2/05/2013
もう少し書く
久しぶりなのでもう少し書いてみよう。
4月18日の羽田行きのチケットを買ったことによって、にわかにジャパンが近くなった。とはいえ、その頃はタイのお正月らしくめぼしいチケットは売り切れ。非常に便利の悪いチケットしか残っていなかった。たぶん到着は深夜、空港で夜明かしになるだろう。うっかりしていた。
タイの面白いところは、よくタイ人に間違えられることだ。この前も、公園でベルギー人と遊んでいたら、タイの学生グループが声をかけてきて、英語の課題でインタビューさせてほしい、と言う。そう、ベルギーくんに話しかけたあと、僕に向かってタイ語でなにかぺらぺらっと言った。ということなんでお友達をお借りしますね、という感じだろう。僕はいちいち僕だって外国人で英語も話しますよ、と言うのもおっくうなので、にっこり笑ってうなずいておいた。
タイには中華系がいるし、ミックスもいるので、アジア人ならほとんどタイ人と言っても通用してしまうだろう。服装だってみんなおしゃれで日本と変わらない。みんなiPhoneもってるし、iPadだって持ってるし、もう日本人を見分けるのは僕だって困難なくらいだ。
ということはつまり、ほぼ街に埋没してしまうことになる。あ、外人がいる、という目線では見られない。どっちかな?的な目線はときどきあるが、結構な確率でタイ語で話しかけられてしまう。最初は喜ばしかったが、外国人と話したい、というタイ人には逆に興味を持ってもらえないこともある。
まあどうでもいい話。あ、でもこうして外国にいるのに埋没してしまうというのはどこか居心地がいいものだ。これと同じことはニューヨークでも感じた。
数年前ニューヨークに行ったときは僕はまだ外国慣れしてなくて、どっからみても日本から来た日本人に見えたと思うが、人種の多様さがそれを凌駕した。いろんなところで道を聞かれたりした。おいおい、おれに道聞いてどーすんだよ!と不思議だったが、たぶん道を聞く人も観光客、アジア系も多いし、お互い見分けがつくわけはないのだ。
日本もそんなんになると面白い。街を歩くと、日本人の顔をしたけど外国人とか、完全なる帰国子女とか、日本のノリが通じない人がいっぱい歩いていたら、なんとなく自由な感じになるのにな、と思う。それが「いい社会」になっているかはまた別だけど、たぶん大丈夫だだろう。そんな気がする。もちろん外国人の顔をした外人がたくさんいるのもいいことなのだが、それだと日本人は甘えてしまう。
あいつらは外人だからということで外人モードに切り替えてしまうのだ。つまりは楽をするのだ。外人にどんな失礼を言われたって平気。年下にため口きかれたってかわいいものだ。だって外人なんだから。でも完全に日本人の顔したやつに日本語で話しかけたら、いまいち通じなかったり、完全に年下なのにため口でばばばっと言われたら、むっとするだろう。そして、当然のようにむっとした態度を見せた後で、相手が実は外国人だとわかったら。。恥をかくにはこっちだ。でも、生理的にはむっとしてしまう。そのはざまで苦しむがいいさ。
と書きながら、それはなんか疲れるなあ、などとも思う。いちいち、こいつはどっちだ?って気にしながら話しかけるのも大変だ。
またどーでもいい話を書いてしまったようだ。
どーでもいい話ばかりを書くのは、自分にとって今大事なことってやっぱりなかなか言葉にならないからだ。書いては消す、消しては書く、で、やっぱり消す、ということになる。
そういうものなのだろう。
このまえ久しぶりに紀伊国屋にいって、日本語の本を物色してみた。1.5倍するから買う気は失せてるんだけど、話題の本など立ち読みする。いろいろ見た結果、一番読みたかったのは椎名誠の新刊エッセイだった。「岳物語」の孫バージョン、みたいに帯に書いてあった。椎名誠にも孫だできたのだ。
僕は実は一番良く読むのは「新書」というか、何か誰かが社会についてもの申しているような本をよく読んでいたのだが、そのときはそーした本を手にとってぱらぱらしたとき、なんだかイヤーな気持ちになった。
社会学者たちの著書たちだ。普段なら大好物なのだが、なんだか、嫌だね、という気分になってすぐ放り出してしまった。
椎名誠の本は、冒頭、しきりに一人称の呼び名について悩むことから始まる。この本をどの一人称で始めればいいか。僕というほど若くないぞ、私などと言うのもたいそうだ、俺が一番しっくりくるのだが今回はなんか違うぞ、わしも使い易いのだがやっぱり違うな、そこで椎名誠はおもぬろに宣言する。「読者たちよ!! 今回は”私”でいくぞ!」と。(記憶がたしかならね。)
おーーと拍手したくなる。うれしい気持ちになる。ぼくは読者たちのひとりなのだ。いまたしかに語りかけられたし、これからもそれが続くのだ。
今思えば買えばよかったなあの本。。そのときは知人のプレゼントを買いにいったので、自分用の本は買わないと決めてしまっていたのだ。
そしてずっと図鑑のコーナーをうろついていた。そして学研の動物図鑑を手に取ったら、ふとある記憶がよみがえった。それは、子どものころぼろぼろになるまで読んでいた動物図鑑にあったアライグマの解説文だ。いろいろ説明が書いてあって最後のしめくくりに、「うっかり近づくとなかば引きずりこまれる。」みたいな文がスパッっと書いてあったのだ。なかば引きずりこまれる?? こどもの僕は「なかば」の意味がわからず悩んだ。しかし、なにやら恐ろしい事が書いてあるのは間違いないようだった。アライグマが爪をがっとのばして僕を穴蔵に引きずり込む映像が繰り返し浮かんだ。それがいわばプチトラウマになった。そのイメージを浮かべては、アライグマ怖え〜と武者震いしていた。よく見ればイラストもどこか凶暴そうに書いてあった。
で、あれは今でもあれなのか!とアライグマを探してみたが、その解説文はなく、当たり障りのないことが書いてあるだけだった。あれはぼくの記憶違いなのだろうか。。
てなことを思い出したり、僕がバリ島でめっちゃ好んで食べていた「バターフィッシュ」なる魚のお姿をはじめて図鑑で拝見したりしながら、うーん図鑑ってやっぱり面白い、とうなっていた。だからプレゼントに図鑑を買った。
図鑑も絵本も、こどもからこどもへと受け継がれていくものだ。紙も丈夫だし。だから図鑑や絵本は普通の本とはちょっと違うのだ。紙の本は自分の興味のため、知識欲のため、そのときの気分で買ったりする。勉強用だとしても、まあ自分用だ。
でも図鑑や絵本は、買うときから未来が少し顔をだしている。図鑑や絵本はきっと、親戚や近所や自分のガキに手渡され、ぼろぼろにされる未来を予見している。それが図鑑の運命だ。
時にはラジコンカーのジャンプ台にされ、ときには昼寝の枕になり、ときには兄弟げんかの武器になりながら、踏みつけにされ、繰り返し開かれ、とじ糸がほつれて飛び出すころには、すっかり飽きられ見向きもされなくなる。成熟したのだ。もはやゲームやワンピースのほうがずっとずっと面白いというわけだ。
でもまた、どこかの小さなこどもが動物図鑑を見つけ、開き、指をさす。キリンさん!
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