10/31/2012

夜が暇なのが変わらない

バンコクに来て、あれ?と思うことが1つ。
それは、あいかわらず夜が暇だということだ。

あれ?おかしいな、と思う。バリ島での一番の悩みはどこか寂しいことであった。とくに夜がさみしかった。夜はサーフィンもできないし、観光もツーリングもできない。酒でも飲めばいいのかもしれないが、毎晩毎晩誘う誰かもいなかった。

バンコクに来て、何かが変わるだろうと思ったが、変わったのは昼間だけだった。昼間の寂しさはかなり解消された。コワーキングスペースを借りたことで、毎日顔を会わす仲間が何人かできた。あいさつをかわして、2、3ことかわすくらいだが、ずいぶん救われる。だが、あいかわらず夜になるとひとりぼっちになる。

いや、誰かを誘って酒でも飲めばいいのはわかっているのだが、わざわざ飲みにいきましょう、とさそうのもおっくうなのだ。それが一番いけないのだろう。なんかおっくうなのだ。もちろん飲み会に誘われたらほぼ行く。ひまだから。でもそれでも多くて週に1回だ。ほかの日はなにをすればいいのだろう。思えば長い時間だ。12時に寝るとしても5時間くらいは暇だ。仕事でもしてればいいのだろうけど、集中力は切れている。

ここは読書かな? 頼みの綱の図書館が使えない。身分は旅行者だからだ。 最近本を読みのが速くなっちゃって、この前日本から送っていただいた大著「ワークシフト」もなんと一日で読み終えてしまったのだ。飢えているのだ。

まあいい。こんなこと書いててもしょうがないもんね。でもみんな、夜は何をして過ごしているのだろうか。。そういえば家にネットもテレビもないのがまたひとつなのだろう。

本をどんどん買ってくればいいのだが、結構高いし、うっかり解禁すると本で破産しそうな気がする。でも、今日は古本屋でも行ってこようと思っている。

昔は何をしていたんだろう。暇だなんて思うこと、なかったな。

 最近いろんなこと、どんどん興味がなくなる。とくに他人のことだ。友達も含めて。なんか、誰がどうしてても関係ないな、なんて思っちゃう。いや、SOSでもあったら駆けつけるつもりはあるのだが、そんな奴めったにいないし、そうなると誰がどうしてようがあまり興味はない。いろんなことどんどん興味が無い。

この前好奇心が大事とか言っときながら、ぼくはいろんなこと興味がなくなってる。
いろいろどうでもいいや、どうせおれももう人生後半戦だ、とか思ったりする。あとはどう生き延びるかだけだなーって思う。もう何か夢を叶えてやろうだとか、なにか目立つ人間になってやろうだとか、あんまりなくなってきた。とにかく嫌なことを極力しないで、割と好きに入ることだけしながら生きていけないかな、とそういうことばかり考える。もっと具体にいえば、いまのフリーランスの路線でどうやれば収入が倍になるかな、と考える。もうそれだけだ。

頭で考えても思いつかない。。というか、僕という人間はいつもご縁で動いてきた人間なのだと改めて気づく。主体的な人間ではないのだ。目標や夢をセットして、それに向かって進んだことなんてほぼ一度もないことに気づく。とくに30歳を過ぎたころからは、流されるようになんとか生きてきただけだ。誰かとのご縁にすがってなんとか生き延びてきたのだ。これ本当。

で、いまはまがりなりに主体的な気持ちが戻ってきているのだが、実に10年ぶりくらいに主体的な気持ちが戻ってきているのだが、でもうやっぱり自分から動き出すということがない。そういう筋肉がたぶん無いかすごく弱いのだろう。というかそういう神経が通っていないような感じだ。どうすればいいかわからないのだ。

わかるのは、危機がきたらなんとか逃げるということと、ご縁や好意にはあやかる、ということだ。それだけなんとなくやってきた。いま、また新たな出会いを必要としているのだろう。なにが僕を流してくれる出会いだ。どこまでの他人任せなおれです。

でもどうせ主体性がないのなら、いかに素直に流されるか、そういうスキルは磨いておきたい。もしかするとそこが生命線になるかもしらん。

なんて書いてたらまたパソコンかじりつきになってるので、いまから古本屋めぐり行ってきます。





10/30/2012

書評:「ワークシフト」(リンダ・グラットン)2


 ぜんぜん書評にならない書評シリーズ。
 今日もワークシフトです。しかしね、働くっていったい何なんだろうね。ぼくはもうそれをずっと腑に落ちないままで過ごしてきている気がする。

そして、あるときはたと立ち止まって、おれも農業をやるべきなんじゃないか!って思ったりします。つまり、ロジカルに考えていくときに、自分が生きていくのに必要なことをするのが働くということだとすると、まずは飯を食う。つまり、農業だ!(漁業でもいいけど)。基本は米なんだから、やっぱ米つくるのが働くってことの本筋なんじゃないだろうか、って思いいたるのです。だってちょっと前まで半分以上の人は農業に従事していたはず。農業こそが働くということで、他の職業はまあ、例外みたいなものだったはずです。それがわずかの間に農業が少数派になって(日本の場合)、製造業だのサービス業だの出て来たわけです。というか、サービス業なんて、むかしなんてごく少数派なのが、昨今では多数派になりなんとしている。

もうどんどん変わっているということですね。職業というもの、働くということの内容が。もしかすると、そんなの全部うそ、やり直し!ってなるかもしれません。何がサービス業が、全部まやかし!って。

それね、あり得ますよね。社会の仕組みや、技術革新などあれば職業ごとなくなってしまうなんてのは実際にあったことです。うちのおばあちゃんの家は呉服屋でしたけど、みんなが着物を着なくなって、商売あがったりになってしまったのですから。それはもうあっと言う間の変化だったのです。

だから、ぼくは働くということを考えると、腹のあたりがいらいら、もやもやとしてくるのです。だから、じゃないかもしれないけど。単に働くのが嫌いなのかもしれないし、なんだか楽したいだけなのかもしれないけど。

なんか、働くってすごい大事なことで、というかすごい時間を仕事に拘束されてるし、仕事の報酬で家を買ったり、食べ物を買ったりするわけで、もうとんでもなく大事なものですよね。命にかかわる。それが、なんがすっごいあやふやに決まってるというか、個人と個人とのせめぎあいのなかで、あやうく立ってるだけ、みたいな風に見えるのです。仕事という行為が。

それはぼくが風雲急を告げるIT業界にずっといたからかもしれないし、働くか働かないかよくわからない時代を長く過ごしたからかもしれません。でも、どこか、とんでもなく大事なことが無保証で放り出されている、という風にみえて、はなはだ心配なんです。

でも仕事なんてこの現代においては、多くの仕事は人間同士のせめぎ合いのための仕事が大半です。自然との格闘の仕事なんて少数派でしょう。命を守る、命をつなぐというより、他人の欲にミートする、そんな仕事が半数を占めるようになって久しいわけです。

自分の仕事が、自分の商品が、他人に欲望されなくなったら、失業する。そんな危うさの上にいつでもいるような気がするのです。けっこうな職種の人が。

いや、なんかちょっとネガティブに見すぎているのかもしれません。もっとしっかりした基盤の上で大半の仕事というものは営まれているのかもしれません。

まあなんにせよ、ぼくはなんだか仕事をするということがいつまでも不思議で、やるせない気持ちになったり、だからやりがいがあるのだ、と思ったり、それこそが生きるということなのだ、とさえ思ったり、でもこんなに仕事が大事なことなら、もっともっと早く、若いうちから考え抜いておけばよかった、と思うのです。

ほんと、うかうかしていたものです。



10/28/2012

書評:「ワークシフト」(リンダ・グラットン)



『ワークシフト』という本を知り合いから送っていただいて、ラオス小旅行の供としていました。

書評というか、この本を読んで浮かんで来たことを書いてみようと思う。
まずこの著書の訳者、どこかで見た事があるなあと思っていたら『フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか』と同じ訳者だった。

この『フリーエージェント社会の到来』、思い出の本でもある。どういう思い出かというと、あれは5年ほども前だろうか。将来が本当に真っ暗に見えていたときに、何かすがるような思いでAmazonで注文して読んだのを覚えている。なにかヒントが欲しかったのだろう。なにか、今とは違う働きかたがあるんじゃないか、できないか、という思いがあったのだと思う。当時はよくわからんけど題名だけで読もうと思った。で、実際この分厚い黄色い本を読んでみて、感想は、うーーん。というものだった。簡単に言えば、アメリカ、とくにカリフォルニア州ではすでに4人に一人のワーカーは企業に雇われず、フリーエージェント(フリーランス的な感じ)で働いているのだ、こらからこの流れはますます増すのだ、というような本だった。未来予言本というよりは、著者のダニエル・ピンクが実際に足で調べた豊富なデータを元に、分析的に書き上げているものだった。未来本ではなく実態本なのだ。

で、なにが「うーーん」だったかというと、なんとなく、自分に結びつけて考える事ができなかったのだ。フリーエージェント、企業に雇われない働き方、それを選ぶ人が増えている、すでにそういう生態系が出来上がりつつある、それは朗報だ。たしかに朗報ではあるが、僕にとっては解決ではないように見えた。

それは何か。それは、雇われていようと、いなかろうと、「何をするのか」が常に問題だったからだ。それが僕の問題だった。(当時はたしか働いていない時期)

 何を職業とするのか、それまでIT系の職業にはついてきた。企業の中でシステムエンジニアをしていたり、フリーのウェブデザイナー(なんちゃってレベル)などはやってきた。でも、それを続けたいとは思えなかった。つまり職種を変えたかった。でも何をすればいいのかわからなかったし、何でわからないのかもわからなかった。

雇われないことが即ハッピーにつながる訳ではないことはわかっていた。やる気がつづく職業につかなければ早番破綻するであろうことが、自らの性格を顧みると透けてみえていた。

だから、カリフォルニアのフリーエージェント達のレポートを読んでも、ああ、君たちはよかったね、と思うだけで、僕もそうなんだ!と手放しで救われるようなことはなかった。彼はなんであれ、職をもっている。自分の職種をもっているのだ。デザイナーかもしれないし、セールスかもしれないし、コンサルタントかもしれない。なんにせよ、私の仕事は◎◎です、と言える何かを持っていた。それをたまたま、企業に雇われる形ではなく、フリーという形でやっているということだ。当時、いったいどんな仕事なら自分にできるのだろうという問題に悩んでいた僕にとって、ただ、ああそうですか、という感じでしかなかった。つまり、ぼくがそれまでのキャリアを活かしてエンジニアやウェブ制作者などでフリーランスを目指すのであれば、大変参考になり、心強い本だったかもしれない。でもぼくはキャリアを変えたかった。

どんな形態であれ、仕事として「何か」はしなければならないのだ。その「何」が問題だったのだ。

そしてその問題はいまでも解消済みではない。いま、唯一やっている仕事はライフハッカーというサイトの翻訳だ。これは今一年続いている。これはある意味、好きな仕事だ。この延長や拡張、展開としてキャリアを積めればいいな、と思い始めているところだ。だから当時のぼくの悩みからは少し進んでいるとは思う。でも、自分は翻訳者として今後やっていく、という腹のくくりがあるわけではないのだ。そういうところが僕の長年の問題なのだ。腹をくくれない病みたいなものだ。

 ということをご説明したところで、「ワークシフト」の話をしよう。つまり、この本も、ぼくには「フリーエージェント社会の到来」的な受け止めかたをしてしまった。働き方が変わる、それはいい。きっとそうなるはずだ。働き方を自分で選べる時代がくる。もう来ている。自由度がかなり増す。その分、自己責任的に、自分の働き方を自分でマネージメントする必要が出てきますよ、というのが本書のメッセージの1つだ。何も考えずに過ごしていると、いつのまにか貧困や孤独に追い込まれるかもしれませんよ、的なことが書いてある。逆に主体的によく考え、アクションしながらやっていけば、いろんな働き方の可能性が開けますよ、という内容だ。あとはそのためのヒントが具体的に様々なケーススタディーとともに書いてある。

どちらかといえば、いや間違いなく「希望」が書いてある。ワークシフトにより、働き方が世界的に変わることにより、やはり、多くの人は今より幸せになるだろう、という予測が感じられる。だが、気をつけなさい、うかうかしていてはダメですよ、という釘が刺さっているという感じだ。

 でも、やはりまた再び改めて問われてしまったのだ。で、その新しい世界で君は「何を」仕事にするんだね?と。社会の中でどんな役割を担うことで収入を得るつもりですか?と。

