11/05/2012

人生に引きはあるか

ある重大でどうでもいいテーマがある。
それは、人生に引きはあるか、というものだ。

なにかというと、たまに出てくる吉福さんが、言っているのだ。
人生には引きがある。それについて

人生が求めている「引き」がある。あらゆる人にプロセスがある。そのプロセスをしっかり歩むこと。どんな人でも、サインが出ている。それを読み解く。

と、とある講演で言っていた。

まあ解釈すると、人生には運命のように、ある方向へ自分を導こうとする力が働いている。それになるべく抵抗せずに従っていくとスムーズに生きていける。どこかで立ち止まり、抵抗すると、人生に問題が起ってくる、まあそういうような感じだろう。

自分のプロセスをしっかり歩むこと、それが大事だと言う。
そのプロセスとは、自分の能動的な意識が作り出すものではなく、あらかじめ決まっている類いのものだということですね。

ちょっとした運命論ですね。

なんとなく話つづかない。今日は調子悪いのかもね。

だから別の結論めいたことを言うと、ぼくがかれこれ、良い顔して死んだなあと思える著名人たちは、どこかで、手に負えないもの、知り得ようもないもの、の存在を認めていたように思う。
その人たちとは、ゲーテ、三木成夫、ジョーゼフキャンベル、だ。
ひとりは、まあいろいろなことをしたけど一応くくりとしては作家、ひとりは解剖学者、ひとりは神話学者だ。

彼らはなんとなく、いい感じで老い、いい感じで死んだように思える。それは書いたものや写真など見るだけだが。この共通項は、自分は自分の知り得ない何かによって突き動かされている、といったようなことの知覚だったのではないかと思う。

研究の果てに、もしくは先にそう思っていたのかもしれないが、そういうものの招待を追い求め、追い求め、たが同時に、決して解明しきれないだろうこともわかっていた、そういう気がする。だのに良い顔して死んでいける。

それはあの世とか帰る場所というよりは、いまこの現在もコンコンと自分に影響を及ぼし続けているなにがしかの力のようなもののだと思う。そんな感じがする。
背中の向こうから、なにかコンコンと注がれ、突き動かそうとする何かが流れ込んでいる、そんなビジュアルが見える。あくまでイメージの世界ね。

これは重大なことでもあり、どうでもいいことでもある。
人生は何か方向性が決められており、いやおうもなくそっちへ引っ張られていくものだ、という現実認識をするということは、結構重大なことだよね。あるいみ、非科学的みたいなことを真剣に信じてそう生きてみようとする生き方をするということだから。と同時にどうでもいいことであって、だからといって、ただちに何か生き方を変えたり、社会の中でうまく生きていけるようになったりはしないであろうからで、どっちみち今日の仕事をうまくこなし、妻や子どもたちとうまくやって、友人知人といい関係をつくっていく、という日々の行ない、努力になんらちがいはないからだ。どんな風に人生をとらえようと、今日できることに大差はないのだ。と思う。

 でも、やっぱり、まじだぜ、と言えるところの、スピリチュアリティーを見つけていくというのは大事なことのような気がする。ただ、いい気分になったり、慰められたり、共感しあえるようなスピリチュアリティーではなく、いや、まじなんだよ、これ、まじなんだよ、と腹の底がギリギリしって、血がふつふつと低温で沸騰してくるようなそんなスピリチュアリティーの何かだ。

まじでそういう風になってると思うんだよ、というやむにやまれず行動を変えてしまうような何かだ。というか、どう思おうと突き動かされていく何かだ。

そういうものがあるのかないのか、あるとしたら、それはまじか。まじなら、どこでそれが行動に現れるのか、そんなことを考えたり、がっかりしたりしてる今日です。







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