11/25/2011

豚の丸焼き

先日の朝7時半頃、バリ人のロジョールから電話がかかってきて、今日豚の丸焼きをするから8時半に家にこれる?と言われ、寝ぼけながら「行く」と答えたので行って来ました。

ロジョールの奥さんの実家でやるということで、車で15分ほど移動。
到着すると、豚が丸焼きにされていました。

で、おまえも回せということで、回してきました。
油がジュージューたれてすごいことになっています。

待つこと1時間、こんがり焼けた豚をいただきました。

焼いていた家の人が切り分けてくれます。
そしてぼくに「皮を食え、皮を食え」といいます。
ぼくは皮を食べました。パリパリでうまいです。
するとまた「皮を食え」といいます。ぼく的には肉も試してみたいのですが、
肉はみんなが揃ってからたべるのかな?と思い遠慮しつつ、皮をたべました。
うまい。
うまいうまい!と親指をたてていると、また「皮、食え食え」と言われます。
肉もたべたいけどーと思いながら皮をバクバク食っていました。

しかし、後でわかったのですが、皮こそが一番のごちそうで貴重な部分らしいです。
だからぼくに皮を食え、皮を食えと薦めてくれていたのですね。
とんだ勘違いをしてしまいました。

まあ、そんなこんなで酒を飲み始め、ぼくはいつものように途中で寝てしまったりして、気づいたら夕方の4時近くになっていました。
いったい何の会だったのかわからないまま、家路についたのでした。

このはロジョールとその息子、バグスネサ。まだゼロ歳です。

そしてこれはこどもたち。


会食風景





しかし、このあとぼくは痛く反省したのです。
なぜならば、ぼくはこの日、午後から部屋さがしをしようと思っていました。
今の部屋の更新の日が迫っていたので焦っていたのです。
それで、この豚の丸焼きも、午前中に終わるだろうと思ってお誘いを受けたのですが、
夕方までかかってしまいました。
それでぼくは、午後も3時を回ったころから、イライラしはじめて、早く終わりにならないかなー的な態度をとっていたと思うのです。

せっかく家族のスペシャルなイベントに呼んでもらったというのにです。

なんというか、こういうことではいかんな、と思った次第です。
あと、言葉がわからないといういらだちもあったようです。一緒に酒を飲んでいても、会話がひとつもわかりません。んーよくある外国の壁にひっかかっていうようですね。

前回の記事同様、あ、焦らずやっていこうよ、と自分に言い聞かせる日々なのです。

もういちど


これはバリ島はジンバランというところの道の途中です。
ここを通っている時、とても懐かしい気持ちになっていることに気づきました。
なにがなつかしいのかーって思ってると、あ、そうだ、夏休み!
そう、この風景はぼくに地元での夏休みを思い出せたのです。
風景だけではなく、その静けさや、空気感です。

ひとりっきりで虫取り網をもって、裏の野原を散策していたあの夏休みの日を思い出しました。


ところで、人はひとりでは生きられないものですね。
ぼくが最近どうも調子が悪いのは、寂しいからだということがわかってきました。
毎日だれかとあいさつをかわす、今日はどうした昨日はどうしたとしゃべる、こういうことをことの他、必要としていたのです。

1週間、2週間の旅行なら異国の異国らしさを堪能すれば事足りるのでしょうが、1ヶ月、2ヶ月となってくると、はやりそこは人とのつながり、そういうものを求めるのでしょうか。

バリ島のバリ人たちは、バンジャールという強固な地域社会の中で生きています。
基本的にいつも家族と同居しているのです。若者が一人暮らし、というのは稀なケースです。
だいたい一人暮らしをしているインドネシア人は、ジャワ島などから出稼ぎにきている人たちです。

やはり家族や親類、ご近所という地域社会あってこその幸せなのでしょうか。
しかし、いくら地元があるからといって、ぼくはもやは地元だけで暮らすことに満足しません。
都会の暮らしを知ってしまったし、海外にだって住みたいのです。好きな時に好きな場所に住みたい。この欲望を今、押さえられずに生きています。

でも、つながりも欲しい。

これからどういう人生設計があり得るのでしょうか。
ぼくは子供も欲しいです。子供ができたら、海外を連れ回すようなことはちょっと無理でしょう。
そういうようなことをつらつら考えていくと、将来設計というものが見えなくなってくるのです。

まあ、そのときはそのときの気持ちがあります。家族ができればまた欲望のあり方も変わっていくでしょう。

この寂しさがぼくを動かし、何か新しいことを始めさせるのかもしれません。
という希望的観測をもって、しばらくやってみようとしています。

11/22/2011

記憶喪失になれば

記憶喪失になればすてきな女の子から愛してもらえる

これがぼくが映画や漫画や小説から学んだひとつの絶対法則である。
具体的にどの映画、とは思い出すのが面倒だから言わないが、ぼくの中では総合的にそういうことになっている。記憶喪失になってうろうろと徘徊していると、すてきな女の子(自分が男の場合ね)が見つけてくれて、なぜか面倒をみてくれて、いつのまに好いてくれる。

主人公は、そんな素敵な女の子の想いとはうらはらに、記憶を取り戻すことにやっきになる。だがなかなか戻らない。いつしか、二人に恋が芽生え、お互いの気持ちをささやかに確かめあう。が、ちょうどそのとき、記憶がチラッと戻ってくる。あれ?もしかしておれ、愛する人がいたんじゃないのか?
女の子は予感する。この人には愛する人がいて、記憶がもどれば私のもとを去ってしまう。
でも、自分が好きになった人には幸せになってもらいたい。すなわち、もとの愛する人のもとへ帰ってもらいたい気もするし、でも私の側にいてほしい。

そのように相矛盾する想いに引き裂かれる。もう早回しで言えば、男のほうも記憶が戻り次第、引き裂かれます。

 まあ、なんでこんな話をしたかというと、よくわからないのですが、
バリ島に来てから、たまに記憶喪失っぽくなるときがあります。
ある朝、それは例えば今日の朝なんですが、はっと起きて、不思議な夢の余韻をわずかに引きずりながら、鳥のさえずりを聞き、夜明けの窓を開けます。すでに灼熱といった様相の太陽光が降り注ぎ、うわ、今日も夏だ、などとばかみたいに思う。

そして、またベッドに戻り、二度寝の惰眠を貪ろうか、メールでも早々とチェックしようかと思案しながら、半分ほど開けたドアのすきまから、こぼれ入ってくる鮮やかな緑と輝く空に思わず見とれたときに、シュッと差し込まれる思いは、あれ?おれここで何してるんだっけ。なのです。

こんなところで一人でなにしてるんだっけ?

