12/23/2011

幸せになるのではなく

リクエストに応えて続きを書いてみますね。
「幸せになるために生きているのではない」の続きね。

たとえば、失恋をした友達がいたとします。
よくこう言ってはげましたりしますよね、男は1人じゃない、次こそいい相手に巡り会えるよ、って。
気持ち切り替えて明るく行こう!って。

ぼくはそれは基本的に賛成します。
終わってしまった恋愛をいつまでもぐずぐずと引きずっていたって、何も起きません。
いつまでも過去に縛り付けられ、今の出会いに目が開かれないとしたら、人生の大いなる損失だといえます。きっと自分が大事だから過去に閉じこもるのでしょう。

そして、どんなつらい想いをしたからといって、どうせ男はこんなもの、といってうそぶいてみたり、どうせ私なんて誰も愛してくれない、といってメロドラマの中で耽溺するのはよくありません。

もちろんそういう時期を経過するのは当然です。それでいいのですが、しかるべき時間が経過したら、また(できれば)まっさらな気持ちで、むしろ、失恋前よりの恋愛ひとつ分、透明な視点になって、目の前の人をみることです。

なんて書いてたら、どこかの恋愛カウンセラーみたいになってきちゃったじゃないですか。
不本意です。

ぼくが言いたいのはこうです。
どんな失恋、恋愛にもさまざまな瞬間があり、さまざまな気持ちのうごめきがありました。
さまざまな感情の交換がありました。
基本的に、ラブラブ中はそのラブな面を、失恋したあとはその負の面ばかりを記憶にとどめ、ひとつの心象を形成しようとします。それはそれでいいんですが、たまには、まてよ、と言ってふりかえってほしいのです。それはそれだけではなかったのかもしれない。あのときのあの気持ちの裏にかすかに漂っていたあの感覚はなんだったのか、死ぬほどつらいときにふと世界が止まってせつなの幸福を感じてしまったこと、気持ちとことばが乖離していくときの感じ、別れ話のときに思いやりが発生していた感じ、いろんな感じがあったはずなのです。いわば、補欠の感情です。
そういう補欠の感情もふくめて、全部感じていくことをぼくは提案するのです。
もちろん、思い出すということです。

思い出すときには、感情にどっぷりはまるのもいいですが、少し離れた視点から、ああ、いろんな感じがあったんだな、というふうに思い出のアルバムをめくるように思い出すのです。

なんて言ってるとまた失恋アドバイザーみたいになってきて、非常に不本意です。

もっとシンプルに言いましょう。
幸せになれるかどうかはわかりませんし、幸せだと思っていた一瞬先に不幸せが待っているかもしれません。死の最後瞬間でさえ、どんな不幸があるかもしれず、またこれまでの一切の人生をすべてチャラにするほどに幸福感に満たされる体験をするかもしれません。しかし、それはすべて、自分ではコントロールできないことではないでしょうか。

だから唯一できることといえば、もちろん幸福をめざして、幸福をもとめて生きていくのですが、でもそれとは別に、人生のどの瞬間も味わって生きよう、それができればそれだけでひとつ生きた価値があるというものだ、という考え方もまたいいんじゃないかな、っていうことなのです。

そこには無限の広がりがあるそうです。

かくゆうぼくも、じゃあそのように味わい尽くして生きているのかといわれると、ごめんんさい、というしかないのですが、まあ幸せになるだけが生きていくといことではない、という考えがちらっとよぎったので、その意味を追求してみようかな、と思ったということなのです。

もちろん不幸はいやだよね。でも幸不幸に関係なく、生を豊かにする作法があるのかもね、とちらっと希望的観測をしてみた次第なのでした。

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