なんだか戦争のことを書きたい、今日も。
太平洋戦争もいつかは叙事詩になるのかなあ。
ローマの、カエサルの、カルタゴの、チンギスハーンの、源頼朝の、ひよどり越えの、平家物語の、戦国武将の、織田信長の、本能寺の変の、関ヶ原の合戦の、ような、物語になる日がいつかはくる。
すでに日露戦争はそうなりかけている。日本海海戦は、ロシアの戦艦が何隻も沈んで、何千人ものロシア人が死んだけれども、我々にとってそれは大日本帝国艦隊の、坂の上の雲の、秋山兄弟の、コサックの、バルチック艦隊の、東郷平八郎の武勇伝としての、叙事詩になりかけている。
遠い昔の戦争は、英雄たちの物語であり、近い昔の勝ち戦も、英雄たちの冒険奇譚になっていく庶民のこころがある。
たぶん、いつかはすべての戦争が叙事詩になる。戦艦大和は美しかった。宇宙戦艦ヤマトになったほどの。
日経新聞を開けば戦争用語がちりばめられている。戦略、なんてずばりのものもあるし、つまりはぼくらは戦ってきたのだ。戦後もずっと。
みんななにげに戦いが好きなのさ。生々しいのは嫌いだけど、叙事詩としての戦争はどこか心を躍らせる。だから人々は十分に時間が過ぎるのを待っている。あのどえらい戦争を物語にできる日を待っている。それは100年後かもしれないし、600年後かもしれない。その日はいつかはくる。
キノコ雲を美しかったと物語れる日を待っている。それは人間のもうひとつの感性。生々しさが早く過ぎ去ることを待っている。人々は物語れる日を待っている。
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