若干足を引きずってしまいます。
痛ててっ。またこれでしばらくサーフィンはお休みです。あーーバリの波、なかなか思い通りにはしてくれません。あーーゆっくりだなーゆっくりいかなきゃだめなんだなー。

まだまだこれから。一年中波があるバリなのですから、ゆっくり行こうと思います。
ちなみに、バリに来て3ヶ月、まだ一度もボードに立ってません!泣ける。

12/25/2011

サーフィン的日常

読者からのリクエストに答えてサーフィン的日常の写真をアップします。


バイクにボードを積み込んで、いざ出発です。


こんなのどかな風景を通ってビーチへ。



こんなところです。ビーチに沿って遊歩道が続いています。
観光客はほとんでいません。

ここがいつもサーフィンをするポイントです。今日波がないです。
小さく見える人影は、おなじアパートに住んでいるロシア人カップルです。

こんな毎日です。

12/23/2011

哲学の会の打ち上げに参加す

今日はなんと哲学の会の打ち上げに参加しました。
そう、東京にいるときに毎月参加していた哲学の会です。

今日みんなで打ち上げをするから、スカイプで参加しないか?との呼びかけがあり、イエス!と答えたのでした。5人ほどが宴会をしているところに、iMacのでかいモニターでぼくがスカイプ参加した次第なのです。これが妙に楽しかったです。ほんと、一緒にいるような感じですね。むこうの話も聞こえるし、顔も見れるし、こっちの声にも反応してくれるし、たまにちらちらと見てもらえると、もうその場のちょっと離れた席にいるかのような感じで参加することができました。
実に3時間くらいはやってたのかな。ビールを飲んだ僕は案の定、途中で寝てしまいました。
「あ、寝てる〜(笑)」といういつものつっこみを遠く耳に聞きながら、惰眠をむさぼったわけでした。
そしてまた起きて参加。いつもと同じです。

ぼくはこの哲学の会、もう何年だろう?5年くらい?もっとかな?続けてきたのでした。
だいたい月に1回、多いとくは2週に1回はやってたかな。
別名、哲学者塚原氏の哲学をご拝聴する会です。参加者もがんがん質問しますので、完全参加型の哲学手中講座といった様相です。これが面白いんですね。なぜだか。
3、4時間ぶっ通しでやるんですが、飽きないんです。途中脱線しながらも永遠と哲学の話をしているのです。扱ってる哲学が生ものだから面白いのでしょう。できたてほやほやの哲学を毎月聞く事ができるのです。

ぼくは、この会から様々な形で支えられてきた気がします。
構成メンバーもそれぞれひとくせある人たちというか、社会のスタンダードライフからははずれてきた人たちです。60代から20代まで。だいたい1回のメンバーは5人くらいです。

まず、哲学という実生活でどう役に立つのかはわからない、でもどこか魂の深いところに関係しているようなテーマについて、ガチンコで話し合う、これはちょっとした贅沢な場なのではないでしょうか。
もうガチンコなのです。真剣です。

バリへ旅立つときも、哲学の会のみんなが送り出してくれました。ぼくを送り出すのはこれで2回目だと言われました。そう、以前にもあてのない「世界放浪」にここから出かけていったのでした。

なんとなく、精神のホームグラウンドという感じがします。

実社会の中で生きていくことは少々苦しく、助け合うとはいえ、結局はそれぞれががんばるしかない側面があります。そんななかでも、つらいよねえ、とか、でもこういうことのほうが大事だね、なんていう話をずっとしていける、そんな場があってよかったな、と思うのです。

そして今回のスカイプ実験がうまくいったので、来月の哲学の会にはスカイプで参加することになりました!哲学の会復活です。ひさしぶりにガチンコトークができるか、と思うといまからわくわくします。

幸せになるのではなく

リクエストに応えて続きを書いてみますね。
「幸せになるために生きているのではない」の続きね。

たとえば、失恋をした友達がいたとします。
よくこう言ってはげましたりしますよね、男は1人じゃない、次こそいい相手に巡り会えるよ、って。
気持ち切り替えて明るく行こう!って。

ぼくはそれは基本的に賛成します。
終わってしまった恋愛をいつまでもぐずぐずと引きずっていたって、何も起きません。
いつまでも過去に縛り付けられ、今の出会いに目が開かれないとしたら、人生の大いなる損失だといえます。きっと自分が大事だから過去に閉じこもるのでしょう。

そして、どんなつらい想いをしたからといって、どうせ男はこんなもの、といってうそぶいてみたり、どうせ私なんて誰も愛してくれない、といってメロドラマの中で耽溺するのはよくありません。

もちろんそういう時期を経過するのは当然です。それでいいのですが、しかるべき時間が経過したら、また(できれば)まっさらな気持ちで、むしろ、失恋前よりの恋愛ひとつ分、透明な視点になって、目の前の人をみることです。

なんて書いてたら、どこかの恋愛カウンセラーみたいになってきちゃったじゃないですか。
不本意です。

ぼくが言いたいのはこうです。
どんな失恋、恋愛にもさまざまな瞬間があり、さまざまな気持ちのうごめきがありました。
さまざまな感情の交換がありました。
基本的に、ラブラブ中はそのラブな面を、失恋したあとはその負の面ばかりを記憶にとどめ、ひとつの心象を形成しようとします。それはそれでいいんですが、たまには、まてよ、と言ってふりかえってほしいのです。それはそれだけではなかったのかもしれない。あのときのあの気持ちの裏にかすかに漂っていたあの感覚はなんだったのか、死ぬほどつらいときにふと世界が止まってせつなの幸福を感じてしまったこと、気持ちとことばが乖離していくときの感じ、別れ話のときに思いやりが発生していた感じ、いろんな感じがあったはずなのです。いわば、補欠の感情です。
そういう補欠の感情もふくめて、全部感じていくことをぼくは提案するのです。
もちろん、思い出すということです。

思い出すときには、感情にどっぷりはまるのもいいですが、少し離れた視点から、ああ、いろんな感じがあったんだな、というふうに思い出のアルバムをめくるように思い出すのです。

なんて言ってるとまた失恋アドバイザーみたいになってきて、非常に不本意です。

もっとシンプルに言いましょう。
幸せになれるかどうかはわかりませんし、幸せだと思っていた一瞬先に不幸せが待っているかもしれません。死の最後瞬間でさえ、どんな不幸があるかもしれず、またこれまでの一切の人生をすべてチャラにするほどに幸福感に満たされる体験をするかもしれません。しかし、それはすべて、自分ではコントロールできないことではないでしょうか。

だから唯一できることといえば、もちろん幸福をめざして、幸福をもとめて生きていくのですが、でもそれとは別に、人生のどの瞬間も味わって生きよう、それができればそれだけでひとつ生きた価値があるというものだ、という考え方もまたいいんじゃないかな、っていうことなのです。

そこには無限の広がりがあるそうです。

かくゆうぼくも、じゃあそのように味わい尽くして生きているのかといわれると、ごめんんさい、というしかないのですが、まあ幸せになるだけが生きていくといことではない、という考えがちらっとよぎったので、その意味を追求してみようかな、と思ったということなのです。

もちろん不幸はいやだよね。でも幸不幸に関係なく、生を豊かにする作法があるのかもね、とちらっと希望的観測をしてみた次第なのでした。

12/22/2011

幸せになるために生きてるわけじゃない

このまえ、3日前くらいに朝起きるとき、ある言葉が頭のなかに響いていました。
「幸せになるために生きてるわけじゃない」
このことばが、響くというか、残響のようなかたちで余韻を残している中を、まどろみから目がさめていく、そんな感じの朝でした。

そして、起きてからハテナ?としばらく考えていました。
どういう意味だ?
おれは幸せになるために生きてるわけじゃないんだな〜という、かすかな発見、ちいさな納得みたいなものが印象として残っています。

じゃあ何のために生きてる?
即座にそう自問してみましたが、ことばは返ってきませんでした。

で、しばらくその意味について考えていたのですが、
たしかに、幸せになるために生きているのかと言われると、なんかそうじゃないかも、という気がしてきました。

幸せになるために生きていると言うにはあまりにも腰がブレていますし、あまりにも迷走しています。
何かになるために生きているというよりは、何かから逃れるために生きているといったほうが実感にちかく、しかしその何かとは具体的な何かではなさそうです。


ここで何の脈絡もなくゲーテが遺稿に書いたといわれる一説を思い出しました。
「なんということだ!すべては冗談にすぎない」

たしかこんな文章でした。ゲーテはその生涯をとじる間際に、世の中で生きていくということは、冗談のようなものだった、と感想しているのです。(と思います)

すんません、今ネットで調べたところ、一応公式には「人生は悪しき冗談なり」という訳になってるみたいです。

これには様々な解釈があるようですが、
ぼくはこれを、ゲーテがニヒリズムに陥ったわけでも、楽に生きようぜ、というポジティブシンキングを語ったわけでもないと思っています。
ぼくにとってのこの言葉の解釈はこうです。
80年の生涯をかけてわかったつもりになっていた人生というものが、実は何にもわかっていなかった、
と最晩年のゲーテは驚きの体験をしたのだと思います。

そのあたりはもしかして「ファウスト」を読めばわかるのかもしれませんが、ぼくは上巻で挫折しています。

ゲーテはまた、このようなことも思ったのかもしれません。
結局人生は、自分のものではなかった。

ゲーテはすごい人なんです。
どれだけすごいかというと、ゲーテは地方政府の大臣みたいな地位についていたときに、37歳だったそうですが、要職を放り出してイタリアに旅だってしまうのです。「イタリア紀行」に詳しいです。
データによると、正式に休暇届を出して行ったようですが、イタリア紀行にゲーテ自身が書いたものをみると、まあだいたいぼくの記憶で書くと、

あるとき、自分の中の詩が死んでいっているのを見つけた。このままではいけない、にわかに焦りと衝動にかられた私は、通りがかった馬車に飛び乗って、南へ言ってくれたまえ!、と叫んだのだった。

みたいに長期イタリア旅行へ旅立つのです。
なんかすごくないですか?ゲーテは自分の中に詩を取り戻すためにイタリアへ逃げたのです。



おっと、脱線はここまでにいたしましょう。

幸せになるために生きてるわけじゃない、そういう話をしていました。
では何のために?

わかりません。ただぼくもかっこつけていいならば、ゲーテみたいに、冗談みたいな人生だった、と晩年に言ってみたいものです。
いや、ちがいますね。冗談みたいな人生があるのではなく、人生はすべからく、悪しき冗談なのです。
悪しき冗談をわけもわからず生きた、きっとそれだけのことなのでしょう。

だがその中で、いろいろなことがあったはずで、そのいろいろなことはゲーテの中をどのように通り抜けていったのでしょうか。

あれ、なんかおかしなモードになってきた。

自分というけげんなものがある。そのけげんなものととにかくここまで一緒に歩んできた。このけげんなものの実態はつかみきれないし、完全にコントロールすることもできない。そしてこのけげんなものともいつかお別れするときがくる。

なかなか落ちがつきません。

まあいいや、みんな楽しく生きましょう!