日本にいたころのことが、それはわずか一ヶ月半前のことなのですが、少し向こう側の記憶になり、いまでも毎日日本の友人たちとメールのやりとりをしているにもかかわらず、それはどこかこことはちがうもうひとつの現実との宇宙間通信であり、ふとパソコンから顔をあげると、机の前の大きな鏡に映るのは、よく日に焼けた、丸刈りの、すこし疲れもにじむ、それでいて基本はすこぶる健康な、すこし体の線のゆるんだ、ひとり男が、あれ?という顔をしてこっちを見ていたのです。

こんなところで一体なにを。

いままで何を思い何をしてきたのか、そしてこれから何をしようとしているのか、惰性のように、いや、過去に教えられた習慣のように、パソコンを開き、いわゆる仕事である翻訳を開始しようとするのですが、もちろん、この仕事あってこそのバリ島生活なのは頭では十分に理解し、やりがいも感じているのですが、また別の感覚のどこかから、お前はそこで何をやっているのか?と問いかけてくるのです。

いや、その、つまり、わかりません・・・

ぼくはいまドアを見つめています。キーボードを打ちながら、ちらちらとドアのほうを伺っているのです。それはそのドアからバリのすこし曇り気味の、しかしそれでも強烈な太陽のせいで、白く光ってみえるバリの空と、シアワセ、と口々につぶやいているような緑たちを眺めることが感覚的に気にっているからなのでしょうが、それとは別にふともっと近いところ、つまりドアのすぐ外に眼の焦点を合わせてしまうのは、

「ここで何してるの?どこから来たの?」

と言ってすてきな女の子が入ってくることを期待してしまっているからかもしれません。

それとももしかすると、

「こんなところにいたんだ、やっと見つけたー」

といって、わずかに記憶の底で知っているような、でもやっぱりでもよく思い出せないような、でもきっとかつて知っていた素敵な女の子が、ほんとによかった、というような満面の笑みで近づいてくることを、待っているからなのでしょうか。

こんなことを思うのはたぶん昨日、街道を通行止めにして行われたでっかいパレードで、こんなミス◯◯たちを見たからかもしれません。






そしてもうひとつ補足するならば、こんな歌を聞いていたのでした。

11/19/2011

イオンの放射能測定に思うこと

スーパーのイオンが全食品を放射能測定して、基準値を超えたものは売らないと宣言したというニュースを見ました。

これに思うことです。
いま、こう議論があるでしょう。つまり、それでは福島の農家の人はどうするんだ!、日本国民として、多少の放射能が検出されても、がんばって福島の野菜を食べるんだ、応援するんだ!という意見があるでしょう。ないのかな?少なくともそういう空気が一部あるでしょう。

そ、その派生物として、そもそも放射能を測定するなどという無粋なことはするな!黙って福島の野菜を食べろ、という空気もまた漂っているにちがいありません。一部に、です。

そういう空気が漂っているところに、イオンのニュースがあり、人々は喝采しながらも、微妙な気持ちになっているのです。

ですが、狂牛病のときは、どうだったでしょうか。輸入牛の全頭検査、当たり前だろう!と盛り上がったはずです。ある時期に全頭検査をやめるとなったとき、アメリカの圧力に屈するのか!となったはずですね。アメリカの農家を応援するために多少のリスクは引き受ようよ、という意見は皆無でした。

別に、国差別だ、と言いたいわけではないのです。合理的な反応はどちらなのか、ということです。

先ほどのTPPの話と同じく、福島の農家を応援するなら、それは放射能測定をせずに、不安におののきながらリスクを引き受けることではなく、福島の農家が失業しない方策を別で練ってもいいんじゃないか、と思うのです。

そんなのわかってる、それができれば世話はない、じゃあおまえのアイデアはなんなんだ、と言われそうですね。

すみません。まだないです。
ただ、福島の農家を想うことと、放射能測定は関係ないだろう、と思うわけです。
とりあえず、そう思っちゃったわけなのです。

TPPに思うこと

いま日本ではTPPが議論になっていると聞きます。
で、いろいろ調べたり人に聞いてみたのですが、結論として「よくわからない」と言わざるをえません。たとえば、TPPで医療制度が崩壊するのか、しないのか、という1点を見ても、するという意見としないという意見が専門家の間でも別れており、それをオレが判断するのはちと難しいと言わざるをえません。

つまり、TPPに参加すると日本はどうなるのか、という議論に参戦することをぼくは諦めます。あっさりとあきらめたいと思います。

ではどんな議論ならいちおう仲間に入れそうかというと、TPPに関わらず、医療制度はどうあるべきなのか、という議論です。それも細かい議論ではなく、最低何は死守しなければならないのか、です。

それは定量的ではなく定性的でもいいのです。
たとえば、がんになった人がいま手術すれば直るはずなのに、手術代が出せないという理由でただ悪化するのを待つしかない、そんな人は日本からひとりだって出してはいけないのだ!ということでもいいのです。もちろん、自己責任でがん保険に入っておけばいいじゃないか、という意見だって出てきていいわけです。

まあ、実は医療制度に何ら詳しくないので、いま何ももっともらしいことは書けないのですが、TPPで医療制度が崩壊すると言うときに、では最低守りたいラインはどこにあるのか、という議論が先に立たないと、「崩壊」の意味する所がわからなくなっちゃうよね、ということなのです。

農業の問題もそうで、TPPで農家が食えなくなって、一家離散、自殺者が続出するかもしれないぞ!というならば、そして、国際政治のせいで農家から失業者、自殺者を出すなんてあり得ないのだ、というところを国民の合意とするならば、TPPだけが焦点ではないでしょう。TPPのせいで農家が失業し始めたら、他の対策を練って国内の制度を変えていってもいいわけです。

もちろん、そのあたりを総合的に判断したうえで、TPPはよいのだ、またはよくないのだ、ということなのでしょうが、未来予測を含む綜合判断はやはり相当困難なのではないでしょうか。現に国内で意見が割れているわけです。というか、単に、ぼくは、TPPに参加するとどうなってしまうのか、今だに理解ができないでいるのです。なんか、わかんないんです。
そして、たぶんそれはぼくがTPPにあまり興味がないからだ、と告白しなければならないでしょう。

えっと何が言いたいかわからなくなってきましたが、TPP難しいね、ということと、何がどうなろうと守りたいことは一体なんなのかな?という疑問が湧いている、ということです。

移動と居住の自由、そして平均からの脱出

ごぶさたです。
ごぶさたの割にはバリ島と関係のない記事を書くことを許してください。
またお金の話なのです。


昨日、今日とどうも体が重く、四六時中眠いので、ずっとベットの上で「おーい!竜馬」を読んだり、YOUTUBEで動画を見たりしていました。
そして、つらつら考えるに、頭に浮かんでくることは、「あーどここへ行きたい」なのでした。つまり、外国(バリから見て)へ行きたいわけです。それはオーストラリアだったり、ヨーロッパだったり、もちろん日本だったりです。行って滞在したい街があり、会いに行きたい人がいたり、感じてみたい雰囲気があるということです。

で、そうなると唯一の問題は飛行機代がない、ということに尽きます。あと、現地での滞在費ですね、滞在費といってもやはり居住費なのです。現地では街を歩いて会いたい人に会えればよく、それほどお金を使わずにいられます。ただ、どこへ行こうと住む場所は必要ですね。

