11/01/2012

原発論

原発の議論がどうしてこうも紛糾するのかな、と考えていた。

これが天然ガスを利用した新しい火力発電所建設の是非なら、ここまで紛糾しなかっただろう。

原発のことになると、どこかみんな熱くなる。一気にヒートアップする。中間が無い。ぼくも熱くなる。僕は原発反対。だから、原発推進の人と話すと、もう推進と聞いただけでなんか腹がむかっとする。
もうすぐに言い負かせてやろうという気になる。他の発電に比べて本当はコストが高いとか、GEの発電所は危険だとか、原発マフィアがどうのとか、そういうのは本当はどうでもいい。ただ、もう感情的にむかっとするのだ。

なんでだろうか。

核兵器もそうだ。核武武装論も。
なんか議論したくもない気持ちになる。あんなものを持ちたいなんてどうかしている、という感じだ。
核武装論者を見ると、お前アレだろ、ほんとはヘタレなんだろう。強い武器持って強がりたいだけの弱虫なんだろう、と言いたくなる。

そんな僕であるが、日本が核兵器以外の軍備で、世界4位とか5位とにランクされることは意に介さない。一億人もいる大国なんだからそれくらい軍備あってもいいんじゃない?とか思うばかりだ。
日本に空母があるかとか、ミサイルを原子力潜水艦があるのかどうか、とか知らない。あまり興味もない。まあ、あってもいいんじゃない、大国なんだから。くらいの感じ。

だが、核兵器だけはなぜか別なのだ。1発あるのかないのか、それが大問題なのか。さながら踏み絵のような感じだ。
いったいなんの踏み絵なのだろうか。

例えば、日本の戦闘機と軍艦でどこかの国に大爆撃をすれば、核兵器に匹敵するくらいの被害は与えられるのだと思う。何日間か空襲すれば、もう街を壊滅させるくらいわけはないと思う。東京大空襲でもあれだけの被害なのだ。いまの兵器ならもっといけるだろう。

だが、核兵器一発ぴゅーんと飛ばせるか、それがとにかく大問題なのだ。世界的に。

まあとんでもない威力があるのは間違いないから、当然なのかもしれないけど。

でもやばいことに、僕のなかの深層を探って行くと、日本も核武装してアメリカや中国に一目置かれるところを見てみたい、という気持ちが実は結構あるのに気づく。

本当は強い、怒れば恐い、牙を剥けば誰よりも恐ろしい、爪を隠した鷹、眠れる獅子である日本を見てみたいという気持ちもある。世界がそうささやくにを見たい、と思う。日本、本気で怒らせるとうやばいよ〜って中国も韓国もささやき合うのだ。本気で戦争したら勝てないよ〜って。
アメリカさえもペンタゴンの中で小声でささやきあうのだ、日本だけは本気にさせるな、と。唯一我々に歯向い、互角に戦える国なのだから、と。


最終戦争は終わったのだろうか。石原莞爾が唱えた、日米による世界最終戦争は、1945年に終わったのだろうか。それともまだこれからなのだろうか。

だが悲しいかな、日本の核爆弾がアメリカに飛んでいくところを僕は見たくない。もう十分に友達ができてしまった。中国にも飛んで欲しくない。あとでとんでもなく後悔し、心引き裂かれるのがわかる。たぶん、日本中がその後100年間、うなだれて生きることになる。もう十分にうなだれてきたじゃないか。

21世紀は、核を打った国が滅ぶのだろう。まずそれは人心という意味で。自国の核が、どこかの国民を数十万人単位で一瞬にして消滅させたことを知れば(たぶんとんでもなく惨い動画がYoutubeにばんばんアップされる)、人心がもたないだろう。海外旅行にも行けなくなる。というか、国内でテロの嵐になるか、それを恐れて旧ソビエトのような密告社会になるばかりだろう。そんなところで生きてはいけない。

そんなことは重々わかっているのに、それでも核を持つことが抑止力としてちゃんと機能しちゃってるように見える。それが世界の状況だ。

世界はロジカルには成り立っていない。もっとエモーシャルであり、わかんないけどとにかくそうなの!というノリで成り立っているように見える。

で、原発か。原発もなんか、ただならぬパワーを保持するのか否か、という選択なんだと思う。
もうヤバいヤバい、そうまさに巨神兵を飼っておくかどうか。その選択なんだと思う。ドーベルマンをペットにすべきか、みたいな。

うっかり子どもが噛まれたら死んじゃうよ、とも思えば、ドーベルマン飼っとけば強盗殺人者がきても大丈夫、とも思う。

ドーベルマン、我々は一回噛まれた。そのまえは他人にけしかけられて喉元をいかれた。お前を信じていいのか。でもドーベルマン、やっぱりちょっとかっこいい。どきどきする。でもよだれをたらした醜悪でもあり、みぞおちのあたりがギザギザする。



0 件のコメント: