ずっと愛知の実家にこもっていたのですが、昨日から移動を開始しました。いま大阪にいます。
友達にあったり、大阪のコワーキングスペースを訪ねたりしています。しかし、移動ってなんだろうと思います。
名古屋から大阪へ向かう近鉄電車の車中のことです。金券ショップで3,200円の格安チケットを買って、駅に向かいました。僕は長距離列車に手ぶらで乗り込むことができません。さいて飲みたくもないコーヒーなど買ってしまう。
ガタゴトと近鉄電車が動き出しした。名古屋をでるとすぐに田園風景が広がります。ああ、やっぱり名古屋って大きな田舎なんだな、と思う。すると、さっきまで大阪に行くのがなんだかめんどくさい気持ちでいたのに、車窓の風景が流れると、なんだかじんわりと幸せな気持ちになる。移動すること自体の喜びっていうものがあるのだろうか。ほのかにウキウキとした気分が沸き起こってきた。
大阪から神戸へ乗り継ぎ、友人のところへ。駅まで迎えにきてくれた。神戸はやっぱりいいな。山が見えたときそう思う。風もさーっと吹く。街だけど、海風なのだ。町並みは4−5年前とあんまり変わってなかったな。
そういえば、この前、9月にオープン予定のウェブマガジン「旅とスタイル」の第一回インタビューに行ってきた。名古屋のアパレル会社の社長だ。とりとめのない旅の話を2時間以上もお聞きした。さて、面白い記事に仕上げねばならない。録音できなかったからメモと記憶が頼り。
ちょうどマガジンのスタッフが名古屋に出張してきたので名古屋駅で企画会議をした。これからインタビューしていく人をリストアップする。おもに、彼らが。 自分の知り合いと思うとなんかピンと来なかったからだ。でも聞けば面白い人はいるはずだろう。
フリーランスの翻訳を2年弱やってきて、困っていたことのひとつは、前から書いているが、仕事上で人としゃべらなくて済んでしまうことだ。今日は朝から誰ともしゃべってない、なんて日が続くと、それだけで気が滅入る。ぼくは、黙々と文章を書くようなのは向いていないのだ。なので、人に会い、そして書く、みたいなスタイルを半分くらい取り入れて行きたいということでもあってのマガジンなのである。
ところで、いま、大阪なんばのひっかけ橋にある巨大なスターバックスに来ている。広くてなんだか落ち着く。高城剛がメルマガで、仕事をしにカフェにいくくらいならマクドナルドに行くと言っていた。トークショーのときに聞いてみたら、本当だとのことで、マクドナルドに何時間でもいられるんだ、と言っていた。
というのあって、高城的にマクドナルドで仕事をしようと、マクドナルドを探したのだが、どこもなんか狭くて落ち着かない感じがして、勇気が出なかった。ちょっとだけ高いが、やっぱりスタバのほうがいい。居心地もいいし、なんといってもネットが無料で使えるのがいいのだ。
そして、僕はついにMacbook Airを手に入れた。Macbook Proが壊れてしまったのだ。もう5年も使った。毎日酷使した。ある意味よくがんばってくれた。で、Air、一番うれしいのはバッテリーがもつことだ。実測したわけではないが、使いっぱなしでも5〜6時間は普通にもつ感じだ。これはありがたい。もう電源を探すことから開放されるのだ。これがどれほどトラベルワーキングを縛ってきたことか。
どんなおしゃれなカフェを見つけても、電源がなければそそくさと立ち去ったものだ。電源のあるカフェにいっても、やっぱり電源が使える席は人気で、座れなかったりする。そういうストレスから解放されたのだ!
そして姪っ子がもうすぐ2歳になる。いつもドキッとする瞬間がある。それは、これは前もちょっとかいたけど、姪っ子がひとりにならないように、家族で見張っているのだが、例えば僕が見はり役をしていたとしよう、姪っ子がひとりで遊んでるかと思ったら、すくっと立って隣の部屋に行こうとしたとする、となりの台所では母が炊事をしている。姪っ子が立ち上がって、たたたっと歩いていこうとするときに、僕は台所の母に声をかける。メイ子がそっちへ行くよ〜! すると、姪っ子は必ず、必ず、立ち止まって僕の方をワシっと振り返って僕を見つめるだ。じっと。その瞬間、ドドドキっとしてしまう。100%の注意力が僕に向かってくる。
姪っ子は何を思って振り返るのだろうか。相手は魔の二歳児である。わがまま放題なのだ。言うことなんか聞きはしないのだが、このときばかりは絶対立ち止まって、僕の反応をうかがうのだ。別に大声だしてないし、鋭い声も出してない。でも、僕の意図がわかるまで、じっと僕を見つめているのだ。僕は慌てて、いいよいいよ、行っていいんだよ、と姪っ子に告げる。すると、たたたっと台所へ行ってしまうのだが、残されたぼくはドギマギの余韻がまだ残っていたりする。
姪っ子と再会して一ヶ月あまり。日を追うごとには発する言葉が増えていく。理解できる言葉も増えていく。先日などは、ついに自分のことを、自分の名前で呼んだ。自分の名前をはっきりと認識したのだ。うわ、すげー!と感動するとともに、少しだけ寂しい気もした。着実に大人の階段を登っていくのだ。もはや、理解不能なかわいい生命体であることをやめ、意思疎通ができる、かわいいけど憎たらしい小さな人間へと変化を遂げていくのだ。ああ、そのプロセスにぼくは立ち会っているのだった。これがライフでなくて何がライフというのだろう。
もっとも、僕のこどもじゃないんだけどね。えへへ。みたいなことを考えながら、やっぱり翻訳がうまく進まなくて、ちくしょうって気持ちで不必要に苦いスタバコーヒーをちびりと飲んだ。
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