11/29/2012

Don't mess!






これはオフィスのキッチンコーナーである。手前にコーヒーをいれようとしてカップが置いてあるのがご覧いただけるであろうか。

先日、いつものようにコーヒーを飲もうとしていたら、スタッフの女の子がてくてくやってきて、コーヒー飲むの?と聞いてきた。飲むよ、と答えると、takaが使ったあとはいつも汚くなっている、気をつけなさい、と言われる。あ、怒られちゃった。。

まさかタイまできてお小言を頂戴するとは思わなかった。なんだか地味に落ち込む。おれ、そんなに汚してるかなあ。。たしかにコーヒー豆とかこぼしてたのかもしれない。

というか、このスタッフの子がお小言マニアなのかもしれない。そういえばこれ意外にも、以前、使ったスプーンを流しにおいて(油がついたので)、別のスプーンを使おうとしたら、ちゃんと洗ってそのスプーンを使いなさい、と怒られたし、タイ人の小さい女の子に僕が手を合掌してサワディーカップとあいさつしたら、幼い子供に対して手を合掌させてはだめ、と怒られた。なんでも、年上の者が手を合掌させると、年下の者も同じようにしなければならなくて大変なのだそう。つまり、手を合掌させるのは、日本でおじぎをするのと同じ意味を持つそうで、まあつまりはかしこまりすぎるということだろう。

やっぱりこいつがお説教好きなだけだな、これは。。まだ大学でたばかりの小娘のくせに、キーー!となるかと思えば、ぼくは昔から怒られキャラなのでなんだか逆にしっくりきたりしていた。


 今朝は、サーフィンの夢を見ていたようだ。日本のどこかの海岸でいい波が立っている。駅をおりたらすぐ海という駅だ。実際にはそんな駅はない。夢の中だけの架空の駅なのだが、夢の中で僕はその駅の名前が思い出せず、ずっと悩んでいた。辻堂?鵠沼?ちがうな、江ノ島?茅ヶ崎?ちがうな、たしかのその間にもうひとつ駅があったような。。などと。


最近、ふとした瞬間に、いや、最近でもなくずっと前からあったのだが、ふっと軽い絶望感に教われる。そのテーマは「家族」だ。

簡単に言えばお金のこと、つまりは甲斐性だ。ぼくの一番嫌いなことばの1つ、それが「甲斐性」だ。甲斐性がない、甲斐性がある、もどかしくぞっとした気持ちになる。

つまり簡単にいえば、いまの感じで仕事を続けていっても、おれひとりならなんとか生きていけるが、とても結婚して家族をもつことはできないな、という未来予想図がぽつっぽつっと浮かぶのだ。

百万歩ゆずって奇特な女の人がいて、なんでもいいから一緒に暮らしましょう、ということはあるかもしれない。でも、子供を学校に入れたり、子育てができるくらいの家に住んだり、などと考えていくと、ああ、金がいるなあ、とがっかりするのだ。

そんなことは、誰もが思い、誰もがそれぞれでなんとかやりくりしていることなのだろう。というか、世のお父さんがたは、そのためにがんばっているのだ。

ぼくの絶望とは、ああ、僕はたぶんその我慢ができないだろう、ということだ。それがわかっていることなのだ。家族のために、子供のために、何かしらの我慢してお金をかせいでくる、それができそうにないのだ。

ということは、わがままな働き方のままで、いっぱしの人並みの収入をとってくる、それしかないのだが、その未来もはるか高見に望めるだけで、それができるという実感はなかなか湧いてこない。

ではひとりさみしく生きて行くのか、というと、いや、おれ最近こども好きだし、やっぱパートナーと言える人もいてほしいな、と思ったりする。

じゃあお前、がんばるしかないだろう、と最後通告が脳内でなされ、この毎朝繰り返される絶望劇は幕を下ろす。で、さっさとシャワーを浴びて仕事仕事!となるのだが、仕事場について数時間もすると、ああ、この何倍働けばこれでいいという収入が得られるのだろう、とまた意識は漂いはじめる。要はさぼりたいだけなのかもしれない。と今思った。

おっと危ない、大事なところを書き忘れた。それでもなお、しみじみとした幸福もまた毎朝感じることができる。こういう感じだ。とはいえ、なにはともあれ、今こうして健康でそれなりに辛くもなく生活できているじゃないか、脳内の絶望は以前よりずっと軽くなっている。これは一種の幸福状態といって差し支えないんじゃないか?という。

ああ、よかったな。と軽く安堵する感じだ。でもまたすぐ、でもこのままでは家族が。。と絶望小劇場が始まるのだが、まあようはその繰り返しでなんとか生きている。

いま住んでいるアパートの1Fに小さなコンビニがある。24時間じゃないけど昼前ぐらいから夜の12時まで開いている。 ここの店員の女性がなんだがすばらし人だ。いつ見ても、にこやかに機嫌よさそうにしている。一日店番するのは大変だろうに。いつもお店に入っていくと、くりくりと愛嬌のある眼で元気に、でもおだやかに、サワーディーカーとあいさつしてくれる。そしてレジを打つと、たどたどしい日本語で値段を言おうとして、間違えて、僕に直されて、ふふふっと笑う。

ああ、徳が高い人だな、と思う。このような人と一緒になったらもしかして幸福になれるのかもしれない、などと妄想したりする。でもなんだが僕は徳の高い人とは恋の落ちないだろうという、これまた軽い絶望の入ったばかみたいな未来予測が脳にふわりと舞い降りる。そんな日常だ。









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