こんな事を思い出していた。
小学生のとき、地面に足をつかない、という遊びをよくやっていた。あれは小学1年から6年までの親友、水野くんとの思い出だと思う。
地面につかないとは、つまり、石の上でも、ガードレールでもなんでもいいんだけど、とにかく少しでも地面より高くなっている何かの上を移動すること、というルールだ。
このルール1つで、家の周りがサバイバルの地と化す。大きな家のコンクリの塀を、数センチのわずかなでっぱりに足をかけながら、横へ横へと移動していくこともある。すっかり夕方だ。
それで半日は遊べた。なにが言いたいかというと、あの頃は自分たちで遊びを作り出していたんだな、ということだ。たった1つ、地面に足をついたら死亡ね、と言うだけで、めちゃ真剣に何時間も遊べた。つまりは半分くらいそんな気になって遊べたのだ。本当に地面に足をついたら、爆発する。そんな気持ちをお互いの中で高めて、若干張りつめた顔で、最初の壁にとりつくのだ。
公園でやったこともある。ブランコからシーソー、鉄棒から木の上へと、なんとか石の上などつたいながら、たまにどうしてもダメなときは3秒以内ならセーフなるルールを勝手に作り出しながら、ふたりっきりで永遠に遊んだ。
退屈するということがなかった。気にするのはもっぱら、あまり遅くなると親に怒られる、ということだったり、水浸しの服で帰ると親に怒られるということだったりした。つまりは、遊びを永遠と続けることができた。際限なく思いつくことができた。
いや、もしからしたら誇張や美化をしているのかもしれない。あの頃だってみんなで退屈して、おい何するー、何するー、と言いながら、誰もいいことが思いつかずにひたすらだらだらしていたり、つまんないから早く帰りたいな、とか思っていた日もあったにちがいのだ。とはいえ、いかなる環境でも遊びを作り出せた日々があった、という事実は否めないだろう。
振り返って、大人になった僕はよく退屈してしまう。時間があっても何もしたくないから寝ていよう、と思うことも多い。友達といても、別に話すこともないし、君とやりたい遊びもない、と思うこともなる。何が変わったのだろうか。ファンタジーを作る力が減ったのだろうか。
なんだか少しさみしいのだ。おい、何して遊ぶ? 会うなり顔つき合わせて、結局は何をしたって没頭してしまったあの頃がなつかしいのだ。
おい、みんなどういう気分で生きてるんだ? かつての同級生たちに聞いてみたいような、聞いてみたくないような気がする。モラトリアムというには長過ぎる時間をもう過ごしてしまった。空き地はあるのだが、遊びを思いつけない午後3時30分。まだ日が暮れるまでは時間がある。でも、何かをするなら今から始めないと楽しめない。でも、気がつけば空き地に一人で立っている。そんな風景が見えているのだ。
さみしーことを書いてしまった。感傷だ。
おかしなもので、一声かける相手はすぐとなりにもいるし、向こうにもたくさんいる。でも僕は、今から、ひとりでUCCコーヒーに行ってコーヒーを飲みたいのだ。そしてブログを更新したいのだった。さみしーのが好きなのかもしれないね。
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