だからーー、そこでしょ?そこだけでしょ?そこおれが腹に決めたら、あとはいろいろ可能性があるよ、ってことでしょ?でもそこは自分で決めるしかないんだもんね。

世の人々はどうなのであろうか。働く「内容」ではなく「働き方」が問題なのだろうか。つまり、会社員の人は、今と同じ仕事、同じ職種、同じ業界でいいから、ただ、自営業やフリーランスになりたい、という人が多いのだろうか。自営やフリーになれば自由度は増す。自分で様々な働き方を選ぶことができる。もしそうであるなら、彼らには朗報があるよ、ということだ。これから、雇われなくても食える人がいっぱい出てくるよ、という本なのだから。雇われなくてもと言う風に限定されているわけじゃないけどね。でも、大きく2分法で言っちぇえばそういうこと。今よりずっと自営業やフリー的な働き方がやりやすくなり、そうする人の割合も増えるだろう、ということなのだから、あなたもその一人になれる確率は今後増大する、ということだ。

なんだがまとまらなくなってきたよ。書きながら何かに気づき始めているような気がする。結局は、びびってないであれこれやってみるしかない立場にすでに追い込まれているのが俺なのだろう。もう企業に雇われていないし、心に秘めた憧れの職業があるわけでもないわけだからだ。

 今日は長くなるよ。

さっき、ここバンコクのコワーキングスペースHubbaで、というか今もそこにいるんだが、起業家2人としゃべっていた。ひとりは、顧客を巻き込んで商品開発する手法を広めようとしているアメリカから来た若手起業家、ひとりはここhubbaの創設者だ。で、僕が、いやーここにいると僕も起業したくなるな、なんかないかなー、とか適当に言っていたら、「なるほど。で、君のパッションはどこにあるんだい?」とずばっと質問が飛んできた。おれは、えっと、パッションは。。としどろもどろになってしまった。ぱっと何も言えなかった。久々に会話で焦った。なぜなら起業家達は、その質問がでたとたんに、真剣な顔つきになってしまったからなのだ。真剣な顔でぼくをじっと見ている。うかつなことは言えない。彼らはマジなのだ。

で、結局、ぼくはライフスタイルをどうのことの、みたいなわけわからんことを言ってお茶をにごし、では君たちのパッションはどこにあるんだい?と逆襲に出てみた。すると、彼ら2人はすらすらすらすらと、どんな動機で何を実現したいのか、よどみなく言いきっていた。そこには確かに、なにやら感情の動きが感じられた。つまり、口からでまかせじゃなく、彼らが本当に思っていることなのだろう。

Y世代だ。「ワークシフト」にも出てくるが彼らは20代〜30代前半のY世代たちだ。Y世代がピュワだ。自分の情熱に素直なのだろう。実に曇りない顔で、こういうことをやりたいので、やっているのだ、と言う。若気の至りだろうと言うかもしれないが、アメリカの彼などは、いままでに3回起業し、3回失敗しているのだという。今回はその失敗を活かして、その経験を起業家たちにシェアすることで仕事につなげていく、みたいな感じのことを言っていた。タフだね。

で、書評になっていないが、「ワークシフト」、これを読んでぼくが言えることは、働き方は変わる。それはもうすでに訪れた未来と言ってもいい。5〜10年でかなりの可能性が開かれ、とくに思い切らなくても自然にワークシフトしていく人たちが大勢現れるだろう。だから今会社の中で苦しい思いをしている人は、その苦しみは続かないかもしれない、と希望を持っていい。みんなが変わるのだ。常識も価値観もかわるということだ。だから苦しみもがいているだけで、あるとき、ふっと解決しているかもしれない。とにかく現状が際限なく続いていくんじゃないか、という閉塞感は持たなくていいと思う。現状が際限なく続いた歴史など人類の歴史にはないのだし。おおげさにいえば。小げさにいっても、ぼくが社会人になってから20年余り、思いも寄らない世の中にすでになっている。ちっとも予測できなかった。20年前のぼくから見れば今のぼくなどは生きていることにならない。それほど狭い価値観を持って僕は社会人になったのだ。

 もうぜんぜんまとまらないし、長い。すみません。だから言おう、未来はやはり明るいのだ。人の憧れが未来をつくるのだとしたら、いま、世界中の人が、いや、もっと限定して、日本人の憧れは、もっと気軽で自由で楽しい未来、もっとリラックスして、それでもやりがいがあって充実して、周りの人とわかちあって楽しく生きている未来、そういう未来に憧れ始めている。ぼくはそれを感じる。ならば、その憧れは実現するのだ。それが人類の歴史だ。具体的には欲も実現するのだが、つまりは憧れなのだ大元は。憧れは恐竜を空に飛ばし、人類を宇宙に飛ばし、そして、こんどは、何を飛ばすのかしれないが、最終的には欲と憧れの幻魔大戦の中で、おのれのリアリティにうちふるえながら生きる未来がやってくるだろう。


10/27/2012

ラオスさようなら

今日はラオス最終日。いま13:41分。毎日通ったカフェでこれを書いている。Joma Cafeという。スタッフにもほんとよくしてもらった。ありがとう。

3時ならば迎えのバスがくる。そしてまた国境へ。タイへ帰るのだ。

ラオスのこのカフェJomaで働く若者たちをみていると、自分がおじいさんになったような気持ちになる。ほほえましい気持ちになる。この人たちを何と言おう。草食系?そんなもんじゃない。米食系?そっちのが近いな。お米をたべる人たちの原型のような人たちなんじゃないか、などと勝手に思う。

勝手に思うついでに、岡本太郎のことを一年ぶりくらいに考えた。彼は弱さをもっていたのだ、とふっと思う。弱さがでんぐりがえったのが彼の芸術だった。刮目すればわかる、大阪は千里にそびえ立つ太陽の塔は、強さの象徴なんかではなく、弱さがでんぐりがえってそそり立ってしまった、土から生えた人間集合の情念なのだ。

いまからまた長い長い列車の旅が待っている。正直疲れる。次は飛行機でくるかも。そういえば思いつきついでにいうと、僕はつねづね、東南アジア全域で肌が白いことが価値をもっていることに不思議な気がしていた。なんで肌が白い方がいいのだろう?西洋人がそんなに憧れか?と。でも、ここラオスで、あれ?と思い返した。ラオスのひとたちは肌が割と白い。日本人的な感じの肌合いでもある。インドネシアは黒人に近い黒さだ。タイはいろいろ混じってる。抜けるように白い人もいる。ある意味白人より白い。そして、肌の白さとはなんだろう、と思っていたら、もしかして中国?と思う。中華系の人はやはり肌が白い。中国に近づくほど肌が白くなるといっていいのかもしれない。つまり、勝手に想像すると、東南アジアの中心はやはり、中国だったのではないか、ということだ。中国から文明がじゃんじゃん流れてきた。みんな中国を向いていた。中国が最先端の文明国として憧れと畏怖の対象だったのではないだろうか。古い民話などをひも解いてみなければわからないだろう。でも、そういうことかも、と思う。日本だって古くはずっと中国を中心だと見なしていた。東南アジアだってそうだったのかもしれない。

なんてことを思いながら、ラオスのネットがつながる最終コーナーを曲がるところだ。あと10分。いまから最後のご飯をたべにいく。なんてことはない、宿の向かいにある定食屋だ。たぶんラーメンかなんか食べる。でもそれでいいのだ。おいしいし、ぼくだってただの庶民なのだから。

なごり惜しい。でも早く帰りたくもある。早く帰ってバンコクの生活を立ち上げたい。といってもとりあえず半年なんだけどね。 でも生活を立ち上げたいのだ。

10/26/2012

ラオスいいところ

ラオス3日目、しかしいい国だな〜とため息がもれる。
もちろん、いいとこしか目につかない段階かもしれない。
とにかく人がやさしい。人心が優しい、これがその国の一番の財産ではないだろうか。

 ゆったりしている。車のクラクションなど誰も鳴らさない。ぼくが自転車で走ってて、よたってちょっと止まっちゃったりしても、すっと止まって待ってくれるだけなのだ。
決して相手から気軽に声をかけてくるわけではない。話しかけるまでは割とぶっきらぼうな顔をして見てくる。でも一声かけると、とたんに破顔する。ニコーっとゆっくり笑う。そして、僕は発見した。ラオスの女の人の中で、ある特殊な笑顔をする人たちがいるのだ。なんというか、小さい子を見つけたときみたいに、顔をゆっくりめに中央に寄せて、ふうっと優しく笑う。ふっと心を飛ばしてくる感じだ。これは、おれはもてているのかと思ったが、よく観察していると誰にでもそうしているようだ。いまオフィスにしているカフェの店員でもひとり、そんな笑顔をする女の子がいる。見ていると、もう習慣になっているのか、相手がその子を見ていなくても、注文を聞いた立ち去り際などに、ふうっと心を寄せてスマイルしていた。あれはいい。ドキッとする。色気があるんだなあ、なんか。

そういえば、タイでもそういう子が実はいた。たぶん、あれだ、同じ地域の出身なんじゃないかな。タイ東北部ということだ。こんな笑い方は他の国では見た事ないもんな。ラーオ族の特長かもしれない。

実は、男の子もこの笑い方をするんだ。かわいいんだなこれが。男なのに、ドキッとする。おい、かわいいな、おまえ。カフェの店員が5人いたら2人はそんな感じだ。そしてみんな背が小さくて、カフェのカウンターにわらわらとたまってキャピキャピ働いている。今日数えてみたらカウンターの中に12人がいた。多すぎだろう。でもみんな小さくて小学生や中学生みたい。中学生が恥ずかしそうにはしゃいでるみたいに仕事してる。なんかかわいい国民、それがラオスの印象だ。

 ラオス、好きになったなあ。ラオスなんか、ビザの件がなかったら一生訪れてないかもしれない。一度も行きたいと思ったことないもん。でも来てよかった。こんないい国だと知らなかった。今回は仕事もあるからこれで帰るけど、次回はもっと田舎の方も言ってみたい。仏教国で托鉢が有名だそうだ。

なんか、タイやラオスを回っていると、ああ、日本も仏教国でよかったなあと思う。これは仏教の成せるワザなのかな。仏教を受け入れた民族の特長、ということかもしれないけど。なんだかんだいって、仏教国って良い国がおおい気がするよ。日本、タイ、ラオス、ミャンマー、スリランカ、チベット、ブータンかな。この仲間っていいよね。この仲間で楽しく生きていければいいんじゃないか、なんて思ったり。

もしかすると宗教ってすごく大きなものかもしれない。おれが思っていたよりずっと。

昨日、ラオスのお寺に行ってみた。かわいかった。お寺のまわりに小さなライオンいっぱい建ってるの。ちゃんと彩色されてるの。ライオンの色に。犬みたいなライオンが狛犬みたいにずらっと並んでるの。口を空けて。そしてなんか緑色の像が立ってるな、と思ってしげしげと見たら顔がオウムだった。オウムの騎士、みたいなのがお寺を守ってるの。ちゃんとオウム色に彩色されて。
お寺はぎんぎらぎん。金色。でもなんか威圧感は無い感じ。お坊さんもちょっとだらだらしてた。いや、普通にしてるだけなのかな。

かわいい国、ラオス。どうかこのままで。と思う。でも、それは身勝手な願望。でもなうべくどうかこのままで。



ビザとれたよ

ラオスでタイの観光ビザを申請中とお伝えしました。
無事、取得できました!