結局金かあ。という気持ちが湧いてきます。とにかく金さえあればいいのになあ。金だけです問題は。あとは何のしがらみもありません。

 ところが、思考を進めると、わかってくることがあります。
ではどれくらいの頻度で外国に行きたいのかというと、まあ年に2回ほど。もっと言っていいなら、年に4回。というあたりです。毎月となるとそれはさすがに無茶を言ってるな、と思えますし、週1で海外となると非現実すぎて思いもつかなかったということになります。

で、その年2回という数字はどのへんから出てきたのかといいますと、やはり、日本での友人たちがだいたい叶えているであろう数字です。つまり、年2回程度海外旅行ができるというのは、経済的に見て、だいたいみんなと同じ、という気分でいられるというわけです。逆にいえば、2年に1回しか海外は行けないよ、となると、それは少々みじめな気持ちになるものです。
それは比較意識というよりも、コミュニティー意識なのだと思います。いまのぼくのコミュ二ティーである友人関係のだいたいのところが、海外に年1,2回というところであり、自分もその一員であるならば、同じくらいのことはしたいぞ、と感じるわけです。

平均からの脱出、というところへうまく論を進めることができずにいますが、でもその発想をしている限り、いつまでたってもお金が足らないと思い続けることになる、という気がしたのです。
それはまた後日きちんと述べます。

ちょっと論を飛ばしますと、で、いま問題となっているのは航空券代と現地での居住費が出せないから行きたい場所へ行けない、という問題なのですが、それを全て自分が稼いだお金で賄おうとすると、収入を増やすしかなく、それはマーケットの仕組みから言って相当困難なことだと予想されるのです。なぜならば、収入、つまりお金は万人がほしがっているものであり、万人がほしがっているものは、マーケット化されるからです。簡単にいえば、みんなが欲しがってるものを、他の人より少し余計に欲しいと思っても、それは相当困難なことだよね、ということです。すごい競争に勝たねばなりません。

ぼくはそこで消耗したくないばかりに、アジアに流れてきたとも言えるわけですから、ここからお金獲得競争に参戦するなどということは、まったくの本末転倒なわけです。

ではどうするか。

ほぼ唯一の解決策は、お金を介在させずに、航空券と居住場所を獲得することです。
お金といっても「自分のお金」を、です。
もっと単刀直入に言えば、仕事してお金を稼いで、そのお金で航空券とホテル代を払うのではなく、航空券と居住場所を直接提供されればいいわけです。
そうなると、お金に比べればまだ競争率が低いといえます。具体的になればなるほど競争率が低いわけです。

もっと解説するならば、たとえば、ぼくが今からカリマンタン島に行きたいとしたら、そしてカリマンタン島への航空券が15万円するとしたら、15万円を獲得するための競争よりも、カリマンタン島への来月の航空チケットの競争率のほうがたぶん低いだろうということです。時期によっては空席がある場合だってあるでしょう。その空席におれを座らせろ、と主張すればいいのです。例えば。

でもそうは行かないのが資本主義、市場経済でしょう。航空会社が、席が空いてるから、あなた、無料でそこ座ってっていいですよ、とは絶対言わないでしょう。
なので、次善策としては誰かから、航空券と居住地を提供してもらうわけです。

そう、回りくどいことを言いましたが、行きたい国の人から呼ばれればいいわけです。すべて準備するからぜひ来てください、と。

もう疲れてきたし、みんなも疲れてきたと思うので、最後にしますが、まあ簡単にいえば、お金を得るだけの仕事をしないで、いろんな国やいろんな人、団体から、来てください、と呼ばれる仕事を目指すのです。そうすれば、競争率のまだ低い戦いができるのではないか、という妄想です。

さて、時間はあります。妄想を続けてみることにします。

11/16/2011

おれはローカルにはなれねえ

このまえ、ぼくがバイクをレンタルしているお兄ちゃんに、アパートを探しているのだが、と言ったところ、知ってるアパートを紹介してやろう、ということで見にいってきました。場所はなかなかよくて、海まで徒歩でいける静かな住宅地。

アパートに到着すると、ちょうどカップルらしき若者がお出かけするところでした。女の子のほうがニコっとしてくれます。うれしいです。

で、部屋を見せてもらいました。ローカル向けのアパートでした。
4部屋みたうちの2部屋にはまどがありません。広さは4畳半ほどでしょうか。水シャワーで、トイレは和式です。もちろんエアコンはありません。
んー、狭い。そしてちょっとカビくさい。
で、お値段は1500000ルピアとのこと。まあざっと日本円で1万2千円くらいでしょうか。たぶん交渉すれば1万円には落ちるでしょう。

アパートが月に1万円。安いです。これなら向こう1年間の家賃をガーンと前払いしてやってもいいでしょう。家賃が向こう1年支払い済みだなんて、もう大船の乗った気分で生活できるではありませんか!とりあえず住む場所はある、ということです。

でも・・・
毎日ここで何時間も過ごすのかあ、と思ったら、んーー踏ん切れないものがありました。
安い、ローカルの標準的な部屋、どうせバリに住むならローカルと同じ生活してみるのも悪くない、さっきのカップルは2人で住んでいるようだし、住めば都というし、お金だって余裕があるわけじゃないし、などなど頭を駆け巡ります。

しかし、ボディーが、わたしのボディーが、ちょっと待ってくれよ、急がないでくれよ、先月まで東京にいたんだよこの体は、ゆっくりいこうよゆっくり、ね、と待ったをかけてきています。
東京では、ワンルームの決して少しも豪華ではない部屋に住んでいたとはいえ、少なくともエアコンのある6畳ワンルーム、窓2面、日当たり良好、に住んでいたのです。
ぼくのボディーにとってはそれが2年以上慣れ親しんだスタンダードお部屋なわけです。そこでこそくつろげる、そんな体になってしまっているのですね。
もうそんな体に。

ぼくは、やっぱり、ホットシャワーは欲しい・・・窓はほしい・・・6畳はほしい・・・(エアコンは妥協できる)

ぼくは、案内してくれた兄ちゃんに、ごめん、他も見てから決めるからから。。。といってお茶を濁しました。
きっとぼくの顔は、ここは違うよ、と書いてあったことでしょう。

自分はやっぱ贅沢なのかなーーと思いつつ、バイクにまたがり、帰る途中、兄ちゃんが、なにやら話しかけてきています。なんだろう?と聞いてみると、
「もっと安いほうがいいのか?」と言っていました。
たぶん、ぼくには家賃をすこし高めに言っていたのでしょう、こちらではマージンをとるのは当たり前です。ですので、この気のいい兄ちゃんは、マージンを下げてもいいと思ったのかもしれません。ぼくは胸を少し痛めながら、「いや、ちがうんだ、やっぱりホットシャワーが欲しいんだ」と返答しておきました。事実でもあります。

