12/01/2012

平気で生きて行くための哲学

平気で生きて行くための哲学が欲しい。
欲しいということは、まだこの手の中にはないということだ。

今朝、また起きることができた。昨夜は友達とバンコクでお初のバーへ出かけた。金曜の夜だ。ダンスバーみたいな感じで、クラブというほどのフロアはないのだが、みんな酒を飲みながら踊っている。98%はタイのローカルのようだった。みんなとっても楽しそうだった。ぼくも珍しく、そこそこ楽しめた。僕は実はこういう場所は苦手の部類にはいるのだった。

今朝は、ちょっとだるい感じで起きて、二日酔いではない。僕は酒がものすごく弱いので、どれだけ呑んでも二日酔いにはならないのだ。つまり、サイクルが早いのだ。二日酔いとはたぶん、体の許容量を超えて我慢比べみたいに呑み続けることができる人がかかるものなのだろう。

そして今朝は、いつも通の時間に起きて、やっぱりオフィスに向かった。予定がない日はぜんぶ仕事なのだ。そして、最近通うようになったコーヒーショップでコーヒーを買う。白いおしゃれなカフェだ。お客はいない。でもコーヒーはなかなかだ。店員は英語を話さなかったが、パグ犬がいつもよってきてめちゃかわいい。気がつくともう足下にいて、ぎろりと見てくる。なでてやると、うれしいのかごろんと転がって腹をみせた。腹をさすってやるとじっとしている。もういいかな、と思ってやめると、友達の女の子にどこか似ている黒めがちのくるくるの眼で、またぎろりと見た。もっとなでてくれということか。そんなことをくり返しているうちに、コーヒーができあがった。

コーヒーショップを出ると、向こうから自転車がやってくる。女の人が運転する自転車の座席の前に、小さな女の子がちょこんと乗っている。やや、これは、、あの子かな?と思っているうちにすぐそこまで迫っていて、そして、耳慣れない音を聞いた。あまりに耳慣れないので、最初は何が起こったか0.5秒ほどフリーズしてしまったくらいだ。その音は、「ハロータカ」と言っていた。

その自転車にちょこんと乗っている小さな人間から、「ハロータカ」という音が発せられたようなのだ。あれ?おれの名前知ってたの??????
何個ハテナを書いても足りないくらいの驚きだ。初めて名前を呼んでくれた。というか、出会って2回目のあいさつをしてくれた。じわーんとうれしくなる。まったく子供というものは、女の子というものは、行動パターンが読めないものである。

そして引き続きてテクテク歩いて、いまここ、オフィスでこのブログを書いている。

iPhoneのニュースに、日本未来の党という政党が若者に人気らしい、という記事が飛び込んできていた。さっそく調べてみようとしたが、なんとなく面倒になってやめた。自然エネの飯田さんがいるようなので、原発関係はOK政策を出してくれるだろうからだ。投票したいな、と思う。月曜日、大使館に行ってこようかな、

あ、そうだ平気で生きて行くための哲学について書こうとしていたのだった。忘れていた。今の日本、生きて行くことは難しくない。生きて行くだけなら、生活保護だってあるし、親類縁者に頼ってもいいし、本格的に飢え死にする、住む場所もまったくない、ということはないはずなのだ。
家がなければ超格安で市営団地に入れる制度があるはずなのだ。調べればある。たぶん月に数千円でそれなりに普通の部屋に住めるはずだ。
そして生活保護などをもらえば、もう食べていけるはずなのだ。だから、生きて行けない、なんて人は日本にはいないはずなのだ。

ただ、平気で生きて行くことが難しいだけなのだ。いや、そういうことじゃないのかもしれない。ただ、生きて行く、ということはそれほど確固とした自明の自然のことではないのかもしれない。

人が生きて行くのに必要なのは、家と食べ物だけではないのかもしれない。まあそういうことなのだろう。でもそういうことを包含してもなお、平気で生きて行くための教育、そういうものが欲しい。びくびくと顔色をうかがうように生きるのではなく、平気でふんふんふんふんって生きていけるための、何かだ。それは知識でもあるだろうし、スキルでもあるだろうし、哲学、思想でもあるのかもしれないけど。

「彼はもうすぐ治るわ」とフェイが言った。 いま映画「恋する惑星」のワンシーンがフラッシュバックした。

君、何か本当のことを言ってくれないか。「君はまじめか」夏目漱石の小説で、(題名忘れた・・・「こころ」かな?)、先生が「僕」に最後に問うたのは、そんな言葉だった。

まじめか。それはつまりは、君は本気なのか?ということなのだろう。本気といってもそれは、意思の強さ、意思の固さ、みたいなことではなく、本当のことを言ってくれているのかね?という方向のニュアンスのものなんだと思う。

何が本音かなんて、当人にだってわからないようなものだ。ただ、そこには方向性というものは存在するだろう。本当のことを言おうとする方向性を君は努力してくれているのかね、この私に向かっては。そういう問いかけだったんじゃないかと思う。

僕にとって本音というものは、ズバリ一言で提示されるようなものではない。それはたこ焼きの中身のようなものだ。焼きたての、おいしくできたたこ焼きは、外はぱりぱり、中はもちもち、そしてその中心部には、危険なほと熱く、まだどろっとしているマグマがひそんでいる。うっかり一口で噛み切ろうとしよもんなら、あちち!!大変危険である。だから、口の中でハフハフ、ハフハフ、いわせて冷ましながら食べるわけだが、ではあのドロッがなければいいのかというとそうではない。やけどのリスクはあれど、あのどろっとした熱いやつをハフハフいいながら、味わう。それこそがたこ焼きの醍醐味というものなのだ。あれがなければたこ焼きなどわざわざ食べる意味などないとさえ言える。

そういうドロっとしたものを君は保持しているのかね。あります!ほんとうかね。本当です、先生!そうか、ではハフハフしてもいいのかね。はい、ハフハフしてください!

あれ、なんかおかしなことになってきた。。ちょっと失敗。ここまでということで。




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