申請の翌日、13時から開館ということで10分前に。
すでに長蛇の列。50人くらいでしょうか。
僕も並んでみたのですがあまりの日差しの強さに2分くらいで断念。すぐに向かいにあるレストランへ避難します。ペプシを飲みながら開館を待つ事に。
今日はMacを持ってきているので、館内で2時間ぐらい待つのはへっちゃらかな、ということで。昨日一緒に申請していた外国人たちの顔が見えます。みんな無事に申請できたんだね。

で、待つ事30分、少し遅れてやっと開館。番号札は132番でした。
よし、これは2時間コースかな、とパソコンを開きます。順番は電光掲示板でチェックできます。ところが、思ったより早く番が回ってきました。45分くらいしか待っていません。で、ドキドキしながら窓口にいくと、、はい、とパスポートを渡されて終わり。確認すると、無事にダブルビザがとれているようです。とりあえずゲット!です。

おさらに、後進へのアドバイスを言うと。

◎タイの祝日を調べておくこと。(祝日は大使館も休みです)
◎初日は開館前に並ぶほうが得策(ぼくは15分前に行って53番、中で90分以上待ちました。ちなみに開館間際に来た人は120番台でした。)
◎外で並ぶとき、日差しが超強いので日傘を準備すること(普通の傘でいいです)
◎申請書の記入は大使館前にいる代行業者に頼むと楽ちん。パスポートのコピーもやってくれます。(120バーツでした。写真撮影は別料金)
◎ビザの申請代金は準備しておくこと(申請日に支払います)
◎翌日の受け取りは開館前に並ばなくていいかも(結構サクサク順番が進みます)

こんな感じです。

ダブルビザなので、これで6ヶ月いられるんだと思ってたら、どうやら3ヶ月目に一回出国しないといけないみたい。結構面倒ね。来年1月中旬までに再入国です。どこいこうかな。エアアジアが安いところ適当に行こうかな。

まあそんな感じで、2012年10月24日現在、ラオスでタイのダブルビザ、すんなり取れましたのでご報告まで。



10/25/2012

大和魂論

やめるといいつつ、続ける。こんどは大和魂。

日本がなんとなく無宗教でやっていけている理由を考えていた。いや、仏教があるだろうと言われるかもしれないが、みんなちょっと違う気がしているのではないか。神道というのもあるが、なんだかわかるようでわからないものである。自分が神道なのかといわれると、うーんとなる。

結論から言おう、日本文化の特長は、死んだら終わりだということをよくわかっていることである。もしかすると聞き慣れた話かもしれないが、ぼくなりに改めて論じると、日本人は古来から知っていた。自分たち人間も、虫や動物、植物と同じく、むなしく枯れて土に帰るということを。

土に帰る。そのことを手放しで受けとめられる人がどれほどいるだろうか。あの世はないのだ。この世で蓄えた金銀財宝をあの世に持っていけないとはよく言う。しかし、この世で積んだ徳行もあの世には持っていけはしないのだ。なぜなら、わたしという個性は消滅するからだ。

死んでしまうということをどう受けとめるか、それが宗教なのであるが、たとえばキリスト教は、いつか復活の日がきたときに神の国へ行けることを一身に願って信仰する(たぶん。。)、イスラムもあの世がある。仏教は本来あの世は無いが、インドには古く輪廻転生の概念がある。でも、日本人のこころを、いや僕のこころを慎重に掘ってみると、輪廻の概念はない、もしくはとても希薄なことに気づく。生まれ変わりなど信じていないのだ。

あの世もない、生まれ変わりもない、ならばどのように死を考えるのか。ただはかなく散って行く、そのことをひたすら受けとめる。それが日本人の感性なのではないだろうか。だって普通に考えたらそうじゃないか、という感じで。あの世なんかない、そのことを古くいにしえから知っていたのが日本列島民族なのだ。

でもそれではあまりに悲しいので、天皇制が生まれた、ぼくはそう思っている。というか、ついさっき思いついた。だから書いてるだけなんだけどね。
私という個性はあぶくと消える。子供たちや親類、友人たちにはその影響を残すことはできるし、血は続いていくだろう。しかし、この心は消え去る。
その寂しさを、どうしたか。天皇に預けたのだ。死ぬ時、この心は、天皇が司るところの大きな御霊につらなる。その末席にふっとつながる。先祖の御霊も先につながっている場所だ。つながったことをようやく確認するやいなや、自分の意識はふつと消えてゆく。

そういう亡くなった人の魂がつらなっていく場所、それを見える化したのが天皇なのだと思ったりした。生きとし生けるものはすべからくなくなる、それはひどく悲しいことだが、抵抗すべくもないことであり、その1点において全ての生命とつながっている。そういう直覚こそが日本民族の、ひいては大和魂の中核をなすものなのである。

と書いてみると、どこかで聴いたような話だった。。
まあ、とりあえずじぶんでも言語化してみようと思っただけなので〜



とここまで書いて、また「待てよ、、」があったので追記しときます。
やっぱりね、こういうことは勢いで書いてしまいますが、
書いたあとで、ふと、じゃあおまえは本当に大きな御霊につらなるということで、健やかに死んでいけるんだな?という疑問がやってきた。
いや〜ちょいまち、ちょいまち、という声が答えた。ちょっと待って、まだそこまで考えてないよ、という声が出てきた。ということなので、筆がすべったということでお願いします。死生観を語るにはまだまだぜんぜん人生経験が足りないようです。

10/24/2012

メコン川

そうだ、もっと旅のこと書いとこう。さっきメコン川の夕陽を見ました。

それはやっぱりよかったです。

メコン川はひと言でいうと、NHKでドキュメンタリーを撮りたくなる川です。

適度な広さの川に、ゆっったりと水が流れています。木でできた細長い船に、陣笠をかぶった漁師がこれまたゆっくりと漁をしています。すべてが土色のバリエーションで描けるようなプチ雄大な光景でした。

あーーと思う。メコンを眺めながら思うことは、ああ、やっぱり人間は川の側で暮らしてきたんだなあ。ということ。ずっとずっと昔から川の側に住み着いて暮らしてきたのです。ここラオスは、まだその記憶がそのまま残ってる気がします。まだNHKのドキュメンタリーに耐えうる情景と雰囲気が残っているのです。

町ゆく人たちもけっこう素敵です。田舎の人が良過ぎる人たち、そんな人たちがぞろぞろ歩いたり車を運転してると思ってくれればはずさないでしょう。どんな感じかというと、割と交通量が多い道路でも、ぼくは悠然と自転車に乗っていられました。それも車と同じ気持ちになって、車道のど真ん中走ったり、交差点を横切ったりしても誰も起りません。ただふっと止まって待ってくれるのです。

若い人たちは、学生たちは白い学生服がまぶしいです。昔の青春映画の主人公に大抜擢されそうな、目元が涼しい女学生たちが幾人も歩いていきます。涼しいなあ。笑顔もこぼれています。目元がやさしいなあ。

なんか、とにかく、人から怒られたり、こっちがムッとしたりということが極端に少ない街な気がします。ここラオスの一応首都、ビエンチャンです。

なんだかよくわからないけど、けっこういい場所じゃん、って感じです。とくに何もないんですが、ほんとに。

でもメコン川沿いは、毎晩夜店が出て、田舎の花火大会の日の帰り道みたいな状況になっています。ラオッ子たちがそぞろ歩いています。

大人とこどもが一緒にいます。三丁目の夕陽みたいな感じなのかなあ。まあいいところばかり目につけてもしようがないんですけどね。負の面だってあるでしょう、まず、すぐにでも退屈しそうではあります。元気な若者は飛び出していくのかもしれません。でも、昨日、鼻緒が切れてしまったサンダルを買い直しに夜店を散策していたら、びっくりするくらいかわいい女の子が店番をしていました。なんというか、日本にいたら、すぐ芸能事務所に履歴書送らなくちゃいけないレベルと言えばわかるでしょうか。 年の頃は20歳くらいかなあ。そんな子がひとりで夜店やってましたよ、サンダル並べて。ああ、なんか油断してていい街だね。そして、その子がかわいかったからでしょうか、いや、たぶんちがいますが、ぼくは300円くらいの買い物をするのに、3千円くらいのタイバーツをいきなり渡してしまいました。初めていく他の国ならぼくはそんなことはしません。というのは、まだおつりが何円くれば正しいのか把握していないのです。つまりラオスの通過、キップにまだなじんでないので、というか為替レートもまだ知らなかった、ので、おつりをもらっても、それが正しいのかぼったくられたのかわからないのが昨日だったのです。でも、いいや、と思って渡しました。女の子は、うーんと困った顔をしていろいろ悩みながらおつりを用意してくれました。ちょっとむっとしてたかもしれません。申し訳ない、細かいのがなくて。。まあ、何がいいたいかというと、きっとだまされないだろう、と思える国なんです。だから食堂でもどこでも、店員に紙幣を抜いてもらっています。だますような眼をしていないのです。でも結構お金減りが早いからもしかすると、、、いえいえ、そんなことはありません。

昨日などは、呼び止められて入った観光客向けの店で、薦められるままに注文して、辛くするかと言われて、少しだけ辛く、と答えて待っていたところ、激辛の料理がでてきて、どうがんばっても5分の1くらいしか食べられず、もっぱらお米だけを食べて帰ろうとしたところ(だってもう舌が割れそうだった)、店員が、辛すぎたの?と言って、しきりにあやまり、別にいいというのにディスカウントしてくれました。今度は辛くしないから、と言って。

まあ、いいとこばかり言ってる気もしますが、今日なども道に迷って地図をみていたら、気の良さそうな兄ちゃんがどこ行きたいの?と聞いてきて、タイ大使館だ、と言うと、地図を眺め回したあと、だいぶ自信なさそうに、あっちのほう、と教えてくれました。まあだいたいあってましたが、あとで見たら彼らは警察官でした。交通整理とかしてました。警察がこんなに気さくな国ってめずらしいですね。普通雰囲気だけでわかっちゃうけど、わからなかった。たしかに制服来てるな、という感じで。

まあ、そんなんがラオスの第一印象です。










日本をもっと豊かに

日本をもっと豊かにしたいと思った。

このまえ、横井小楠の本を借りて読んでいた。
横井小楠とは幕末の志士に大きな影響を与えた熊本出身の思想家だ。

横井小楠いわく、豊かになるとは、人々に生活物資がゆきわたり、人々の暮らしが豊かになることだ、という。決して藩の財布に貨幣が貯蔵されることではないと言っている。まあ当たり前の話である。そのために、藩は住民に無利子でお金を貸し、産業振興につとめ、産物も藩が適正価格で買い取るがよかろう、と言っている。そして藩から外国にそれを売って利益をあがえればよかろう、と言っている。そういうのが経済政策だという。


まあそれはそれとして。
昨日、もったいないなあ、と思うことがあった。
昨日、タイとラオスの国境を越えるとき。 ポルトガル出身の旅人と知り合いになった。7ヶ月かけてもう何カ国も旅してきたという。数ヶ月後には日本にも寄りたいという。でもたぶん少しの間しか滞在できないだろう、とさみしげに言う。物価が高いからね、と。

あーもったいないなあ、と思う。せっかくユーラシア大陸のはじっこ、ポルトガルから日本へ来てくれるのである。日本に立ち寄ってみたいと思ってくれているのである、日本を気に入るかもしれない。でも、物価が高くていられないのだ。

外国人からしたら、まず宿泊費が高い。交通費が高い。お金が湯水のようにとんでいくからゆっくり観光もできないだろう。別にヨーロッパやアメリカに比べて高いとは思わない。ヨーロッパも宿は高かった。欧州エクスプレスも高くて乗れなかった。だから比較の話じゃない。実現可能かどうかもおいておく。ただ、もっと滞在費、交通費を安くして外国人が来やすい場所になればいいのに、と素朴に思う。ただでさえ島国で、高い航空チケートを買って来てくれるのだから。

つまり、こういうことだ。日本はまだ豊かさの限界を超えてなんかいない。ぜんぜん豊か過ぎたりはしないということだ。よく、物質的に豊かになり過ぎたがゆえに、精神的に貧しくなったなどと言われるが、まったく間違ってると思う。物質的な豊かさもまだまだ足りないのだ。それもただ足りないんじゃない。そのポテンシャルに対して実現されている豊かさが少な過ぎる気がするのだ。

もっといけるんじゃないか。だって思わないか、経済で世界2位とか3位の国で、人が豊かに暮らしていない。住居ひとつをとってもその狭さに外国人は驚くし、労働時間だって長い。もっと豊かになれるはずなのだ。

もっと豊かに。それはつまり、もっと居住費が安く、交通費、通信費が安く、食費が安い状態だ。もちろんクオリティーはそのままで。それが真の豊かさなんだと思う。クオリティーは高いけど、値段も高いよ、ではそれはまだ半分の豊かさだ。

もっと豊かに、もっと豊かになって、日本は夢の国だ、と言われたい。バケーションは毎年日本でのんびりするんだよ、と言われたい。それはあれだよ、日本の円が安くなって、外国人にとっては物価が安いパラダイスだけど、日本人にとっては海外旅行もできなくなった、では意味がない。そうではなく、ただ物価だけが下がる。そんなことは可能だろうか?それは経済原理に反するファンタジーなのだろうか。



天皇論

じつは、僕は戦争論につづき天皇論を華々しくぶちあげるつもりでした。

その書き出しは決まっていた。

「ぼくは天皇は現人神だと思う。この現代においても。」という書き出しだ。

 ところが、天皇についていろいろ調べている途中、昭和天皇が広島の原爆投下について、「やもおえないことだと思う」と発言しているYoutube動画を見つけてしまった。

動画から天皇陛下のお言葉通りに抜き出すと、以下になります。

「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思ってますが、戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やもおえないことと私は思っております」

おっとこれは。。なにやらガーンとなぐられたような気になる。ポカンとしてしまった。この動画の説明には、「1975年10月31日、日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」とある。

なんというか言葉を失う。あれ?これはどう考えればいいのかな。。どう解釈すればいいんだっけ。。

にわかに自分の天皇観がわからなくなってしまった。

先日のブログで、僕はいせいよく、アメリカ大統領は原爆を「間違っていた」と発言すべきだ、と書いた。そういう仕切り直し、けじめ、みたいなものをとってもらわないとまともに対話する気にならんもんね、と思っていた。謝罪でなくてもいいのだ。今の自分たちは、今の自分は、原爆投下を間違った行為だと思っている、という認識を示してほしいだけだ。もちろん本当にそう思っていればの話なのだが。