そして、この日、ひとつのことがわかりました。ぼくはローカルと同じ生活はできないな。です。

いくら同じ目線に立とうと思ったとしても、もしかして収入もローカルそれほど違わないかもなのですが、それでも、長年の日本生活で、すっかりバリの中では贅沢といえる住環境に慣れきってしまった自分を自覚したのです。

だってやっぱり、ホットシャワーを浴びたい・・・

でも、こちらで長年住んでいる日本人などは、水でなんの問題もない、かったるくて温水なんか浴びてられないよーと言っています。きっと慣れるとそうなるのでしょう。

しかし、いまの俺は、誰が何と言おうと、贅沢と言われようと、やっぱり、住環境は日本と同じくらい快適じゃなきゃいや! なのでした。。

他のことはたいがい妥協できるつもりです。
洋服?毎日300円のTシャツを着ています。食事?毎日80円のナシチャンプルーで十分です。お酒?休日にビールを1本飲めれば十分です。
その他にめぼしいお金は使いません。欲しいものもありません。ただ、絶対必須なのは仕事道具としてのパソコンと、唯一の運動的趣味であるサーフボードだけです。
あとは、なんでも妥協できます。すべてローカル水準でOKなのです。高いレストラン、いりません。マッサージ?要りません。海外旅行?もう十分です。
だが、住環境だけは、お部屋だけは、そうしても守りたいラインがあるのです。

こんなぼくは贅沢でしょうか。そして、収入の半分近くも家賃に使うぼくは、おバカさんでしょうか。

金さえあれば・・・それはぼくが唯一、住環境のことを憂うときに出てくることばです。それ意外では、金があればなあ、とは実はあまり思いません。
なければないなりに遊べますし、なければないなりにやりくりしてきました。しかし、住環境だけは、如実に家賃に比例してしまう、それはバリに来ても何ら変わりはないのです。

快適お部屋に住みたいの。

このささやかな願望をなんとか死守して、守り通していきたいのです。そのために働いているのです、ぼくは。そのためならお金のために働くってことでいいのです。快適お部屋のためならば。

これほど自分が住環境にこだわりを持っているとは、実はバリ島に来て初めて気づきました。

しかしここだけは、譲れないのです。明日からまたお仕事がんばっていきたいと思います。


これが見学したアパート。決して悪くはない場所です。


11/13/2011

小さな進歩

今朝は、とてもいらいらしていました。
いろいろな理由がありますが、なにかこう今の生活がしっくりきてない、満ち足りていない感じがしていたのです。ひとつにはバリに来てからほとんど話せる友達ができていないということです。元から友達という人はいますが、もっといろんな人と知り合って、毎日だれかれとなく集まっているような状態をぼくは欲しているのです。そうです寂しいのです。

それは、ぼくがバリに来る前の東京ライフで、ゲストハウスなるところに2年半も住んで、すっかり集団生活に体が馴染んでしまったからでしょう。家に帰れば誰かがいる。それが当たり前だったのです。寂しくなったらリビングにいけば、誰かしらが相手をしてくれたのです

ところが今は家に変えるとひとりぼっち。近所にテイのいいバーもカフェもありません。日没から寝るまで基本ひとりぼっちなのです。うっかりすると、あ、今日はだれともしゃべっていない、という日さえあります。仕事もPCで自宅なのですから。

で、まずは日本人の友だちをてっとり早く増やしたいのですが、ここサヌール、日本人に出会いません。まったくいません。みんなクタ方面に行ってしまうのでしょう。欧米人もいません。いるのは年配のかたばかりです。ぼくが今求めているのはせめて同年代の友達です。いないのです。

で、あー場所が悪いんだな、もう引っ越すしかないな、という気持ちで、よし、思い切ってエリアを変えよう、もっと賑やかで日本人や欧米人がたくさんいるクタ方面に行こう、とこ心におおざっぱに決めると、とりあえず散歩に出かけました。

うざいタクシーの呼び込みにうんざりしながら、(毎日通るのに毎日言って来る。人の顔見てないんだな)海沿いを歩いていきました。とりあえず波があるか見に行こうかな。

すると、「アッー」みたいな呼び声に足をとめられました。バリ人は人を呼ぶ時にアッーみたいな声を発するのです。はっと振り返ると、見たことのあるバリ人がカフェでお茶を飲みながらこっちを見ていました。「今日、波ないよ」と語りかけてきました。
あ、この人は・・・そう、この人は、何を隠そう、ここサヌールのローカルサーフファーのヘッドみたいな人で、プロサーファーなのです。いつもいくサーフポイントで、いつも奇声を発しながらめちゃくちゃキレたライディングを見せているのです。

あ、ボスだ。
ぼくは、思わず敬語で返答してしましました。「そうなんですかー」
たぶん歳はぼくより下なんですが、サーフィンの現場ではもう段違いの上の上のひとなのです。思わず体が勝手に平身低頭してしまいます。

ボス「いつもブギボーやってるよね。おれ知ってる?」

おっとボスはぼくの顔を覚えていてくれたようです。そうです、ぼくはいつもブギーボード(ボディーボード)でやっているのです。

ぼく「知ってます。知ってます。プロの方ですよね?」
ボス「(照れ笑い:おーそこまで知ってたか~)」
ボス「今日の朝は波ないのに人いっぱい。どうしようもないよ」

ここで説明が必要ですね。そうです、この御方は日本語をお話になるのです。なんでも奥さんが日本人で、日本にも住んでいたことがあるらしいのです。では続けます。

ぼく「そうなんですかー。」
ボス「でもブギーボーなら今日大丈夫よ。まだ波あるよ」
ぼく「え、まじっすか、じゃあ行ってこようかな」
ボス「行ってきたらいいよ、ブギボーなら大丈夫よ」
ぼく「おれほんとはサーフィンやりたいんですよ。来週にはサーフボード届くんで。でもおれビギナーなんすよ。まだ始めて1年で」
ボス「ダイジョブ、ダイジョウブ、練習すればダイジョウブよ」
ぼく「そっすかー、とりあえずブギボーもって今から行ってきます!」
ボス「明日、波あるよ。でも朝のほうがいいよ」
ぼく「あ、そうですかー何時くらいですかね?」
ボス「7時半か8時くらいがいいよ」
ぼく「ありがとうございます!じゃあとりあえずブギボーとってきます」


ということで、ぼくは急遽Uターンしてブギボーを取りに帰りました。
そして、海に言ってきたわけですが、この会話には重大な意味があるとぼくは感じたのです。

ぼくは、いままで5,6回近くのポイントでボディーボードをやったのですが、そのポイントは波があるときはローカルでいっぱいになります。みんな上手だし、みんなローカルなので、ぼくは遠慮していつも隅っこでやっていました。そして、ボスとかが、こっちを見るたびに、「お前どこのもんじゃい」と言われている気がして、気が引けて気が引けてしょうがなかったのです。

