11/13/2012

仇討ち

わからなくなる話シリーズ

最近、ジパングを読んでいるので戦争のことを(また)よく考えています。

で、仇討ちというのがありますよね。武士の時代、父親を殺された息子は、成人すると仇討ちの旅に出かけるのです。それは家族総出で見送られ、がんばれよ〜!ということで送り出されるのです。それは親孝行でさえあったのです。父親の無念を晴らす、これほどの親孝行はありません。もちろん命がけです。

そして、見事親の敵を打ち取ったら役所に届けます。役所にそれはまぎれもなく仇討ちである、と認められると、まあ簡単に言うと罪にならなかったわけです。人を殺しても。復讐をしてもです。そんな時代がそれほど遠くない過去にありました。わずか百何十年か前です。

で、そういう物語を映画なんかで見ても、僕は疑問に思いません。なんて野蛮な、とは思いません。そういう時代だったんだな、と思うだけです。逆に、命をかけて仇討ちした若者には、あっぱれ!とさえ思うわけです。

で、なにかというと、それはいつの時代までさかのぼってそうなのか、ということです。あと、どんなことならそうなのか、ということです。同じ江戸時代でも、犯罪人の疑いがある人をふつうに拷問していた、と聞くと、なんて野蛮な!と思うわけです。いくら江戸時代でも、罪が確定してもいない人を半殺しにして自白させたり、それはひどいでしょう、と思うわけです。

また、切り捨て御免はいただけません。武士ならば町人を切っていいわけです。ちょっと失礼なことをされたと言って切って殺してします。これなんかも、あり得ない!と思う訳です。なんて傲慢な!武士のくせになんて傲慢な!となんとなく、矛盾したことまで言ってしまいたくなります。武士だからこそ切り捨てるくせにです。

ですが、武士の腹切りは、野蛮だと思わないわけです。もちろん、現代では野蛮な行為だと思う訳ですが、江戸の武士が、たとえば何かの失敗の責任をとって切腹したと聞くと、あっぱれ!とか思う訳です。それぐらい命がけで武士という仕事をしていたということで。

つまり、単純に人を殺す、人が死ぬことが野蛮だとは思っていないわけです。もちろん、一昔前、ということで言えば。

では、70年前ほどならそれはどうか。第一次、第二次世界対戦あたりの戦争についてはどうか。明らかにあの頃は戦争は普通の行為でした。どこの国もやっていて、敵になったり味方になったりめまぐるしく入れ替わりながら戦争をしていたのです。

太平洋戦争終結時に敵であったイギリスだって、日英同盟のころは同盟国。仲間だったのです。だから、戦争はいわば外交の激しい側面、ぐらいの意味しかなかったのかもしれません。当然、起こりえることとして、いや、戦略的に戦争をしかけたり、引いたりしながら、他国とのせめぎ合いをしていたということです。

で、急に太平洋戦争が終わって「戦争=悪」みたいになった。でも、戦争は悪じゃない。あれ、これ前も同じこと書いてるな。それだけ府に落ちないことだからでしょう。戦争は外交の一手段なのです。

というかね。僕たちは圧倒的な暴力の元で平和を保っているという事実があるのです。例えば尖閣、竹島の領土問題、これを個人の話に置き換えてみます。
僕が隣の家と領土問題を起こしたとします。おい、うちの敷地になに家たてようとしてんねん、となったとします。しかし隣の家は、そこは自分の土地だと主張します。

この場合簡単で、裁判に訴えれば、土地台帳など諸々調べて裁判所がどっちの土地なのかを決めてくれます。基本的にその判断を受け入れるわけです。それでも受け入れず、あくまで俺の土地、となってお互いがひかない、ついにはお互いの家を壊し合うような事態に発展したとしましょう。そうなれば裁判所経由で警察が出てきます。

隣の家を壊すという僕の個人的な暴力は、警察という大きな暴力で封じ込まれるわけです。力づくで逮捕されて刑務所にいくわけです。不法侵入とか、器物破損とか罪状がつくわけです。

司法と、巨大な暴力、この2つで我々の社会の秩序は守られている、それはひとつの真実なわけです(もちろん良心や和の精神で支えられているというのも真実の1つです)。

で、国際間のもめ事の難しいところは、司法も巨大な暴力(警察)も、ちゃんと機能していないところです。どこか信頼できる裁判をやってくれる機関があるでしょうか?国連ですか?中国とのもめ事を国連が解決してくれますか?たぶん、難しいでしょう。常任理事国などという制度もあります。で、まあそれでもなんとか国際裁判とかで判定がついたとしましょう、尖閣諸島は日本の領土です。で、中国がそんなの知らん、といって占領してきたら?警察は動いてくれるでしょうか?巨大な暴力は。アメリカですか?アメリカはただの1つの国ですから、その力にゆだねるわけにはいきません。それはフェアではなくなる。では国連ですか?国連軍が出張ってくれるでしょうか?出張らなさそうですね。

だから、国際間のもめごとは、当事者同士でなんとか解決、第三者の助け舟があったとしても基本は当事者同士で解決するしかない、というのが現状なわけです(ですよね?)

そうじゃないならチベットは早々に国際裁判に訴え、国連軍が出張っててもおかしくありません。でもそういうことは起きないのです。アフリカとかに出張りますが。

だから、難しいのです。それが世界の現実なのです。世界に司法もなく、警察もないのです。法律だってまともにはないのです。すぐに破られ、破った国を罰することもできないくらいのいいかげんな取り決めしかなのです。

だからどうしましょう。そうなるとやっぱり、暴力が強い人間(国)が思い通りに振る舞い始めるのは道理です。人間はそんなものです。
そんなことは常識だったのが、第一次、第二次世界大戦の頃だったのではないでしょうか。なにをつべこべ言うか?まずは暴力が強くないと話にならんだろうに、と。それが富国強兵なわけです。暴力というと暴という字がいかにも悪く見えますが、まあ「力」、軍事力と言ってもいいのです。ですが、それは結局は相手を力づくで言うこときかせるために使われる力なのですから暴力と表現してもさしつかえないわけです。

結局暴力が一番効率よく平和らしきものを演出できている、というのが世界の現状なのではないでしょうか?それを抑止力とか、力の均衡などと呼ぶわけですね。

で、もちろんそれでいいのか、というと、なんだかそれってダサいよね、と言わざるをえません。強いもの勝ちだなんて。


今日もまた堅苦しい話になってしまいましたが、おい、世界ってそうなっているよな、という合意というか、共通認識を世界の若者との間につくっていったらどうかな、とか思います。いきなり平和を目指すのではなく、今、実態として世界はどう回ってる?というのを。それは立場や利害や文化がちがっても、共通の認識はもてるはずなんだと思います。だって現実を見るだけいいんですから。どうなんでしょうね。








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