12/21/2011

金髪まぬがる

今日は友達の紹介でスミニャックという地域にあるヘアーサロンにいってきました。
なんでもその友達がいうには、ぼくは金髪の坊主がぜったい似合うというのです。
一度やってみてくれ、とかなりのオススメがありましたので、じゃあ人生で一度くらいは、ということで行ってきました。いま金髪にしてもたしかに何のデメリットもありません。

で、ヘアーサロンにつき、どうしますか?と聞かれ、
あのー友達がいうのは金髪が似合うということなのでー、坊主で金髪にしてくれますか?
とおそるおそる言ってみたところ、美容師さんの動きが止まりました。
「むちゃぶりですね」
なにやら若干顔をしかめている用紙。

おれ「いやーあの、ただ言われただけなんで、似合わないとかだったらぜんぜん他の路線で結構なんですけどーあのー汗汗」
美容師「やめたほうがよろしいかと。」
いれ「ですよねー無茶ぶりですよねー、じゃあやめときます。あの、ぜんぶお任せでお願いします!」

というわけで、結局、ミニベッカムヘアーという感じで整いました。
なかなか気に入っています。

そうこうしているうちに、紹介してくれた友達が店に帰ってきました。
友達「どうなったかな?」
おれ「いやーあのー似合わないということなので、金髪はなしにしたよ」
友達「そうなんだー(超不満)」
おれ「なんかさ、ほらおれ眉毛とか濃いしさー」
友達「金髪じゃなくてアッシュとかなら似合ったはず」
おれ「アッシュ・・(それ知らない)」

空気を察知した美容師がそっとフォローを入れました。
美容師「よしじゃあ来月はアッシュ入れよう!」
おれ「だね、来月だね。徐々にね、いけばいいよね」
美容師「うんうん、来月は座った瞬間、髪染めるから」
友達「(しぶしぶ納得顔)」

ということで、残念ながら金髪にはならなかったのですが、来月はアッシュ(落ちついた金髪?)になる予定です。来年以降にバリにくれば、坊主あたまのアッシュを見れます。たぶんただの怪しい日本人、になりさがってる可能性がありますが、ノーコメントでスルーだけは勘弁してください。せめて笑ってやってください。

ということで、今日は、一通を逆走して警察に捕まり、罰金という名の賄賂をとられてしまいました。
しかし、小銭で勘弁願うという技を早くも身につけることができたので、もう怖くないです。気をつけます。

それから、おとついぼっきりと折れてしまった、サーフボードのフィンを買いに。5千円くらい。いたい出費。痛い出費。何かとお金が飛んでいきます。

ということで、今週から仕事も若干増量してもらう予定です。翻訳もだいぶ慣れて来ました。
要は「働け」ということですね。

バリにきて3ヶ月、ようやく勝手がわかってきたのか、何をしてもいちいち疲れるということがなくなってきました。あいかわらず道には迷いまくりですが。まあ、これから本番ということで、ペースをつかんでいきたいと思っています。

まだまだ何の準備もないのですが、バリに遊びにきてくれた人をサーフィンに連れ出し、飯食って、サーフィンして、飯食って、サーフィンして、飯食ってビール飲んでしゃべって寝る、という生活を1週間ほどやってもらう、というツワーでも企画しようかと思ってます。おっと仕事が抜けてましたね。くわばらくわばら、まあ観光してもらってる間にぼくは仕事をするという感じで。

まだ自分の生活もいまいち整っていないのですが、まあ来年の春とかまでにはペースをつかんでおきたいところです。

政治2

さきほど政治について書きました。
そして、日本の人口サイズが問題なんじゃないかと書きました。
しかし書き忘れたことがあるので戻ってきました。

そう、人口サイズは確かに実践的な問題だとは思います。
だがしかし、だからといって怒りを忘れていいわけではありません。

やっぱり、政治家たるもの、言論で勝負する職業であるものこそ、信頼に足る言葉を吐いてもらいたいものです。それが最低必須条件なのではないでしょうか。
政治の場で言葉が信用できないくなれば、あとは終わりなき権力闘争の顛末をただ見守るだけとなってしまいます。権力闘争は結構、しかし、最低でも言葉に責任をもってやってもらいたい。

いつまでも裏読みをしなければいけないような答弁ばかりを聞かされて、すっかりそれに慣れっこになってしまったようです。言葉は言葉通り、受け取らせてもらいたい。

まずぼくがいいたいのは、そこのところです。

政策は、そのあと。政策は終わりなき修正を加えながらの試行錯誤でいい。
ただし、言葉は、政治家たるもの責任あることばを吐いてもらいたい。

それができない政治家は、ばりばり表舞台から引退してもらうしかありません。
もちろん、言ったことをそのまま実現しろ、ということではない。
ただ、失敗したら失敗したと言ってほしい。間違えた間違えたと言えばいい。
そして次はこうする、と言ってくれればいい。そういうことです。

とりあえず、そういうことです。

12/20/2011

政治について

今朝は政治について思っていることを書きましょう。

あ、そういえばなんか原発の90%が停止しているらしいね。
このまま稼働しなければどんどん止まっていくというわけか。
廃炉にしても燃料棒は何百年も冷やし続けなくてはいけないと聞く。
しかしまあ、核廃棄物がこれ以上量産されないだけでも相当ましと言えよう。
日本としてやりとげなくてはならない。

ところで、
今回の震災で驚いたことは、
菅さん枝野さんが「ザ、日本の政治家」みたいな言語活動しかしなくなってしまったことだ。
ぼくはこの2人はそれまでの自民党の利権ベタベタ国民愚弄型の政治家とはちがう、と思っていたのだ。
菅さんなんかは市民派でならした人だし、野党時代はかっこいい言説が頼もしかった。
ぼくが住んでいた吉祥寺がお膝元で、菅さんが街頭に立てば黒山の人だかりができたものだ。

枝野さんなんかは、ぼくがチベット解放の東京デモに参加したときに、スピーチに現れ、
チベット弾圧をやめさせなければならない、と壇上で断言していた。
おりしも中国の胡錦濤大統領が来日真っ最中の出来事。なかなか気骨がある政治家だな〜って頼もしい気持ちでいたものです。やっと次世代の正しい政治家が現れたな〜って。

ところがその枝野さんにして「ただちには」発言を繰り返してしまった。
ただちには健康に害はありません、ってやつね。

あんな、どう聞いてもなにかをごまかしてるようにしか聞こえない、あとで「ただちには」と言いましたよね、「永遠に」とは言ってないですよね、的な小学生でもしない言い訳をできるようにしてあるんだろうな〜みたいなことをすぐ思ってしまうような、発言。
官僚の作文を読んでるんだろうな〜みたいな発言。
もしあれば、枝野さんの自分の身から出たことばであるならば、もはや枝野さんは生身の人間ではなくなっていたということなのかもしれない。

ぼくは菅さんや枝野さんをただちには批判する気になれない。
他に比べればまだ信頼できるましな政治家だと思う。
それでも、有事の際のああなってしまった。
これはもう個人の資質の問題じゃなく、日本のあの場所、政治の中枢の場所は、そういう人を人でなくしてしまう魔の場所なのだという解釈をぼくはした。

あり得ないことだが、もしぼくが内閣官房長官になってあの場所に立っても、おれなら政治生命をかけて真実を述べるね、とドヤ顔になることはできない。酒の席でも無理だ。
それほどあの場所は恐ろしい場所にちがいないく、それは利権がどうとか官僚がとか、CIAが、とか黒幕が、とかそういう具体的なことじゃんなく、もう様々な圧力をありとあらゆる方向から受けて、生理的に防衛本能がマックスになってしまう場所、信念を持ちながらもリスク回避型の発言しか口から出なくなってしまう場所、そういう場所なんだと思う。

そういう場所を日本はつくってきた。いやたぶん、昔はまだ気骨のある政治家、というのが存在しうる場だったのだと思う。戦前くらいまでは、しかし、敗戦、高度成長、人口増大、国際社会との経済的密な関わり、などなどの要素がかさんだ結果、もはやあそこは常人では制御不可能、まともな頭では立っていることすらままならない場所になったのだ。もう頭を多少麻痺させないと膝が折れてしまうような場所。

ぼくは一番大きな理由は人口増大だとにらんでいる。
なにかを集団的に一元化し、合議、決定するには1億人は多すぎるのだ。
人口の多さのせいで、日本は決断できない国になっている可能性をぼくは感じる。
他に人口の多い国、アメリカ、ロシア、中国などは、まるで独裁国家のような呈ではないか。
アメリカは民主主義の権化のはずだが、どう見ても議論の積み重ねで政策が決まっているようには見えず、アメリカは民主主義です、と言われてもハテナ?という感じ出し、中国、ロシアはまんま独裁です。

ここでおさらい的に世界の人口ランキングを見ておくと、

1 中華人民共和国(中国) 13億5,400万
2 インド 12億1,500万
3 アメリカ合衆国(米国) 3億1,800万
4 インドネシア 2億3,300万
5 ブラジル 1億9,500万
6 パキスタン 1億8,500万
7 バングラデシュ 1億6,400万
8 ナイジェリア 1億5,800万
9 ロシア 1億4,000万
10 日本 1億2,700万



こういうことになる。日本は10位。けっこう上位だ。
どうでしょう、人口トップ10の国で、民主主義がまっとうに機能している国があるでしょか?
インド、ブラジルあたりは可能性がありますが発展途上の国ですし、他はまだまだ独裁に近い国が多いんじゃないでしょうか。


まあ長くなってきたのでまとめますと、
政治の混乱は政治家の資質というよりは日本型システムの問題であり、
日本型システムの問題とは法律や制度の問題ではなく、人口が多いのに一元で合議しようとしている、という問題であるのではないか、と思うのです。


なんとなく理想的な国と言われている、デンマーク、スウェーデン、オランダ、はたまたブータンなどは、人口が日本の10分の1程度の小国なのです。

ちなみに、
デンマーク 550万人
スウェーデン:930万人
オランダ:1600万人
ブータン:72万人

つまり、このサイズの共同体なら、自治のよく効いた公正で目の行き届いたハッピーな政治システムを組める可能性がある、ということだと思います。

なのでつまり何だと言われると、日本の政治システムの突破口は、地方分権?なんかありきたりですねw
地方分家?国を分割?んーまあ答えはすぐにでませんが、なんとなくこの目の行き届く、構成員それぞれが自分の意志や振る舞いが共同体全体に少しは影響を与える、と感じられるサイズ、または、共同体の構成員の中で極端に貧乏だったり極端に虐げられた人が何人かでてくると、自分の生活をダイレクトにおびやかす、つまり犯罪の増加など、そういう「近い」感じをもった共同体のサイズで、大事なものごとを全部決めていくようになれば、あれ?あたりまえでしょ?というくらい政治の腐敗がなくなる気がします。

かつてオランダにいって一番衝撃的だったことは、オランダ人は政治家が「腐敗している」とは概ね思っていない、ということです。市長をこのまえ果物屋さんで見かけたよ、あの人いいひとなんだよ、みたいなノリがあるのです。ぼくが政治家って腐敗してるでしょう、と言ったとき、オランダのおじだんが、なんで?と聞き返してきたときの、え?ちがうの?オランダちがうの?という驚きは、やはり忘れがたいものがあるのです。

12/19/2011

サーフィンまたやっちまった

やっちまいました。


このまえサーフボードをうっかり倒して先端が破損し、修理に出したばかりとお伝えしましたが、
今日、やっと復活したボードをもって、波乗りにいってきたところ、
こんどはフィンが、留める危惧ごとボードからぼっきりと外れてしまいました。
かなりの重傷です。

なんでしょう、誰ともぶつかっていませんし、ビーチの底にもぶつかってないはずなのに。
第一、そんなに大きな波じゃなかった。
でもまあパワーはあって、何回も頭から真っ逆さまに海に落ちました。

