12/29/2012

侍と戦争

近代の戦争はつまらないものになったと思う。
近代の戦争は、侍みたいな男がでていって、その武を争う、というのではなく、どちらが威力のある武器を持っているか、そして、どちらが優れたレーダー装置を持っているか、どちらがそぐれた兵站をシステム化できるか、みたいなテクノロジー戦争だからである。

男の中の男がライフル一丁を持って立ち上がっても、500キロ沖に浮かぶイージス艦から放たれたトマホークを迎え撃つことができない。

現代の国防とは、民を守るために命を投げ出すことではなく、むしろ自由をなげうつことになる。命をかける気があったとしても、一人で敵と立ち向かう意味はかなり薄い。それよりも自衛軍に入って一兵卒となれ、ということなのだ。そして上官の言う通りにひたすら働き、出くわした敵を上官の命令に従って撃て、ということに過ぎない。

それが現代の戦争だ。いや、もしかすると、戦国時代の足軽たちもそんな一兵卒に過ぎなかったのかもしれない。しかし、曲がりなりにも男一匹が刀一本をかついで立ち上がる実践的な意義はあったに違いない。7人の侍で村を守ることができたのだ。

だから、なんだというとあれだが、つまり今後話題になるであろう国防のことを書こうとしているのだが、もし隣国と戦争になったとする。いや、戦争というと近代戦になってしまうので、どっかの国の海賊が攻めてくるとする、明日にも福岡に上陸して略奪、皆殺しをやるらしい、という情報が入ったとして、戦う意志のある男は武器をもって福岡に集合!みたいなことであれば、僕はありかな、と思う。そこで防がなければ、住民が殺されてしまう。そんなとき、もはや戦うしかない。それを戦争と呼ぶなら、戦争をやるしかないだろう。そのために武器がある。

アメリカの全米ライフル協会だって、いつの日が政府が国民を弾圧し始めたときに、政府を倒すために個人の銃の保持にこだわっている、と聞く。スイスだって永世中立国とはいいながら、国難とあれば男どもがライフルを持って集まることになっていると聞く。
だが、それはもはや近代ではあまり意味がないことだろう。そこには気概の痕跡、意志の証明として残されているだけであろう。

なんだか上手く結論にもっていけない、簡単に言えば、徴兵制は絶対いやだね、命をかけるとしても大組織に組み込まれた一兵卒として死にたくない、というようなことを書こうと思ったのだが、論旨がつながってこない。

というか、国防の名のもとに行われることは、本当に防衛なのだろうか、という疑問だ。家族や仲間を守るために戦う、それが防衛だとすると、近代戦争は本当に防衛戦争なのだろうか。たとえば中国を例にとっても、これだけ経済的にも文化的にも人的にも交流している国同士が、防衛戦争を行う、ということがあり得るのだろうか。

たぶん、起きるとしたらそれは防衛戦争ではなく、なにかもう少し違った、せめぎ合い戦争、みたいなものになるだろう。自国民の命や自由を守る防衛戦争と、人の住んでいない島や領海を守るせめぎ合い戦争は、少し違ったレイヤーとして考えなければならないと思う。つまり、せめぎ合い戦争には、ほかの解決策があるかもしれないからだ。

だが、歴史をヒモとけば、日本だけでなく西洋諸国同士だって、どこだって、せめぎ合い戦争でたくさんの血を流してきている。戦争も環境問題と同様、一発で解決することなどたぶんできない。ただ、粗く見て行かないで、ほんとうにもう最終手段しかないの?という問いかけはしていかなればならないだろう。

というか、まあ、自由を徹底的に奪われる徴兵制度なるものは絶対反対ということです。そんな風に自由を奪われるなら、ライフルをもって義勇軍に参加するほうがましだ、なんて思うけど、まあそれはそれでただの幻想かもしれません。






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