サーフィンの世界はローカリズムがつきものですが、ここサヌールはとくにポイントも狭く、欧米人も日本人もほとんどいなくてローカル専用、みたいば雰囲気なのです。
これが僕が引越しを考えていた理由のもう1つでもあったのです。クタ側はポイントも広く、外国人もわんさか海に入っています。

で、もう今月にでも引っ越そうかと思った矢先の、ボスとの会話でした。

つまり、この会話をぼくはこう受け取ったのです。「お前、うちの海入っていいよ」
こういうお墨付きがボスからもらえた気がしたのです。

少なくとも、上記の会話したあとで、「おまえどっから来たの、ここはローカルのガイドと一緒じゃないと入れないよ」とか言ってはこないでしょう。おまえも波乗り一緒にやろうよ、そう言ってもらえた気がしたのです。

なんだか妙にうれしかったのです。ローカルに認知された。そんな気がしたのです。
これで、次からは少なくとも、「おれ、ここの海入っていいのかな」とは思わずにすむでしょう。

なにか小さい壁をひとつ超えた、そんな気がしたのです。

とはいえ、まだ肝心のサーフボードが出来上がらず、かれこれ一ヶ月も待っています。
しかし来週にはできてくるでしょう。
そんなことなので、あ、もうちょっとサヌールにいようかな、と思ったのです。
せっかくローカルのOKが出たっぽいし、もうちょっとここの海を楽しんでからでもいいかな、と。

まあ、寂しい夜問題は以前として解決していないわけですが、もうちょっとサヌールの海でサーフィンやってから、また考えよう、と少し踏みとどまったアフタヌーンなのでした。


最後に関係ないですが、よくいくワルンでよく食べる。チャプチャイの写真を載せます。
これはようは野菜炒めです。うまいです。

11/12/2011

バリ島クラマスでサーフィンの大会

クラマスというところで日本のトッププロの大会があるということで行ってきました。

こんな波がありました。実に雄大です。


湘南ではなかなか見れない波です。
そして、上気して楽しそうに波を見ているサーファーたち。
また幸福感がやってきました。こんな日が毎日つづけばいいのにな。あと20年こうしていられないかな。
ぼくがこの海に通い、この海を知り、サーフィンが上達してこの人達のように自由に波と遊べるようになるまでに、5年10年とかかる気がします。そして、それはそれでいいのですが、やはり、ぼくの体力は衰えていくことでしょう。波乗りがうまくなったころには、息がきれる体に。

なんという理不尽でしょうか。
もちろん、そんな悲観的な気持ちでいるわけではありません。50歳60歳の現役サーファーはたくさんいます。彼らのようになればいいのです。ですが、体の力と機動力は確実に落ちていくことでしょう。ただサーフィンが向上していくわけにはいかないのです。
こんなことなら10代からサーフィンに出会っていればよかったな、などと思っても仕方ありません。

自分の意志と無関係に、歳をとり、肉体が衰えていく。死を持ちださなくてもそれだけで十分に理不尽な気がします。こんな誰にでも当てはまるまったく平等で未来永劫変わりようがないことを、どうして悲しいことに感じるのでしょうか。

お聞き苦しいことを聞かせてしまっているのかもしれません。
やはり老いたくはないのです。死は祝福だとしても、老いも祝福なのでしょうか。

しかし楽観的な気持ちもあります。そのときそのときで楽しみはきっとあるだろうからです。
でもしかし、このバリ島クラマスのビッグウェーブを目の当たりにして、いまの初心者のぼくでは到底乗れない波、しかし一度は乗ってみたい波を目の前にして、ぼくがこの波に乗れる日は来るのか、と考えてしまったのです。間に合うのか、と。

いま告白しましょう。サーフィン歴1年に満たない筆者にも密かに夢があるのです。
ハワイ、オアフ島はノースショアのチューブに乗ってみたい。
ということです。そうです、サーファーの憧れ、チューブライドです。

いろいろ聞いてみると、思ったより相当難しいことらしいです。生命の危険もあります。
でも一生に一度は、乗ってみたいなあ。どんな気持ちがするのだろう、と思いながらも、
昨日、海にいったのはいいですが、30分で体力が尽きて砂浜で土遊びをしていたのは、まぎれもない筆者なのです。

まあ、焦らずやってみます。

11/10/2011

マンゴージューが止まらない


フルーツ屋さんでフレッシュジュースが飲めるのです。
マンゴジュースに首ったけです。
濃厚で濃厚で、罪の意識さえ感じます。
こんなのが、飲み放題。なんということだ。


日本だって、え、こんなおししいお米が食べ放題?!日本バンザイ!っていう方向に持っていけば、相当いける国だと思う。つまり、観光業だ。松下幸之助が観光立国論を唱えたのはもう50年以上も前のことだ。月日が過ぎるのは速い。


ところで、このまえ生まれて初めてハチドリを見ました。
あの世界で一番小さいという鳥です。たしか小学生のときに図鑑で見てから、いつか本物をみたいなどんなにちっこいんだろうと夢想していました。たしかに小さくてかわいかったです。バリで知り合った人が家で飼っていました。バリでは鳥を飼う人が多いです。かわいい鳥がいっぱいいるからでしょうか。


今日はあんまり書くことがありません。
そういえば、バリ島の医療制度はお粗末です。というか、とても高価です。バリ島でいまでも病気になうとバリアン(祈祷師)のところへ行くのは、高くてとても病院に行ってられないというのがあるようです。バリ人の友達のお母さんは2年間も不定愁訴で苦しみましたが、高くて病院にはいけなかったのでもっぱらお祓いとお祈りで直したそうです。バリ、インドネシアではお金の効用がむき出しになっている印象です。簡単にいうと、大抵のことはお金を積めばなんとかなります。役所や警察も相当の部分、お金次第です。
しかし、聞くところによると、バリの王様が最近、バリ人の全員大学入学を目指すと声明を出したそうです。学費の無料化などがなされるのでしょうか。

最近の日本のニュースで生活保護の申請者数が跳ね上がっているとのことでした。それはそうでしょう、と思います。それがまた暗いニュースとなって広がるのでしょう。そして受給者たちは、生活保護は正当な社会的権利の行使であるにもかかわらず、どこか後ろめたい気持ちを背負っていることでしょう。それでも米国なんかに比べると、そんな分厚い保証制度があるだけましと言えるらしいです。米国では貧乏人はもう本当に病院にも行けない。日本ではなんやかんやいってもそれなりの医療が誰でも受けられる。何をどういう風に考えたらいいのか、難しいですね。


とにかく、明日もマンゴジュースを飲みに行こう。あした晴れたら海にいこう。
もうそのくらいでいいでしょう。

11/06/2011

バンジャールのセレモニー再び

まずはこれを見てください。
バンジャール(町内会)のセレモニー行進です。

1週間続いたお寺の新築祝いの最終日、お寺から海まで行進します。そして海でみんなでお祈りを捧げるのです。
その道中に同行させてもらいました。ガムランの調べがいいですね。ぼくはここのバンジャールのガムラン隊の音がどうも好きみたいです。心地いいです。