また、ボードを修理に出さなければなりません。
これは、やはりバリの神様に・・・

まあよしとしましょう。しょせんはアクシデントです。誰も怪我をしていません。
修理すれば治るのです。
なんだか、「あんまり思い通りにしようと焦るな」と言われている気分です。
ちょっと周りを見渡して、幸福の種でも見つける散歩に出ようかと思います。
明日からは、がつがつせずにのんびり散歩気分でやります。

海は逃げないのですから。


写真は海へいく途中で見えたアグン山。いわばバリの富士山です。たしか標高も同じくらいあります。
神々しいです。

幸せの風景とサーフィン復活


これは近所のダンキンドーナツでの風景です。
家族が赤ちゃん(1歳?)のお誕生日会をやっていました。
このドーナツ屋さんは最近のぼくの職場なのですが、
パソコンでかたかたやっていると、向こうから聞き慣れる歌の合唱が聞こえてきました。
振り返ると、家族がローソクのついたケーキを囲んで歌をうたっていました。
バリのお誕生日を祝う歌なのでしょう。手を叩きながら家族で合唱です。
こんな絵に描いたような幸せがあるなんて。しばし見とれ、思わずシャッターを切りました。
これを幸せの風景といわずして、何を幸せというのでしょう。

このあと、この女の子(お姉ちゃん)が、赤ちゃんを椅子に乗せて、神輿のように店内を練り歩きました。お披露目なのでしょうか。かわいくておかしくなりそうでした。

そんな幸せの風景を堪能したあと、あの、衝撃の神様のいじわるのリカバリーを必死でやっていました。
そう、消えてしまった翻訳記事のやり直しです。おもったりたくさん消えていました。7割といったところです。でもがんばりました。なんとか復活して、無事に送信を終えました。


そして夕方から、海へ
予報では波がないのはわかっていたのですが、練習と運動をかねて海へ入りました。
ところが、海でちゃぷちゃぷやっているうちに、だんだん波があがってきました。
これは波乗りできるか!ということで、次にきたうねりに乗ってみました。
おー進んだ!よし、立つぞ!と思った矢先、何が起ったのは、ぼくの体は垂直のそそりたっており、
あたまから海に叩き付けられてしまいました。ボードもどこかにふっとんでいます。
きびしー!パーリングです。
まさか、急にこんなに波のサイズがあがってしまうとは思いませんでした。わずか30分ほどでこんなにコンディションがかわるなんて。
あれよといううちに軽いチューブが巻き始めました。こんなん乗れるか!
なんとか岸にあがると、咳き込んでしまいました。あ、そうだった、おれ風邪引いてたんだ。
そうです、数日前から風邪をひいたよいで、のどが痛く、湿った咳が出ていました。
無理は禁物ということで早々と引き上げてきました。

なんだかなー。バリにきたらサーフォン三昧かと思ったのですが、
さすがバリの波、日本の波とはパワーが段違いです。すこし間違うとふっとばされます。
バリは波がいい、波がいい、といいますが、それは上手い人にとって。
ぼくのような初心者には、乗れる波を探すのでも大変なのだということを今更のように気がつきました。

んーストレス。なかなか乗れない。
しかし、こういうものです。何事も最初から思い通りにはいかないものです。
しかし、バリ、プロみたいにうまい人がうじゃうじゃいます。
あーバリにいる間にあそこまでいけるのかなー、と遠い気持ちになりました。
目の前のあるのに、到底到達できなさそうな目標。
サーフィンは体のスポーツです、どんなにがんばってもすぐにどうこうなるものではありません。
何か上達らしきものを感じるまでに数年はかかるでしょう。遠いなあ。と文字通り遠い目で上級者達を眺めていました。ギャルだっているのに。あんなギャルの足下にも及ばないなんて。

まあ焦らずやってみます。
最近ようやくバリタイムになれてきたというか、朝起きて気がついたら夜になっている、という感じになってきました。これでいいのか、いけないのか。まあ淡々と生きています。

下の写真はいつもいく海の海岸沿いの風景です。この向こうに海があります。
どうですが、のんびり至極ですね。うしが放牧されています。もうずいぶん遠くにきたのかもしれないな、なんて思う瞬間です。

12歳の白熱電灯

こんな話をきいた。
とある戦前生まれの方と話しているとき、終戦直後に何を思った?と聞いてみたところ、電気をつけられるようになったことがうれしかった、と話してくれました。

映画のワンシーンシリーズ

ぼくは、このネタをいつか映画にしようとあたためていました。そう、何を隠そう、ぼくは以前、映画監督になりたかったのです。ところが、あまりに怠惰な性格と、あまりの遅筆と、あまりの統率力のなさと、あまりの実行力のなさによって、つまりはあまりに面倒くさがりだったために、映画監督どころか、ミニ映像さえもほとんど作らないまま、映画監督、映画監督という呪文とともに空の彼方に消えていったのです。

でも、ぼくが映画を志したのは他でもない、一つの理由は、ぼくは人の話をきくとよく頭の中に映像が回転しはじめるのです。それはほんの数秒だったりするのですが、その映像を表に出してみたい、という欲望がうずいたりするのです。しかし、その映像は、基本的に映像化するにはあまりにセッティングやキャスティングがめんどくさくて、いずれ、いずれ、といっているうちに何十年もたってしまったりするのです。そうです、ぼくはあきらめました。映画監督を。いやさ、自分が映画、のみならず映像をつくれる人間だということをいま、ここに基本的にあきらめました。

そうなるとかわいそうなのは、頭に浮かび、いまだその陰影を薄めないフラッシュ映像たちです。
ぼくはこれを、いまここに書くことで成仏させていきたいと考えました。

前置きが長くなったようです。本編に入りましょう。「12歳の白熱電球」

それはこんなシーンから始まります。

夏の夜中に、空襲警報が鳴り響きます。
家々からわずかに灯っていたろうそくの光が次々と消えていきます。
空に米軍のグラマン飛行機がわらわらわらわらと轟音をひびかせて飛んできます。
焼夷弾を落としました。
町は焼け始めます。

そして、ある日
玉音放送です。大人たちが正座し、涙をぬぐいながらラジオを聞いています。
大人たちにまじって、きょとんとした顔の12歳の少女が座っています。
5歳の弟ももじもじしながらとなりに座っています。大人達の顔を不思議そうに見上げています。

日が沈み、夜になりました。
大人達は沈痛な顔でぼそぼそと話し合っています。
少女は立ち上がり、白熱電球のスイッチをひねりました。
明るい光が家中に広がりました。
「わー明るい」
大人達も思わず電球を見上げます。
少女は部屋中を見渡し、久しぶりの夜の明るさに体中を喜ばせたのです。
そう、空襲を警戒して夜は電気をつけないように指導されていたのでした。


時間がたって

進駐軍がジープに乗ってやってきます。土煙がたちます。
こどもたちが駆け寄ります。「ギブミーチョコレート」
米兵はこどもたちの頭をなでながら、お菓子を配ってやります。
おかしをもらってうれしそうに駆け出していくこどもたち。

少女の家。
少女が弟を叱責しています。
「おまえ、日本男児だろう、はずかしくないのか!」
チョコレートを手にうなだれる弟。
少女にとって、憎き敵兵からほどこしをもらって喜ぶ弟が情けないものに思えたのです。


2年がたって
少女は中学生になっています。
学生服を着て通学路を歩いていきます。
季節は春ですね。桜がちらほら舞っています。
向こうから、外人のお姉さんが歩いてきました。すれちがいます。
ふわっとする香水の匂いと、真っ白いおしゃれな洋服。
洋服。
少女の目は洋服にくぎづけになりました。
あんな服を着てみたい。あんなきれいな服を着てみたい。

また数年がたち

少女はどこかの学校の前にたっています。
神戸洋装学院という看板が見えます。
日本初の洋服のデザイナー養成学校です。

少女は、自分で洋服をつくれるようになりたい、
そんな夢をいつしか抱くようになっていたのです。

この少女がのちに、日本のファッションデザイン界を開いていくことになるのですが、
それはまた別の機会にお話ししましょう。


まあ、ざっとこんなイメージが駆け巡っていたのです。
こうして書いてみると、まあありがちかな。
でもぼくの頭の中では、この凛とした少女のあいくるしさといったらないのですが、
それをお伝えするすべがなく残念です。

あ、いちおう言っておくと、上記のイメージはオリジナルは一切無く、
すべて誰かからきいたお話の寄せ集めです。

たまにはこんなシリーズも。

12/18/2011

世間が罰しにやってくる

ぼくの中の一大テーマに「世間」というものがあります。
せけん、です。

ぼくはこの言葉が大好きなんです。
この言葉ほどぼくに理不尽な気持ちをかき立てることばないのです。
いや、ぼくにとって最大に理不尽をかき立てるのは実は時間が過ぎ行くということです。
自分の意志とはまったく関係なく時間が過ぎていき、年老いて、命が尽きてしまう。
これに対してほとんど何もできることがない、という理不尽さ。

ひるがえって「世間」は、とても理不尽ではあるが、まだできることがある、という意味において、ぼくを刺激してやまないキーワードなのです。

こんなことがありました。
あれは、ぼくが仕事を辞め、居候的ノマドライフを始めたころです。
そのころは居場所も不特定、いられる場所に居る、という生活でした。
そんなとき、心配した親から電話がかかってきました。

親「あんた仕事はしてるのかね?」
オレ「まあなんとかするよ」
親「なんとかするって何なのかね?」
オレ「自分が生きてくくらいのことはなんとかするって」
親「あんたね、自分はそれでよくてもね、世間はそう見んでね、(見ないからね)」
オレ「・・・」

というような会話がありました。
まったく社会人10年目が親とする会話ではない。お恥ずかしい限りです。

このような会話が実際になされた。
そのときぼくは、もちろん自分への情けなさと、親へのすまない気持ちと共に、あれ?と不思議な感想ももちました。

世間とな。

「世間はそう見ないぞ」そのメッセージにはどういう意味が込められているのか。
たぶん、ひもとけばこう言い換えられるでしょう。

あんたは自分の好きにすればそれでいいかもしれない、
私(親)もあんたがまあ健康で生きていってるなら百歩ゆずってよしとしよう、
でもね、世間様はそんなに甘くないからね、世間はあんたのような人間を許さないからね。

というメッセージだったと言えよう。
世間って誰だよ、思わずそう(心の中で)つぶやいたと思います。

そのとき、もうもちろん自分がふがいないだけなので、そこは棚にあげさしてもらいますが、
そのときから、「世間」に対する宣戦布告をしようと腹に決めた節があるのです。
かっこよく言い過ぎました。すみません。

そんなかっこいいことではないですが、親がそれほどまでに恐れる世間とやらはどこのどいつなんだ、
そしてもちろん、世間が許さない、ときいて心臓がバクっ!としてしまった自分にとって、世間とは何なのか。ぼくの中の研究者魂みたいなものが少し頭をもたげたのです。

よし、じゃあ世間が何と言ってくるか見てやろうじゃないか!

