11/01/2012
書評:「ミーナの行進」(小川洋子)
子どもの本を大人が書くのはなぜだろう? ふとそんな疑問が浮かんできた。ついさっき、冷房が効きすぎたオフィスで午前中の仕事を終え、太陽を浴びに外に出てみたときだ。
それはあるイメージが脳裏に生まれ、過去に実際にみたシーンかのように、どこかの外国でたまたま撮ったスナップ写真の1枚かのように繰り返し再生されることによる。
それは、イタリアの地方の駅前の小さな本屋、もしくは日本のちょっと田舎の街で一軒だけある小さな本屋、そんな本屋から、おかっぱの女の子が(たぶん5歳くらい)が、一冊の本を大事に抱えてとつとつと出てくる。少女はちらっと振り返り、自動車が来ないかなどを確認して、家に向かって歩いていく。
そんな光景だ。そしてこのイメージは「ミーナの行進」(小川洋子)のあるパートを読んだ時に生まれたものだ。たぶんそんな情景が描写してあったのだろう、だが、わずか昨日のことなのにもううろ覚えだ。
そしてそのイメージを脳内で見ているとき、冒頭の疑問が浮かんできたのだ。なんで、大人が書いた本をいたいけな子どもが大事そうに抱えていくのか。宝もののように抱えて、ドキドキしながらそっとページを開くのか。きみたちのほうがずっと純粋だぞ。君たちの方がずっと世界をわかっているかもしれないんだぞ。
でも、あ!とまた別の記憶が蘇る。それは、バリ島でよく僕の部屋に遊びにきたシー君のことだ。となりの子どもだ。3歳の男の子だ。
しー君はよく僕のところへ来ると、ノートはないの?と聞いて、ノートを出してあげると、ペンは?と聞いて、ペンを渡してあげると、自分で描くのではなく僕に絵を描いてくれとせがんだ。魚を描いてくれ、と言う。サメを描いてくれ、だったり、レレ(なまず)を描いてくれだったり、長い魚を描いてくれ、だったり、大きな魚を描いてくれだったり、お母さんの魚を描いてくれだったり、友達の魚を描いてくれだったりした。
ぼくはまあリクエスト通りに描くのだが、何度も同じ絵を描くようにせがまれると少々めんどくさいし、それにそもそも絵を描くのは子どもである君の仕事だろう、子どもこそが絵を描くべきだと思うわけで、「しーくんが描きなよ」と言ってペンを渡す。だが、ちがうと言う。僕に描いてほしいのだと言う。
んーー。僕が絵を描くところを見てても面白くないだろうに。。なんで自分で描かないのかな?と僕はいぶかる。こいつ、絵を描くのがメンドクサイだけなんじゃないか、などと腹が立ってくることもある。
でもだいたいいつも絵を描いてくれと言ってくる。それも結構詳細なリクエストを出すのだ。ぼくは、あるとき、何十匹もサメを描かされたあと、もう半切れになって、いーくん描きなよ、と言った。しーくんは、「かけないもん」と言う。ぼくは、描けないなんてことはあるか、と思う。なんでもいいから自分なりに描いてみればいい。ほら、描きな、といって強引にペンを握らせた。
しーくんは、うつむき加減で、しぶしぶといった風情でペンをとり、魚を描き始めた。つぶれた楕円形のようなものが描かれた。目や鼻らしきつぶつぶが描かれた。そして「やっぱりかけない」とつぶやいた。たしかに。たしかにそれはおよそ魚には見えなかった。あ、ほんとに描けないんだ?!と僕は驚いた。
そうか、3歳だとまだサメとか絵が描けないんだ。。
ここが面白いと思った。つまり、自分ではサメがうまく描けない。でも僕が描くサメがサメらしいことはわかるのだ。なのに自分ではうまく真似ができないのだ。そういうことがあるんだね。
だから僕にサメを描いてくれ、描いてくれとねだるのは、ある意味、学習しようとしているのかもしれないなと思う。サメの描き方を学ぼうとしているのかもしれないな、と。どう描けばいいの?とは決して聞いてこない。ただひたすら、サメを描いてくれと言うばかりなのだ。でも同じサメの絵を何十回描いてもいつも喜んでいる。飽きないのかな?と思ってたまにバリエーションを加えるのだが、それはそれで喜んでくれるが、やっぱり「このまえかいたやつ」を描いてくれと言ってくることが多いのだ。
数が重要なのだ。繰り返すこと。何度も何度も繰り返しサメが描かれるところを見ること。たぶんそれがどこか重要であり、もしかすると、ただサメが描かれる過程を見るのが楽しいのかもしれない。何も無い白い紙に、今まさにサメが描かれる、というその不思議が。
みたいなことを思い出しつつ、それと子どもが大人の書いた本を喜んで読む理由と重ならないかな、と思ったりしていた。
子どもは自分では本は書けないのだ。物語が書けないのだ。でも、それを読み、それを楽しむことはできる。それにドキドキすることはできるのだ。でも自分では同じようにはまだ書けないのだ。だからひたすら不思議なのだ。本に書かれた物語というものが。
一冊の本で旅にでられたあの頃を思う。子どものころ、僕はどんな風に本を読んでいたのかな、と思い出せそうで思い出せないはがゆく少しせつなく、そして温かい気持ちを、ぼくはこの「ミーナの行進」を読む途中で何度か持った。
それは江戸川乱歩の怪盗二十面相シリーズであったり、少年探偵団の小林少年であったりした。ぼくに日本語を教えたのは、怪盗二十面相かもしれなかった。ぼくは、小林少年が七つ道具を出すたびに興奮し、ドキドキして憧れやるせないほどだった。それは小学校の図書館の中だったり、本を借り出して、家の畳の上で没頭しているときだったりした。
偉大なり、江戸川乱歩。
そういえば、ラオスに行った帰り、列車の中でベルギー人と友達になった。彼はかたことの日本語をしゃべった。
日本の文化が好きで独学で日本語を勉強しているという。がさごそとコンビニ袋の中から、漢字の教科書と、日本の小説(フランス語版)をいくつかみせてくれた。いま読んでいる夢野久作の「ドグラマグラ」が最高だと言う。「オモシロスギルヨ」と言う。そして日本の文化は「スゴイ文化デス」と言う。とにかく「オモシロスギル」らしい。こっちもいい気分になってきて、何時間も日本語でしゃべっていた。初対面なのに僕のことを「オマエ」と呼び続けられるの気にならなかった。
「ミーナの行進」、子どものころのミーナに会いたくなった。そして大人のミーナにも。そして、本が好き、ということを書いた小説なんだろう、と思った。
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2 件のコメント:
シー君の、絵を描いて、のところ。涙じわじわきました。
自分はまだ描けないから学習もしたいです。
でも自分が好きな大人に絵を描いてもらうってこともすごく嬉しいです。
描いてってねだったら、いいよ、みてな、こう描くんだよって受けいれてくれるあの空気がたまんないです。
わたし子供の頃そうでした。
多分今夜またコメントするかもしれません(笑)
久しぶりにできたこの時間、タカさんのブログ読破中です〜
どもども〜。あーそういう感じがあるんですね、こどもって。ぼくは覚えてないなあ。。またよろしくおねがいします!
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