バンコクで知り合った友人に誘われて、ウェブマガジンを立ちあげようか、ということになっている。テーマは「旅とスタイル」だ。
旅ならよくしてるから何か書けるだろうと、誘われたときにYESと言ったのだが、なんと、お前が編集長をやれ、ということに。えーーっと腰が引けるも、とりあえず、やりましょう、と言ってみた。
とはいえ、まだ完全な白紙なのだった。
4月末、吉福さんが逝かれました。このブログでもたまに登場していた、ハワイに住んでいた、恩人です。吉福さんについて何か書こうと、何度も書こうとして、なんか書ききれずに消していたのだった。なので今回はちょい出し作戦で書いていくことにします。
その前に。とりとめのないことを挟むぜ。
いま実家に滞在中なんだけど、さっき、親が超古い手紙や年賀状なんかが入った箱を出して来て、要らないものを捨てるから仕分けしてくれと言う。それで、ひととおり目を通していたのだ。
いくつか、ハっとする手紙や、写真やなんやが出て来る。読み返してこんなにハっとするのに、ぜんぜん記憶にない。当時は、スルーしていたのか、受け止められなかったのか、単に忘れたのか。
たとえば、小さいところで言えば、高校時代の部活のエースからの年賀状。まず、そいつと年賀状やり取りしてたことも覚えてない。だが、その年賀状にはこういうことが書いてあった。「Y先輩の後はおまえだからな。しっかり頼むよ」
たぶん、ぼくが高校一年の冬なのだろう。Y先輩はきっと次の春が来る前くらいに引退することになっていたのだろう。そして、Y先輩と僕は同じポジションで、僕はまだ補欠だったのだろう。
で、すでに一年生ながらレギュラーになっていた同期のエースから、俺に激励のハガキが届いたということだろう。次はお前だぞ、しっかり頼むぞ、と。
意外だった。僕は高校生の部活は、たしかにレギュラーではあったが、いつも自信がなく、試合のたびに自分の不甲斐なさがつらく、後ろめたく、嫌な思い出しかないと思っていたのだ。
この年賀状を見たとき、あれ?と思った。あの同期のスーパースター、エース君が、俺にこんな声をかけてくれたこともあったのか、と。情けないことを書いてしまった。でも、運動神経がよくないのに運動部にいた奴なら、こんな気持ちをわかるかもしれない。
自分が、次期レギュラーの一員として、チームメイトとして見られていたのが意外だったのだ。なんとなく、申し訳ないことをしたな。と思った。つまりは期待に応えられなかったからだ。いつもチーム足をひっぱりつづけ、やる気もあまり見せることもなかったように思う。
そして、こんなことが何十年たった今でも心臓がどきりとするほどの何かなのだというのも意外だった。思春期のころの記憶はけっこう根強いのだね。
俺は奮起したのだろうか、と思う。このハガキをもらって、よーし、春から俺もレギュラーだ、チームを優勝させてやる!と心を燃やしただろうか。そこは覚えていない。というか、そういう記憶は無い。たぶん、プレッシャーでニガい気持ちになっていたのが大半だろう。
こんなことを書きたくなったのは、さっきAKBの総選挙を見ていたからかもしれない。
でなんだ。そうだ。ほかにも、あれ、こんな手紙もらってたんだ?という手紙がちらほら。二十歳そこそこのころの手紙だ。さっきの年賀状にも共通するが、誰かからどういう思いをかけられていたのか、まるで覚えていないのだ。ほかの余計なことはいっぱい覚えているのに。あれ、あいつこんなこと書いてきてたんだ?といまさら驚く始末。記憶とはいいかげんなものだ。
吉福さんがあっと言う間に逝ってしまった。それほど親しかったわけじゃないけど、なんかお世話になったなあという気持ちと、もっと吉福さんからいろいろ学んでおくべきだったという気持ちと。
吉福スピリットみたいなものがカケラが残された気がする。それは僕の周りにぼんやりと漂っている。つかめそうでつかめないものとして漂っている。
そこでウェブマガジンなのだが、何から始めればいいのか。。とりあえず、言い出しっぺのパートナーになんか書いてもらえばいいけど、俺的にもコンセプトなりを打ち出したいところだ。
なんだか不思議なものになればいいと思う。そこで僕はいきなり保坂和志の言葉を持ち出す。小説の価値は、小説を読んでいる時間の中にしかない。これだ。
とりとめのないブログを、また再会します。
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