わかっています。ぼくは甘えているだけなのです。
嫌だ嫌だと言っているだけなのです。それはわかっていますが、
あの「阿部謹也先生」も生涯をかけてひもとこうとした日本的世間の正体を、
ぼくもひもとき暴く一端を担ってやろう、どうせこの立場に落ちたなら、それを見てやろう、という小さな小さな野心がそのときから芽生えたのです。


好き勝手に生きたら、いや、もちろん思い通りにはこれっぽちもなっていませんが、つまり世間のことを無視するかのように生きたら、世間は罰しにやってくるのか。
どのように罰しにやってくるのか。誰が罰しにやってくるのか。それを見届けてやろう。

それは、就職の面接官かもしれない。
それは、ぼくに仕事をくれている出版社の編集担当者かもしれない、
それは、親戚のご意見番的おじさんかもしれない、
それは、実は親兄弟かもしれない、
それは、姉の旦那さんの実家の人たちかもしれない、
それは、税務署の職員かもしれない、
それは、実は、遊び友達かもしれない、
それは、将来結婚したいと思ったときの相手の両親かもしれない、
そしてそれは、結婚しようとしている相手本人かもしれない
はたまた、文字通りその他大勢として、道行く人々、出会う人々がそれぞれにいぶかしげな非難の眼差しを送ってくるという形で罰っせられるのかもしれない。
それは、心ないうわさ話としてじわじわと首を絞めにくるのかもしれない。

とにかく、誰がどのように罰しにくるのか。
どうせならそれを見届けてやる、と思っているのです。
いまのところ、まだ誰もやってきません。

世間上等!と刺繍が入った真っ赤な特攻服をいつでも着られるように奥座敷に飾ってあるのですが、
誰も、おれが世間だがちょっとツラかせや、といって現れないのです。

わかりません。
世間とはそのような形ではなく、もっとウイルスのように気がついたら体内に侵入して体力を奪われていた、という形で攻撃してくるのかもしれません。

でもいまのところ、「あ、お前が世間だったのか」という相手には出会っていません。
しいていうなれば、世間は自分の中から、たまに重低音で呪いのことばを吐いてきます。
「おまえみたいな奴はきっと誰からも見捨てられる」


なんだか重苦しい感じになってしまいました、すみません。
いや、自分のことはさておき、ただ単純に「世間」って何なんだろうね?という疑問を提示、みなさんのご意見ご感想をお聞きしたかったのです。
なぜなら「世間」とは日本社会の最大の特長であり、その割には研究成果も少なく、ひとり阿部謹也先生が荒い息を吐いていただけなのですから。

社会学なんてやる暇があったら世間学をやったほうがいいよ。そのほうがより我々のリアルに直撃するテーマであるからです。

そんなことを捨て台詞にしながら、「逃げ切ってやる」とつぶやき、今日も及び腰でスタスタ歩き去る次第なのであります。

12/17/2011

ふんだりけったり

いま、ふんだりけったりの、けったりの直撃をくらってしばらく立ち上がれないところでした。

ふんだりは、昨日、できたばかりのサーフボードを玄関に立てかけておいたところ、風で倒れたのか、倒れており、ボードの先っぽをさっそく破損してしまったことです。ニューボードがあ。親指大くらいの欠損が生じてしまいました。
まあ、そちらはまあそんなものさ、とすばやく立ち直り、今日、修理に出してきました。

そして、今日は雨模様、朝から翻訳のエンジンがかかってきてばりばりすすめ、月曜日までと思っていた記事を早くも翻訳してしまいました。しめしめやればできるんだなー。しかも今月は通常の倍のペースで翻訳しており、所得倍増計画も着々と進行しているように見えました。

ところが、先ほどネットが調子悪くなって、再起動などしてから編集画面にいくと、な、な、なんと、翻訳したばかりの原稿の下半分くらい失われていました。なぜか消えています。おおーー。どこにもバックアップはありません。
丸2日くらいの成果がぶっとんだのです。せっかくがんばって終わらせたのに・・・

これはバリのブラックマジックをかけられたとしか思えない。だれかの嫉妬でも買ったのだろうか。。

いやーへこむなー。
まじへこむなーこれ。

まだ日曜日があります。間に合うはずですが、これはきつい。

しかしこれはなんだ、何かのメッセージか、と天をにらんでしまったのでした。

12/16/2011

初めて順位がついたときのこと

お受験シリーズですw

思い出しが止まりません。ここに書いているのは単に覚えているというだけではなく、なにか違和感とともに覚えている記憶たちなのです。

あれは中学1年生の最初の中間試験が終わったときのことでした。6月くらい?でしょうか。ぼくたちはまだついこないだまで野原を駆け回る小学生であり、まだ学生服もさまにならない12歳でした。

で、中間テストが終わって数日がたったとき、生まれて初めての個人面談が始まりました。一人ずつ廊下に呼び出されて先生と1対1で面談するのです。話題は中間テストのことでしょう。
名簿順に呼び出されるでずいぶん早い順番で呼ばれたはずです。ぼくはドキドキしながら廊下で待つ先生のところに行きました。

そこで、どうだ調子は的な雑談があったあと、それでは、という感じで中間テストの順位が伝えられたのです。君はクラスで○番だったよ。と。
衝撃的でした。順位は悪くなかったのです。わりと上位のいい方でした。しかし、何がショックかというと、クラスに順位がついたというその事実そのものにです。
その瞬間のことをぼくはよーく覚えています。とてもとても覚えています。なぜならやはり、ぼくがその時に感じた感情は「怒り」だったからです。
「てめーら何勝手に順位つけてんだ」
ほんとにショックだったんです。なんで順位をつける必要がある?そしてそれを伝える必要がある?
いや、いまちがうなと思いました。もっとよく思い出してきました。
順位をつけられたことにではなく、順位を伝えられたことに怒りを覚えたのでした。
正直なぜだかはわかりません。
ただ、「順位なんて知りたくなかった」そう強く思ったのを覚えています。それは怒りとも言えるし、悲しみとも言える感覚だったように思います。知りたくなった。

先生は、いい順位だよ、がんばったね、的なことをしきりに言っていましたが、ぼくの頭の中はパニックでした。これをどう扱ったらいいかわからなかったのです。

そして、先生は「最後に何か相談ごとでもあるかな?」と聞いてきました。
ぼくは「やってもやっても力がつかないんです」と言いました。
先生は「おやそうかい?この成績なら十分だと思うけど。でも自分で自覚あるならなおさら大丈夫だよ」と言いました。
ぼくは、「いや、ちがうんです。勉強ではなく、物理的に腕の筋肉がつかないんです。毎日部活で腕立てしてるのに、ぼくだけ力がついていかないんです。さぼってるわけではないのに」と説明しました。
先生は、苦笑して、そっか、まあそれはがんばるしかないないね、的な感じでお茶を濁して、じゃあ次の人呼んできて、と言いました。

これがぼくの初個人面談の顛末です。

ぼくは覚えているのです。あの、はじめて自分の順位を聞いたときの感想は、喜びでも落胆でもなく、怒りでした。なんでそんなこと言うの?なんで順位なんかぼくに教えるの?


いま思えば、あれはおかしいんじゃないでしょうか。
百歩ゆずって成績で順位がつくのはしかたがない。点数がつくわけだから順位も自動的についてしまいます。でもそれを本人に伝える必要は果たしてあるのでしょうか。しかもこっそりと本人だけに。

つまりこういうことです。あの個人面談が終わったあとの教室は、自分の順位を秘密裏に胸に秘め、誰にも言っちゃいけないな的な空気のなかで、あいつはおれより上だったのだろうか下だったのだろうか、と疑心暗鬼を張り巡らせているのです。生徒40人全員が、心の中でああでもないこうでもない、と自分につけられた順位に一喜一憂していたはずです。

あたかもそれは大切な秘密のように、そっと教えられる自分のクラスでの順位。
あなたは○番でした。でもみんなには内緒でね。そんな空気です。

それはいったいどういうことなのでしょうか。
そして、そのときから、クラスは順位を競う場になるのですが、それでも自分の順位はいつでもこっそりと伝えられるのです。こっそりはそれは成績の悪い子への配慮なのかもしれません。ですが、そのシステムそのものがどこかいびつなものを感じる。それをさも当たり前のようにやってのける担任の先生を、ぼくはたぶんこころのすごく奥の方で、小さく軽蔑したような気がします。

英語の授業で立たされたこと

どうやら思い出のふたが開きかけているようです。
いま、高校生のころの出来事で、ずっとこころにあることについて書きたいと思います。

あれは高校3年生、受験を控えたの1月、2月のころだったでしょうか。
とある英語のグラマーの授業でのことです。
そのころ、受験勉強も架橋に入り、内職する生徒もちらほら散見されました。
内職とは、授業中にこっそり他の勉強をすることです。数学の時間に英単語を覚えたり、といったことです。

ぼくもその頃には自分の受験勉強のプランが出来上がっており、その英語のグラマーの授業は、ぼくのプラン上ではあまり重要ではない授業に分類されていました。たぶん主題範囲からはずれているか、ぼくがすでにマスターしてしまった内容だったのでしょう。

そうだ、思い出した、それはたしかセンター試験があと数日とせまっている頃でした。
ぼくは、時間がもったいないとばかりに、教科書で隠すようにして単語帳で英単語を覚えていました。単語力は非常に重要だからです。一応ばれないようにおとなしくやっていたのですが、先生が教室の生徒に向けてこう注意しました。「授業中に他のことするなよ、いいな〜」最初は軽い感じで言っていたと思います。他にも内職の生徒がいたはずです。でもぼくは先生から再三のアナウンスを無視して、単語帳をめくり続けていました。今日中に覚えてしましたい範囲があったのです。
すると、先生がぼくを名指していいました。「おまえ、何やってるんだ」
ぼくはたしか「単語を覚えています」的に正直に少し反抗心を燃やしながら答えたと思います。

先生は顔を赤らめて怒りました「なにぃ!おまえいま文法の授業だぞ。ちゃんと授業を聴け」
ぼくは無言で着席し、単語帳をしまったと思います。

翌日からぼくは学校を休みました。背に腹は変えられない。無駄な授業なんて受けてる時間はないのです。ぼくは友人と図書館へいって自習することを選びました。もう期末テストは終わり、通知表の数字は確定しているはず、少しばかり授業をさぼっても成績には影響ないはずです。
そして友人と楽しく受験対策に没頭していました。

そして、あの顔を紅潮させて怒っていた英語教師に、どこか同情と、悪いことしたな、という後ろめたさを感じながらも、内心ではこう思っていました。「どうせ高校なんて受験準備ための通過点なんだから、ちゃんと仕事してくださいよ」と。ちゃんと受験対策優先させてくださいよ、しょうもないプライドや文部省のカリキュラムではなく、本当にぼくたちが大学に受かることだけをまじめにやってくれればいいんだよ、と。

嫌な生徒だったのです。
でも本音でした。もちろんクラブ活動や文化祭など高校ならではの活動については価値を認めていました。でも、少なくとも授業は、それはやっぱり大学受験のためなのだから、中途半端なことはせず、受験対策を徹底してほしい、どうせ大学合格率で高校の善し悪しも判断されているのだから、というのが実感でした。中堅どころの進学校だったのです。

そんな風に思っていたのです。高校生のころ。典型的な受験高校生だったのでしょう。
高校は通過する場所。嫌なこともやり過ごしてさっさといい大学に入った者が勝ちだ。こころの底流にはいつもそのような割り切りがあったように思います。
だから、たいがいのころは、たいていの理不尽はだまってやり過ごしていました。どうせ通過する場所、下手に問題を起こして内申書に傷がついてははもったいないからです。

そして先生達も少なからず内申書をつける権力、というものを利用して生徒たちをコントロールしていたように思います。

たまに頭の片隅に浮かんでくる、あの英語の授業。いまこうして書いてみることで何かがわかるかと思ったのですが、何かがわかるというほどではなかったようです。でもぼくは何かにとても怒っていた、その感触をいま再確認しています。先生にではなく、何かにとても怒っていた。