そして、バンジャールというものについて考えていました。
日本の田舎、もしくは昔の日本にもあったであろう、地域共同体です。
地域といっても、血縁関係を中心とした共同体みたいです。
このバンジャールは総員500人くらいらしいです。
このバンジャールに所属する友人のアリーに、この中で何人くらいが知り合いなの?聞いてみました。75%は顔見知りだということです。500人の75%です。
で、だいたい50%が親類縁者で、20%が友人だということです。

バリの人は、このようなけっこう大きな親戚集団の中で育っていくんですね。
そのせいなのか、みんなおだやかな気がします。全身に刺青を入れたちょっとワルっぽいやつも、ちゃんとセレモニーには参加していて、おばちゃんやおじちゃんから声をかけられています。こっちはみんな知り合いだから悪いことできないんだよ〜と、在住9年の日本人の人が教えてくれました。

このような地域共同体は、ある意味、しがらみでもあります。これがうっとうしくて若者は都会を目指したわけでしょう。常に監視されている田舎特有のあの感じです。
でも彼らと付き合っていると、うまいこと息をぬいて遊んでいる風にもみえます。
昨日あったうちの一人の若者は、かつて3年間、東京の二子玉川で働いていたそうです。水道屋さんだったそうです。そんなこんなでまた田舎に帰ってきて地域の中で生きています。

こういう地域共同体、親類縁者共同体の中でみんなにからいがられて育ったら、どういう大人になったのかな、って少し思いました。帰る場所があるってやっぱいいのかなーって。

いつもお祈りのしかたを教えてくれるワ。(名前がワです)

アラックを飲むと眠れない

昨晩はアラックを飲んでしまった。
アラックとはバリの焼酎で、ヤシかなんかからできている、結構キツイお酒だ。

昨日、あとでアップするけど、またバリ人の友達アリーに誘われて、アリーのバンジャール(地域共同体)のセレモニーに参加した。
その帰りに、アリーの友達7人くらいと酒の回し飲みをしたのだ。
最初はビールから。こっちでは、コップをひとつだけもってきて、注ぎ、最初のひとりがグイッと飲み干し、また注いで次の人に回す。そうやって順番に回し飲みをしていくのだ。それがバリスタイルだそうだ。それを2時間くらいやってビール十数本が空いたところで、ぼくはほとんどもうマブ(酔っぱらい)になっていた。taka大丈夫か、とアリーに何度も聞かれる。

そして、ビールがなくなるとアラック登場。ぼくは飲まない!と宣言したのだが、一杯だけのんでしまった。


これが効いたのか、昨晩は一睡もできんかった。まえにアラックを飲んだ時もそうだった。
ベッドには入るのだが、寝てるんだが寝てないんだがという状態で朝までいってします。当然、寝た〜という感覚はゼロ。朝からくったりと疲れている。ぐったりじゃなく「くったり」くらいだけど。
どうもアラックとは相性がわるいようだ。まあ、体だけは休むことができたのでよしとしよう。今後はなるべく飲まないように気をつけよう。

それで、ここからがある意味本題である。
そんで、朝の6時、もう明るいし、しょうがないから起きて外に出た。
外はしとしと雨がふっていた。もう雨季に入っているのだ。
朝日がちょうど目の角度に差し込んできて少し痛い。
鳥がなく声をききながら、ああ、おれこんなところに今いるんだな、と改めて不思議なきもちになる。

そして、こう思った。
あと何回、まさかを重ねていけるだろう。

バリ島でこうして暮らしているなんて、過去のぼくからしたらまさかのことだ。そんなにすごいことだという意味ではなく、どうも想定外のことだという意味だ。同じ海外なら、ロサンゼルスあたりでビンビンに活動している、というのが10年ほど前の夢だった。
ところが、インドネシアでさしたる将来展望もなくただまったりしている。まさか。

よく、17歳の自分に会ったら、なんと言ってやりますか?という質問があるが、
 おれの場合は「ざまーミロ」になるだろうか。ざまーみろはないかw
17歳のおれに言ってやる、おまえなんかの想定通りには世の中いかないし、自分だっていかないよ、お前の想定を超えたところだよ、この世界もあんた自身も。おまえなんかが思ってるよりずっと難解で恐ろしい口がぱっくり空いてるところだよこの世界は。でもまあ生きてみる価値はあるのかもね。

なんつってまたかっこつけちゃったりして。
でもまあそれはいいとしても、思うのですよ。まさかを重ねるのが人生だって。
あといくつのまさかを通り抜けていけるのだろう。もちろん、そのまさかとは願わくば自分が成長、少なくとも脱皮していくことであってほしいものである。とか言って。

そのような朝なので、そのような朝の写真を載せておきます。

11/04/2011

少年時代が終わるのを知っていたか


海のつづきです。
今日、ボディーボードにつかまって波を待ちながら、入道雲をみていたら、ふと、こんな感傷がやってきました。
 ああ、それが終わるのを僕は知っている。

ぼんやりとそんな気持ちが浮かんできたのです。
そして、こんな疑問が頭をよぎりました。
ぼくは果たして、少年時代に少年時代がいずれ終わってしまうことを知っていたのだろうか、と。

なんか知っていたよ、という気がしたのです。それを思い出したような。
夏休みがおわるような感じかのかもしれません。夏の終わり、でもまた夏真っ盛りのころに、もうすぐ夏が終わることを予感する。そんな感じでしょうか。

少年時代がおわり、いずれ何だかせわしなさそうな大人たちの世界に入っていく。
でもその間に、ドキドキするような青年期があるんだ!そんな気持ちもふわりと思い出しました。あの、親戚のお兄ちゃんくらいの年になったら(20歳とか)、車に乗って、友達と山や海へ自分だけで遊びにいくんだ、自分たちだけで、夏がきたら!

気がつけば、そのドキドキと待ちわびた青年期はいつのまにか過ぎ去り、確かにそれは期待どおりのドキドキを味あわせてくれたのですが、とにかく過ぎ去り、そしていま、またあたかも少年期のようなフリをして海に浮かんでいます。
ぼくの今後の人生で、またあのような青年期を待ちわびるような気持ちになることがあるのでしょうか。ただ月日が過ぎ、大人になることが楽しみだった!あの頃みたいに。

バリコピ、そして日銭

これはバリの日常コーヒー「バリコピ」です。

バリのコーヒーの飲み方は、グラスのコーヒーの粉を入れて、お湯を注ぎかき混ぜます。
しばらくして粉が沈殿するのを待って、ずずずっとすすって飲むのです。
たいてい砂糖がいっぱい入ってて甘いです。
東京にいたころは豆から自分で挽いてコーヒーをいれていた、生粋のブラック派のぼくも、バリにきてからはなし崩し的にこの甘い甘いバリコピがなんだか舌になじんできてしまいました。あまりいいことじゃないと思うで、家ではブラックで飲むようにしています。