ぼくはこれを当然のことのように思って先日の記事を書いた。日本人はみんなそう思ってるし、アメリカ人も本当はそう思ってるでしょ?という意味で。

ところが、先の天皇陛下が「やむを得ないこと」とおっしゃっている。。陛下がやむを得ないと言っているのに、おれが「あるまじき行為」と言ったところで、どうなのかな?なんて思ってしまったり、いや、そういうことじゃない、と思い直したり、わけがわからなくなった。

なので、いったんここらへんの話題はもうやめとこうかな、と思う。なんか自分でもよくわかってないわ。

で、冒頭にもどり、なぜ天皇は現人神だと思うのか、さらっと書いて終わりにしておく。なぜならば、いまの平成の天皇陛下を見ていると、もちろんテレビで見ただけの印象で書く事になるが、どう考えても、ふつうの人間では耐えられないお立場にいるように見える。プライバシーも自由もものすごく制限されている。自らの行動、発言、一つ一つがものすごい影響力を持つことを十分にご存知だろう。彼は権力者ではない。何の権力もない。権力にまかせて豪遊もできない、女も囲えない、下々を思い通りに働かせて悦に入ることもできない。ただひたすらに国事行為を忙殺され、それでいて国民から一心に頼られ、そうたぶん精神的にはそうとう頼られているのだ。そして諸外国へいっては慰霊祭に出席されたりしている。外国の要人やメディアに対して天皇が与える印象が、日本の外交にひびくことも重々にご存知だろう。そんな日々のなかで、テレビで見る限り、健やかなお顔をして文句ひとつ言わずに務めを果たしておられる。(もう勝手に敬語になっちゃう)

 ぼくたち国民は、身勝手にも、その、叶えられない純真さと無垢さを天皇に託しているのだ。自分たちのスピリテュアリティーを天皇に預けることで、現実を、日々を、のうのうと生きていけているのだ。

 そういうようなもろもろの意味において、天皇陛下はこの現代においても、いや、この現代においてこそ、現人神であらせられる、という思いが体の芯からツーンと湧いてくるのだ。たとえばダライラマだって普通の人間じゃないというような意味において。日本にだってダライラマはいるのです。ただ黙って静かにあらせられるのです。


ということなんだけど、ぼくのなかで思考が分裂しちゃったので、いちど天皇論はご破算にします。すんません。。







ラオスのビエンチャンでタイの観光ビザを申請

いまラオスに来ています。
タイの観光ビザを申請するためにです。鉄道ではるばる16時間かかってやってきました。正直結構こたえました。すごい揺れます。でもバスなどに比べたら楽ですね。

ラオス、写真をお見せできなくて残念です。まだカメラが故障中なのです。第一印象は太陽が近い!です。タイよりも太陽が近く思えます。高地なんでしょうか?とにかく昼間の太陽ははんぱないです。5分も日なたにいると頭がぼーっとして何も考えられなくなります。おかげで、サイクリング中、何度も道を間違えて余計にしんどい思いをしています。行って帰るだけのことができないのです。

とはゆうものの、今日、なんとかビザの申請を終えました。 あすは受け取るだけですので、これでほぼ6ヶ月の「ダブルビザ」をゲットできたと見ていいでしょう。後進のためにビザ取得情報を書いておきます。

まず、最初はビザ取得ツアー会社を使おうと思っていました。ラクチンだと聞いてきたからです。でもあるところはメールしても返事なし、あるところは電話すると、「今はダブルビザはとれないよ」とのつれない返事。あれーほんとうかな?と思ってネットをいろいろあさっていると、つい先月にラオスでダブルビザを取ったというブログに出会いました。そこで、思いきってラオスまで自力ビザ取得旅行に出て来たというわけです。

2012年10月22日、
バンコクからラオス・ビエンチャンまでの道のり
◎バンコクのファランポン駅からラオスとの国境の街ノンカーイまでの夜行列車にのりました。チケットは一週間ほど前にアソーク駅のH.I.Sで購入。手数料込みで850バーツくらい。2等寝台の下段、エアコン車にしました。バンコク20時発〜ノンカーイ翌8時半着予定です。

◎列車は定刻通りに発車。ぼくはすぐに食堂車にいってビールを一杯。飯をくったり本を読んだりなんやかんやでそのまま23時くらいまでいました。座席に戻るとすでにベッドができあがっていました。寝台車をとるなら絶対下段がおすすめです。縦方向の広さがぜんぜんちがいます。窓もあるし、圧迫感はほとんどありませんでした。ただし、エアコン車は考えもの。ギンギンに冷えていて、長袖長ズボンを履いていたのですが、朝型には体の芯が冷えるような感じでした。これは扇風機の車両のほうがいいんじゃないか、ということで、帰りのチケットは扇風機に。また改めて報告します。どうせ食堂車もエアコンなかったんですが、窓を開けておくと風がびゅんびゅん入ってちょうどいいくらいの涼しさでした。

◎列車は遅れに遅れて4時間遅れでノンカーイに到着。なんか線路が工事中とかで、徐行運転を繰り返していたのが原因でしょう。もうすぐ着く!と思ってからの4時間が長かったです。。

◎ノンカーイ駅で鉄道を降りると、国境までトゥクトゥクです。同じ国境までいく外国人たちと乗り合わせてひとり30バーツ。乗り合わせはとくに相談しなくても、トゥクトゥクの運転手さんが勝手に乗り合わせにしてくれます。

◎10分くらいで国境に到着。タイのイミグレでまず出国手続き。パスポートにくっついていたDeparture Cardに書き込み、提出。ここはすんなり通過。

◎大きなバスが待っているので乗り込みます。20バーツ。チケットカウンターがあります。バスで10分くらいで国境の橋を通過。

◎バスを降りてラオスの入国手続き。窓口で入国カードをもらって、 記入、ここもすんなり通過。

◎またトゥクトゥクに乗り合わせてラオスの首都ビエンチャンまで。結構かかる。20分くらいでしょうか。ひとり50バーツ。




◎街の中心部で下ろされ、ひとりに。よって来たトゥクトゥクのおじさんにゲストハウスの住所を渡します。最初右往左往していましたが、人にききながらなんとか到着。80バーツ。

◎宿は、「Heuan Lao Guesthouse」というところです。エアコンダブルで一泊1100円くらい。agodaの評判がよかったのでここに。街の中心部からちょっと離れているので、不便といえば不便ですね。自転車で10分くらい。でも静かです。

◎で、翌24日、いよいよタイの大使館へ。宿から以外と近いことが判明。自転車で10分くらいなので自力でいくことに。方向オンチの僕も地図をみながら一発でいけました。大使館が8:30に開くので15分前くらいに到着。すでに行列。申請書を代行で書いてくれる業者がいるので、お願いする。12000キップ(120円くらい)。写真屋も隣にあるし、ノリで写真も貼ってくれます。必要な情報は、ラオスでの宿泊先(ホテル名だけでいいみたい)、バンコクでの住所(こちらはきちんと)、バンコクでの電話番号、あとは職業を聞かれましたね。
そして、シングルかダブルかを選びます。シングルなら最長3ヶ月、ダブルなら6ヶ月です。今回はダブルにしました。

◎定刻に開館。ぞろぞろ入って番号札を受け取ります。ぼくは53番。
窓口は2つあるんですが、途中で係員がいなくなったりなんやで結局呼ばれたのが10時くらい。ここまで90分待ったことになります。開館直後に来た人は 120番台のチケットを持っていたので、さらに2時間かかるのかもしれません。なので、少なくとも開館15分前には来ておいたほうがいいです。ただし、必ず傘を持っていくこと!これ大事。めちゃ暑なんです。太陽が。15分も並んだらクラクラします。ぼくはその情報を聞いていたので傘を持参していました。助かった。。

 ◎それで、電光掲示板に「053」も文字が。僕の番が来ました。どきどきしながら申請書とパスポートを渡します。係員がなにか聞いてきます。「ダブルでいいのか?」と聞いているのでイエス、と答えます。「2000バーツ持っているか?」と聞くのでイエスと答えます。すると、さきほどの番号札に「x2」と書いて渡してくれました。これで終了。あとはこの番号札をもって別の窓口で支払いをするようにと言われます。なんだ、あっけない。なんかいろいろ聞かれるかと思いましたが、スルーでした。

◎ビザ代は隣の建物で払います。ここでも15分くらい待って支払い完了。2000バーツ。あとは明日の午後、パスポートを受け取りにくるだけです。

こんな顛末でした。もうこれで大丈夫でしょう。とりあえず、明日無事にビザをゲットできていたら、また報告します。

ビザ取得について、ぼくの経験で言えることは教えますので、お気軽に。




 





10/21/2012

おそらく最初の記憶


ぼくが長い間、人生の最初の記憶だと思っていることがある。
それは、昔住んでいた小さな一軒家の4畳半の居間で、姉が始めて幼稚園に行く日、姉が幼稚園のほとんど黒に近い紺色の制服を着て座っている。あたまにはフェルト素材の同じく黒っぽい帽子が、すこしも型くずれしてない丸さを誇ってちょこんと載っている。ピンクと白のストライプのリボンが踊っている。姉はまた、黒いタイツを履いている。そして、少し横に足を崩した正座のような姿勢で僕と向かい合うように座っている。
そして、ぼくは、だらしなくパジャマのままでそれをじっと見ている。もうすぐ幼稚園のバスが迎えにくる。ぼくは何か新しいことが始めることだけはわかったようで、ドキドキどきどきしている。そして僕のとなりには小さな薄いグレーのような黄土色のようなブチの猫が座っている。少し肌寒い早春の朝なのだ。

とこういう記憶だ。しかし、これはたぶんうその記憶だ。
ぼくの家で猫を飼っていたことはない。母が動物アレルギーだから、簡単に近所の猫を家にあげていたとも考えらられない。それにたぶん、姉が始めて幼稚園にいくとき、ぼくは1歳とかだろうから覚えてるわけはないし、第一、ぼくが1歳のころ、ぼくたちはその記憶のシーンにある家とは別のアパートに住んでいたという事実があるだ。


だからこれは本当の記憶ではない。うまく合成されたにせの記憶。もしくは印象だけから再生した借り物の記憶なのだろう。


そして、次に、疑惑の記憶がある。もしかしてこれが人生で最も古い記憶なのではないかという記憶だ。
それは、ぼくと姉と母と父が、土手の下の道を歩いている。母がすごくうれしそうに何かを父に話している。はしゃいでいるようだ。父は肩にかつぐようにして何かの箱を持っている。どうやらトースターのようだ。時刻は午後の3時半といったところだろう。まだ十分に明るいが、少しだけ夕方の気配がする黄色く焼けたオレンジの光が射している。

これがなぜ最初の記憶っぽいか。それは我が家ではじめてトースターを買ったであろう場面であることと、そんな土手の下の道を通って買い物にいくようなルートは、ぼくが覚えているこどものころ住んでいた家の周辺にはないのだ。だから、これはぼくがもう覚えていない、ぼくが3歳まで住んでいたというアパートへの帰り道ではないかと思うのだ。

だがしかし、これもまた本当の記憶ではないだろう。だから、ぼくは確かめずにいる。

こどものころの記憶を思い出すとき、まるで扇風機のまえに顔をもっていったときみたいになる。
風がわーーっと口にぶつかってくる。涼しくて気持ちよくて、おかしくてウキウキするんだけど、息がちゃんとできず、どこか息苦しい。

でもこのまま窒息してしまうとは思わないので、その息苦しさを楽しんでみたりする。

10/19/2012

書評:「白鯨」(メルヴィル)



ついに、あの大著にして古典中の古典、「白鯨」を読破した。一年くらいかかった。もちろん休み休みだ。文庫本で上中下の3冊セットで出ている。長かった。。

ふつつかにもこの大御所中の大御所を書評してみようと思う。

まずね、おれはね、冒頭らへんの一節にしびれたね。
この通りじゃないけどだいたいで言うと、主人公が捕鯨船に乗ろうと思ったきっかけを語るくだりはこんな感じだ、
「少し陸の生活にも飽きたので、ひとつ水の世界でも見物してやろうと思いたち、」

水の世界を見物ですか〜。なんかかっこいいじゃないですか!