それはたぶん、ひとつはこんな姑息なマネをしてまで大学に受かりたい自分の卑しさ、そしてなによりも、自分をそんな風にさせている、何か、にです。

そんなことを思い出していました。

僕の通ってきた道

よくメールのやりとりをさせてもらっている戦前生まれの女性の方がいるのですが、その人から、あなたの怒りはどこにあるのか?と聞かれて考えていました。政治に関してです。いまの若い人はどう思っているのか聞かせてほしいという。

そこで、ぼくが返信したメールをここに転載します。なぜなら、同年代の人に、そう、その通り!なのか、いや、そんな風には感じてなかったけどな、なのか、そういう声を聞いてみたいと思ったからです。
では以下。


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ぼくの場合はどうかと思い出してみると、物心ついた頃には高度成長期で、日本中が沸き立っていました。日本は世界で一番になった!みたいなニュースが連日流されていました。ぼくはいい大学、いい会社とエリートコースに乗ることだけを考えていたように思います。政治を見れば、わけのわからない言葉を弄する大人達がへらへら笑っているだけに見え、政治家はみんな強欲じじいどもだと決めつけていました。そして、政治が自分の生活にそれほど関わりがあるとは思えなかったのです。政治がどうであれ、一流大学へ行って一流企業へ入ることが幸福への切符であり、それは端的に受験勉強を勝ち抜くことでした。政治は関係なかったのです。

ぼくが政治に関心をもち始めたのは、実に米国の9.11事件の後からでした。
それまでは日本の首相の名前も知らなかったのです。

この温度差はでかいですね(笑)

今のぼくの怒りはどこにあるのか。怒りはあるんですが、それを誰にぶつければいいのかわからない感じがしています。一部の政治家が悪いのか?でもその政治を選んでいるのは国民です。官僚が悪いのか?でもその官僚を許してきたのは他ならぬ国民です。つまり、ぼくは、60年代の学生運動にも立ち会っていませんし、国家が武力で弾圧している現場を見ていません。ぼくの目には、政治家や官僚はやはり国民が選び許してきたように見えるのです。その場合が、だれに怒りを向ければいいのでしょうか。自分を含む国民全体の無知と欲望と馬鹿さ加減に意識が向いてしまいます。政治家がダメなら次の選挙で選ばなければいい、でもいまの政府が国民の総合的な合意で出来上がっていることはやはり否めないのです。

ぼくは石原都知事がどうも嫌いなのですが、ぼくがどんなに投票にいっても石原さんが圧勝してしまいます。都民の総意は石原にあり、ということです。この場合、怒りを向けるべきは石原氏ではなく、石原氏を支持している大勢の都民ということになります。

なので、ぶつけ用のない怒りとやるせなさを感じているのです。ぼくの世代には共通する意識かもしれません。

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ここまです。
こうしてみると、なんか言い訳してるようにも見えますね。でもこれが高校生ぐらいのころの実感だと思います。
9.11以降、ぼくはにわかに政治に目覚め、ビデオニュースなどのサイトで様々な情報を集めはじめました。米国の実態、日本の実態、いま思えば驚愕の事実に「ほんとかな〜」と半信半疑で聞いていましたが、今思えばほとんど事実でした。9.11以降、日本の空気感は一変しましたね。もちろんバブル崩壊に次いで、という感じですが。

こんな時代だからこそ、ぼくは自己の幸福を徹底的に追及しようと思っています。正しいことではなく。

市川君を待たせる

思い出シリーズ

バリ島の話題が出てこないのはしばらく勘弁していただきたい。
たぶんもうバリ島が日常化しつつあり、何か「そうだこれを書いておこう」という驚きが見当たらなくなっているのです。また、ぐるっと一周したら書き始めるかもしれないので、お待ちを。

ですのでぼくがバリ島以外のことを書いたとしても、それは明らかにバリ島に刺激を受けて考えたか、思い出したか、はたまた同じ話題でも少し感じ方が変化していると思うのでそちらでご了承いただきたい。

で、思い出シリーズ
いつかは書いておきたい、懺悔なことがある。

あれは小学校の5年生くらいのころだろうか。
ぼくには市川君という友達がいた。
どちらかというとおとなしく不器用で、いじめっこから用事をいいつけられるようなタイプだった。
性格も簡単にいうと優しくて純粋。体も大きくおっとりとしていた。

ぼくは市川君とわりと仲がよく、たま2人で遊んでいた。
とはいえいつも一緒の親友というわけではなく、なんとなく馬が合うのでそれとなくお互いの家に行き来するような感じだった。

ここから、ある日の思い出を書こうと思うのだが、実は詳細を覚えていない。
でも、あるシーンだけを強く覚えており、そこを書きたいので書いてみる。
覚えているシーンとはこうである。
ぼくが近所の広場で野球の練習をしている。1人ではなく集団に混じって練習している。
たぶん地域対抗戦のために野球チームをつくったときの練習だろう。
広場の隅っこで市川君がしゃがんでこちらを見ている。練習が終わるのを待っているのだ。
練習はゆうに2時間、3時間はやっていたと思う。
ぼくがたまに目をやると、市川君は「おーい」という感じでだるめに手をあげてくれた。
待ち疲れている風である。
なぜ市川君が待ってくれているかというと、たぶん練習のあとに遊ぶ約束をしていたからだ。

相当待たせたんだと思う。
ぼくは「なんだか悪いな」と思いながらボールを追いかけていたのを覚えている。
なんでこの記憶がいつまでも印象に残っているのだろう。
なにか「いけないこと」として印象に残っている。
待たせるべきではなかった。ということだろうか。
市川君はおっとりした奴で、あまり頭がくるくる回る奴ではなかった。
なので、ぼくが「練習終わるまで待っててね」と当然のように言えば、さして抗議もせずに待ってくれてしまう、そんな奴だった。
ぼくはそれをしたのだろう。他の友達にだったら待ってろ、とは言わなかったはずだ。
いまから練習だから、また今度ね、とか、それか練習をさぼって遊びにいっただろう。
市川君だから待たせてしまった。どうせこいつなら待ってくれる、そんな計算があった。
こいつなら待たせてもいいだろう、という上からの眼差しもあった。


唐突に言うが、市川君を待たせるような人間にはなりたくないのだった。
野球の練習がなんだというのだ。地域の子供会の野球チームがなんだというのだ。
野球大会がなんだというのだ。その大会は学区の子供達が総出で勝ち負けを競う、花形の大会だ。
親御さんもみんな見に来る。ここで活躍すればヒーローだ。ぼくは選手になれるかどうかの瀬戸際くらいにいたと思う。
でもそれがなんだというのだ。今思えば、今思ってもたしかにあの大会で活躍したかったし、補欠なんかになって声援だけの参加なんてぜったい嫌だと思っていた。恥ずかしいし、かっこわるいし、楽しくないし。

でも、おれに会いにきた市川君を待たせてまで、何にしがみついていたんだろう、などと今になれば思う。野球チームは別におれを必要としていなかった。エースでもキャプテンでもたぶんレギュラーメンバーでさえなかった。市川君はおれと遊びたかった。来てくれた。

市川君を待たせたおれは、そこまでおおげさに言う必要はないかもしれないが、何かに負けたのだ。
律儀に何時間もおれを待ってくれた市川君は、何を思っていただろうか。たぶんいい奴だから何も思ってやしないが、市川君を待たせたあのときのおれのような心が、大げさに言えば、この社会をどこか息苦しくいびつなものにしている気がしてならない。
そして市川君のような人は、ぜんぜん違ったら申し訳ない限りだが、この社会では少々生きづらく、何らかの生き方の修正を迫られ性格が変わっていってしまうか、単に隅っこで大衆に肩をこずかれるようにして生きている。(ちょっと色めがねすぎるかな。すげー活躍してる可能性だってある)

しかしあのとき市川君を待たせてしまったおれ11歳。11歳にして、しっかり世間に生きていたおれ。
願わくば、市川君を待たせない人間に成長していきたいものである。
おれを必要としない、おれも必要としない野球なんかほっといて、形ばかりのユニフォームを脱ぎ捨てて、市川君に歩み寄り、ごめんごめん、野球もういいや、チャリでどっか行こうぜ!って平気顔で言えるくらいの強さがほしいものなのだった。

12/15/2011

自分勝手な物語

人は自分勝手な物語を生きればいいのではないでしょうか。

今朝は珍しく朝6時に起きて海へ。
朝一の海を独り占めしたかったのです。
もちろんサーフボードを連れてです。

6時10分、海に到着。朝日に照らされた海は静まり返っています。
堤防の上を早起きのバリ人たちがお散歩しています。
朝一の海は静まり返りすぎていました。
波ねーじゃん。
30分ほどストレッチなどして波を待ちますが、一向にウェーブが来ません。

ひとまず朝ご飯を食べにいくことにしました。
近くのワルン(食堂)へ。完全ローカルのワルンで、英語が通じず。
他のお客さんの助けを借りてなんとかナシチャンプルーとバリコピ(コーヒー)を注文しました。
小一時間休憩して再び海へ。

波はさらに引き潮で、沖へ沖へと遠ざかっていました。
潮見表を読み間違えていたようです。
もうとりあえず海へ。ボードに腹這いになり、ちゃぷちゃぷ遊びました。
ニューボード、いい感じです。パドリングもすいすいです。
あまりに波がなく、ブギーボードみたいに遊んでから、8時頃に海をあがりました。

そんなこんなのニューボードデビューの朝でした。


えっと、ここからがタイトルの話題です。

バリに来てから数日置きに誰からから「なんでバリに来たの?」と聞かれます。
いつもは、物価が安いから、サーフィンができるから、の2本立ててで回答しています。
さらに仕事のことなどつっこんで来た人には、パソコン1つでできる仕事に変わったからかねてから興味があった海外暮らしをスタートしてみたのだ、と言うことにしています。
ほとんど以上で、説明は完璧なのですが、しかし僕の中で振動している何か別の理由がある気もしていました。それははっきり何かはわかりません。

5年前、ぼくがあらゆる希望がなくなった(かのように思え)吉福さんのところにインタビューという名の人生相談にいったとき、結論としては、あんたは金、仕事、女の全てにひっかかってるんだね(笑)という結論が言い渡されました。(笑)の部分は本当に笑われたのです。

で、吉福さんの処方箋は、お金については貯金をなくすこと、仕事と女について、ぼくの中になにか結ぼれ、ひっかり、フィクセーションがあるから、それを解消するのが一番だ、ということであり、そのためには、いろんな仕事や女をとっかえひっかえ試すつもりで自覚をもちながら様々な実験を繰り返して行け、というアドバシスに結実しました。

果たして、その後、数年の間に本当に貯金はゼロになり、そのおかげで仕事を探しはじめ、めでたく6年ぶりの社会復帰とあいなったわけです。そして女性関係のほうもそれなりに雪解けを迎えたのでした。

しかし、しかし、3大テーマはまだしっかりと僕の中に「まだここにいるぞ!」と声をあげているのです。牛歩の歩みで進歩はしている、しかしまだまだしっかりと結ぼれがあるのがわかるのです。
実験が足りないようです。

しかし、あれから5年経ってまだここまで。解決にはほど遠い。あと何年たてばぼくは一人前になれるのでしょうか。しかし、人生はあまりに短い。一生のうちに間に合わないかもしれない。
しかしかし、これはぼくが定義したぼくの物語なのです。

3大テーマで起きている結ぼれを解消していくこと、そのための実験をしていくこと、そして隠れテーマのようにある本命テーマはきっと「情熱問題」でしょう。どうやったら情熱を燃やせるか。
そしてさらにその底に身を潜めてたまに噴火する裏番長は「ここ一番で噴火する極度の不安症」というものです。こいつのおかげで数々の失敗をしてきたし、数々のチャンスに手を伸ばしそこねてきたのです。
もちろん情熱にもかかわるでしょう。

こうした、まあこうして書いてみると、なんのことはない、誰にでも当てはまりそうなしごく一般的な問題・課題を抱えているだけ、と言ってもいいのですが、我が身中に内在するそういうものの実態を確かめ、なんとか解消したり手なずけたり解放したりしていこう、それがぼくが半分無自覚で選択している自己物語なのです。

ぼくはその物語を生きている(つもりで生きている)ので、実は他のことはよくわかりません。
これは全て自分のことであり、全く自分勝手な自己中心的な物語だといえます。
だけど、他人の物語を生きるよりは自分の物語を生きた方がいいし、事実、それ以外に生きる方法などありはしないのです。少なくともぼくにとっては。

おっとなんだかまたおかしなまじめ腐った話をしてしまいましたね。
自分勝手な物語をどうせ生きているなら、せめてその実験結果はフィードバックさせてもらおう、と常々考えておるわけですが、まあそれは込み入った話にあるので個別に聞きにきてくださいね。

みんな自分勝手に生きましょう。

12/13/2011

サーフボードが来たよ!


