10/30/2012
書評:「ワークシフト」(リンダ・グラットン)2
ぜんぜん書評にならない書評シリーズ。
今日もワークシフトです。しかしね、働くっていったい何なんだろうね。ぼくはもうそれをずっと腑に落ちないままで過ごしてきている気がする。
そして、あるときはたと立ち止まって、おれも農業をやるべきなんじゃないか!って思ったりします。つまり、ロジカルに考えていくときに、自分が生きていくのに必要なことをするのが働くということだとすると、まずは飯を食う。つまり、農業だ!(漁業でもいいけど)。基本は米なんだから、やっぱ米つくるのが働くってことの本筋なんじゃないだろうか、って思いいたるのです。だってちょっと前まで半分以上の人は農業に従事していたはず。農業こそが働くということで、他の職業はまあ、例外みたいなものだったはずです。それがわずかの間に農業が少数派になって(日本の場合)、製造業だのサービス業だの出て来たわけです。というか、サービス業なんて、むかしなんてごく少数派なのが、昨今では多数派になりなんとしている。
もうどんどん変わっているということですね。職業というもの、働くということの内容が。もしかすると、そんなの全部うそ、やり直し!ってなるかもしれません。何がサービス業が、全部まやかし!って。
それね、あり得ますよね。社会の仕組みや、技術革新などあれば職業ごとなくなってしまうなんてのは実際にあったことです。うちのおばあちゃんの家は呉服屋でしたけど、みんなが着物を着なくなって、商売あがったりになってしまったのですから。それはもうあっと言う間の変化だったのです。
だから、ぼくは働くということを考えると、腹のあたりがいらいら、もやもやとしてくるのです。だから、じゃないかもしれないけど。単に働くのが嫌いなのかもしれないし、なんだか楽したいだけなのかもしれないけど。
なんか、働くってすごい大事なことで、というかすごい時間を仕事に拘束されてるし、仕事の報酬で家を買ったり、食べ物を買ったりするわけで、もうとんでもなく大事なものですよね。命にかかわる。それが、なんがすっごいあやふやに決まってるというか、個人と個人とのせめぎあいのなかで、あやうく立ってるだけ、みたいな風に見えるのです。仕事という行為が。
それはぼくが風雲急を告げるIT業界にずっといたからかもしれないし、働くか働かないかよくわからない時代を長く過ごしたからかもしれません。でも、どこか、とんでもなく大事なことが無保証で放り出されている、という風にみえて、はなはだ心配なんです。
でも仕事なんてこの現代においては、多くの仕事は人間同士のせめぎ合いのための仕事が大半です。自然との格闘の仕事なんて少数派でしょう。命を守る、命をつなぐというより、他人の欲にミートする、そんな仕事が半数を占めるようになって久しいわけです。
自分の仕事が、自分の商品が、他人に欲望されなくなったら、失業する。そんな危うさの上にいつでもいるような気がするのです。けっこうな職種の人が。
いや、なんかちょっとネガティブに見すぎているのかもしれません。もっとしっかりした基盤の上で大半の仕事というものは営まれているのかもしれません。
まあなんにせよ、ぼくはなんだか仕事をするということがいつまでも不思議で、やるせない気持ちになったり、だからやりがいがあるのだ、と思ったり、それこそが生きるということなのだ、とさえ思ったり、でもこんなに仕事が大事なことなら、もっともっと早く、若いうちから考え抜いておけばよかった、と思うのです。
ほんと、うかうかしていたものです。
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