もちろんこれは翻訳文なので、翻訳者の言語センスがかっこいいだけかもしれないが、たぶん原文もこんなニュアンスで書かれていたのでしょう。

それから主人公は、全身刺青の蛮族出身の銛打ちと宿をともにして、片足の怒れる老人が船長を務める捕鯨船に乗り込んでいく。あとはえんえんとクジラの知識と捕鯨の知識と、捕鯨の日々がたんたんと何の感情移入もなくつづられていく。

ある意味めちゃくちゃ退屈でもあった。だから読むのに一年もかかっちゃった。

途中途中、冒険活劇として面白く読める箇所がインサートされるが、それが終わればまたクジラの話。ザトウ鯨の骨はどうだの、マッコウ鯨の潮吹きはどんな形だのの話がずーーーと続いたりする。鯨好きにはたまらないかもしれないが、ぼくはどちらかというと象が好きなのだ。

まあいいだろう、そして最後もかっこいい。すごくかっこいい。最後は、捕鯨船一丸となっての宿敵白鯨との格闘劇だ。捕鯨船から三艘のボートがおろされ白鯨を追跡する。途中、白鯨との格闘で、ひとりの船乗りが海に放り出されてしまう。ボートはかまわず鯨を追いかける。そして、なんとボートは3つとも白鯨によって破壊されてしまう。それどころが、捕鯨船本船までも、白鯨の体当たりによって穴をあけられ沈没する。船乗り達は全員、船とともにその渦に巻き込まれて沈んでいく。

ただひとり、さきほどボートから海に投げ出されてしまった船乗りだけが、その渦に巻き込まれずに助かり、近くを通りかかったほかの船に救出される。その投げ出された船乗りが主人公というわけなのだった。

最後、そこまでが一気に語られ、なんの感慨も感想も感傷もなく、物語はとつぜん終幕する。このいさぎよさ。歯切れよさ。なんだかとにかくかっこいいのです。

こんなかっこ良い系の小説だとは思いもよりませんでした。なまえの「白鯨」といい、復讐心に燃える老いた船長を中心に話は展開するし、もっと教条的でこころに染み渡るような話だと勝手に思っていたのです。なにも染み渡りません。ひたすらにカラッと晴れ上がった空と、船ひとつ見えない大海原が残されただけでした。そしてはるか遠くの方に白い点のようなものがかすかに見えるだけ、そうそれはかの白鯨かもしれません。

なんか男の小説を読んだな。そんな感想です。
 男なんてこんな風に生きて死ぬってことでいいんじゃないか、とほんのチラッとだけよぎったり。とにかく僕の個人的な性格とはかけはなれたムードをもった骨太でカラッと晴れ上がった小説でしたね。

まあ、そんなところでね。


10/18/2012

バンコク違和感なし

しかし、バンコクにいると不思議な気持ちになる。それは、もうずっとこの日常が続いていたかのような気持ちになる。

いまだって、ここコワーキングオフィスで見渡せば、僕以外はタイ人が数人パソコンを打っている。あ、そう、という感じ。だって顔も日本人と似てるからね。たまに、あれ、どっち?という人いるし。中華系が混じってるからすごく似てるのです。

ご飯も、バリ島から来たからか、あ、こんな感じね、という感じですっかり慣れてしまった。というか、日本の定食屋も近くにあるし。昨日は普通にさばの塩焼き定食食べたし。おかまちゃんのいる店で。

 しかし今朝などは、バンコクの蒸し暑い湿度のせいで呼吸困難になる夢を起きて目覚めた。不吉な。夢の中で、ああ、こういうのか過呼吸になるときの心境なのか、とわかった!的な気持ちになっていた。この苦しい状況を二度と逃れられないんじゃないか思ったとき、そうとしか思えなくなてきたとき、パニックになる。それが過呼吸なのだ。あ、やべえ過呼吸になる、と思ったとたんに目覚めたようだ。

そんな朝であるが、時計を見るといつもより寝過ごして11時。昨晩飲んだせいだろう。いや、一昨日が不眠気味だったからだろう。遅めの朝食をたべに外へ。そしてそのまま職場へ。

そして、いま21時21分、ゴロがいいのでそろそろ帰ります。内容無くてすみません!

戦争論3

さみだれ式に戦争の話を続けていこう。

いったい戦争とは何か? それがまず不思議だ。先の太平洋戦争を考えれば、それは「宣戦布告」から始まる。真珠湾攻撃はだまし討ちとも言われているが、いずれにせよ日本が米国に対して宣戦布告をしたことは事実だ。

宣戦布告とは、今からあなた国と戦争しますよ、という一方的な通告だ。相手に受理されなければ攻撃しないというものではない。宣戦布告したら、有無を言わさず攻撃するのだ。それは一方的なものだが、同時にルールに則った行為でもある。わざわざ「公式に」通告するわけだからである。本当に相手を壊滅させたいだけなら、無言でミサイルをぶち込んだっていいわけです。でも一応、通告する。いまからやっちまうぞ!というだけのことだと思うけど、一応言うわけです。それが当時の国際的なルールなわけです。

そして、どっちかが劣勢になって、もうやってられない、となれば「講和」を申し込むわけです。太平洋戦争の場合は日本が白旗をあげ、「サンフランシスコ講和条約」が締結されたわけです。まあ、勝ったほうからすると、これ以上攻めるのやめてやってもいいけど、それなりのわびは入れろよな、ということですよね、これは。

宣戦布告に始まり、講和で終わる。それが戦争です。少なくとも太平洋戦争当時の戦争はそういう「ルール」 の上で行なわれたのです。つまり、完全に合法行為なんです。国際的な法律があったとすれば。

ぼくは子どもの頃、まずそのことが理解できませんでした。合法行為として、つまり双方合意の上で、何百万人も殺し合うことができるのか!と。
日本軍兵士が230万人死んだのも、 日本の一般市民が80万人死んだのも、すべてルールに基づいて行なわれたことの結果なのです。

そこことがいつまでたっても腑に落ちないんです。

戦争はただの暴力行為ではない。国際的に(当時は)認められていた国家対国家の外交行為の1つだったわけです。あるときには、仲良くみんなで戦艦を減らしましょう、という条約を結んだりもしている。太平洋戦争当時、「戦争」はかなり普通の行為だったということでしょう。

現代日本では、戦争はまるで悪魔の所業、一から十まで非人間的な悪の行ないだという風潮がありますが、少なくとも過去はそうは解釈されていなかったということです。


戦争は犯罪行為ではありません。この現代においても。


まずそれをよくきもに命じる必要があると思うのです。戦争、即犯罪ではないのです。戦争は犯罪ではない、ただちに断罪されるべき悪ではないが、うちの国はそれをもうしませんよ、というのが我が国の憲法第九条だと思っています。

でも、戦争は犯罪じゃないってことで本当にいいんですかね?

一カ国の中では、例えば日本の中では何が犯罪行為なのかは割と明確です。刑法や過去の判例をひも解けば、また、裁判にかければ、その行為が犯罪かどうかははっきりします。でも問題が国際間にまたがる場合はどうなるのでしょうか。なんとなく、あいまいになっている気がします。(実はぜんぜん調べてませんけど。。)

一応国際法なるものがありますが、あんまり判例とか効いた事ないですよね。というか、東京裁判とかが国際法にのとって行なわれたとしたら、国際法とやらのお里が知れようというものです。

おっとこれ以上は、法律の専門知識がない僕が書き進めるのに適していない気がしてきました。

ただ一点、繰り返し言うと、戦争は犯罪行為ではありません!

そこんとこ、よろしく。


とここまで書いて、不安になったのでググってみた。
そしたら、どうやら戦争は国際法上でも違法行為とされているみたい。1928年のパリ不戦条約というもの以降は。でも太平洋戦争はその後に起きてるんですけどね。。

でもそのあとの国際連合でも、もう一度、戦争は違法行為と規定され、自衛以外の戦闘行為は違法となったようです。でも、世界を見れば、やってるよね?アメリカとか、ロシアとか、中国とか。

まあなんだかよくわからんくなったので、いったんしっぽを巻きます。
調べてから出直します、すみません。。


黒船論

戦争論のつづきのような論を書きますね。
それは黒船についてです。そうです、あのペリー提督の黒船ですね。
そして吉田松陰です。幕末の志士中の志士ですね。明治維新の立役者中の立役者と言っていいでしょう。

今回はちょっと今仕事中に急に書こうと思ったので短くいきます。

下田で黒船を見た吉田松陰は、黒船に乗り込もうとした。黒船にで米国に連れていってもらおうとしたんです。

これってすごいですね。殴り込みにいったんじゃないんですよ。黒船に乗せてってって言いにいったんですよ、ペリーに。しかもそれは重大な国禁破りですから、死を覚悟の上ですね。

まさに「世界の果てまでつれってって」を地でいくような精神です。

その目的が最終的には西洋列強を排斥する、つまり攘夷だとしても、とりあえず米国見に行くわ、というこの精神、この好奇心がすごいじゃないですか!

そうです、黒船が来航したとき、日本人の中に沸き起こったのは恐怖ではなく、好奇心だったのです。その好奇心の爆発が明治維新へつながったとぼくは見ています。

以前のブログでも今の日本に好奇心が足りないと書きましたが、僕が言っている、国の好奇心とはこういう好奇心のことです。それは必ずしも外国からやってくる必要はないのですが、何か、自分たちがすっかり変えられてしまうんじゃないか、ないしは、変わらないと何かに対応できなくなってしまうんじゃないか、という感触ですね。それはもちろん恐れを伴うでしょう、でもその中心を貫くものはまぎれもない、好奇心だったのです。

まあ、ざっとこういうことを言いたかった。ということで、仕事にもドリます。

10/17/2012

バンコクのおかまちゃん率のすごさ

バンコクで何がすごいっておかまちゃん遭遇率がはんぱないです。
一日に2人は出会う。もっとかも。ご飯を食べに行くと5件に一軒はおかまちゃんが働いている感じ。なんだろう、これは。

正直な感想は、おかまちゃんがこんなにどこにでもいられる国は良い国だろうということです。ほんとふつーに働いている。ちょっとハスキーなかわいい声で、なんとかかんとか注文入りました〜♪みたいな感じで叫んでる。明るい。

こんなにおかまちゃんが受け入れられるなら、ぼくひとりいたって大丈夫だろう。少々おかしな人間だけど。そんな風にも思えてくる。

これはインドネシアでもなかったことだ。アジアだからじゃない、ここタイ、もしかするとバンコク特有の現象なのかもしれない。この寛容さはもしかするとNYやサンフランシスコ、アムステルダム以上なのかもしれない。いや、比較することすらおこがましいほど圧勝している気がする。ここバンコクではことさら自己主張しなくてもふつうにおかまでいられるのだ。

かわいくしたっていいじゃない。だってワタシかわいいんだから。
そういうことでしょう。

 そしておかまちゃんたちは、道ですれちがうとき、顔をばしっと見てくる。そして、なにか眼でがしっと語ってくる。まるで歌舞伎の見栄をきるかのように。その大胆さにはっとする。なんでそんなにまっすぐ人の顔を見られるのか。そして眼をそらさずにいられるのか。それは、車が忙しく行き来する道路をなんとか渡ろうと悪戦苦闘しているときであったり、注文をとりにきたおかまちゃんに注文を告げたあと、ひっこんでまたふっと後ろ髪ひかれたみたいに振り返ったりする表情だったする。はっとさせる術を知っているということなのだろうか、それとも単に、気前のよい態度をとっているということだろうか。

あ、ぼくもあんな風に明るく大胆であったなら、そんな風に人の顔を見られて、ニコッと笑えるようであれば、どこか毎日ももう少し軽快で滑稽なものになる気がする。そして物事もよく展開するのだろう。かな?