苦節2ヶ月、やっとサーフボードがやってきました。
2週間のはずが2ヶ月。。バリの神様、あんまりいじめないでください。

しかし、初のマイボード、うれしいです。
早く乗りたいです。
まだこれから、デッキパッドをはったり、ワックスを塗ったり、いろいろ準備が必要です。
でも、もうこれで、いつでも好きなときにサーフィンに行くことができます。
ぼくのバリ島生活がやっと始まる、そんな気持ちさえします。


そして、面白いというか、因果なものだね、というか、
ぼくはここ1ヶ月くらい、どうにも不調な日々を過ごしてきました。
なんか調子悪いのです。やることなすことが思い通りにいかない。
状況が思い通りに整っていかない。

唯一これさえできればと思っていたサーフィンもボードが来ないからどうにも気持ちが波に乗れない。
そんな日々を送っていたのですが、昨日、友達の赤ちゃんのお祝いに行っているときに、何かぼくの中で変化していくものがあったのです。
それは、その光景があまりにピースフルで、しかしどこか僕自身というものとそのピースフルがつながってこないものを感じて、つまり文化の違いとか、そういうことですが、感動するやら悲しいやらで胸がいっぱいになっていたのですが、そんなこんなで家に帰って、ふとそもそもバリ島へ来た目的が思い出されてきたのです。

つまりぼくは、バリ島にサバイバルに来たのです。
おおげさにいえば生き延びるためにきたのであり、遊びにきたのでも、人生の充電にきたのでもありません。ただ、バリ島を起点にして今後の生き方を始める、ただそれだけだったのです。

そして、その1点さえ守り抜けるならば、もうあとは何でもいいや、そういう気持ちが到来しました。

回りくどくいいましたが、きちんと仕事をこなして生活できたら、もうそれでOKじゃん。
あとは当初のプラン通り、徐々に仕事を拡大して世界各国を渡り住み、最終的に母国に帰還する。
これができればもういいじゃん。そういうことが思い出されてきたのです。
もちろん途中途中でプラン変更を余儀なくされるでしょう。ですが、なぜ日本を出てきたのか、それはシンプルに自立してサバイバルするためだったのです。

そのシンプルな事実に立ち返って、まあ簡単にいえば、お仕事がんばろ♪ということなんだけど、それだけを死守して、あとは他は何かいいことあればめっけもん、そんな地点に本当はいたのだという現実をにわかに受け入れたのです。

バカンスはお預けなのです。そんな身分ではなかった。どうやらバリの常夏ムードにやられていたようです。また1からやり直しだ、そう心で呟いたとき、1本の電話がかかってきました。
「サーフボード明日とりにいけるって」

ということで、今日、ファクトリーまでサーフボードを取りにいき、まあ夕方あたりから海いってみっか、という気分で午前中は仕事をしていたのです。

ちくしょう、なにやら情けない気持ちもしますが、自分の現状を受け入れて、精進するのみなのです。

12/12/2011

未来は明るい

なんとなく大志を抱けシリーズになって参りましたが、未来は明るいということを申し上げておきます。

論旨は簡単で、「しょせん人がやっているこ、必ず解決策はある」ということです。

地震、津波などの巨大な自然災害は、どうしようもありませんが、それ以外の日照り、河の氾濫、冷害など、かつては飢饉になっていたような状況も、技術の進歩で乗り越えたと見ていいのではないでしょうか。
つまり、恒常的な自然の驚異はもう克服した、ということです。

あとは基本的に人間同士の相互作用の問題です。戦争、政治経済問題からくる飢餓貧困、ストレスや精神の病からくる自殺、経済的困窮からくる自殺、成人病、などなどは人間の間で起きていることで、原理的には人間の間で解決可能です。

つまり、人間についての学び、人間の集団行動についての学び、人間の相互作用についての学びがもっと積み重なれば、それがテクノロジーとして蓄積、共有されていけば、この諸問題は乗り越えていけるかもしれない。

もちろんこれは人類が数千年かかって未だ成し遂げていなことではありますが、進歩していないとは言えない。行きつ戻りつしながらも、全人類の自由と幸福に向かって歩んでいることは否定できません。


まあ、こんな大上段に振りかぶった言葉を並べても、クソの役にも立たないのかもしれませんが、
原理的に考えれば、未来は明るい、という風にしか思えないのです。
あとは、その過程をいかに歩むか、それだけなのです。


たまにはこんな記事もね。

被災地、原発、放射能について思うこと

日本の被災地、原発、放射能について思うことを書いてみようと思う。
これがまたぜんぜんまとまらない。言葉になっていかないのです。

怒り
◎東電と政府は早く原発周辺住民に賠償をしてください。お金の問題で避難できない人とか、仕事を失った人に当面の生きるためのお金を。
◎政府は、たとえば僕が信頼していた枝野さんでさえも、信用できる言葉を話さなくなってしまったことに、怒りと残念な気持ちでいっぱいです。政治家の言葉を信用できないとしたら、何を信用すればいいのか。


不安
◎こどもたちが健康を害するほどの被爆をしていないか心配。名古屋にいる姪っ子も少し心配。
◎家族や友人知人が放射能のせいで健康を害さないか心配。


悲しみ
◎大勢の人が亡くなった悲しみ。遺族へのかわいそうという気持ち。
◎土地と海が汚染されたという悲しみ。もう元には戻らないという悲しみ。


待てよ?という気持ち
◎とはいえ、やみくもに不安がっているのはどうかという気持ち。大人が不安がっていると子供はもっとつらい。妥当な不安と過剰な不安を切り分けられたらいいのにな。

自分はどうか、という気持ち
◎自分の中に強い感情がわいてこない。強い怒りも何か行動しようという気持ちもあまり湧いてこない。これではいけないんじゃないか、という漠然とした思い。
◎自分だけ外国にいてまるで傍観者になっていくような後ろめたさ。


はっきりしている自分の意見
◎やはり原発は反対。新規は絶対つくらず、既存原発も順次撤廃すべき。
◎発電の独占状態を早くなくすべき。発電、送電含めて。

行動
◎原発反対署名などはしている。
◎福島のご縁のある場所に少し寄付した


それぐらいです。
こんな風にしか書けない。文章としてまとまった考えが書けない感じ。
とりあえず、いまはこれで。

孤独な心と瀬戸の花嫁


今日は友達のロジョールの赤ちゃんの3ヶ月のお祝いに行ってきました。
こちらでは、赤ちゃんが生まれたとき、3ヶ月、6ヶ月、1年、というようにお祝いが続きます。
親戚中が集まり、お坊さんが儀式を行い、みんなでごちそうを食べます。
今日は豚の丸焼きがメインディッシュでした。

赤ちゃんの足に銀の足輪をはめて、セレモニーが行われました。銀の輪にどんな意味があるのかは聞き忘れてしまいました。しかし、準備を含めて朝の7時から昼の2時過ぎまでたっぷりと時間をかけて行われる、このハッピーな儀式を見ていると、パシャパシャと写真を撮っていると、少し泣きたいような気持ちになってきました。あまりにピースフルだったのです。
ふと見ると、呼ばれてきたいたオーストラリア人の女性も、一眼レフを覗きながら時おり目元をぬぐっているようでした。ぼくは日本でこのようなセレモニーに参加したことはなかったな。
なんだか悔しいような幸せなような気持ちが渾然となって、わけがわからない気持ちになりました。
かつての日本には、いや、地方に行けば、このようなお祝い事が今でも行われているのでしょうか。

このように大勢の親戚家族に、何度も何度も自分の存在を祝われたことを、きっと無意識は忘れないでしょう。バリ人のどこか落ち着いてピースな感じの出自がわかったような気がしました。

ところで、この祭事の最中に、バリ人の女性、たぶん40歳前後の人と話していました。
ホテルのフロントなどで働いているそうです。で、バリヒンズーのカルマの考え方や、輪廻のことなど話題にしたり、このまえホテルにオバマが来たよ!みたいなことを聞いたりしていました。

そして、その後で、オーストラリア人の女性(年齢はわかりませんが、40代かな)と話したあとで、なにか、これまで感じてきた違和感がわかったような気がしました。

バリに来てからずっと感じていたある種の違和感です。
それは、どこか自分の存在を否定されたような感じをわずかに帯びる、ある寂しさです。

ぼくがしきりに寂しがっているのは、もうみなさんご存知ですね。
それは物理的に友人が少ないというだけではなかったのかもしれません。

そのかすかなさびしさの理由がわかった気がしたのです。

ぼくにはとある傾向があります。
それは人と話をするときに、その人の問題や悩みにどうしてもフォーカスが行ってしまうという傾向です。この人はどんな問題を抱えているのだろう、とどこかで思いながら話をしています。
そして、そのようなものが垣間見えたら、ある程度の確率でそこに話題をふっていき、その人の悩みを聞いてみたいと思ったりするわけです。

で、悩める人にはぼくは何かが言えるのではないかという自負もまたわるわけです。
ぼく自身も問題を抱えてきましたし、カウンセリングやセラピーを受けたり勉強したりした経緯もあり、人のこころに起ることについては多少の見識がある、何か役に立つことを言ってあげられる、そのような思い、思い込み、があるわけなのです。

ですが、バリでバリ人と話していると、それが発動しないのです。
なにか、おれの出番じゃない、そんな感じです。

あれーどういうことなのかなーと思っていました。(というか意識はしてないかったけど違和感を感じていました)

ところが、オーストラリア人と話していると、発動してきました。
そして、その人の抱える問題がうっすらとわかる気がして、今回はそこまで聞かないが、いずれは話をきくことになるのかもね、と思いながら話をしていました。
そして、ぼくは自分がセラピーなどをやってきたことを話、自分の抱えてきた問題について、(聞かれたので)話したりしていました。
この感じは日本人が相手でもまあだいたい同じです。

あれーオーストラリア人だと発動するんだな。
もちろん、この一例のみで何も語れるわけではありませんが、今日のこのお祝いのピース感とあいまってどこか腑におちるものがあったのです。

オーストラリ人からは孤独の匂いがしました。
孤独の心をもっている。その印象が伝わってきました。
これは、自分を含め、多くの日本人からもぼくは感じます。

それは、単純にその人が友達がいないとか、ひとりで暮らしているだとか、そういうことではなく、家族がいようと、友達に囲まれていようと、恋人がいようと、一様に感じられる、深い部分でのかすかな孤独感です。

もちろんこれはぼくの幻想なのかもしれません。自分の孤独を投影しているだけなのかもしれません。
でも、おおざっぱに仮説をたててしまうならば、現代の欧米人や日本人にあって、多くのバリ人にあまりないもの、それが孤独の心なのかな、と思ったわけです。

わかるでしょうか。孤独の心。
もう後戻りはできない個人主義に踏み出した社会にはぐくまれた心性とでも言えばいいのでしょうか。
バリにはまだ協力な地域親族共同体が機能しています。

そんなことを考えていたら、瀬戸の花嫁を聞きたくなりました。
瀬戸の花嫁が国民の歌であった時代、それほど前ではありませんが、それはどんな時代だったのでしょうか。そして、そこからすると、ずいぶん遠くに来たものではありませんか、日本国は!

