翻訳の話を書こう。
僕の場合、翻訳といっても短い記事を訳すだけだ。
それでも、一日一回は自信を喪失する。うまく訳せない、なんでだ?という文章が必ずあるのだ。わずか数行に、あ、もう一時間以上悩んでる、なんてこともザラだ。
翻訳とは不思議なものだ。自分で考えた文章を書くなら、さすがにここまで悩まない。というか、そもそもそんなに文章に書きにくいことを頭の中で考えたりしない。
やっぱり、翻訳しずらい部分というのは、原文筆者が言いたいことをいまいちつかんでいないときなのだ。どんなに辞書を調べてもわからないこともあるし、意味はわかっても、なんでここでそんなこと言う?という疑問がわくこともある。そういうときは腹がたちます。お前、なんでそんな複雑なこと言うんだよ。もっと素直な言葉吐けよ、アメリカ人なんだから!という感じです。
アメリカ人なんだからロジカルにさくさく行こうぜー、おい。。そう何度つぶやいたことでしょうか。でもね、もしからしたらそういうものなのかも。英語だって日常語なんだから、気の利いたことも言うし、婉曲表現も使うだろう。それが人間同士のコミュニケーションというものなのだ。中学の教科書みたいな会話ばかりではないのだ。
というときに、翻訳について誰かなにか言ってないかな、とインターネットをあさっていたら、山岡洋一さんという著名らしい翻訳家の人がいろいろ言っているのを見つけた。彼はベストセラーのビジネス書とかの翻訳をしていたらしい。
彼がいうには、こと翻訳という世界では35歳ではほんの駆け出し、50歳でもまだまだ修行が足りないくらいなのだそう。翻訳は難しいのだ、と言っている。
もちろん、彼の場合は一冊の本を訳し上げる専門家だ。それがどれほど難しい事かと思うと、寒気がする。ほんの半ページの翻訳で苦しんでいるおれ。300ページの翻訳ってそれどんだけーーーー。
その道のりが想像できない。一年とかかけるのかな? 想像できないほどの積み重ねだ。でもそれでも、世の中には翻訳された本が五万とある。五万どころじゃない、もっとある。そして、それみんな誰かが翻訳したのかと思うと、絶望的な気持ちになる。だって、売ってる本の翻訳、どれもすげーうまいじゃん? つまり、あー翻訳下手だな、なんて思ったことないもんね、本読んでて。つまり、おれが想像できないほど高い領域で仕事をしている翻訳家が、まあ過去を含めてだけど、何千、何百といるってことでしょう? 恐ろしい。。自分が小さく見えることこのうえない。
そして、さらに恐ろしいことに、山岡さんは、しきりに翻訳で食えなくなった、と嘆いている。例えば、既刊の古典の翻訳をやり直したいのだが、古典翻訳ではとても食えないので、積極的になれない、仲間も誘えない、的なことを言っている。
困るなあ。別におれは翻訳家でいくと心に決めたわけではないが、明るい希望がある道ではなさそうだ、というのはわかる。難しいくせに食えない、そんな仕事があるだなんて。それが乗りかかった船だったなんて。。
とひとしきり愚痴ってみても、目の前の文章が急にわかりやすい日本語に変換されていたりはしないので、仕事に戻りますが、なんというか、悔しいですね。こういう悔しさはあんまり味わったことがない種類のものです。このもどかしさは、何なんだあー。うまくできん、うまくできん、うまくできませーん。ああ、ちくしょう!
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