2/13/2013

涅槃ロボット



タイ人のアートシリーズ。ロボットの絵。なんかいいですね! ロボットが宇宙の果てで涅槃に入るところです。みたいな。下にちらばっているのも全部ロボットだよ。かわいいね。

フランス人のふうらい画家君が、この人の絵が好きだと言った。へーと思ってじっくり見てみて、あ、おれも好きだな、と思うと同時に、なんか真似したみたいでいやだな、と思う。と同時に、でも少し通じ合えたみたいでうれしいね、とも思う。恋愛かっつーの。画家君は男です。

絵を連続で見て行くという行為は、どこか心の琴線試しみたいなところがあって、自分がどの絵を気に入り、どの絵を気に入らないか、自分でも見てみるまでわからないし、へーこういうのが好きなんだって驚く事もあった。

不思議なこともあった。ある小さな男の子を一生懸命描いてるタイ人の若い画家がした。夜の10時くらいなのにせっせと描いていた。そいつの腕には入れ墨があって、よれよれのきたいないTシャツを着ていて、がりがりだった。

街であったら、眼中にも入らない。つまり、あまりに接点がなさそうな奴だった。ちょっと怖いような感じね。でも、そいつが絵の前にしゃがみこんで、せっせと絵の具を塗込んでいる。ブランコに乗った男の子だ。さびしいトーンだ。閉じ込められた世界にある永遠の公園、という感じの絵だった。

へーお前こんな絵かくんだ。なんでこんな絵かくんだろう? 話を聞いてみたい気もした。やはり絵とはなんらかその人の中の風景を描きだすものだと思うし、そんなムードが彼の中にある、ということだ。それってどんな感じ? まあ絵をみてくれればいいよ、ということだろうけどね。なんかそういうギャップが面白いな、と思う。

五味太郎さんは、美術館を早歩きでさささっと回るそうだ。自分が見るべき絵は向こうから語りかけてくる、みたいなことを言っていた。早歩きで十分なんだと。

バンコクの美術館でも回ってみようかな、と思う。美術館というより現代の作家の絵を見たい。今を生きている人の絵がみたい。そんな風に思ったのは始めてだ。タイ人の描いた絵が、思いのほか自分好みなのが多かったからかもしれない。歴史の残った名画ばかりが僕に「効果」を及ぼすわけではないはずだ。

以前、走馬灯の正体を教えてあげたが、今度はテレパシーの正体を教えてあげたいと思う。と思ったけど上手く書けなかった。まあ、わかると思うけど、受信機の問題で、すでに受け取ってるメッセージをゆがめなければそれがテレパシーになる。人間、いろいろ期待をするからどーしてもメッセージをゆがめて認知してしまうのだ。すでに受け取っているメッセージをそのまま感受できれば、人間の感情や頭の中なんて筒抜けでわかるだろう。

まあ思いつきだけど。あのロボットは、あの絵のロボットね。彼は、きっとわかりすぎてつらくなったから、ロボット涅槃に入りにいったんだろう。ロボットこそがテレパシー使いにもってこいだ。

なんのこっちゃあ、だな。今夜中だからさ。こんな感じ。


カズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」のボディーブローが今頃効いてくるのを感じていた。読んだのはもう、4ヶ月前だ。いま、久しぶりに本を手に取ると、中は読んでないけど差し込むような痛みが。ボディーブローだ。

この本にも、テレパシー問題、いや、走馬灯問題なのか、が描かれていたのを思い出すからだ。期待が希望と作り出し、希望が情熱をねつ造する。それは確かに本物の情熱なのだが、どこか作り物だった。偽物の希望につき動かされて、主人公は半生を生きた。社会で活躍した。いつから?それが僕の疑問符だ。君はいつから気づいていたんだい? もしかすると、最後まで気づいていなかったのかもしれない。でも、きっとどこかでは予感が始まっていたはずだ。真実の予感が。表面的には、ある意味では、彼は偽物の人生を生きた。自ら作り上げた。でもそれは、結論的に偽りだっただけで、個別の断片的時間には、本物のときもいくらかは存在したはずだ。いや、たぶんもっと多くだ。

そこで次の問いが生まれる。果たしてそれではダメなのか?と。

ゲーテは死の間際に「もっと光を」と言ったとされている。カーテンを開けてくれと頼んだという。それは、なにやら詩人らしい最後のことばにも思えるし、ある人が言うには、それはある種の挫折を表しているそうだ。最後の最後になって自らの人生を挫折と知ったのかもしれない。だが、たとえそうだとしても、それではいけないのか、と問うことはまだできる。

「今を生きる」という言葉があるが、今を生きてしまっている、が正しいのではないか。なにがどうあろうと、あなたは生きてしまっているし、自分の中の時を止めることすら失敗しつづけている。眼をとじ耳を塞ごうと感受性は記憶しつづける。あなたにできることはそうは多くはないのだよ。いや、むしろ逆なのかもしれない。できることが多すぎてつらくなっちゃうくらいなのかもしれない。いったい何の話なのか。

遅れてきたっていいじゃない。はるか上空に舞い上がってふわふわと追いつけないできたあの日別れた分身が、遅れてきたっていいじゃないか。いま、あなたは、重ならなかった人生の、いや、重ならなかったという強烈な出会い方をしたあの女の手紙を読みながら、遅れてきた自分におかえりを言っているんだろう。そしてまたすぐ忘れてしまうんだろう。そうだ、君には愛する娘がいるからね。ジェニファーがね。

ちょっと主人公にうまいこと言ってみた。うまくもないか。なんだかわからなけど、なんか少しなぐさめてみたくなるのが、カズオイシグロの作り出す主人公なわけで、どこか知ってる人の感じがするのが、カズオイシグロの主人公なわけでね。

そんなこんなしてたら、iTunesから斉藤和義が流れてきて、空気を一気に消し去ってしまったので、ここで終わりにしまーす。




4 件のコメント:

すぎえり さんのコメント...

五味さんは美術館を早足で回る…。最近読んで面白かった絵画もの「楽園のカンヴァス」の著者は、美術館では解説を読まずに絵だけみる…と言っていた。感じようってコトかねぇ。次に行く美術館では解説読まず早足してみようかな~。。

Unknown さんのコメント...

なんかね、「ちゃんと生きてれば」って条件がついてた気がするw 五味さんの話ね。

そうだね、評判や名声は忘れて、感性だけで見た方が役に立つよ、ってことだと思う。

すぎえり さんのコメント...

おっと~。その条件、見えないハードルみたいなものがぐっと上がった気がしちゃうけど…。夏にはルーヴルも上陸らしいしね。たのしみだよ。

Unknown さんのコメント...

ルーブルかあ。混むのがいやだよねー。でもいってみたいね。