人を見る

バリ島では情報が整備されていない。
また家探しネタで申し訳ないのです。
不動産情報のようなものは皆無。ましてやネットで検索、とかない。
どうやって探すかというと、足で探すか、誰かに聞くしかない。

ということで、もう急いで結論部分にとぶと、バリ島では、人を頼りにすることが多くなりました。
いままでならネットで検索して調べて調べて、はい、できました、みたいなことが、
こちらでは、人に聞いて、聞いて、出向いて、ちがったー、また聞いて、出向いて、みたいな感じになります。そしてそんな間にもうまくお金をちょろまかしてやろうとか、手数料をぼってやろうだとかいう人が入り込んできます。疲れます。

で、最近は、いろんな奴に聞き回るというよりは、信頼できる人をまず見つける、という路線の変更しています。もういろいろ聞き回って一番条件のいい話にのる、とかじゃなく、
もう、こいつを信用しよう、こいつが持ってきた話なら乗っていこう、という戦略です。

幸いなことに、いろいろつき合っていくなかで、こいつなら、と思える現地人が1人、2人とでき始めています。それは付き合いの長さとか仲のよさとも関係ありません。もう出会い頭でわかる感じです。

そもそも正直者というのは、誰に対しても正直なのであって、顔見知りだけに正直、などという奴はやはり正直者とは言えない。初対面から適正価格、いい情報を惜しみなく与えてくれる人こそが正直者であり、今後もつき合うに足る人物だとは思いませんか?

今日、たいして面識はないが、直感的にこいつは信頼に足る、という奴のところに出向いて、家探しを依頼しておきました。こうやって人間の縁をたどって行こうとするのは僕には珍しいことです。まずネット、がぼくの習性なのですから。

でもここはバリ。戦略を変えなければならないようです。
でも都合のいいことにバリ人は、心の根が顔にてきめんに現れています。よからなくことを企んでいる奴は警察官といえども、いやしいおどおどした顔をしています。いや〜な感じがあります。
逆に正直者はスカッとした顔をしています。いやらしさがないのです。

ここではそのあたりのセンサーの感度が勝敗を分けるようです。精進します。

書くこと無い、しかし天皇論など

もうほんとに書くことない。

しいていえば、今日、はじめて、生まれてはじめて、まだ見ぬ息子(娘)から、いろいろ質問されたときのことを考えました。
そうだ、娘といわずとも、しばらくすると姪っ子が問いかけてくるようになるでしょう。
姪っ子に質問されたら、ぼくはそれは答えなければならない。なにせレスポンスが身上です。

たとえば、「ねえ、天皇って自由なさすぎ。人権侵害じゃないの?」と問われたら。あなたは何と答えますか?

ぼくも即答できない。ただ、それがぼくが今のヒロヒト天皇が好きな理由なんだよ、とまずは言うかもしれません。ぼくは今の天皇が好きです。頭が下がるというか、頭をあげられないというか、俺らなんかのためにどんだけの想いをなさっているのか、と想像もできません。日本人が未熟であることを一身に引き受けてくれているように思います。

この続きは、また「鷹の目」ブログあたりで筆を改めようと思います。

12/11/2011

リーズナブルな欲望


最近、政治経済に興味を持ち始めました。
以前から、バリ島ブログなのにバリ島のことを書く気がおきないと謝罪してきましたが、逆にバリ島にいるからこそ考え始めるということもまたあるのかもしれないね。

リーズナブルな欲望

バリにきて、家が欲しいというお話を繰り返ししてきました。
そして僕が欲しているような家は、条件的価格的にはバリ島の現地人標準からいくと遥かに贅沢なものであるというお話をさせていただきました。
そして、日本の未来、ひいては世界の未来などというものを少しは考えてみるときに、自分のこのような欲望は果たしてOKラインなのかどうか、という疑問をもっていたりするのです。

ぼくがいまバリ島でこのような欲望を持つに至った一番の要因は、日本とバリとの経済格差です。
簡単に言えば為替の世界での円高を利用して、おなじ所得でも日本に住むよりもよい暮らしをバリで実現できそうだ、という野望にとりつかれてしまった次第なのです。

もちろんこの野望は、海外リタイアメントの発想と寸分違わないともいえます。

そのような経済格差を利用した恩恵を享受するばかりが果たして幸せへの道しるべなのか、などということも少しは考えたりするわけです。でも、どちらをとるの?といわれたら僕は即答で欲望をとります。
それは目の前の今日、明日の快適さに関わることだからです。

さて、そこで、ぼくが日本の未来、世界の未来を考えるときに、ぼくの今持っている欲望は、リーズナブルなものなのだろうか、という問いかけです。リーズナブルとはこの場合、「妥当」とか、「適切」とか、「まあOKラインだよね」という意味です。「言ってることと矛盾しない」と言ってもいいでしょう。

まあそんなエクスキューズを一発打ち込んでおいて、論を進めると、
僕が学生時代を過ごし、第二の故郷と思っている神戸には「旧居留地」というエリアがあります。
長崎の出島のように、あの赤レンガの時代に欧米の使節や商人たちが神戸の一等地にこぞって家や事務所を構えたのです。立派な石造りの建物がいまでも残っています。
いまではそれらの土地は、日本の銀行になった後にアパレルショップになったりして、基本的に日本人のものになりました。が、かつてはある意味、神戸の一等地はすべて外国人のもの、少なくとも外国人が占有していたといえるのではないでしょうか。
立派な帽子とトレンチコートを来て闊歩する欧米人と、野良着の日本人、みたいな極端に言えばそういう構図です。
それがいつしか、日本は経済大国になり、物価も跳ね上がり、まあある意味、経済格差を利用して日本に快適に住むということができなくなったからか、外国人は去り、日本人が取って代わるようになった(とぼくは思っています。事実検証はしていません)

まあそんな歴史の一部を、ここバリ島でもかいま見ることができるような気がしています。
バリ島のいわゆる一等地は、外国資本が完全におさえて、観光地として花開かせており、バリの現地人は内陸部のごみごみとした「都会」にぎゅうぎゅうと住んでいます。(という風に見える)
そんなことでいいのか、という気もしてきます。
自分の国で、自分たちより外国人のほうがいい場所に住んでいる。広大なエリアを占拠されている。

しかし、これは一面的な見方でしかありません。
なにも外国資本は軍事力を背景に脅し取っていったわけではありません。少なくとも現代ではそうです。
お金で買っているのです。そして、そのお金でバリ人の地主達は一生働かなくても食って行けるような利得を得ているのです。バリ人も潤っているのです。(一部の、でしょうが)

まあ、そんなことをつらつら書きましたが、本題はここからなのですw

そうはいっても未来を描かなければいけません。やってられません。

そんなときに、最近よく読んでいる内田樹のブログから、宇沢弘文という80歳をこす経済学者のことを知りました。彼が提唱しているのが「社会的共通資本」という考え方、ビジョンです。

実はまだ情報を集め始めたばかりで、何もいえないのですが、集めたところでたいしたことは言えないのですが、人間の欲望を冷静に見つめた上での、リーズナブルな社会制度、というものを設計していかなければならない、と思っているのです。人間の富への欲望を過小評価した社会主義という実験はどうやら失敗に終わりました。人間の富への欲望を全肯定するような昨今の資本主義もどうやら行き詰まりが確定したようです。

イデオロギーというよりは、もっと自然な、人間理解に基づいたいくつかの基本合意事項を持ちたい。

おっと、なにやら言葉遣いまで怪しくなってきたようです。
考え慣れないことを考えるている証拠でしょうか。とりあえず、突然ですが、今日はここまで。

12/10/2011

うつ病のみなさん、バリ島で療養はいかがですか

日本全国のうつ病のみなさん

とくに、うつ病、もしくは抑うつ症状がありながらも、会社でがんばってるみなさん、
バリ島に来てみませんか。

どうせうつ病なんだから会社を2ヶ月くらい休んだってかまわないでしょう。
心療内科にいって診断書をもらってきてください。
そして、自宅療養をするくらいなら、バリ島へ来てはどうでしょうか。

バリ島に来たからといってうつが治るわけではありません。
ここはある意味ただの観光地です。
しかし、毎日が夏であり、毎日が晴天であり、すぐそばに海があり、食べ物もおいしいです。

いや、ちょっといま待てよ?という気持ちが起りました。
こういうお気楽な環境は、逆にうつを進行させてしまう可能性もあります。
そういえば、旅行中ぼくが一番苦しんだ場所は、キューバとバルセロナでした。
灼熱の太陽に負けて、ホテルに引きこもってしまったのです。

しかし、バリ島にはウブドなど山岳地帯もあります。緑豊かで涼しいです。田園風景も美しい。

まあ、どうでもいいんですが、ちょっと日本から離れたいよ、という人にはバリはお手頃です。

まずなんといっても長期滞在ビザがとりやすいです。
いまぼくは6ヶ月のソシアルビザというものをゲットしたのですが、
このまえエージェントに聞いたのですが、3万円ほどの手数料で1年間のビザが簡単にとれるとのこと。
なかなかそういう国はないですね。たぶん手数料さえ払えれば2年くらいなら誰でもいられます。
たぶんもっといられます。

あと、物価はそうですね、日本の半分から3分の1くらいでしょうか。
まあざっくりいって月に8万円あれば、そうとう余裕をもって暮らせますね。
こちらの日本法人でも月給は4−5万円だと聞きます。つまりそれでも十分暮らせるということです。
ぼく個人的には8万円あればなーという感じです。10万円あれば左うちわでしょう。


それから、治安はかなりいいです。危険な思いは一度もしていません。
食べ物は、こちらも主食がお米なので、かなりOKです。味付けも日本人に合います。
言葉は、インドネシア語やバリ語ですが、お店や若い人には英語もたいてい通じます。
都会なら日本だけでもいけちゃうかもですね。

まあ、バリにきたからどうなるというものでもないですが、
ムードは確実に違います。ですので、しばらくムードを変えて、と思うなら、バリはお手軽な場所です。

そろそろ会社を辞めよう、とか、もう辞めてしまっていま路頭に迷ってる、とか、いうあなた。
少しは貯金もある、というあなた。
ネットとかで仕事できるから、日本じゃなくてもいい、というあなた。
バリ島に来てみませんか?
そして、ぼくと友達になりましょう。さみしくしてるのです。

自由の始まる場所

人間とは面白いもので
どんな環境で育てても
どんな洗脳をほどこしても
最後の1%を詰めることができない
最後の1%に宿る自由への意志が
いつでも巻き返しを狙っている
我々は、1%の自由への意志と、99%の他人でできている。


今朝はこんな言葉から始めてみたい。
寺山修司のことを考えていたのです。
寺山修司とは何だったのか。宇宙から裏切られた幼子の魂に宿った土着の叫び
よって立つべき地面からしかるべきレスポンスがなかった。
いつも奇怪な呪文が地響きのように鳴っているだけ
寺山少年は、地面をあきらめ、言葉のネットに手を伸ばした
これの上でも暮らせるかしら
白光りする病院のベッドで、たぐりよせたことばの網が、歩き出すのに十分な密度を持つのを待っていた


