先日、「風立ちぬ」を見てきました。沖縄の嘉手納基地近く、連日、米軍最新鋭のF22戦闘機が飛び回っている、北谷の映画館です。
僕には、まず、この映画は戦争と自然災害を描いいるように見えました。戦争、この不思議な人間行為。そして、突然命を奪う自然災害。もっとも、ヒロインの菜穂子は災害ではなく結核という病で亡くなります。しかしそれは、自然が命を奪っていったと言えるものではないでしょうか。自分の日々の行いとは関係なく、もちろん感染経路や体調管理、遺伝体質など、因果関係はたどれるのかもしれませんが、本人が悪いことをしたわけでもなく、危険な行為をしたわけでもなく、ただ普通に暮らしているだけで、患ってしまったと言えます。そして、そんな風に突如やってきた病に、刻々と命の温度を奪われていくのです。東北が思い浮かびます。大勢の命が召されましたが、それは突然で、本人たちの日頃の行いとは、微塵も関係なかったと断言できるでしょう。ただ、大きな自然がやってきて、連れ去っていったのです。
主人公の二郎は、戦闘機づくりに命を燃やします。もちろん本人は戦争の道具など作りたかったわけではないでしょう、ただ美しい飛行機を作りたかったのです。でも時は戦時。自分の力を最大限に発揮できる場所は大手の飛行機会社であり、当時の大手の飛行機会社は戦闘機を作ることになっていたのです。
たぶん当時の時代背景を考えると、戦闘機じゃない飛行機を作れる場所などどこもなく、戦闘機づくりを拒否しても、どのみち徴兵で戦争へ、そんな時代だったはずです。すべてを飲み込んでゼロ戦を設計していたのです。二郎本人の行いや思想とはかかわりなく、戦争という大きな集団のうねりがあって、できることは所詮、そのなかで少しばかりあがく方法があるかないかといったところだったはずです。
まあ端的に言えば、そういう中で、ひとりの人間としてどう生きるのか、という映画だった気がします。それも、どう抗うのか、というよりは、抗いようのない流れに押し流されながらも、いかに輝く日々を生きるのか、という映画だった気がします。
映画を見終わったとき、以外な気持ちになっていました。宮崎駿はここに着地したのか、と。あっちもこっちも睨みながらも、いろいろな思いや昂ぶりを抱えながらも、ふわりとそこへ降り立ったのか、そんな気がしました。
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