父親をめぐるモチーフ。
女優になった少女は、まだ見ぬ父親からの手紙を待っている。
なんとなく、以前から、戦後の日本をひと言で表すなら「父不在」になるだろうと思っていた。
僕には子どもの頃から父親が家にいるので、父親を知らない人の気持ちはわからない。あるいはそれは、自分を振った恋人が、もう二度とは会いたいと思わないけれど、よりを戻したいとは露ほども思わないけれど、忘れては欲しくない、たまに思い出して、ああ、あの人とつき合っていればどうなったかな、などと思ったりはして欲しい。などと思うようなそういうような感覚なのだろうか。
ゲーテいわく、物語にはすべからくモチーフがあるというが、このモチーフというもの、日本語になっていないあたりが、やはり日本にはなじまないのか、いまいちどういうことを言っているのかわかりにくい。
たとえば、ゲーテいわく、次のようなものがモチーフというものらしい。
美しいまつ毛をふせたきりの、セルビア娘の貞淑さ。
花嫁の付き添いとして、自分の恋人を第三者のもとへ連れていかねばならない、恋する男の心の葛藤
恋人のことが気がかりで、娘は歌おうとしない、楽しそうだと思われては困るのだ。
若者が未亡人と、老人が処女と、結婚するという、狂った風習についての嘆き。
母親が、あまりに娘を放っておきすぐるという。若者の嘆き。
馬が娘に主人の心のたけを洩らす、打ち解けたたのしげな対話。
娘は、好かぬ男にすげなくする。
美しい給仕女。恋人は、客の中にはいない。
恋人を見て、やさしく起こしてやる。
夫は、どんな職業かしら?
おしゃべりして、恋の喜びを逃す。
恋する男は、他国者、昼に娘を見ておいて、夜に娘を不意打ちする。
なんとなく、わかる。ゲーテを身近に感じる。
しょせん、 ただのドイツ人だ。ゲーテなどありがたがるなら日本の文学者を追いかけた方がずっと意味があるだろう。なにせぼくは日本人なんだから。しょせんは異人だ。だが、異人は異人という価値がきっりちあるのだ。異文化は異文化というだけで価値があるのだ。異文化なのになんとなく理解できるというところと、異文化だからよくわからない、という両面があるゆえに多大な価値を持つのだ。
人は本当に感動したら隠れるのではないだろうか。ぼくが、人生で一番感動したとき、僕は急いで人前から隠れた。とても人には見られたくない感じになっていたからだ。感動とはそういう身体が先に反応して制御不能になってしまうような体験なのだ。どうすればそのような体験ができるのだろうか。感動をプランすることができるだろうか。
今日、さっき、コワーキングスペースで、起業したい人のための簡単なワークショップがあったので参加してみた。起業のためには、まず潜在的なカスタマーと問題を見つける、というのをやった。 だれが顧客になるのか?顧客のどんな問題を解決するつもりなのか?というのを、各自が自分の起業アイデアを出しながら話し合っていくのだ。ぼくはもっぱら聴講生みたいに聞くだけだったのだが。
つまり、さしたるアイデアはないし、英語で説明できないからだ。
講師がホワイトボードを使って生き生きとケーススタディーを解説していく。生徒たちもかんかんがくがく、お互いのビジネスプランについて意見を交換する。楽しげだ。ぼくもなんだかわくわくしてくる。これから起業しようという若者たち、やはりエネルギーがある。タイの東大といわれる大学のMBAの生徒もいた。めっちゃ早口で頭がよさそうだった。ぼくは聞き取れないわ、しゃべれないわでずっと黙っていた。わかったときだけ、イエースとか言ったりして。でもなんだがうずうずしてきて、なんだこのうずうずは、と思っていたら、正体はホワイトボードだった。ホワイトボードを見ていると、起業の講義などできるはずもないのに、とりあえずおれにしゃべらせろ、という気がしてくるのだ。とりあえずペンをおれによこせ、と。で、何についてしゃべればいい? そうやって僕の授業は始まったものだった。起業についてだって、何かは話せるだろう。口からでまかせだ。
ホワイトボードで話したい、ということだけは改めてわかった夜だった。
1 件のコメント:
ホワイトボード漫談復活希望します。
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