12/18/2011

世間が罰しにやってくる

ぼくの中の一大テーマに「世間」というものがあります。
せけん、です。

ぼくはこの言葉が大好きなんです。
この言葉ほどぼくに理不尽な気持ちをかき立てることばないのです。
いや、ぼくにとって最大に理不尽をかき立てるのは実は時間が過ぎ行くということです。
自分の意志とはまったく関係なく時間が過ぎていき、年老いて、命が尽きてしまう。
これに対してほとんど何もできることがない、という理不尽さ。

ひるがえって「世間」は、とても理不尽ではあるが、まだできることがある、という意味において、ぼくを刺激してやまないキーワードなのです。

こんなことがありました。
あれは、ぼくが仕事を辞め、居候的ノマドライフを始めたころです。
そのころは居場所も不特定、いられる場所に居る、という生活でした。
そんなとき、心配した親から電話がかかってきました。

親「あんた仕事はしてるのかね?」
オレ「まあなんとかするよ」
親「なんとかするって何なのかね?」
オレ「自分が生きてくくらいのことはなんとかするって」
親「あんたね、自分はそれでよくてもね、世間はそう見んでね、(見ないからね)」
オレ「・・・」

というような会話がありました。
まったく社会人10年目が親とする会話ではない。お恥ずかしい限りです。

このような会話が実際になされた。
そのときぼくは、もちろん自分への情けなさと、親へのすまない気持ちと共に、あれ?と不思議な感想ももちました。

世間とな。

「世間はそう見ないぞ」そのメッセージにはどういう意味が込められているのか。
たぶん、ひもとけばこう言い換えられるでしょう。

あんたは自分の好きにすればそれでいいかもしれない、
私(親)もあんたがまあ健康で生きていってるなら百歩ゆずってよしとしよう、
でもね、世間様はそんなに甘くないからね、世間はあんたのような人間を許さないからね。

というメッセージだったと言えよう。
世間って誰だよ、思わずそう(心の中で)つぶやいたと思います。

そのとき、もうもちろん自分がふがいないだけなので、そこは棚にあげさしてもらいますが、
そのときから、「世間」に対する宣戦布告をしようと腹に決めた節があるのです。
かっこよく言い過ぎました。すみません。

そんなかっこいいことではないですが、親がそれほどまでに恐れる世間とやらはどこのどいつなんだ、
そしてもちろん、世間が許さない、ときいて心臓がバクっ!としてしまった自分にとって、世間とは何なのか。ぼくの中の研究者魂みたいなものが少し頭をもたげたのです。

よし、じゃあ世間が何と言ってくるか見てやろうじゃないか!

わかっています。ぼくは甘えているだけなのです。
嫌だ嫌だと言っているだけなのです。それはわかっていますが、
あの「阿部謹也先生」も生涯をかけてひもとこうとした日本的世間の正体を、
ぼくもひもとき暴く一端を担ってやろう、どうせこの立場に落ちたなら、それを見てやろう、という小さな小さな野心がそのときから芽生えたのです。


好き勝手に生きたら、いや、もちろん思い通りにはこれっぽちもなっていませんが、つまり世間のことを無視するかのように生きたら、世間は罰しにやってくるのか。
どのように罰しにやってくるのか。誰が罰しにやってくるのか。それを見届けてやろう。

それは、就職の面接官かもしれない。
それは、ぼくに仕事をくれている出版社の編集担当者かもしれない、
それは、親戚のご意見番的おじさんかもしれない、
それは、実は親兄弟かもしれない、
それは、姉の旦那さんの実家の人たちかもしれない、
それは、税務署の職員かもしれない、
それは、実は、遊び友達かもしれない、
それは、将来結婚したいと思ったときの相手の両親かもしれない、
そしてそれは、結婚しようとしている相手本人かもしれない
はたまた、文字通りその他大勢として、道行く人々、出会う人々がそれぞれにいぶかしげな非難の眼差しを送ってくるという形で罰っせられるのかもしれない。
それは、心ないうわさ話としてじわじわと首を絞めにくるのかもしれない。

とにかく、誰がどのように罰しにくるのか。
どうせならそれを見届けてやる、と思っているのです。
いまのところ、まだ誰もやってきません。

世間上等!と刺繍が入った真っ赤な特攻服をいつでも着られるように奥座敷に飾ってあるのですが、
誰も、おれが世間だがちょっとツラかせや、といって現れないのです。

わかりません。
世間とはそのような形ではなく、もっとウイルスのように気がついたら体内に侵入して体力を奪われていた、という形で攻撃してくるのかもしれません。

でもいまのところ、「あ、お前が世間だったのか」という相手には出会っていません。
しいていうなれば、世間は自分の中から、たまに重低音で呪いのことばを吐いてきます。
「おまえみたいな奴はきっと誰からも見捨てられる」


なんだか重苦しい感じになってしまいました、すみません。
いや、自分のことはさておき、ただ単純に「世間」って何なんだろうね?という疑問を提示、みなさんのご意見ご感想をお聞きしたかったのです。
なぜなら「世間」とは日本社会の最大の特長であり、その割には研究成果も少なく、ひとり阿部謹也先生が荒い息を吐いていただけなのですから。

社会学なんてやる暇があったら世間学をやったほうがいいよ。そのほうがより我々のリアルに直撃するテーマであるからです。

そんなことを捨て台詞にしながら、「逃げ切ってやる」とつぶやき、今日も及び腰でスタスタ歩き去る次第なのであります。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

久しぶりに見ました。
いっぱいアップしましたね。

世間…なんだろね。
でもみんな世間一般論を知っていて、(世間一般の生き方をしていない人も)ちょっとずれた人が後ろ指さされちゃう。

じゃあ後ろ指差されたくないから
みんな世間一般とおりの生き方をするんだろうか?
世間からちょっと外れているような生活をしていると
それはそれで、強気になれない。
やりたいことやってても、誰に言われるわけでもないけど
「でもあの人は…」って世間一般論の中で否定されるんじゃないかって気がしてしまう。

よく説明できないけど、自分の自由を追求すること≒世間一般からは外れているように見える…のかな。でもなんか納得いかないよね。

たぶん世間ってたくさんの日本人が思う思い込みとかこだわりからできてる気がする。だから気にする必要はないんだけど、でも私は世間一般王道じゃなくても、スレスレ近いところにいたいなと思う。

「逃げ切る」というのは、伊藤さんの生き方すらももはや「世間」一般であるという方向にもっていくのか、それとも自分は世間から外れているという意識でいくのかどっちなんでしょうか。

長くなりました。

でび

Unknown さんのコメント...

そいですね、ぼくも「世間様」というのは幻想とまではいいませんが、ひとつひとつ触れようとすると砂のように崩れて行く実態のないものだと考えています。
「逃げ切る」とはもちろん世間を気にしない方向で生きてみる、ということです。そして何ら罰を受けないことを証明してみたいと思っているのです。