戦争のことを最近ずっと書いてきて、なんかバチッと書けない。
なんでか戦争のことは書いて書いてもイライラしたものが残る。それは戦争が悲惨なものだったとかそういうことじゃなく、理屈が通らない、どこまでいっても。
もしかするとそれが戦後、戦争が語られなくなった理由なのかもしれない。学校の先生だって語り得ないのだ。学者だって語り得ない。
立場を固定すれば何かは言える。日本の侵略戦争は二度と繰り返してはならない、という立場ならいくらでも物がいえるし、あれは大東亜戦争でありアジア解放の戦いだったという立場に固定すればそれはそれで本が10冊書けるだろう。だが、なんか違和感がぬぐいされない。
語り得ないことがあるということなのだろう。戦争は、ひとひとりの体験を超えている。一人の頭に入りきらない現象だったのだ。それはただ起きてしまった。もちろん、誰かに責任があったり、もしかすると国民全員に責任があったり、もしかするとよその国にも責任があったりするのかもしれないが、とにかく、よくわからん、という立場からなかなか移動できずにいる。
まあいい。本当はもっとスラスラと解釈していけるのだと思っていた。事実さえ知れば。でもそうでもなかった。
戦争を起こさないための言葉があるとしたら、それは自己言及的なものになるだろう。つねに話す対象の中に自分も含めていこうとする態度から発せられる言葉は、安易に戦争になど結びつくことはないだろう。ちょっとこれいじょうの説明はいま無理だが、哲学者塚原誠司氏の自己言及というワードにぼくは未来の言論を見る。
それと同時に、ひと独りを救う言葉は、自己を自己に限定しない、引き受けきらない言説なのだろうと思う。あなたはあなたのようでいて、あなただけの責任ではいかんともしがたいところを生きているのだ。ほら、これも書ききらない。フライングぎみに書き始めてしまった。
イメージでいうならば、向こうから圧力がやってくる、向こうから悪がやってくる、とき、あなたは正面からそれを受け止めることなどできない、すでに背中には穴が空いて、吹き抜けようとしている。事実、吹き抜けるのだ。受け止めればただちに四散する、個人の力など原爆を前にした鉄の装甲車に等しい。こっぱみじんか蒸発だ。
そのときこそ背中に空いた亀裂のことを想え。そして亀裂を吹き抜けていく風を感じろ。そうだお前は空疎で軽い肉体だ。だがそれでいい。その風を感じられるなら、まだやるべきことがあるとわかる。風は風なのだ。吹き抜けていくのが風の使命である。誰にだって使命があるのだ。
むなしいと思ったなら、振り返ればいい。風が遠ざかるのを見る。風は見えるのだ。そして、どうする?
後ろ向きにちょっと歩いて、風にもたれて不思議な感覚を味わうという。あなたがもたれられるほど風はパワーを持っている。そのパワーでしばらく遊んで、二三歩後ろ向きに歩いたら、また前を向いて、そして、にやっと笑う。風はごーごーいっているが、たまにやむこともある。吹いたりやんだりが風のリズムなのだ。
今日、ひなたぼっこをしていて、超暑いと思って覚悟して外にでたら、意外とマイルドな日差しがあって、それでも日本の夏くらいの日差しなんだが、3分くらいは気持ちよくたたずんでいることができた。タバコはすわないがタバコを加えた気分になって、肉体労働者みたいに座って太陽の方をちらっと見上げたら、顔がにやけてしまった。おもしれえ、これからどうなるかまったくわからねえ、いったいなにがどうしたらからこうなったのか。
まあいいじゃねえかと思う。歳とともに図太くなってきたようだ。もはや誰も見てやしない。 適当にしてりゃあいいんだ。なんていう気持ちが芽生えていることに、心強く思ったり、あれ?ちょっとおれ成長遅すぎなんじゃないか、と思ってずどーんとした気持ちになったりしたが、さっきコーヒーのつもりがココアを入れてしまって、久しぶりでけっこううまかったし、今は今でおしっこを少し我慢しながらこれを書いている。まあ、つまりは滑稽だ。
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