ちょっと重い話題をいってみよう。地球環境と私、だ。
環境問題も自分の中に答えが見いだせないテーマの1つだ。
まあいろんな問題があるが、温暖化、大気汚染、水汚染、土壌汚染、そのあたりでいってみる。
まあ単純にいって、地球環境が汚れてきていることはわかる。バリ島の海はゴミだらけ、下水の匂いがするビーチもある。(サーフィンしてたけど)
日本の海だって昔よりは確実に汚くなっているはずだ。少なくとも100年前よりは。空気も。なにもかも。
そして、地球温暖化には諸説あるが、つまり、温暖化などしていない、むしろ寒冷化しているという見解もあるし、CO2が気温に与える影響はほとんど無視できるほど少ない、という見解もある。その逆もある。
しかし、温暖化を別にしても、CO2をガンガン排出することが、CO2などと限定しなくても、あらゆる排気ガスなるものは空気を汚すことは間違いない。つまり、生命にとって有害な物質が少なからず含んでいることは間違いない。
ここで大きな問題が分けれてくることがわかる。まず、大気汚染の問題と、ゴミ問題だ。
ゴミ問題から言う。僕が毎日排出するゴミ、もちろんもともとは何からの商品なのだが、それは、地球が短期間には処理できない「ゴミ」としてどこかに蓄積されることになる。ゴミ処理場だ。これは少なくともゴミ処理場の土壌を汚染し、周囲の空気も汚染するはずだ。
そして、消却処分をすれば物体としてもゴミは消えるが、そのぶん、汚染物質が大気にまき散らされることになる。
ならば、できるだけゴミを出さない、ということになる。つまりそれは商品を買わない、ということにかなり近いことになる。買ったもの、手元にきたあらゆる商品は、飲食物をのぞいて、全部ゴミになる運命なのだ。だからなるべくモノを買わない、消費しない、というのが環境的には正解になる。単純な理屈だ。
と同時に、消費しないということは、逆に立場にたてば、製造しないということだ。なるべく製品を作らないほど環境によい、ということになる。製造業の復活、などと言ってていいのか?ということになる。
本当に地球環境を考えるなら、トヨタも日産もソニーも、パナソニック、本田もなにもかも、Appleでさえ、活動を停止したほうがいいことになる。まあ他の企業が穴埋めしてしまうだけだろうが、その企業としての環境倫理を原理的に追求するなら、モノ作り自体を止めてしまうのが一番環境に良いのは言うまでもないだろう。
そして、よく言われることかもしれないが、原始時代といわねども、まあ江戸時代くらいの生活にみんなで戻れば、環境汚染はかなり低減するはずである。少なくとも国内で石油などのエネルギーの使用を一切やめてしまえば(つまり、自動車はゼロ台になり、電気も止まる)、数十年のうちに空気はクリーンになり、水もさらさら、田園風景美しいあっぱれな日本、美しい日本が復活することになる。
いま、ゴミ問題と大気汚染を一緒くたにしてしまった。まあ結局は同じ問題だったわけだ。
でも、それは嫌だな、というのが僕の直感的な気持ちである。やってみればまんざらでもないのかもしれないが、とても不便である。パソコンが使えないなんて、ネットが使えないなんて、電車に乗れないなんて、ちょっと考えられもしない。
不便で済まないことだってある。高度な医療も機能しなくなれば、以前は助けられた命が環境にやさしくしたせいで助けられなくなった、ということにもなる。救急車も動かない。消防車もやってこない。第一、農業機械が動かなければ、農作物の生産性もぐぐぐっと減ってしまう。みんな農業に就かなければ食べ物もおぼつかないだろう。
当たり前のことを長々と書いてしまった。まあつまりは、江戸時代まで戻ると環境的には理想なんだけど、そこまでできないよね?という地点にくる。じゃあどの地点までなら戻れるか、どのくらいまでエネルギー消費を減らせるか、ということになる。
もちろん、画期的な技術革命でエネルギー効率を上げていって、利便性はそのままで、エネルギー使用量を減らしてしまうという方向もある。その場合でも、少なければ少ないほどいいわけで、結局、どの程度のエネルギー消費、もしくは、どの程度の汚染なら良しとするのか、という設定問題が出てくるはずだ。
これは国家レベル、世界レベルで調整していくしかない問題に思えるが、個人に適用することもまた、可能だろう。
自分が使うエネルギー量、自分の活動が排出するC02やゴミを、自分基準で減らす、ということだ。これももちろん、減らせば減らすだけいい、となると、江戸時代問題が出てきてします。
つまり、ど田舎に引っ込んで、石油も電気も使わない自給自足の生活をするのが一番だということになる。もちろんパソコンやインターネットも使わないほうがいい。車も乗っちゃだめだし、飛行機なんて言語道断、ということになる。
そうなると、それはちょっと無理、となる。エネルギー消費をなるべく減らせといわれても、やはりクーラーは欲しい。寝るときは我慢したとしても、オフィスにクーラーがなければ俺は怒って帰ると思う。仕事にならない。そしてなによりも、飛行機乗りたい。クーラーを使う時間を減らせ、と言われば、がんばってみようかな、扇風機でいいかな、とおも思うが、飛行機にのる量を減らせ、と言われると、余計なお世話だ!言いたくなる。
同様に、電車もエネルギー使うから電車もなるべく乗るな、バスも乗るな、と言われると、おまえ、おれから行動の自由を奪うのか!と拳を振り上げたくなる。徒歩と自転車県内で生活してろよ、と言われると、おまえ正気か?と言い返したくなる。
つまり、ここにおいて、自発的エネルギー削減にも失敗するだろうな、という自分が見えてしまう。というか、そもそも何がどれくらいエネルギー使うのかを全部調べないといけないし、その上で自分は毎年どれくらいのエネルギーまでに制限するのかを決めることになるが、それは面倒が過ぎる。
ここで僕は途方に暮れる。あれ、おれ、環境を守る気ないんだわ、結局。みたいな。もちろん、今以上に悪くするつもりはさらさらないけれども、おまえ、来年はエネルギー消費おさえるために、あれもするな、これもするな、となったら、もう、うるせー!となるのである。それどころか、お金さえあれば飛行機乗り倒していろんな国に行きたいと思ってるし、もっと大きな家に住みたいし(つまり電力使うだろう)、まあでもそれくらいかな。
ということで、結論がでない感じになってきたけど、絶対的に明らかな問題として立ち上がっている環境問題に対して、自分のスタンスが決まっていないというのが現状なのである。
とはいえ、決めていかねばならないだろう。少なくとも自分にこどもが生まれて、ものごころがついて、お父さん、僕は地球環境を壊したくない、どう生きればいいですか?と問われてしますその前には。
ずっと避けてきたこの問題、少し考え始めなければいけないようです。ぼくは何も我慢できないにんげんだとは思いますが。。
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