10/25/2012

大和魂論

やめるといいつつ、続ける。こんどは大和魂。

日本がなんとなく無宗教でやっていけている理由を考えていた。いや、仏教があるだろうと言われるかもしれないが、みんなちょっと違う気がしているのではないか。神道というのもあるが、なんだかわかるようでわからないものである。自分が神道なのかといわれると、うーんとなる。

結論から言おう、日本文化の特長は、死んだら終わりだということをよくわかっていることである。もしかすると聞き慣れた話かもしれないが、ぼくなりに改めて論じると、日本人は古来から知っていた。自分たち人間も、虫や動物、植物と同じく、むなしく枯れて土に帰るということを。

土に帰る。そのことを手放しで受けとめられる人がどれほどいるだろうか。あの世はないのだ。この世で蓄えた金銀財宝をあの世に持っていけないとはよく言う。しかし、この世で積んだ徳行もあの世には持っていけはしないのだ。なぜなら、わたしという個性は消滅するからだ。

死んでしまうということをどう受けとめるか、それが宗教なのであるが、たとえばキリスト教は、いつか復活の日がきたときに神の国へ行けることを一身に願って信仰する(たぶん。。)、イスラムもあの世がある。仏教は本来あの世は無いが、インドには古く輪廻転生の概念がある。でも、日本人のこころを、いや僕のこころを慎重に掘ってみると、輪廻の概念はない、もしくはとても希薄なことに気づく。生まれ変わりなど信じていないのだ。

あの世もない、生まれ変わりもない、ならばどのように死を考えるのか。ただはかなく散って行く、そのことをひたすら受けとめる。それが日本人の感性なのではないだろうか。だって普通に考えたらそうじゃないか、という感じで。あの世なんかない、そのことを古くいにしえから知っていたのが日本列島民族なのだ。

でもそれではあまりに悲しいので、天皇制が生まれた、ぼくはそう思っている。というか、ついさっき思いついた。だから書いてるだけなんだけどね。
私という個性はあぶくと消える。子供たちや親類、友人たちにはその影響を残すことはできるし、血は続いていくだろう。しかし、この心は消え去る。
その寂しさを、どうしたか。天皇に預けたのだ。死ぬ時、この心は、天皇が司るところの大きな御霊につらなる。その末席にふっとつながる。先祖の御霊も先につながっている場所だ。つながったことをようやく確認するやいなや、自分の意識はふつと消えてゆく。

そういう亡くなった人の魂がつらなっていく場所、それを見える化したのが天皇なのだと思ったりした。生きとし生けるものはすべからくなくなる、それはひどく悲しいことだが、抵抗すべくもないことであり、その1点において全ての生命とつながっている。そういう直覚こそが日本民族の、ひいては大和魂の中核をなすものなのである。

と書いてみると、どこかで聴いたような話だった。。
まあ、とりあえずじぶんでも言語化してみようと思っただけなので〜



とここまで書いて、また「待てよ、、」があったので追記しときます。
やっぱりね、こういうことは勢いで書いてしまいますが、
書いたあとで、ふと、じゃあおまえは本当に大きな御霊につらなるということで、健やかに死んでいけるんだな?という疑問がやってきた。
いや〜ちょいまち、ちょいまち、という声が答えた。ちょっと待って、まだそこまで考えてないよ、という声が出てきた。ということなので、筆がすべったということでお願いします。死生観を語るにはまだまだぜんぜん人生経験が足りないようです。

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