で、バリにきてしみじみ思うことを言います。
ちょっと世知辛いことです。
それは、日銭があればなんとかなる、です。

逆に言えば、どこで何してたっていい、ただ毎日自分を食わすだけのお金はとってこなくちゃいけないよ、ということです。

当たり前すぎて何言ってるの?と思うかもしれません。
でも、更に逆に言えば、そこだけなんとかなれば、他のことはもっとなんとかなるよ、ということです。

ちょっと違う話をすると、こっちで知り合ったバリ在住15年という日本人のおじさんがしみじみ僕にいうわです。

あんたも、腹あ決めて日本からこっちに来たんだな。
あんた、ところで仕事はあんのかい?え?月にウン万円? てーしたもんじゃねえか。
いいか、おい、3万でも5万でもいいんだよ日銭が稼げりゃよ。日銭がとれりゃあなんとかなるんだよ。こっちでローカルとおんなじ生活する覚悟がありゃあどうとでもならあよ。
1ヶ月5千円のアパートだっていくらもあらあよ。紹介してやるよ。
でもな、貯金を切り崩すってのはよくねえんだよ。貯金は足が速ええんだよ。
あっと言う間になくなっちまうんだよ。日銭がでーじなんだよ、日銭が。3万でも日銭とってくりゃあおれがなんとかしてやるよ。行き詰まったらいつでも相談こいよ。どうすりゃいいか教えてやるからよ。

ということです。いやー頼りになります。
どんな人生をサバイバルしてきたのでしょうか。百戦錬磨の形相でした。

で、つまり、日銭が大事だという身も蓋もないことを言いたいわけですが、
でも月に3万あったら、バリでなんとか生きてはいけるぜ、兄ちゃんちょっと贅沢し過ぎなんじゃねえのかい、という指導が入ったという次第です。

この話は気持ちを軽くしますか、それとも重くしますか?
まあ、こんな話題を噛み締めながら、甘いバリコピを飲んだのです。

11/03/2011

夕暮れのワルン

そしてまたいつもの海辺のワルン(食堂)へ行きました。
いつしかここはぼくにとって少し大事な場所になっているようで、ここへくるとなんだか落ち着きます。今日は昼もきたので2回目です。

こんな景色を毎日見ているのです。もう慣れてしまいましたが、なかなかのロケーションと言えるのかもしれません。近所の人ばかりが集う場所です。


今日はこんなものを食べました。まあ、ご飯と鶏肉と魚です。
すかさずいつもの仔猫がやってきて、おねだりです。
魚をちぎってあげました。
痛くお気に召したようで、くれくれの催促です。最後にはテーブルに躍り上がってニャーといいました。さすがにぼくも怒りました。もう何個もあげたじゃん!

まあ、そんな毎日です。ちょっとヒマを持て余しています。

とここでしめやかに締めようと思ったのですが、ろジョーるが勝手に撮ったらしきなかなかいい写真がでてきたので、最後に載せておきます。昼間のワルンです。

耐え切れずに海

どうも調子が悪いな、うずうずするなと思ったら、毎日海を見ているくせに、海に浸かっていないことに気が付きました。
サーフボードを注文してから2週間、逆に、ボードがきてからと考えてしまい、海へ入ることを忘れていました。せっかく家から5分にあるのに。けしからんですね。

で、今日はもう夕方だったのですが、近くの海へボディーボードを持っていってきました。
こんなところです。


基本的にローカルしかいません。こどもとおじさんが水遊びをする横で、しばし波にゆられていました。少しすっきりしました。


神様への捧げ物「チャナン」


バリでは店先などいたるところで、このようなお花とお菓子とお線香の入った入れ物が置かれます。神様への捧げ物で、たぶん朝昼晩と3回ほど捧げられます。チャナンと呼びます。

もう道端のいたるところに置いてあります。

ぼくがよくいく食堂でもやっていました。

この人は海に向かってチャナンをお供えしています。きっと海の神様へなのでしょう。

こういうのが毎日行われています。

前に、ロジョールにサーフィンガイドをお願いしたときのことです。
サーフィンが終わって、ご飯をたべよう、となったのですが、
ロジョールが「チョットマッテ、オマツリ、マダ。 家にイク。ダイジョウブ?」と言うのです。
よくわからないので、いいよ、と答えました。
そのまま一緒にロジョールに家に着きました。時刻は正午くらいでしょうか。
家についたロジョーるはチャナンをかごいっぱいに入れて持ってきて、
家の敷地のそこかしこに置いて回りはじめした。手でお線香をそよがせたりしています。
なにかの儀式なんでしょう。だいたい10っ箇所くらいでしょうか?
家の中に小さな祠があるのです。そういうところに備えます。庭とか玄関にも起きます。
そんなこんなで小一時間、チャナンを起きまわっていました。
これを毎日やるそうです。

ぼくが大変だね〜って顔で見ていたら、ロジョーるは笑いながら、意外と大変じゃない、気持ちいいよ、と言いました。
「オマツリ、気持ちいいよ。」

そして、こう言いました。
ロジョールの家族、前は何もなかった。
お店ない、車ない、バイクない、なにもなかった。
ロジョール、オマツリ毎日した。お祈りした。
いま、お店ある、車ある、バイクある、みんなある。
オマツリ、大事よ。お祈りすればするだけ、いいことあるよ、と。

たぶん、本当です。

卒業写真は終わらない

いまこれを聞いて一緒に歌っていました。


ぼくの引越し先、部屋やロケーションはパーフェクトなんですが、なんと、近くに屋外クラブがあり、夜中の3時まで爆音がガンガンに響いてくるのです。
なんだか騙された気分です・・・でもいいんです。最初からすべてうまくいくなんて考えないことにしましたから。


で、最近、腹いせに歌うようになりました。だって爆音だし、なんと、ぼくが住んでいるアパート、2Fに4つ部屋があるんですが、いま僕しか住んでいません。当然隣も(さらに下も)いません。

もうこうなったら、陰を陽に変えるということで、つまり、この環境は歌ってもいいということです。誰にも迷惑かけない。もしかして生まれて初めて、家で大声で歌っても誰からも怒られない環境を手に入れたともいえるのです。そういうことにしましょう。

 で、最近はもっぱら「卒業写真」なんです。しかも柴じゅんなんです。

でね、「あの頃〜の生き方を〜」あたりから一緒に歌うんです。キーがあおうとハモれるときがあるんです。ハモじゃなくて単に同じ音で同調するだけかもですが。

でね、あなたね、よくこういう動画があるとコメント欄で、「懐かしいです。あの頃を思い出します」とか書いてる人いるけど、おまえ、油断してんじゃねーよ。

卒業写真はいまでもお前のハラの中にあるんだよ。過去の思い出になれたつもりでいるんじゃねーよ。いつでも暴発するチャンスをうかがっているんだよ。その卒業写真なるなにかが。わかったら、こら。わかったら、さっさと歌おうぜ。

ということで、いま朝4時なので許してね〜。ごめんね〜。

食べ物シリーズ:マルタバ

じゃーん、これがバリのお好み焼きこと「マルタバ」。
でも味はチヂミ。

で、ここの店は変わってて、カレー屋なのでカレーがついてきます。
カレーをかけて食します。
しかし、これがうまい!!

