辻仁成の「冷静と情熱のあいだ」をとなりの人に借りて読んだ。なかなか面白く一気読みしてしまった。それから、石田衣良の「ブルータワー」というのも一気読み。面白かった。明らかに日本語の本に飢えている。こんなことも海外暮らしの思わぬ副産物として現れてくる。日本にいるときは毎日のように本屋にいくの習慣だった。本屋こそが憩いのオアシスだった。
そうだ、ちょうどバリに来る直前の1ヶ月などは、毎日書店で4時あまりの時間を過ごしていた。何冊も立ち読みした。そして帰りに一冊の本を買う。カフェにいってそれをじっくりと読む。それが僕のオアシス的休日の過ごし方だった。そしてあの頃は毎日が休日のようなものだった。
そうだ、言っていこう。若い諸君に。
時間とお金と自由が十分にあるとどうなるか。あくまで僕のケース。最初は素晴らしい。素晴らしい開放感に酔った。しみじみと自由とはいいものだと思う。一日24時間を好きに使えるのだ。何をしてても誰にも何も言われない。そして、すくなとも1年以上はこのまま暮らせるくらいの蓄えがある。この素晴らしさ。旅行もいったし、友達とも遊んだし、いろいろなワークシップにも通った。
しかし、時期に持て余してしまった。自由を。
ごちそうの寿司だって毎日食べれば感動がなくなる。あとに残るのは、特別な寿司という食べ物を食べているという感動ではなく、寿司というなかなかおいしい魚料理を食べている、という地点に行ってします。もちろん、うれしい。おいしいからうれしいのだが、感動の部分は薄れていくだの。(何を隠そう、ほぼ毎日寿司をたべていたという経験もぼくにはあるのだ)
それと同じように、ただの自由は、自由になった!という感動は次第に薄れていくものだ。あとはただ、暇だという事実が残るだけ。毎日が日曜日ではあるが、人にはうらやましがれるが、とくに行きたい場所もやりたいことも思いつかず、一日中家にいることが多くなっていった。(あくまで僕のケースだよ)
そしてぼんやりと、ああ、このままじゃいけない、と思うのだった。
そんなことを年単位でやってしまったのが僕という人間なのだ。
ただの自由は一年で飽きるだろう。好きな事もやりたいことも思いつかなくなるのだ。
だから、さんざん我慢を重ねた後にくるリタイアメントという自由を僕は待つ気にはなれないのだ。
それはきっと退屈な自由であることだろう(ぼくの場合ね)
だから、僕は、いつも現役の自由を楽しんでいたいのだ。現役の自由とは、いつか終わる自由ではなく、例えば、それは次の就職が決まるまで、とか、家庭を持つまで、とか。そういう期限付きの自由ではなく、現役の自由がいい。さらに、我慢と自由の繰り返しで得られる自由も自由とは思えない。それはただの息抜きだ。
だから、現役の自由とは、きっと自由そうには見えないシロモノなのかもしれない。それは永遠の試行錯誤の苦しみの連続なのかもしれない。
おっと、話がそれた。話がきれいな方に流れようとしたのをおれはいまカンづいた。
そういうことじゃない。
「冷静と情熱のあいだ」を読んだ、という話だ。
情熱というのが長年のぼくのテーマだった。
情熱が沸かない、ということがぼくを社会的ひきこもり状態に置いた。
とにかくヤル気がないのだ。最低限のレベルで生きようとしていた。
しかし、どこかであがきもあり、それではない生き方をしたいと焦ってじたばたした。
僕はいろいろな先生に教えを請いながら、
情熱とはすでにあるもの。それに触れられないだけだ、と定義した。
そして、世に生きる人々が情熱を感じながらイキイキと生きてほしいというのが僕の願いだと認識するようになった。そのために何かをしよう。
しかし、情熱とは人から教えてもらえないことのひとつだ。ある人に情熱を持たせることはできない。情熱とは出会うものだし、個別に自分だけが感じるものだからだ。
3歳のころの魂はどういうものだったのか。
さいきん、3歳児と遊ぶたびに、彼を凝視して、その魂の有り様を、こどもらしさとは何かをわかろうとしていた。しかし、なかなかそれか!という瞬間はおとづれなかった。
ただ、今ひとつ思いつくのは、彼は、3歳児は、ぼくの部屋に「お絵かきしたい~」と言いながら入ってくる。そして、ぼくが今日は仕事なんだよ、というと、「あそぼうよ」と言う。
やることあるんだから、というと、「ないよ」と言う。もちろん、結局は納得して、「メールしてていいよ」ってイッテくれるのだが、隙あれば、「あそぼうよ。お絵かきしようよ」と言ってくる。
自分のしたいことがよくわかっているように見える。
そして、お手伝いさんがご飯ですよと呼びにきても、「いかない」と言っていかない。
でも、今日のご飯はミークアだよと言われると、「ミークア食べたい~」と言って走っていった。
もちろん3歳児なりに大人に気を使うところもあるようだ。
本当はまだ遊んでいたくても、大人が怒ってる感じだと思うと「わかった」と言っておとなしく帰ることもある。
でもひとつ法則があるといえば、自分がしたいことをすぐ口にすることだ。
お絵かきしたい、ミークア食べたい、布団にくるまってあそびたい、帰りたい、など。
そしてやりたくないこともすぐ口にする。帰りたくない、ご飯いらない、まだ眠たくない、など。
やりたいことをそれが実現できるかは別にして、すぐに素直に口にしていけば、それが3歳児ということになるのかな。思えば3歳児、自分のわがままが通ることはそれほど多くないはず。基本は大人の都合につきあわなくてはいけないのだ。でも、それでもしつこく口にするよね。昨日だめと言われたことでも、今日したければ、したいと言う。というかわずか10分前にダメといわれことでも、やりたい、といったりする。
時にはそれがうざったいが、ほほえましくもある。おまえ素直でいいね~。
とにかく3歳児に対しては、この子は今こう言っているが、本当はこうしたいのではないか、などという勘ぐりは無用なのだ。やりたいと言ったことがやりたいことであり、やりたくないと言っていることをやりたくないだけなのだ。それはある意味、楽だ。ことば通りに対応してばいいのだ。
そういう風に人と接していけば、3歳児になれるのか。あの頃の魂に近づけるのだろうか。
2 件のコメント:
もし夏に遊びに行けたら、本をたんまり持っていこうと思ってますよ。
冷静と情熱のあいだ…5年前ほどに読んではまったなぁ。。。
あ、伊藤さんと行ったいせや隣のカフェが閉店しました。(いせやリニューアルのため)
あの階段上の雰囲気が変わるかもしれませんね
おー!本に飢えに飢えておりますよ。超助かります!
いせやも猫カフェも消えちゃったか。でも新しいのも楽しみだね。
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