3/01/2012

おれたちは贅沢になった


今日は、ひさびさに午前中に起きて仕事に取りかかる。昨日自分で翻訳した記事で、朝一番の朝食前に、とにかく生産的なことをしろ!それが秘訣だ、というのがあって、影響をうける。
朝起きたら、メールもチェックするな、Facebookもいじるな、ニュースもみるな、その前に仕事とか、何かを書くとか、生産をしなさい、という。情報の消費より先に生産をまずしろ、と言う。
それが「Information Diet(情報ダイエット)」という本をアメリカで出版した人の金言なのでした。

で、さっそく実践。起き抜けにまず1時間ほど仕事、ここでコーヒーをはさんでまた2時間仕事、ここでお昼過ぎになったので、いつもの日本食屋さん「漁師」に出かける。今日もお刺身定食、うまい。でも若干飽きてきた。

そして、夕方はまたヨガに。最近肩こりがひどい。こんなに肩こりになったことはないのに。バイクにのる生活も肩こりの原因っぽい。これから通わないとな。



そして、今日の議題は、日本ってやっぱ贅沢になったんだな、ということ。

バリのひとたちを見ていて、みんな仕事ものんびりしてるし、昼間からぶらぶらしてるおじさんもいっぱいいるし、よくこれでみんな食っていけるな、と思っていたけど、やっぱりあれだね、大勢で住んでるからだな。これ前も書いたかもだけど、やっぱり3世代あたりまえの大家族で住んでるんだよ。それに、バリでは地域共同体が強固にあるから、路頭に迷う前に誰かが世話をしてくれるのだろう。

たしかに飯を食うだけなら、それほどお金かからない。一家に一人、大黒柱がいて、そこそこの収入を稼いでいればいいし、柱がいなくても4人くらいでよってたかって稼げばなんとはなるんだろう。昔の日本もそういう風に暮らしていたのだろう。

ところが、今や僕たちは核家族が当たり前、そして核家族に1つ庭付きの家がほしい。となると、毎世代、自分で家を建てなければならない。土地も買って。まあ多くはマンションを買うのだろうが、それでも大変である。これが3世代同居でいくなら、基本的に先祖伝来の土地と家を使い回すだけだ。兄弟が多い場合でも、うまく土地を分割したり、家を借りた方の兄弟を経済的に支援したり、でうまくやっていくのだろう。バリ人もよく見れば、自分の生まれた地域を動かない人が多いようだ。ずっと地元で暮らしていくのだ。

日本の場合は、高度成長期に大勢がで都会に出た、という経緯があって、そこから核家族が進行した。そしてマイホームが夢になった。そのための必死に働いて、所得のその夢を後押しするかのように倍増していった。ところがいまや、経済が停滞、日本は貧しくなろうとしている。

日本人は生活水準があがってしまった。日本の家はうさぎ小屋と揶揄されることもあるが、それは欧米と比較した場合だろう。バリ人のほうが一人当たりのスペースはずっと小さいように見える。小さなワンルームにごちゃっと住んでいる家族も大勢いるし、一人暮らしの若者は家賃5千円の4畳半が標準である。日本や一人暮らしでもエアコン、冷蔵庫、ベランダつき、と来たものだ。結婚でもしようものなら、2LDKは欲しいよね、という世界だ。だれもがそれを当たり前のように求めるようになった。

でもそれは世界標準からいうとやはり贅沢である。欧米と比較したときだけまだまだと言えるではないだろうか。

何が言いたいか。つまり、日本はなんだかんだいっても世界の中では贅沢な生活水準に慣れきっているんだということと、でもそれがわかったからといって、生活水準を少しも下げたくはない、ということだ。

一度味わった生活を失うことは難しい。

ぼくだって、エアコンがない、ホットシャワーがない、自分専用のそこそこ広い部屋がない、なんてもはやあり得ない。もっと上を目指して行くつもりでさえある。もちろん家だって欲しい。その欲望はいくら世界のエネルギー問題、人口問題、環境問題、南北格差問題、などなどを考慮したって少しも妥協したくはないのだ。だってそれはもはや生理に訴える欲求だからだ。

こうしたことは繰り返し書いてきたかもしれないが、いまいちど、問い直しておこうと思った。
ぼくたちは贅沢になったが、その贅沢を少しも手放す気はないのだ。
少なくとも僕はそうだ。生活レベルは上げこそすれ、絶対下げたくはない。原発だって考えちゃう。そういうことなのだった。

もちろん、自然エネルギーでまかなうというのが僕の基本中の基本の意見だが、本格的に、原発をとるか生活レベルをとるか、とマジな話として問われたら、安全な原発をつくりましょう、と言ってしまうかもしれない、ということだ。まあ絶対そうならないようにしていこうよね、そこは信念と工夫で乗り越えていこうね、ということではあるのだが。

みんなで貧しくなりましょう、と言われたって、おれは嫌だね。
ということでもあるだ。

であるからして、未来にまだ繁栄があるとしたら、
人間の欲望の持ち方がかわって、貧しい生活をむしろ欲望するようになるか。
生活レベルの上昇、もしくは満足を確保しつつ、地球を破壊しないレベルのエネルギー消費でおさえる、
のどちらかしかないだろう。

ぼくは、人間が求める生活レベルはどこかに上限があると思っている。
たとえば、家族4人で暮らして行くのに10部屋もある家はいらないし、車も3台とかいらないだろう。
だから、万人がある程度、もうこのくらいがちょうどいいよ、というレベルまで生活レベルが一律にあがったときに、地球の環境が持ちこたえているか、という問題のような気もする。

楽観的すぎるだろうか。

3 件のコメント:

マツゴロウ さんのコメント...

うーん、なるほど。大家族でひとつの家で暮らせばなんとかなるよね、その意味で一世帯でひとつの家は贅沢やね。その上、お金、便利、物欲、健康あらゆるものを求めるのも贅沢やねー。

あと「原発を止めたら生活レベルが下がる」ようなことをよくマスコミは言ってるけどそれはほんとデタラメだよねー。
「原発を止められたら僕たち原子力ムラの住人の経済が終わっちゃう」ってことを言ってるんだよね。
ほんとイヤになっちゃう( ̄へ  ̄ 凸

Unknown さんのコメント...

原発はね、うそばっかりだもんね。

この記事の趣旨は、地球と人類の存亡のためにエネルギー消費を抑えてみんなで貧しく平和に暮らしましょう、と言われても、おれは嫌だ。少なくとも今より貧しくなるのはいやだ、という宣言ですw

だから、まあ、自然エネと省エネ技術でがんばってこー!ってことですね。

Mr.shin さんのコメント...

何が生活レベルの高低を決めているのだろう。
個々の思う生活レベルはそれぞれで違うのでは無いだろう。
生活レベルが高い=幸せ と考えると
何が本人にとって幸せなのか が大切だと思う