ま、それだけw

一応、店の写真


ウブド近くの工房

友達とウブド近くの工房に行ってきました。

こんな入口。
おしゃれ地味かわいい、な感じの工房です。

こんなアドレス帳をつくっていました。これで240円くらい。

バリは、そうとう西洋などの文化がまじったこともあるのでしょうが、
でも、伝統的な工芸のデザインなどを見ても、古いというよりは、かっこいい!と思うことが多いです。竹の編み方ひとつでも、いいセンスしてるな〜とうなる感じ。
ほんと、折り紙の国の日本人だぞ、っていばってられません。バリ人もやります。

今ことばは機能しているのか?

バリ島のことばかり書いていこうと思ったけど、しびれを切らしてしまったようです。 今日はバリとはちがう話。 バリへの移動を決めたとき、日本でいくつか心残りがありました。 そのうちのひとつがせっかく8月から始まったばかりの「五味太郎トークライブ」です。

引用:五味太郎アネックス

絵本作家の五味太郎さんが3時間、4時間と語りたおしてくれます。 これが、トイレにも行けない面白さ。 待ちに待った企画。おれのためにあるような企画だ!と感動すらしたのを覚えています。

月に1回のこのイベント、8月、9月と行きましたが、10月はすでのバリでいけませんでした。 いやー人生のタイミングって合ってるのか合ってないのか。今回はもうちょっとうーんなんとか、、、 しかし、もう決めたことはいいとしましょう。

で、こんど11月のテーマがなんと「今ことばは機能しているのか?」 http://www.gomitaro-annex.com/2011/10/111.html キター!もうこれはいくしかない!のですが、いけません。 運営の方に音声テープの公開をお願いしておきました。

今ことばは機能しているのか? この疑問は、私の哲学の師匠である塚原氏が現代日本の問題だと指摘していた問題でした。 哲学的に言えば、自己言及的な言葉を吐く奴があまりにいない。とくに政治家にいない、ということになります。
 たぶん、真っ当な言葉を吐くやつがいない、といいってもいいんじゃないかな?だめなのかな?そこは塚原氏の言を待つことにしましょう。 今年か来年くらいに世にでてくることでしょう。

まあ、でも五味太郎氏のイベント、いける人は言ってみてください。4000円かかりますが、その価値はある人にはある!w ない人も1回くらいは行ってソンはなし!なのです。おいしい軽食つきです。 まったくバリと関係ないこと書いちゃいましたね。どうしよう。 まあ、たまにこういうのも出てきます。

11/02/2011

バリのお寺

今日はお寺の写真を見てもらいましょう。
この前新築祝いのお祭りがありました。

お寺の前にたっていた飾り


お寺の入口
お寺の中。奥には神様ファミリーがおわします。

クタの夕陽を見に行った

クタは夕陽でも有名らしいので、夕陽を見に行ってみました。

ぼくが住むサヌールからバイパスをとばして30分ほどで到着。
ビーチに座ると、サーフボードを抱えた子どもたちがはしゃいで駆けていきました。
波が上がっているのです。

地元っ子たちの波乗りを見ていると、ほどなく日が沈み始めました。
沈むな〜と思ってからは早いんだよね。

そんな夕陽をみているとき、ふと思いました。
あーギリシャの経済破綻、あんまり世界を騒がせないでいてくれるといいなー。って。

バリ島にきて1ヶ月あまり。ようやく地理もわかってきて、いろいろ行くのが面白くなってきています。
クタにきて、毎日こんな波と夕陽があるならこっちに引っ越そうかな?などと思ったりしていました。
でも、もっといろんな場所やいろんな家をみて快適な根城を持ちたいな、と妄想していました。

そんなとき、こう思ったのです。
あーぼくがそういうことを試行錯誤するのに1年くらいはかかるだろうな、
そうやってゆっくりとバリを知り楽しみを増やしてく間、世界はこのままであってくれたらいいな、
と思ったのです。

自分勝手な願望ですが、まあそんなもんでしょう。

でもしかし、世界がこのままであってくれたらいいな、と思うことは、それほど当たり前のことではなかったな、おれの場合、とも思っていた夕暮れ時なのでした。

11/01/2011

ガムランを聞こう

今日もお祭りに行って来ました。

ぼくはガムランの音がすっかり気にってしまいました。
とにかく耳に心地いいのです。ずっと聞いていたい気がします。

とりあえず、軽く聞いてください。
録音がいまいちですが、雰囲気は感じていただけるでしょう。

ついに観光ビザの延長に成功!

苦節、役所に3回通ってようやく観光ビザを1ヶ月延長できました。

三回目は、前回お金を払った証明書的な紙切れをもって、指定された日にイミグレに出向きます。
三回目は、二回目の翌営業日になるようです。
紙切れを受付で渡すと、延長ビザのシールが貼られたパスポートが返ってきます。
これをコピーしてもってこい、と言われるので、また別棟のコピー屋にいきってコピーをとります。
コピーをまた受付にもっていくと、はい、おわりです、みたいなことを言われて完了します。
無事に1ヶ月のビザ延長が達成されました。やれやれ。

では、今回は後進のために、いろいろ写真をとってきたので、載せます。

イミグレの建物



こちらはイミグレの看板の写真。下の段に「KANTOR IMIGRASI xxxxx」と書かれているのが見えるでしょうか。

とりあえず建物がわかれば80%は乗り越えたと言えるのではないでしょうか。
あとは、入り口からづかづか入っていき、まわりにひとがいっぱいいると思うので、
パスポートをちらつかせて、「HOW to VISA EXTENSION?」といろんな人に言ってみましょう。
だれか親切な人がきっと最初の窓口まで連れて行ってくれるでしょう。
ぼくの場合もそれでした。

では、最初の関門、ビザの延長手続き、ぜひがんばってください。

えー大事なところだけまとめると、
◯観光ビザの後進手続きは、手続き開始から丸1週間+1営業日かかります。
つまり、金曜日に最初の手続きをしたなら、2回目は翌週の金曜日、3回目が月曜日になります。
◯手続きは
 1回目が延長手続きの申請書類提出(このときパスポートを預けます)
 2回目が手続き代金の支払い
 3回目がビザつきパスポートの返却
です。
◯代金は、2500円程度
◯申請書類はすべてインドネシア語なのでどの項目に何を書いたらいいかわからないでしょう。
近くにいたインドネシア人で英語か日本語を話せる人をつかまえて、ひとつひとつ教えてもうらうか、(ぼくはこのパターンでした)、インドネシア語の辞書を持って行くといいでしょう。
決して難しい文章を読む必要はなく、住所や名前なんかを書いていくだけなんですけどね。
辞書があればきっとわかるでしょう。

では、がんばってください!

質問がある人はコメント欄へ〜