3/01/2013

Time after time

友人が帰り、今日からまた日常が始まった。6日間いた友人は、少しうれしい置き土産を置いていった。それは早起きだ。行動をともにしていたので、ここ数日は朝8時には起きていた。その余韻で今日は9時頃自然に目が覚めた。あ、朝型に戻ってる。二度寝しないように急いでベッドから体を起こす。

いつまで続くかはわからない。でもやっぱり朝から起きていると一日が長くなる気がする。オフィスの向いの帽子屋さんカフェで、毎朝グリーンスムージーを出してくれるという。とりあえず、明日の朝、来るのでスムージーよろしく、と言って店を出た。

シンディーディーローパーのTime After Timeを聞いていた。好きな歌だ。そして、この曲に付随するさまざまことが思い起こされた。たぶん、この曲になんの理由でかわからないが、結びついた記憶たちだ。例えば、今浮かんでくるのは、ひとりで3週間歩き倒したニューヨークの道々、10年前に友人に始めて会ったときのこと。 はじめてバンドを組んで、友達が買ったボンジョビのテープを興奮しながら眺めたこと、記憶は芋ずる式に出て来るね。

ところで、記憶とは不思議なもので、記憶がなければ自分ではいられない。さりとて、人は過去の記憶に生きるではなく、今を生きしかないのはわかりきったことである。でも、その今を生きるのは、私という記憶でもあるのだ。

そして、記憶とは何だろうか。記憶とは「すべて」だろうか。僕が経験したすべてのことが、覚えている、いないにかかわらず、記憶なのだろうか。覚えていることを中心に、うろ覚えなことがグラデーションしているのが記憶なのだろうか。

ときどき、誰かの思い出話を聞いていると、その人の記憶が自分の記憶かのようになってしまうこともある。そんな場面を経験した気になってしまうのだ。

昔読んだ児童小説なんかも、いくらかは記憶の一部になってしまったにちがいない。

 記憶は重ね合わせてそこにあるものなのだろう。友人としゃべっているとき、出会ってからいままでの記憶もまた、重ね合わされている。

「トップガン」という映画があった。たしか中学くらいのころ、大ヒットした。トムクルーズだ。今でもテーマ曲を聞くと興奮する。かっこいいー!って思いながら憧れて見ていたころを思い出す。しかし、そのトップガンたちが、イラクやアフガンで「誤爆」をやらかし、たくさん子どもが死んでいる。憧れの飛行機乗りたちが、ベトナムに枯れ葉剤を撒いたと知ったのは大人になってからで、そのことを現実として少しは実感できるようになったのは、ごく最近のことだ。

アメリカだけがどうこうじゃなく、かっこいいトップガンの裏には、はらわたがむかつくような人間のずるさが張り付いている。

歴代戦争は「ずるさ」が引き起こしてきたのだ。闘争本能でも、暴力性でもなんでもない、ずるさ、なのだ。

人間がずるさを克服するのは、あと何千年か、かかるだろう。いや、何百年、くらいかな。それとも一気にニュータイプが生まれて、わずか数十年のことなのかもしれない。

しかし、ずるさ、と言ってもそれは、頭で考えだしただけの概念なのかもしれない。よくわからない。あまり深く考えてもしかたがないだろう。

それよりも、シンディーローパーってなんだかいいよな〜、なんでかな〜ってことを考えたり、最近の鬼束ちひろはひどいけど何だか好きだな〜って、 なんでかな〜考えたりしてるほうが、意味があることかもしれない。

今日、タイのミルクティー、というのを注文してみたら、インドのマサラチャーイみたいに少しスパイしーでおいしかった。



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