なんだかおかしなモードでお届けしております。
いちおう毎日が夏のバリ島からお届けしていますのでご安心を。

さて、今から甘い甘い珈琲を飲みます。
さっき、たぶんとなりに越してきた外国人がふらりとドアの前にたちました。
建物の探索をしていたのでしょう。ハーイ!と右手をあげておきましたが、
ぼくはすっかり油断したパンツ一丁だったのです。そんな朝です。

12/07/2011

レスポンス

ざーん、発表します。
またバリと関係ないネタなんだけど、
最近、自分はどういう人間になりたいのかなどと大げさなことを考えていました。
最近どころかいつもかもしれないんだけど。

それで一応答えらしきことが出てきたので発表しておきます。というか忘れないように書き留めることにしたのです。それは、「レスポンスできる人間でいる」ということです。

意味不明ですか?でもこれはかっこいい概念なんですよ。

人いうものが人になるとときに、誰かからの呼びかけを必要とするように、
人が最後に求めるものは誰かからのレスポンスではなかろうか、と思う訳です。

呼びかけに答えるということです。

それは、呼びかけに対して、わかった、と返事をするということです。

レスポンスがないとき、人は人でいられなくなる。

逆に言えば、レスポンスさえできていれば、人としてわりとまっとうに生きたと言っていいんじゃないかと思った次第であり、さらに逆に言えば、レスポンスができなくなったら、人じゃなくなっていくということです。

呼びかけに答える、問いかけに答える、この基本的なことさえ行われているなら、その人間社会はこづき合いながらもある全うな道を進んでいけるんじゃないかと思うわけです。


さて、抽象的なことばの羅列、わかりにくいですよね。

しかし、人間とはレスポンスする生き物なのだ、という結論をここに殴り書きしておきたくなったのです。

12/04/2011

昔はよかったバリ

このまえ、バリ在住30年という人にあった。
1970年代にバリに始めてきて、その自然の美しさ、そして何よりの人々の素朴さ、あたたかさに魅かれて移り住んだと言う。おりしも日本は高度成長の真っ最中であった。

そして、バリもすっかり変わってしまったと言います。
こんなに車も走ってなかったし、海も空気もきれいだった。
ひとびともお金お金と言うようになってしまった、と。

だから、より田舎に引っ越したのだと言う。

なるほどーわかるよー。わかります。
昔の記事を読むと、バリがどれほど素朴で美しかったかわかります。
あと20年早く来たかった。人々が素朴で美しかった夢の島だったころのバリを知りたかった、と思うときもあります。

しかし、実際のところこう思うのです。「当たり前じゃん」と。

バリ人だって人間です。近代化を望むのは当たり前です。
誰だって車に乗りたい。どこへでも行けて非常に便利このうえない。こんなすごい物、欲しいに決まってる。わたしは車なんていらないよ、という人は、それは機能的な日本の都会に住んで鉄道のお世話になってるから言えること。鉄道のないバリ島では、車(バイク)があるかないかで、まるで行動範囲が変わってきます。こっちでは小学生みたいな子もバイクにのってます。

そんな排気ガスをまき散らす車なんかにわざわざ乗らないでくれ、とは誰も言えませんね。
だから、心情的にはとても共感するとはいえ、「素朴だったバリ島」が失われていくことを嘆いている人を見ると、ずいぶん自分勝手なことを言うものだな、と思ってしまうのです。

自分だって、日本だって、昔は素朴で善良な人々に見えたはずです。江戸末期ころに蒸気船に乗ってやってきた西欧人から見れば、かつての日本の田園風景はとんでもなく美しく、村人はみんな善良に見えたことでしょう、お金お金、とも誰も言ってなかったでしょう。あまりに縁遠かったからです。
お金だけあっても自由に使える自由がなかったのかもかもしれません。

そんな素朴な日本人が、わずか100年あまりでバブル期には「エコノミック・アニマル」とさえ揶揄されるほどになりました。お金に物をいわせて世界中の不動産を買い漁ったのです。
そして、欧米から「ライジングサン」、「ジャパンアズナンバーワン」といわれ、いい気になっていたのです。ぼくも子供の頃にこう思っていたのを覚えています。「日本で一番になれば世界で一番なんだな。よし、日本のトップを目指そう!」って。たしか小学生くらいにぼんやりそう思いました。
そう、集積回路の記事を読んだときです。日本はまたしても世界一になりました、的な記事が連日新聞をにぎわせていました。

日本人は近代化を目指し、欧米に追いつけ追い越せを合い言葉に、富を求めたのです。そして実際に国民は豊かになりました。もちろん、環境破壊や公害病など犠牲は払われました。しかし、やはり日本人の集合意識は、それを求めて邁進したのです。もう一度やり直しても同じ道を辿ったと思います。

このバリ島でも、質の悪い排気ガスをまき散らしながら車とバイクが走り回っています。外出すると、目とのどが痛くなるほどです。服も排気ガスの匂いで臭くなってしまいます。
放射能の危機から逃れたはずのバリ島で、肺がんになるリスクのほうが高いんじゃないのか、と皮肉な気持ちになることもあります。

しかし、それをバリの人々は選択しているのです。つまり近代化です。
海も汚れています。排水を川に垂れ流しているからです。かつて日本で起きたことがそっくり起きるのです。それは無知から来るとも言えるかもしれませんが、知っていても変わらないでしょう。企業は公害を防ぐコストを払いたくないはずですから。それよりも今はさらなる生産、近代化が優先されます。世界中の先進国が通ってきた道なのです。

それでもバリの人たちは、もしかすると日本人より賢い気がします。宗教も好影響を与えるているはずです。バリでは高いビルを建てられません。さらに、儀式で使う一部の海はしっかりと開発から守っています。まだ、近代化より宗教を優先しているのです。その分ましだと言えます。たぶんバリの人たちはバリの自然を守りながら、うまく最低限の犠牲を払いつつ先進国並みの近代化をとげるでしょう。

人間の欲望なんてさしてかわりはしないのだな。
バリに来て、そんなことを思ったりしているのです。

とはいえ、バリ島、毎日が青い空、これはやはり、いいです。

ソシアルビザをとってきたよ

もうバリ島はいったん飽きた。
そう言わざるをえない。

このブログも「バリ島での素敵な生活」のご紹介にならなくてすみませんと思います。
せっかく窮屈な日本を逃れて、南の島バリ島でこんなに楽しいです!って報告したかったんだけど、なんとなくダラダラとした日々が続いています。まあ最低限の仕事はしてます。

しかし、昨日は2ヶ月ぶりに新しい日本人のお友達ができた。
このまえのバリ島日本人会主催のサイクリングで知り合った人です。一緒に飲みました。
楽しかったです。

まあ、さておき、今日はソシアルビザというものを取得したのでその報告と方法をお知らせします。

ソシアルビザとは、インドネシアに6ヶ月滞在できるビザです。
ソシアルというのは、まあ文化芸術に関する、という意味で、
ぼくの場合は、インドネシア語を学ぶためにこのビザを取ります、という名目になっています。

まず、ソシアルビザを取るにはインドネシア人のスポンサーが必要です。
スポンサーといっても、お金は関係なくて、まあ身元保証人みたいなものですね。
僕の場合は、現地で知り合った日本人の奥さんがインドネシア人だったので、ご好意でスポンサーになってくれるとのことでした。
奥さんにスポンサーレターを書いてもらいます。推薦状みたいなものですね。

スポンサーレターと、スポンサーの身分証のコピー、それから自分のパスポートを持って、
インドネシア以外の国の大使館で申請します。
ぼくの場合は、シンガポールにしました。近場で一番手続きが早く済むそうです。

で、シンガポールに一度出国して、現地のエージェントと会います。
エージェントとは、ビザの申請を代行してくれる人です。
エージェントに頼むと1日でビザがおります。頼まないで自分で手続きにいくと、3営業日かかるそうです。今回は初めてということもあり、エージェントに依頼しました。
代行手数料は、170シンガポールドル、日本円で一万円くらいです。

シンガポールの宿につき、エージェントに電話しました。
種類を取りにきてくれるとのこと。夜に来て、種類一式と手数料を渡しました。
すると、翌日の夕方には、ビザのシールが貼ってあるパスポートが届きました。
1日でゲットです。お手軽ですね。

結局、シンガポールには2泊3日でした。
ちなみにシンガポール、ビルがピカピカ、東京よりもクリーンでした。
でも地下鉄にのってる人々の目はうつろ。あ、知ってる感じだ!と懐かしささえ覚えました。
日本の都会の電車の中と同じです。みんなスマフォをいじっているか、うつろな目でぼーっとしています。ただ、人種が国際的なのが違うだけ。ちょっと面白い感じをうけました。

ぱっと見は、インド人、中国人、マレーシア人、西洋人、となにやら国際的でおおーっと思うのですが、
じっとしていると、その気配は東京の地下鉄の中の人たちと寸分互いません。
どういうことなんだろー?ってしばし考量。あのうつろな目は、日本という現象ではなく、都会という現象特有のものだったということなのかな?

なんてことを考えていました。
そしてとんでもないiPhone普及率。もうみんなiPhoneでした。

えっとそうそう、そんなこんなで無事、ソシアルビザをゲットしました。
これで6ヶ月は出国せずにいられます。


結構簡単にとれるんだなーっていう印象です。

インドネシア人の知り合いにスポンサーになってもらい、
シンガポールなどに出国し、そこの大使館でビザを申請、エージェントを使えば即日発行。
それだけです。
スポンサーは知り合いがいなければ、エージェント会社がなってくれるので、まあお金さえ払えばソシアルビザは簡単にとれます、ということですね。全部エージェントを使った場合で、手数料は1万5千円くらいです。


あ、そうそうついでに報告、今回失態をやらかしてしまいました。
なんと、シンガポール行きのチケットを2枚買ってしまったのです。
バリに帰国する前日に気づきました。ネットで買ったので間違えたまま気づかなかったのです。
あわてて、帰国便を取り直したのですが、チケット1枚パーになってしまいました。もったいない!
せっかくネットとLCC(ローコストキャリア)を駆使して一番安いチケットをゲットしたはずだったのですが、台無しになってしまいました。

ぼくはこれを、自由の代償、と呼ぶことで溜飲を下げることにしました。

自分でエアーチケットを自由に手配することができるようになった。
その代償として、このようなミスもまた発生しうるようになったのです。
気をつけないと。。日本との往復でこんなことをやったら、一ヶ月分の給料がふっとびます。
それを考えると旅行代理店の手数料なんてわずかなものだな、とさえ思えてきます。
少なくとも人の目でチェックしてくれるわけだし、もしミスがあっても他の便への振替などの融通も利かしてくれるでしょう。

今回、いろいろ勉強になった気分です。とにかく安ければいい、というのにちょっと疑問を持ちました。
心理的負担を軽くするために、代理店をつかってもいいかな、と今は思います。
10%くらいアップするだけなら安心を取るかな。

そんなこともありました。


写真は世界3大ガッカリの筆頭、マーライオン。
どれほどガッカリさせてくれるのかわくわくしながら行ったのですが、
思ったほどガッカリしませんでした。あ、これ、まあ、こんなもんじゃない?といった感じ。
なんの感想も出てこない感じ。
まあ、そういうのも含めて3大ガッカリのエースなのかー、と妙に納得してしまいました。