5/18/2012

またバブルを!

なんか、たまにチラッと思い出すんだけど。おれが大学生のとき、日本はバブルの真っ最中で、就職戦線異状なし、などの映画までつくられ、内定旅行などというものがあり、知ってますか?当時、内定した学生を海外旅行につれてったり、温泉に連れてったりして、他の会社を受けないように採用した企業が手厚く接待していたという事実を。これ普通に事実だったという事実を。

現在の日本に閉塞感があるとしたら、そのひとつは、労働市場が売り手市場じゃない、というところにあるだろう。どうもみんな仕事を得るのに苦労している。仕事をしたい人の数より仕事の数が少ないのだ。もちろん、こういうことを書くと、仕事を選んでるからいけないのだ、贅沢いわなければ仕事などいくらでもある!と言う人もいるだろう。しかし、ぼくはバブルの頃を思い出しているのです。あのころは、そんなゴタクを言わなくても、職が余りに余っていた。それも属にいう好条件の仕事が余りに余っていたのだ!
学生達は両手に溢れる内定を手に入れ、どこにいこうかとウハウハの気持ちでいたのだ。このどこにいってもいい気持ちになれる。それなのにそこからさらに選び放題の接待付きときたもんだ!こりゃこりゃ。

そういう時期もほんの一時かもしれないが、あった。あのときに閉塞感などという単語さえなかった。
全国民が浮かれていたのだ。

はっきり言おう、あの頃に戻りたいよ、おれは。
なんとなく浮かれていたいよね。でもどうだろう。閉塞感があるとはいいながら、実はあの頃よりも今の方が価値観は多彩なのかもしれない。新しいことに挑戦するドキドキ感は今のほうが味わいやすいのかもしれないとは思う。たぶんバブルの頃は、まわりと同じことをしてても十二分にお金が儲かっちゃうので、以外とみんな似たようなことばかりしていたような気がする。そして、似たようなものを一斉に求めて騒いでいた。

いや、おれが書きたかったのは、ある素朴な疑問についてだ。
なぜ、仕事よりも仕事を探す人のほうが多いのか。それはどういうことなのか。

わからない。そのことでみんなが奇妙に焦っている。暗い競争を強いられている。気持ちの中で。同級生が暗いライバルになっている。それは、どっちが勝つか!どっちが強いか!みたいな明るいライバルではない。どっちが食いっぱぐれるか、どっちが悲惨な気持ちで毎日を送ることになるのか、という暗い競争を闘っているのだ。そうだ就活のことだ。


そんなことを言うけど、アジアを見れば、インドネシアを見れば、もっとあからさまな競争が行われている。道を通るトラックの荷台にはジャワ島からの出稼ぎの労働者がわんさか乗っている。みんな疲れきった顔をしている。わざわざ出稼いで、体を真っ黒にして働いて、それでお金は少ししかもらえないのだ。日給250円の世界だ。割に合わないことこの上ない。それでもそれしか仕事ないから来ているのだろう。おれは職業差別をしたいのではない。でも、大変そうな仕事ほど給料が安いのがこれ、アジアの事実なのだ。みんな金のために働いているというのに。インドネシアでは最低賃金がとても低いのだ。もしかするとそれは日本の事実でもあり、世界の事実でもあるのかもしれない。いや、ヨーロッパやオーストラリアでは最低賃金がとても高いと聞いた事があるぞ。

何がいいたいのか。この、仕事とお金、という問題は、世界共通の問題であり、なんというか、未だに謎だ。なんか釈然としない。

まあでもいいのだ。たぶん問題がでかすぎるのだ。歴史さえ参照しなければならないだろう。それに理解したからといって何か解決するものではないのだ。

たぶん理解は遅れてしかやってこない。ちくしょう仕事なんてしょせん人が決めテルコトジャナイカ!

と叫んだところで、続きを書こう。

いま、こんな情景が浮かんだ。
ある村で、洪水があいつぎ、神の怒りを沈めるためにどこかの子どもを一人、生け贄にしなければならない。他に方法はない。だれかが犠牲になるのだ。はたしてどこの家から生け贄が出るのか。それは暗い諦め。暗いサクリファイス。
どうして洪水の生け贄が現代では不要になったのか。それはもちろん、治水技術が進んだおかげに違いないが、どこかで、うちの子を生け贄なんてされてたまるか、という親の思いが、もしかすると、みんなの為に死ぬのはいいけど、本当な死にたくない、という子ども自身のこころの叫びが、いつの日か治水技術を進化させたとも言えるだろう。そこには、求める気持ちがあった。理不尽と渇望があった。


さらに続きを続けよう。
そして、ぼくはここバリ島はインドネシアにいて、前にも何度も書いたことだけど、しみじみにシミジミに実感し、かつ感謝するのは、円の強さです。円高です。日本国の経済力です。
ぼくは疑いようもなく、その恩恵を受けまくっている。円高万歳!円高さまさま。日本の経済力ばんざい!日本の企業人、労働者、とにかく日本の経済力に貢献している日本人のみんな、ありがとう!と言わざるをえない。どれほど助かっているか。
そして、ぼくは、まぎれもなく、日本人の一員として、日本国の経済力という恩恵を共有しているのです。そこに明確な区切りがある。それはもっとブレイクダウンして見て行けば、日本で働くという権利です。それを保持している者同士で利益を共有している。まぎれもなく。

この恩恵を手放したくないおれは、日本国の「国力」が落ちないことを願う。
国力とは、経済力、円の強さだ。俺的にいえばそうなる。
経済戦争とはよく言ったもので、たとえば円が強ければ、外国のものをガツガツ買う事ができるのですぞ。たぶん一番いいのは土地を抑えることである。日本がスーパー経済大国になってハワイ諸島を買って欲しい、それがぼくの希望だ。そしたら、住民票を移すだけでハワイに住めるのだ。波乗り万歳なのだ。

この国家という枠で囲まれた利益の共有団体を、徐々にばらしていったらどうなるか。
そういう実験がこれから始まるだろう。為政者たちは国単位で戦いたいだろう。だが、もう古いだろう。
国際企業というものもあるが、これはあまりに富が集中しすぎている。もっとネットワークが複雑になれば、富をシャアするネットワークが複雑になれば、すなわち国家の枠が無形化していくことになるだろう。

なんかもう適当になってきた。また明日考えます!

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