いま、原点というコーヒーショップに行ってきた。こだわりのコーヒーが出てきた。手作りケーキもいただいた。コーヒーひとすじ30年的なお店だった。
店内にすごいきれいな絵がかざってあって、姪の絵だという。画家の名前は中原ありさというらしい。店内には手作りの凧も飾ってあって、皇室にも献上されたそうである。布張りのかっこいい凧だった。骨組みが竹でできてて、風で音が鳴るという。バリ島でも風で音がなる竹の楽器?がありますよ、という話をしたら、どういう構造なのかとかなり関心をもっていた。小さな穴が開いてるだけです、というと、こんどやってみよう、と言っていた。おまけにその店主は、シャンソンも歌うらしい。まったく芸術家なのだった。
やっぱり芸術家などはうらやましく思う。なにはともあれ、表現する手段と場を持っているということだ。絵本作家の五味太郎は、なぜ表現するのですか?とは愚問であり、それは、なぜ呼吸するのですか?と同じような質問である、と語っていた。とにかく表現する必要があるからするんだ、理由などない、ということらしい。何かを表現せずにはいられない、それも人間の本性のひとつなのかもしれない。
そして、積み上がるものと積み上がらないものについて考えていました。
人類が人類ぽくなってからきっとうん十万年が過ぎた。もっと限定していけば、少なくともここ数千年は、ほぼ現代と同じタイプの人類が歴史を歩んできた。歴史も伝承されている。これだけの歴史がありながら、積み上がってきていないこともある。
歴史などといわずとも、大人から子どもに伝えられないものがある。たとえば、初恋のとき、いや、初めての失恋をどう乗り越えればいいか。それはただ乗り越えるしかなく、大人の体験談をいくら聞いてもほんの少しのなぐさめにしかならない。いや、例が悪かったようだ。
もっと抽象的に言えば、人ひとりが生きていくということに関しては、ほとんど、歴史から学ぶことはない。もちろん、数々の文学、芸術、映画、音楽、TVドラマ、もろもろが、 人生で起きる一大事をさまざまなシミュレーションとして見せてはくれるし、詩人の言葉がこころのよりどころになったと言う人もいるだろう。しかし、どんな一冊の本だって、本当のところ人生を無難なものにする力などないのだ。
振りかかる火の粉は、文学では振り払えない。ただ、やけどしたあと、傷がいえるまでの時間を少しだけ慰めてくれるだけである。火の熱さは火傷して覚えるしかなく、また、火傷をしない人生などは人生と呼べるものだろうか、と言ってみたりさえする。
もっと簡単にいえば、人類が人類らしくなってから、累計800億人の人間が生まれては消えてきったと言われる。それだけの人生がおりなされながらも、人生必勝マニュアルが未だに完成していないのは何故なのか。800億人もいれば、ありとあらゆる人生の迷い道、落とし穴のパターン、正しい選択の仕方が完全に解明されていてもいいのではないか?
シェールガス掘ってる暇があったら、火星までロケット飛ばす暇があったら、人生必勝マニュアルの完成に叡智を結集すべきではないのか。結局火星にロケット飛ばすのは、人類が幸福になるためではなかったか。
実は必勝マニュアルがないわけではない。数々の仏典などはそれに当たるだろう。およそ人間とはなにか、人間が織りなす世間とはなにか、生命の織りなす血宇宙とはなにかを、科学とはちがう方法で徹底的に解明してきたのが仏教ではなかったか。
しかし、である。仏典を熟知に熟知を重ねた弘法大師でも、人生の悩み苦しみからは片時も開放されることはなかったと僕は想像する。これはどういうことなのか。
思考実験してみよう。子どものころから超がつく秀才で、古今東西のあらゆる文献を読みあさり、ほとんど森羅万象の真実に近い知識を身につけた12歳がいるとする。彼はここから、自ら作り上げた人生マニュアルにそって生き、悩み落ち込むこともなく、危機に陥ることもなく、人と争うこともなく、つつがなく、そつなく、賢く、優雅に生きていくとする。すべては彼のコントロール下にあるのだ。彼ほどの叡智の前では、人生など取るに足らない楽勝のゲームでしかないのである。
あなたはそのうような人生を望みますか? ということになる。
積み上がらないものが苦しいから、積み上がるものにすがろうとした。人類の歴史をそう読み解くことだってできるだろう。
などと言いながらも、ただちょっと仕事をさぼりたかっただけの俺だったのかもしれない。もどります。
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