3/08/2012

オカルチックジャパン



こちらにきてから、日本にいるときはあまり思い出さなかった記憶をよみがえることがある。環境に誘発されるのだろう。似た空気に誘われるのかもしれない。

先日、飛行機の轟音の話を書いたが、ぼくは子どものころからはるか上空を飛んでいく、かすかに聞こえてる飛行機の音が好きだった。飛行機雲とともにそれを好んだ。あれはどういうことだったのか。あれは機械の音だ。鳥のさえずりではない。でもぼくは、あの、水色の空、はるか上方を飛んで行く、飛行機の音、そして、飛行機の音が聞こえなくなる瞬間が好きで、つい耳をすませたものだった。

そういえば、かつて、獨協大学に通っていた。仕事でだ。仕事の関係で毎週のように通っていた時期がある。大学の新しいプロジェクトをサポートする仕事だった。それで、ある日会議室で、10人くらいで円卓を囲んでディスカッションをしているときだった。あれはたぶん、夕方になる前くらいか。いや、お昼ごろだったのかもしれないが、突然、ゴーン、ゴーン、ゴーン、と鐘の鳴る音がしてきた。さすがは独協大学である。ヨーロッパなのである。ゴーン、ゴーン、という聞き慣れない、でも心地よい鐘の音を聞いていたとき、あ、っと思った。なぜ鐘を鳴らすのかがわかったからだ。あれは、人をはっとさせるためだ。
鐘の音が聞こえ、ぼくは我に返った。いや、もちろん寝てたわけでもボーッとしてたわけでもなく、仕事の会議を一生懸命聞いていたのだが、なにしろぼくは議事録係をやっていたから、だけど、鐘の音を聞いたとき、はっと我に返る思いがしたのだ。まるで昼寝をしていたみたいに。

鐘の音とともに、窓からサーッと風が入ってきた。風もまた同じ役割を持っているのだとしった。風がほほをすり抜けるとき、風がいま肌をこすっていくのを、感じずにはいられない。そして風はさーっと吹いて行ってしまう。かすかに余韻が残っている。


そして、ぼくは子どもの頃、昼寝から目が覚めると、部屋の音に耳を澄ました。しーんというあの音だ。不思議なあの音。完全に静かなときに聞こえてくる音の無い音だ。それは冷蔵庫のジーっとう音とも違う。どこからともない空気がわずかに緊張している音。それは心地よい。そして、カーテンの隙間から光が射している方を見れば、光の中にホコリが舞っている。こちらは音をたてない。だけど、もやもやと白いほこりが光の中を舞っている。それも心地よい。そして、太陽が落ちている畳の上に、手の甲を差し伸べてみる。暖かい。半分だけ光に当ててみる。半分だけ暖かい。

そのような、時間。時間を味わう時間。それが、こどものころは頻繁にあったように思う。そしてその時間は、母親が作るごはんの匂いでやぶられる。お腹が空いているのだ。ホットケーキの匂いがしたら、もう別の人生が始まる。口の中の期待と喜びでいっぱいになる。ギラギラしてくるのだ。

なにかこのようなことを書く気分というのが来たのだろうか、文体まで変わってしまっている気がする。神妙過ぎる。いつもひとりで歩いていた。散歩の時間。あれはさみしい時間だったのだろうか。孤独の時間。もっと人と時間を共有して生きた方がいいのだろうか、などと考えたりしていた。それはついさっきの話ね。

さて、夜型が極まって、ついに起床時間が夕方前になってきてしまった男の、あわれな断末魔と思ってお聞き流し願いたい。

いまこれを書き終われば、一杯のエスプレッソが飲める。それだけが楽しみ。

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