ちょっと言い過ぎたかな。まあなんにせよ、どうやらここ一年、いや二年ほどのぼくは人と仲良くなることにかなり引きこもってきたように思う。その逆のつもりでやってきたのだが、どうもそうみたい。ちょっとそっちもがんばらないとな。。

いまスタバが閉まるということなので、中途半端だけどここらへんで。。



10/15/2012

戦争論2

そう、戦争の話というよりは、言論の話であり、言論というよりは無意識化されていることの話であり、無意識化されている欺瞞という話なのだ。ぼくにとっては。

そういうものが日本の活力を奪っている。また、そういうものがアメリカを没落させてゆく。それはそうなるに違いないのだ。原爆投下を間違ったことだと言えないアメリカ大統領の口からどんな言葉が吐かれたとしても、それは信用に足る言葉だろうか。もちろんその刃は日本にも返ってくる。そうなるとぼくは左翼的になるのだ。

誰も本当のことを言わない世の中。それは人が死ぬ世の中です。

おっと、勇ましいことを書いてしまった。それはもしかして敗戦間際の日本、情報統制下の東ドイツのことなのかもしれません。迷走してきたようなのでこのまま迷走を続けましょう。

 まあそんな勇ましいことじゃなく、ただ、ちくしょう!という気持ちがぼくの中にある。その正体を探りたいだけなのです。

しかし、じゃあ僕のなかにびしっと筋の通った戦争観、歴史観があるかというと、それはないのです。常に混乱している感じ。そんな混乱を抱えながらも、「楽しく生きる」ことを目指して日夜がんばっているのです。だってそうでしょう? どうせ生きるなら楽しくなくっちゃ。

そんな風な僕が国民のひとりとして日本国を構成している。その不思議。いったい我が祖国はどうやって日々成り立っているのでしょうか。気がつけばそこにあった。だが、混乱したままそこにある、そしてその混乱の中を育だちぬいてきたのが僕たちなのです。しかもその混乱は、内面的な混乱であり、外部のサバイバルという形で現れた混乱ではありません。サバイバルならば生き抜けます。人間は、いやさあらゆる生命は、そのように設計されているからです。

いよいよ勇ましくなってきました。
 ちがうんです、そんなことを書きたいわけじゃない。僕が普段気にしていることはもっと小さいことです。大きく見積もっても、今度どんなふうに仕事を広げていこうか、というそこまでです。それ以上に大きなことはある意味どうでもいいことなんです。ぼくだってまずは飯が食いたいのですから。それも楽しく(ここちょっと贅沢ね。すみません。。わがままかつミーハーなもんで。。)。

だから日本を代表するミーハーなぼくとしては、ミーハーにも、世界の中で日本を考えるなどという若者の教科書の1ページ目に載っているようなことをやるつもりでいたりするのです。いや、うそです。それは結果的に、です。

たとえば、ここタイの人々は、僕たち日本人が抱えるようなどこか暗い、忸怩たる、裏腹の、賛否両論な、口論の種になるような、戦争問題は抱えてないと思いますからね。壊滅的な戦争はしてないですから。その反面で、なにもそこまでというほど政治では熱くなっているようです。つい昨年でしょうか、赤シャツ、黄シャツに分かれて銃撃戦を行なっていたのがこのバンコクだったのが。政治闘争で人が死ぬ。市街戦になって軍隊まで出動するなんて、今の日本では考えられません。

そんな風に、あれ〜なんでだろう〜みたいなことは日夜思う訳ですね。やっぱり外国にいると。でもそれもうそです。本当は、なんとなく旅気分を続けたい、それだけなのかもしれません。

はい、もう話題それまくり。

わかっています。ぼくが本当に頑張らねばならないのはやはり仕事。そこから目をそらしつづけた10年を取り戻さなくてはいけないのです。ふー、そのことを考えると急に頭脳の回転が止まるかのようです。まだ戦争の話のほうが長く話せますね。

あーがんばらないと、がんばりますよ。ええ。





戦争論

今日は、一応、ノルマ的なことは終わったので、いまからお腹が空くまで、すなわち晩飯くらいまではブログを書くことにする。

そして戦争論だ。ぼくは自分が右翼的なのか左翼的なのかよくわからなくなる。
ぼくは子どものころ、軍国少年だった。と言っても過言ではない。これは大人になって気づいたことで、前にも書いたのかもしれないが、ぼくの小学生時代の愛読書は、軍記ものだったのだ。なぜか家に日中〜太平洋戦争までの子ども向けの軍記本があったのだ。

その本は、明らかに日本軍万歳!的な本で、日本の兵隊がいかに勇猛であったか、敵を蹴散らしていったか、が威勢のいい筆致でつづられている。それを愛読していた。何度も何度も読んだ。そのせいなのか、ぼくの奥深いところに、日本軍万歳!的なノリがどしっりと居座っているようなのだ。

 爆弾三勇士をご存知だろうか?日中戦争のころ、敵陣地に張り巡らせてある鉄条網を破るために爆弾を抱えて特攻した3人の兵士のことだ。これは実話だ。そんなエピソードを、すごいぞ日本軍!という歓喜の思いで読んでいたのだ。それはいわば冒険小説さながらだったのだ。「バターン島死の行進」は、米軍の物量の前に追いつめられた日本軍が、何千人も玉砕する話だ。(後日修正:「バターン死の行進」とは日本軍が連合国の捕虜を収容所まで歩かせる途中で大勢の捕虜が死んでしまった事件を言うらしいです。勘違いしていました。ただし、フィリピンのバターン半島で大勢の日本兵が玉砕したのは事実です。) もう最後は軍刀を振りかざして敵の機関銃の前に特攻していく日本兵たち。相手は日本軍の勇敢さに戦慄したそうだ。そういう物語を繰り返し繰り返し読んでいた。

それはそれとして。

先の戦争を語る時に、困るのは、知れば知るほど、世界は「勝てば官軍」的に成り立っているんだということがわかってくることだ。

東京裁判を引くだけでもいい。なぜ戦争に負けた側だけが裁かれなければならないのか。B級C級戦犯? 捕虜を虐待した? そういう君たちは原爆を投下して一般市民を何十万人も殺したじゃないか!としか思えないのだ。それは罪ではないということになっているのだ。現在の国際社会では。

 だから南京大虐殺の有無を問う時に、まずその前に、戦時中に一般市民を大量に殺すことはそもそも犯罪なのか?と問わなければならない。戦時中ならアリなのか、戦時中といえどもそれは罪なのか。ならば原爆は?

そういうものを全部同じ皿の上に載せて議論しなければ、本当の議論にはならない。なにか永遠のアメリカ恐怖症の中にいるような気がするのだ。日本社会全体が。ぼくはこのことを以前、父親にぶつけてみたことがある。父親はそのとき中国の文句ばかりを言っていた。僕は食ってかかった。ならばアメリカは、アメリカは許せるのか、と。親父はしばらく沈黙した後、「アメリカには敵わない」と小さくつぶやいた。

もしかするとこれが戦中、戦後直後世代の正直なる感想なのかもしれない。僕はその是非を問わない。ただ、未来のために戦争や国防や国際社会のことを議論するなら、その基準を一定にしなければならないと思うだけだ。中国、韓国とアメリカとで違う基準を適用してはいけないだろう。 アメリカには敵わない、結局はそう言っているだけのことが続いているだけなんじゃないだろうか。






エクストラ・キーボード

さて、今日は月曜日、今日もオフィスに来ています。最近どうも朝食をたべないと代わりにお菓子を食べてしまうことに気づいて、今日は近所の飯屋で朝ご飯をたべました。なんだかわからないもやしの炒め物と、カボチャと、トマトときくらげのなんらかです。そういえば、タイは今日あたりからベジタリアン週間だそうです。10日ほどベジタリアンな食事をするとのこと。食堂にもそこかしこで黄色い旗が立ちます。これは、ベジタリアン料理を出してますよ、というサインだそうです。ぼくも今週はベジタリアンで行きたいと思います。

オフィスの隣の席にイスラエル人がいることはお話しましたね。かれはMacBook Proを使っているんですが、それとは別に外付けのキーボードを使っています。ぼくは、珍しいな、と思ってみていました。別にMacbook Proのキーボードで十分使いやすいけどなあ、と。で、今朝聞いてみました。えらいこだわりなんだね〜、と。すると、意外な返答が。いや、これはロシア語を打つために必要なんだよ、と。なんでも、彼はゲームデザイナーなのですが、プログラマがロシア人らしいのです。で、やり取りはロシア語でしていると。だからロシア語が簡単にうてるキーボードを使っているんだよ、とのことでした。なんだ、おれ、ダサイな。こだわり過ぎのオタクかと思ってたら、超国際的なクリエイターだったというわけ。面白いですね。イスラエル人がタイに住みながらロシア在住のロシア人のプログラマーと組んで世界向けにゲーム開発。横で見てると別に華やかではないんですけどね。淡々とやってます。


で、なんだ、そうか、戦争のこと書こうと思ったのだった。だが、今日はやめておこう。いま村上春樹のインタビュー読んでたら気が変わってしまった。

ぼくは知っている。よく、現実を見なさい、とか、現実逃避するな、とか、そうやって現実現実と言われるけど、誰も現実なんかを生きていないということを。

『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』

村上春樹のこの小説が、高校の英語の教科書に載っているそうだ。そして、村上春樹の『1Q84』はこの短編小説を下敷きに書かれたそうだ。氏いわく、大長編1Q84はこの短編の拡大版に過ぎないのだそうだ。

 かくいう僕は、この短編小説を読んだのか読んでいないのか定かではない。一時期村上春樹にはまっていたことがあるので、たぶんどこかで読んでいるはずだ。でも、内容を覚えていない。でも、この題名だけで十分だという気がする。

この短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」は、驚くほど多くの映画監督(志望の学生)から、映画化していいか、との問い合わせがあったそうである。20以上とか言ってたかな。しかも世界中の学生から、映画化していいかとのオファーが来るそうだ。 氏はOKしているそうだ。もちろん学生映画ならということだと思うけど。それほど、世界の映画監督志望の若者をインスパイアする短編だということだ。

まあ、単純に、すごくシンプルでキュートな短編恋愛映画をつくれそうな題名ではあるよね。でもやっぱり「100%の」って言うところがやっぱりそこは、そこはかとなく「あわれ」なのだ。

村上春樹は大和魂を書く小説家だ、といったら怒られるだろうか。

大和魂と漢字で書くとなにやら勇ましい。「やまとだましひ」でいい。
「やまとだましひ」が僕のなかにも鳴り響いている。小さな音で。それが日本文化で育ったものに等しく具わっていることだ。そしてそれは世界の人にも何らかのインスピレーションを与えるのだろう。

ぼくはやまとだましいひに至るために、大和魂の発掘から始めるのかもしれない。

何のことを言ってるいるか?それは自分でもまだこれから。まだこれからのことなんです。





10/14/2012

書評:「わたしたちが孤児だったころ」(カズオ・イシグロ)



余談から始まるが、昨日、ラオス行きの鉄道チケットを買いにいった。タイにはビザなしで入国したので滞在期限は30日なのだ。いったん外国に出て、そこで改めて観光ビザを申請する。そういう流れになる。うまくいけば6ヶ月、ないしは3ヶ月のビザをゲットできるらしい。しかしその鉄道、9時間もかかる。もちろん寝台列車にした。そんな長時間は、インドのデリーからバラナシへ12時間の列車の旅以来だ。なんだか懐かしい。

ところで、カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読んだ。僕的にはこの本は、同じ著者の『日の名残り』と同じ構造をしているように見えた。

自分の使命を全うすることを生き甲斐としている主人公が、使命に、仕事に生きていく。 その過程で、ある女性とあわや恋に行きそうになる。だが、主人公が鈍感だったり、使命を優先しなければならない出来事があったりして、そのあわやは起きずに過ぎる。そして、最後には自分が一生をかけて追いかけてきた使命が実は幻だったことがわかる。

そんな物語に読めた。そして『わたしたちが孤児だったころ』だ。僕はいろんなことを読みながら感じだ。まず、この物語は上海事変の頃の上海租界が舞台となる。日本軍と蒋介石の中国軍が衝突をしたころだ。そしてアヘンの問題も扱われる。そういう時代性ももった小説だ。そういう側面を語るなら、物語の後半、戦闘地区に紛れ込んでしまった主人公が日本軍に保護される。そこで主人公が日本軍の将校にいらだちを込めながらこんなことを言う。「日本が中国と小競り合いをしているせいで、上海がおかしくなってしまった。自分の使命も果たせなくなってしまうかもしれない。まったく迷惑なことだ」的なことを。

すると日本軍の将校は答える。「戦闘はもっと拡大しますよ。これは誰もが通る道なんです。日本もあなたの母国イギリスのような一等国になりたいのです。そのためには避けては通れない道なんです。あなたの母国イギリスも通ってきた道です。」
 (小説中の実際の台詞とはだいぶ違います。あくまで僕の記憶で書くと、こんな感じ)

そう、最近とみに先に戦争のことが気になっている僕には、この小説で、こうした大国の欺瞞みたいなものが物語られている気がしたのだ。

イギリス、フランス、米国、そして日本が、上海の租借地でつかの間の栄華、租界を営んでいた。列強各国は貿易など営みながらそれなりに我が世の春を過ごしていた。華々しい社交界も連夜催されていた。そんなさなか、日本軍と中国軍が紛争を始めた。上海近海に戦艦を展開する日本。租界近くの中国軍を砲撃する日本軍。列強各国は、なんてことを始めてくれたのだ、と日本を責める。せっかく落ちついてやってたのに。野蛮な侵攻を開始するなんて…

ところが、同じ物語の中で、イギリスとアヘンのことが語られる。そのころ、イギリスがインドで製造したアヘンを中国に売って膨大な利益をあげていた。それは国家的な事業といってよいものだった。そのアヘンのせいで中国にはアヘン中毒で廃人になった中国人があふれにあふれていた。主人公の母親(イギリス人)はそれをやめさせる活動をしていたのだ。 そして父親はアヘンを売る貿易会社に勤めていた。そんな背景が語られる。長い間、中国を食い物にしてきたのはまさにイギリスなのだった。

