12/22/2011

幸せになるために生きてるわけじゃない

このまえ、3日前くらいに朝起きるとき、ある言葉が頭のなかに響いていました。
「幸せになるために生きてるわけじゃない」
このことばが、響くというか、残響のようなかたちで余韻を残している中を、まどろみから目がさめていく、そんな感じの朝でした。

そして、起きてからハテナ?としばらく考えていました。
どういう意味だ?
おれは幸せになるために生きてるわけじゃないんだな〜という、かすかな発見、ちいさな納得みたいなものが印象として残っています。

じゃあ何のために生きてる?
即座にそう自問してみましたが、ことばは返ってきませんでした。

で、しばらくその意味について考えていたのですが、
たしかに、幸せになるために生きているのかと言われると、なんかそうじゃないかも、という気がしてきました。

幸せになるために生きていると言うにはあまりにも腰がブレていますし、あまりにも迷走しています。
何かになるために生きているというよりは、何かから逃れるために生きているといったほうが実感にちかく、しかしその何かとは具体的な何かではなさそうです。


ここで何の脈絡もなくゲーテが遺稿に書いたといわれる一説を思い出しました。
「なんということだ!すべては冗談にすぎない」

たしかこんな文章でした。ゲーテはその生涯をとじる間際に、世の中で生きていくということは、冗談のようなものだった、と感想しているのです。(と思います)

すんません、今ネットで調べたところ、一応公式には「人生は悪しき冗談なり」という訳になってるみたいです。

これには様々な解釈があるようですが、
ぼくはこれを、ゲーテがニヒリズムに陥ったわけでも、楽に生きようぜ、というポジティブシンキングを語ったわけでもないと思っています。
ぼくにとってのこの言葉の解釈はこうです。
80年の生涯をかけてわかったつもりになっていた人生というものが、実は何にもわかっていなかった、
と最晩年のゲーテは驚きの体験をしたのだと思います。

そのあたりはもしかして「ファウスト」を読めばわかるのかもしれませんが、ぼくは上巻で挫折しています。

ゲーテはまた、このようなことも思ったのかもしれません。
結局人生は、自分のものではなかった。

ゲーテはすごい人なんです。
どれだけすごいかというと、ゲーテは地方政府の大臣みたいな地位についていたときに、37歳だったそうですが、要職を放り出してイタリアに旅だってしまうのです。「イタリア紀行」に詳しいです。
データによると、正式に休暇届を出して行ったようですが、イタリア紀行にゲーテ自身が書いたものをみると、まあだいたいぼくの記憶で書くと、

あるとき、自分の中の詩が死んでいっているのを見つけた。このままではいけない、にわかに焦りと衝動にかられた私は、通りがかった馬車に飛び乗って、南へ言ってくれたまえ!、と叫んだのだった。

みたいに長期イタリア旅行へ旅立つのです。
なんかすごくないですか?ゲーテは自分の中に詩を取り戻すためにイタリアへ逃げたのです。



おっと、脱線はここまでにいたしましょう。

幸せになるために生きてるわけじゃない、そういう話をしていました。
では何のために?

わかりません。ただぼくもかっこつけていいならば、ゲーテみたいに、冗談みたいな人生だった、と晩年に言ってみたいものです。
いや、ちがいますね。冗談みたいな人生があるのではなく、人生はすべからく、悪しき冗談なのです。
悪しき冗談をわけもわからず生きた、きっとそれだけのことなのでしょう。

だがその中で、いろいろなことがあったはずで、そのいろいろなことはゲーテの中をどのように通り抜けていったのでしょうか。

あれ、なんかおかしなモードになってきた。

自分というけげんなものがある。そのけげんなものととにかくここまで一緒に歩んできた。このけげんなものの実態はつかみきれないし、完全にコントロールすることもできない。そしてこのけげんなものともいつかお別れするときがくる。

なかなか落ちがつきません。

まあいいや、みんな楽しく生きましょう!

1 件のコメント:

hatomaria さんのコメント...

もっと聞きたいです。この話。