2/07/2013

手紙が届く

手紙が届くときの気持ちを忘れてしまった。

かつて、手紙をもらったのはいつだったか。絵はがきなら2、3もらったし、2、3出したりする。しかし手紙は。

切手を貼って封をして、手紙を出したのはいつだっかた。しかし、便せんを買いにいくのが好きだったのを覚えている。小学生のときだ。便せんと封筒のレターセットをいっしょうけんめい選んだ。

赤と青とストライプのついている、エアメール用の封筒があって、いつかこれを空の向こうのだれかに送ることがあるのだろうか、とふわっと考えた気がする。

僕はある時期から年賀状廃止論者になった。義理のように慌てて書きなぐるはがき、もらったら出さなくや、出したらもらわなきゃ、の気持ちになるのが嫌いだったのかもしれない。たんに「あけましておめでとう!今年もよろしく」ばかりを20枚も30枚もかくのがめんどうだったのかもしれない。

干支のマークを考えるのもめんどうだった。でも、母親宛に毎年送られて来る、きれいな重ね刷りですられたカラフルな年賀状を見るのが楽しみだった。それは母の昔の同級生かなにかで、すっかり年賀状だけの付き合いになってはいたようだが、それでも毎年、いろとりどりの刷り物を送ってくれていた。

年賀状をさぼり始めたせいで、連絡がつかなくなってしまった旧友も何人かいる。ぼくから年賀ループを断ち切ってしまった。少し後悔しているが、いまではFacebookのおかげでまた探し出すことが可能になった。それはうれしいことだ。


届かない手紙こそが手紙だということもある。
いや、届くのだ。たしかに届くのだが、それは、大きな手紙として届くのであって、紙にかかれた文字の列として届くのではないこともある。

お正月、バンコクで友達になった人たちと書き初め大会をした。ぼくは「手紙」と書いた。意味はわからなかった。あ、いま、少しわかった気がした。手紙とは、宛先があるものだ。そろそろ僕も宛先を書く年齢になったということなのかもしれない。

そういえば面白いことがあって、僕は絵はがきを書く時、宛先は最後に書くのだが、うっかり宛先を書きそびれた絵はがきは、数日でしなびてしまう。つまり、数日たつと、出す気がなくなってしまうのだ。そんなかわいそうな絵はがきたちが何枚もゴミ箱に消えた。

その日のうちに、宛先を書かれた絵はがきだけが、ポストへ投函されることになる。まあそれはただ、こんなくだらない雑事をわざわざ書き送る意味があるのだろうか?という疑問と戦うときに、宛先が未記入の絵はがきは、はなはだ弱い、というだけのことなのかもしれない。宛先が書かれてた絵はがきは、それはすでに手を離れたもので、あとはポストに投函されるのだが、それは、もはや手紙を書いたときの僕とはちがう僕が実行を任せられたタスクなのだ。それはただのタスクであり、ただ、郵便局まで歩き、ポストに投函するだけの仕事なのだった。

そんな手紙を意識しだした僕なのだが、絵はがきの裏に自分の住所を書かなくなった。バリ島にいるときは、郵便物が届かないことがあったからで、送ってもらっても届かないとわるいな、と気になる。また、いつでも気が向いたら引っ越ししようと思いながら生活しているので、来月同じ場所にいるかわからないからだ。出してもらった手紙を受け取れないことほどさみしものはないし、送り主から、届きましたか?と聞かれるのも無粋なことだ。と書きながら、でもなんだかんだいって今の部屋に半年は住みそうだな、と思って、なんだかばかみたいだな、と思う。


なんとなく今、書こうとしたことに近づけていないのを感じている。
ぼくが書きたかったのは大きな手紙のことだ。大きな手紙が届いたから、何度も読み返したけど、返事が書けずにいる、ということについて書きたかったのだ。

そして、直接手渡された手紙よりも、人を介して手渡された手紙のほうがうれしかったりするのはなぜだろうと考えたりしています。

まあすごく簡単にいえば、今、眠いのです。
今日は少し早起きの用事があったので、目覚ましで無理に起きたから、もう、脳が回転をやめたがっている。でもそんなときは、ブログなどを書くのに絶好のときなのであって、つまり、なんとなく、無責任な気持ちになれるタイムだったり、言葉がすべりやすいタイムだったりするのでしょう。

いったんおわる。





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