そこで、主人公の母親たち活動家は、中国の軍閥に、アヘンを運ぶイギリス船の運行を妨害してくれるように頼む。軍閥とはまあその地域を牛耳っているマフィアみたいなものだ。軍閥は、それを承諾する。しかし、軍閥はイギリス船から奪ったアヘンを、自ら中国人へ売り始めてしまう。おなじアヘン患者たちに。中国人が同胞の中国人を廃人にすることに加担、いや、お金のために率先してやってしまったのだ。

そんな話が横線として語られる。これはこの小説のメインのストーリーではない。主人公の使命はまったく別のところにある。でもこの小説を読んだことで、上海事変あたりの矛盾や状況が、肉感をもってせまってくる気がした。

おっと、これでは書評になってないかもね。今、ぼくは支那事変〜太平洋戦争終結までのことが気になってしかたがないのです。あれは一体なんだったのか。どういうことだったと語れているのか。ぼくが子どものころ、あの戦争のことを正面切って語ってくれた大人はいなかったのです。そう、両親も学校の先生も。なにか過去の過ぎ去った事実として淡々と歴史の教科書を読まされた記憶しかない。出来事だけを教えられた。しかし、あれはなぜ起きて、当時の人はどう考え、のちにどう解釈されたのか、そしてあの戦争が今の日本にどうつながっているのか、そういうことをきちんと教えられた記憶がない。どえらいことなのに。そしてついこの間のことなのに。

だから、しばらくは戦争の話しが続くかもしれません。


10/11/2012

あっけなさ

バンコク2週間。昨日、ぼくをバンコクに誘い、ともに10日ほど過ごした友人が日本に帰っていった。彼にはいろいろ世話になった。感謝。

ところで、ほんとにどういうことなのか?と思っていることがある。それは、自分のあっけなさだ。というのは、ブログを読んでくれている人は知っているにちがいないが、ぼくがバンコク行きを決めたのはバンコクに発つ2週間ほど前だ。それまではまだバリ島にいるつもりで、9月末にシンガポールあたりで6ヶ月のビザを再取得しようと思っていたのだ。

ところが、くだんの友人が10月初頭に日本からバンコクに来るというので、では合流しようかな?という感じになってきたのだ。まだその時点では、バンコク行きの飛行機の値段をみて、ちっ一万円プラスか、どうしようかなあ。。などと迷っていた。(なにせくだんの彼とは数ヶ月前にバリ島で会っている。慌てて会う事もないのである)

それよりお金をセーブしたかった。とはいえ、なんとなく、くだんの彼とSkypeチャットなどしているうちに、じゃあバンコク行くよ、ということに決まる。そして、くだんの彼から、どうせならバリ島のアパート引き払ってもいいんじゃない?と言われる。言われた当初は、バカなことを、と言い返したのを覚えている。まだサーフィンしたいし、バンコクにそんな長くいるつもりもないし、せいぜい長くて2種間、だな。と。

しかし、なんとなく、ノマドの本義と言うか、スーツケース1つで移動できなくなったら本末転倒、みたいな気持ちになってきたり、くだんの友達から、どう見ても君はバリ島に飽きているんじゃないか?と言われたりで、すったもんだしているうちに、バリのアパートを引き払うことになってしまったのだ。そして気がつけばバンコクにいる。先日アパートも決まり、その前にコワーキングオフィスも決まってすっかり落ち着く体勢が整ってしまった。(長期滞在ビザの所得だけが心配なのだが)

すると不思議なもので、バリ島のことは遠い記憶になっていき、さてバンコクでどうサバイバルしようか、という方向に頭脳が回り出すのだ。つい2週間前までは、頭の中の半分は「サーフィンうまくなりたい」が占めていたというのに。

すると昨日、以前バリ島で会った沖縄在住の友人が、11月にバリ島行くよ!とのメールが入った。ぼくは、今バンコクにいるからまた今度ね!みたいな返信をした。すると友人から、なんて冷たいことを言うんだ、みたいなメールが帰ってきた。
あれ、ごめんなさい、と思う。たしかに、やったー!じゃあ一緒にサーフィンしようね!と言ってもいいはずなのだ。でも僕の頭はもう海から陸に上がってしまったのだ。(もちろんバンコクに着いたばかりの今だからかもしれないが)

 でもここバンコクにいると、潮の匂いがしない。サーフボードを見かけない。そうなると、あれほどはまっていたサーフィンのことを思い出さなくなっている自分がいるのです。

そして、あれほど好きだった短パンをはかなくなって、今では長ズボンをはいています。それはバンコクではみんな長ズボンをはいているからです。気温はこっちのが暑いくらいなんですが。郷に入れば、というやつです。

あっけないものですね。自分の本性だと思っていたことや、合理的結論でやっていると思っていたことが、環境が変わるとあっさり変わったりする。

もちろん、環境を変えても変わっていかないこともあるでしょう。今回の場合は仕事ですね。仕事は変わってない。もちろんそれは仕事を変えていないからですが。

何が言いたいかというと、よくわからないのですが、あ、そうだ、バンコクに来る前はあれほどバンコクに来るのを渋っていた自分に、なんで?と今は思う。なんであれほど嫌がってた?と。
でも、逆に、バンコク行きを渋ってる時の自分は、バンコクに移動せよ、と執拗に言ってくる友人に、はあ?なんでそんなことせなあかんの?と怒りすら感じていたのを覚えているのです。

でも来てよかった。

これはバリ島よりバンコクがいい、ということではない。バリ島はバリ島で最高の場所です。あの青空もバリ人たちもさわやかな風も、すばらしいサーフィンブレイクもぼくは大好きです。

でも、来て良かった。それは単純に未知の場所にこれてよかった、というのが半分。そして、バンコクには自分と同じようなフリーランサーがたくさんいて、いま一緒にオフィスをシェアできている、これは僕がバリ島で望んで望んで得られなかった環境なのです。それはあっと言う間に実現している。場所を移動しただけで。あんなに気をもんでも叶わなかった環境が飛行機一本乗っただけで手に入っちゃった。

もちろん運やタイミングもあります。このオフィスは今年の5月にオープンしたそうで、それ以前ならここに通えていないわけです。まかカフェめぐりの日々だったでしょう。それなら波乗りの出来るバリのほうがまし、だったかもしれません。

とにかく、今、思い描いていた環境を手に入れて、それがやっぱり調子いいのです。仕事がやりやすいんです。その代償にバリの友達に会えなくなったし、波乗りができなくなりました。だから完璧ではありえません。きっと波が恋しくなるでしょう。

えっと、つまり、とりあえず行ってみるとあっけなく感想が変わったりする、といういいかげんな自分を改めて見るとともに、(いいかげんというより、行く前にネガティブに考え過ぎなのかも) とりま迷ったら行ってみるのがやっぱいいんだな、ということを記しておこうということです。

そうだ、行ったら戻れない、などと考えるとおっくうになる。行ってだめならまだ戻ればいい、そう考えたから移動できたのかもしれません。なにせバンコクに移動する時、くだんの僕をバンコクに誘った友人に、拠点はあくまでバリ島だからね、そういうことでいいよね、と念を押したりしていたのです。何の意味もない念です。ただ自分にそう言い聞かせることで、アパートを引き払い、またスーツケース1つになることができたのです。

そう、なにがうれしいって、またスーツケース1つになれたことがジワジワうれしいのです。 それはなぜでしょうか。どこへでも行ける、そう思うだけでうれしいのかもしれません。と同時に、どこにも根を下ろしていない、という不確かさもあります。それはそこはかとない不安感とさみしさと、なにか間違ったことをしている気持ちとなってふわーーとやってくることがあります。

そんな万国編がスタートしています。




10/09/2012

みーんなMac

毎日、コワーキングオフィスに通っています。
今日、昨日バンコクに着いたばかりというオランダの若者が、ふと、この部屋にMacじゃないPCは一台しかない、と言ってきました。
む?ということで見渡してみると、12〜3人の人がいるなかで、全員がMacのノートパソコンを使っています。おお〜。Macすげー。シェア90%超えてるよ。一時は、Windowsに押されてシェア5%もなかったのに。(そのころ僕もWindows)

そして、面白いことに気づきました。僕自身、無意識にこう思っているようです。「Macの人は信用できる。」
信用できるというか、あ、この人はバンコクなんかまで流れてきた外国人かもしれないけど、ダメ外国人じゃなくて、ちゃんと仕事ができる外国人にちがいない。なぜかそんな風に見えてしまうのです。これがちょっと古いIBMのThnkPadなどを使っていると、あれ、この人大丈夫かな?この人の話を真に受けていいのかな?などと疑問がもたげてしまうのです。

もちろん何の根拠もない話です。ただ見た目を気にする人がMacを使う傾向だってあるし、本当にバリバリのビジネスマンはWindowsを使うのかもしれません。それでも、事実として今このオフィスにいる人の9割は銀色に美しく輝くMacを使っているのであり(高校生のインターンでさえも)、windowsをつかってるわずかひとりは、少しみすばらしい人に見えてしまうのです。

すごい偏見です。

でも面白いですね。いつのまにかMacがこんなことになっているなんて。ちょっと古い人ならわかるでしょう、ぼくの驚きが。Macはなくなるんじゃないか、って噂されていたあの頃、1995年頃を覚えている諸君は。

だから悪い事を言いません。今から買うならMacです。しかもmac book airの一点勝負でOKです。たとえ若造でも、汚いジーパンでバックパッカーでも、すらっと取り出したのがMac Book Airならば、たちどころに若き起業家、あるいは天才プログラマなどに見えてしまうことうけあいです。そしてmacはけっこう安いしね。

ぼくもMacでつくづくよかったと思いながら、ああ、Airが欲しいな…とつぶやく日々なのです。



10/08/2012

どうもね

どうも最近ぴりぴりしている。まあ焦っている。
いつものようにお金の心配に取り付かれているのだ。あーいつになったら値段を気にせず、飯ぐらい食えるようになるのだろう。って昔のほうがそうだった。20代のころのほうが、飲み代など気にせず使っていた。いや、もっと言えば10代のころのほうが最強だった。無茶な使い方をしすぎて、後2週間を千円で過ごさないといけない、みたいな事態になったりしていた。月に20万くらい飲食代で(つまりバイト代のほとんど)使っていたときもあった。3日おきに焼き肉くったり、浴びるほど(飲めないくせに)飲んだりしていた。若気の至り以外の何者でもない。

まあいい。ところで、バンコク。今日は一日雨だった。一日オフィスにこもっていた。おかげでまあまあ仕事は進んだ。明日もがんばろう。

最近、このオフィスで仕事をしていると、かつての記憶がちらほらと蘇る。なにか海外に夢をいだいていたころの記憶だ。24歳くらいのころの。そのころに感じていたこと、思っていたことが、ふつ、ふつ、と浮かんでは消えていくのだ。

あ、今こうしてやっている、これに近いことを思い描いていたのかもしれない、そんな気もする。そんな実感はないんだけど。なんか淡々としているから。でも、そういうことかもしれない。いったい僕を海外へいざなったのは何なんだろう。なんでいまこうしてここにいるんだろう。また思っちゃう。


ぼくはたぶん気配を変えたかったのだろう。自分の気配を。日本を離れて一年、少しは変わっただろうか。自分的にはさほど変わっていない気がする。いまだに心配性は治っていない。お金に弱いことも拍車がかかったようなテイで。

それはきっと、日本に帰ったときにわかるだろう。しかし、何で気配を変えたいのか、それはうまく言語化できない。

先日のブログで、好奇心が大切だと書いたが、それに関連する何かだという気もする。自分に対する好奇心。ぼくはそれで生きているのかもしれない。それは自分のことを気にしすぎるという負の面もある。もっと外の世界に興味が持てれば、と思うこともある。

おっと、あんまり内省的な文章はかかないでもいい気がする。せっかく異国にいるのだからね。

バンコクは、飯が安い。うまくて安い。まずこれがいい。だいたい一食が200円いかない。うまい。あ、そうだアパートが決まりました。参考に書いとくと、一ヶ月9000バーツです。だいたい今の為替で23000円くらい。思ったより安かった。高い高いと聞いていたので。半年契約なら8000バーツになるとのこと。約2万円だ。

部屋の広さは8帖くらいかな。ユニットバスと、小さなベランダがついている。そこにキングサイズのベッドがどーんとあって、鏡台と洋服ダンスがついていた。
テレビや冷蔵庫は別途レンタルだそうで、 それぞれ月500バーツ(1300円)くらい。インターネットも別途で、月700バーツ(1800円)とか言ってたかな。あと、ベッドにはシーツも枕もついてない。マットレスだけはあった。
だから、なんやかんやで、光熱費も入れると月3万円くらいかかる感じかな。それでもまあ思っていたよりは安かったので助かる。

契約のときに、デポジットを1ヶ月分払う。これは退去する時に返却されるとのこと。だから借りる最初は2ヶ月の家賃分を払う感じだ。さほどの負担ではない。敷金礼金がごっついと聞いていたので、ほっと一安心だ。けっこう契約方法もここ数年で変わったみたいね。昔は気軽に一ヶ月では借りれなかったそうだ。

電車の初乗りが20バーツ(50円)くらい。
あ、特筆すべきはタクシーがすごく安いこと。2駅くらいの距離を載っても、150円とかで事足りる。驚愕の安さだ。バンコクは酒飲みが多い、というのもうなずける。みんな終電気にせず飲むのだろう。

だいたい物価はおわかりいただけたでしょうか?
 生活はなんだかできそうだ、と感じる。たぶん頭が痛いのはビザのことだろう。いまノービザだから30日しかいられない。いちど外国へ出て観光ビザをとり直すことになる。バスで行けば安いが空路を使えばかなりお金がかかる。家賃よりかかる。まあでもそれは外国人の宿命だろう。あとバス嫌いの僕の宿命だろう。

そんな感じやってます。まだ一週間だけど。
落ち着いてきたら、英会話とか合気道を習ったりしてみようと思っている。ただし落ち着いたら。もちろんタイ語も少しずつ教えてもらってやっています。タイ語はなんか音がかわいいです。

あ、それからささやかな新発見がありました。
というか、なんとなく面倒なのもあって、まだ枕を買っていません。最初は枕なんてなくても平気、と思っていたのですが、無意識に毛布をまくらにしている自分を発見します。せっかくの毛布をまくらにするもんだから、寒くて風邪をひく勢いです。(クーラーをつけて寝ちゃうのです)
で、このままではいかん、ということで何かまくらになるものはないかと探したところ、(この時点でまだタオルは買ってない)あ、なんだかこれいけそうだな、というものがありました。トイレットペーパーです。それも、スーパーで買った、6個セットになってるやつです。一個つかってるので5個なんですが、これがなんとなくまくらなんです。なんとなく高さもちょうどいいし、なんとなくでこぼこがあって、頭がしっくりと収まります。難を言えば外側がビニールなので、肌触りはよくありません。しかし、柔らか過ぎるふわふわまくらよりにはもしかして寝心地がいいんじゃないか?と思っています。いまのところ、まくらいらないかなーなんて。でも、まくらは壁にもたれるときのクッションにも使うので、早晩買うつもりですがね!

まあ、そんなところです。今日はカツカレーでも食ってきます。



10/06/2012

休肝日

バンコクについてから一週間、飲み続けていました。今日は酒はおやすみするつもり。どうにもお腹を下しているのです。体も疲れています。
今日も朝からオフィスで仕事です。本当に快適です。スタッフもいい人ばかりです。昨日仲良くなった女の子のスタッフは、ここで働けてハッピーだわ、と言っていました。そう言えるっていいことですね。

まだどこも観光していません。長くいると思うとついまた今度でいいかな、と思ってしまいます。でも本当にまた今度でいいんですけどね。ぼくは観光スポットより普通の街歩きのほうが楽しいタイプなのです。

しかし面白いもので、環境の力といいますか、バリ島からバンコクにきて頭の中身ががらっと変わってしまいました。今はもっぱらビジネスのことを考えています。このオフィスには若き起業家たちが出入りしているのです。タイでは今年が、スタートアップ元年と言える年だそうで、インターネット関連で起業するのが一種のトレンドとなっているようです。スタッフいわく、起業している人は前からいたんだが、自分のことを起業家だ、と名乗り始めたのが今年ぐらいからだ、と言っていました。つまり、まだ何の収益もないスタートアップ企業でも、胸を張って自分たちはスタートアップなのだ、と言い始めたということです。そしてそんな彼らがいろいろ主張し、交流し始めたという感じでしょうか。

今日となりになったバンコクに着いたばかりのイスラエル人は、タイにプログラマーを探しに来たとのこと。アイデアがあるのでシステムをつくって起業したいそうです。タイのまえはフィリピンを視察していたとのこと。熱いです。その成否は別にして、みんな何かをやろうとしています。

今日などは、君はマネジメントができるか?と突然聞かれ、もしできるならパートナーにならないか、みたいなことを言われました。アイデアがいっぱいあるから誰かにまかせたいとのこと。うーんマネジメントねえ。。。みたいな感じでお茶を濁してしまいました。面白そうな話にはどんどん乗っていくのがいいのでしょうが、今は今の仕事に集中したいところなのです。というか、マネジメントはたぶんできません。

とはいえ、やはり、これからどういう仕事で生きていくのか、そこらへんにもう少し思考をめぐらせて、感性をめぐらせておきたい。今、そんな気分です。
 いまの翻訳の仕事は気に入っています。面白いです。一年やりましたが、まだまだ奥が深い感じもあります。当面は続けたいと思っています。ただ、企業から仕事をもらうだけの形態は今後どうかな?という疑問がもたげてきました。リスクがあるというかなんというか、自分主導のビジネスも視野にいれておいたほうがいいぞ、というアラートが鳴っている感じです。そこらへんもちょっと考えていきたいですね。以前はぜんぜんリアリティがありませんでしたが、少しリアリティを感じるようになってきました。

何にせよ、このまま生き延びたいです。このスタイルでしばらく凌いで、来るべき世界経済大破綻もなんとかやり過ごし、楽しい未来を生きたいものですね。なんてことを言いながら、明日もまた仕事です。少し溜まっちゃって。。がんばります。





10/03/2012

国が飽きている

どうも日本という国は、飽きているのかもしれない、などとふと思った。

ここで突然だけど旅の話をしよう。旅で一番大事なのは好奇心である。好奇心がなくなった旅ほど苦しいものはない(筆者はこれを体験した)。せっかくイタリアはミラノにいるのに一日中、ホステルに閉じこもっていたりした。隣の駅で「最後の晩餐」が見れるというのに、歴史的な名画を見たいという気持ちよりも、だるい、しんどい、なんだがつらい、という気分が勝ってしまったのだ。ぼくはこれをいろんな国で何度も経験した。だいたい旅が長くなってくるとこれが起きる。旅が日常と化したころにそうなるらしい。それはキューバだったり、メキシコだったり、スペインだったり、スイスだったりした。

それは旅の疲れというものだったのかもしれないし、お金が尽きていくことへの恐怖だったのかもしれないし、目的のない旅のその目的のなさに疲れたのかもしれない。しかし総じていえることは、好奇心が枯渇していたということだ。

もはや「旅=好奇心」と言ってもいい気がする。

そしてひるがえって日本の話である。
先日、いまいるバンコクの和食屋さんでテレビを見ていたら、なんとか音楽祭みたいなテレビ番組がやっていた。懐メロがかかっていた。80年代、90年代の懐かしい歌を当時の歌手本人が出てきて歌っていた。ぼくは、ああ懐かしいなあ、という気持ちで見ていた。懐メロは大好きなのである。松田聖子である。ただ、もうひとつ、いままで味わったことのない感情がもちあがっているのに気づいた。なんだかつまんないな、という感想である。

ぼくはこのことに驚いた。なぜなら、日本にいるときは懐メロ番組は大好物であり、テレビにかぶりついて見て、あのときはこうだった、この歌はこうだったと誰かとしゃべったり、記憶を温めたりするのが好きだったからである。懐メロ保護主義者と言ってもいいくらいなもので、流行のちゃらい曲聞く暇があったら、80年代の懐メロ聞いた方がいい、と人にも言いたいくらいなものである。

ところが、あーなんだか窮屈だなあ、この感じ、と思う。それはバンコクがそうさせたのかもしれないし、なんだか知れないが、つまりは、あ!と思ったのだ。

あ!もしかすると日本は変わりたくないのかもしれないな、と。

日本は、ざっくり言っちゃうと日本人は、もう自分たちの状況にほとほと飽きているのに、未来への好奇心をなくしたままでいる、そんな感じがやってきた。もうすっかり飽き飽きしているのに、変わりたくないという原初の衝動の中に浸っている。好奇心をなくしてしまっている。旅先でYoutubeで懐メロを聴いているバックパッカーみたいな。ちょっと違うかな。

懐メロも時にはいいだろう。しかし、しっかりと記憶を温め、自分のルーツを確認し、「あの頃」を思い出せたなら、Youtubeから顔を上げなければならない。好奇心だ。自分の好奇心が発動してくる様をゆっくりと感じるのだ。

そういうボクはさっきまで、Youtubeで懐メロを見ていた。もうそれはしょうがない。しかし、まだ、ここバンコクでタイ人たちと知り合いになりたいという好奇心が残っているのを感じる。まだ大丈夫。好奇心があるうちは旅をつづけられるのだ。

日本という国は、日本という国に飽きている。そうではないか?そんな気持ちがいま湧いています。
日本という国に、いま一番必要なものは、希望でも安心安全でも絆でも共感でもなく、好奇心なんじゃないか、って思ったのです。好奇心はどうすれば湧いてくるんでしょう。好奇心の湧かせ方がわかる人いますか? ぼくはそれをよく無くしてしまって路頭に迷うのです。好奇心があれば、ただ好奇心があれば…



10/01/2012

Hubba楽しいぞ

今日も一日、コワーキングスペースにいます。
ひとつの理由は、帰る家がないからです。今日は昨晩まで泊っていたホステルをチェックアウトしました。今日は日本からくる友人のホテルに泊めてもらうことになっているのです。

ぼくが通っている コワーキングスペースは「HUBBA」という名前で、バンコクに(たぶん)2つしかないコワーキングスペースの1つです。バンコクに来る前からウェブで調べてありました。なんといっても、それがバンコクの目的の1つだからです。先日も書きましたね。
バリ島はいいところでした。毎週サーフィンができて最高でした。天気も信じられないくらい毎日青空で、こんなハッピーな場所があるんだね〜。神に祝福されている島なんだな〜って思っていました。
そんなバリですが、1つの行き詰まりを感じていました。それは仕事がはかどらないということです。別の言い方をすると、前にも書きましたが、ひとりで黙々とカフェでパソコンを叩く事に疲れたのです。なんというか、やはり2時間パソコンを打ったら、15分くらい誰かと会話したい。もちろんカフェの店員とは仲良くなりました。しかし、いくら雑談をかわすといっても限界があります。あと、いつも「こんなに長時間いて何て思われているんだろう?」という疑問も頭にありました。長いときは10時間とかいたりしたのです。
 
そこで、バリ島でもコワーキングスペースを探したのですが、自分が住んでいる場所の近くにはなさそうでした。毎日、「ああ、今日も朝から誰ともしゃべってないな」という日が続いたりしました。あーこのままこのスタイルであと一年とかはできないな、というのが正直な感想でした。とにかくさみしかったのです。

そこでバンコク、どうせならと探してみたらコワーキングスペースが見つかりました。そして、早速見学にいったのが2日前です。アパートより先に探したのです。それほど死活問題だと感じていました。そしていま、いい場所が見つかったとほっといているのです。おしゃべりする人がいるのです。今日もランチをスタッフたちと一緒に食べてきました。タイ語を教えてもらったり、そういうのを求めていたんだよ〜という感じ。なにげなくおしゃべりできる環境、それを求めていたのです。
実際は、コワーカーたちは 黙々と仕事をしており、しゃべりかけられない雰囲気を出していたり、仕事が終わったらさっと帰っていったりしています。だから今夜の8時半、オフィスにひとりぼっちです。でもスタッフはいるし、なんとなく僕はここのメンバーなんだ、と思うと、ふつふつと安堵感が湧いてくるのです。ここにいる権利があるのです。

まだ2日目、それでも5人くらいと自己紹介。これからいろいろなことをおしゃべりできそうです。どうなるかはわかりませんが、いまのところ、あーこのスタイルならいけるかな、という印象です。みんな1人で黙々してるわけで、なんとなく仲間がいる、って気がするのです。

そして、多くは起業家でもある彼らを見ていると、おれも何かやったほうがいいのかな、なんて思えてきます。なにかテーマをもって起業したりしたほうがいいんじゃないか、って。起業はおおげさでも何か、目的のようなものですね。

さっき、ここの創始者と話していて、「タイにコワーキングのカルチャーを導入するのが僕の目的だ」ときっぱりと言っているのを聞いていたら、 おれもただ翻訳しながら外国回ってます、じゃなくて何か、(今は)これをするのが目的だ、と言いたいですね。なんか前回と同じこと書いてるな。とにかく、いまこの場所に刺激されてそういう思考が動きだしているということなのでしょう。

仕事の合間に汗をかいていたアパート探しも大詰め、だいたいの土地勘と相場観はつきまいた。明日こそはアパート決めます。


そういえば、このコワーキングスペース「HUBBA」のFacebookページにぼくの写真が載っちゃいました。いまなら見れますよ〜。
http://www.facebook.com/hubbathailand