せっかくベトナムに来たんだから少しは観光しておこうかと思って、お姉さんが日本に留学したことがあるというジュース屋の彼女がおすすめしてくれた観光スポットは戦争博物館だった。
へー、と少し意外な気持ちに。でも行ってみることにした。そして、圧倒されてしまった。そこにはベトナム戦争時に戦場カメラマンがとらえた数々の戦場の写真が写っていた。圧倒されてしまった。これだけ多くの実際の戦場シーンを矢継ぎ早に見たことはなかった。
最初は、入り口に飾ってある戦車に駆け寄ったのだ。へーこれが実際に走ってた戦車かあ、そして、よく映画にでてくる米兵を乗せるヘリコプター。ジャングルに兵士を送り届けるあの胴長の輸送用ヘリだ。まずその質感に驚く。素朴は鉄のかたまりでしかない。
もうちょっとハイテク感があるかとおもったが、鉄の板を丸くしてプロペラをつけただけ、みたいな質感。これがよく飛んでたなあ、という感じ。戦闘機もあったが、それも同じだった。こんなものがよく高速で空中戦やってたもんだなあ。と。すごい昔の兵器を見ている気がした。
でも、建物の中は写真ばかり。とびきり悲惨なものが多い。日本の戦場写真家の写真もいっぱいあった。
村が一個焼かれたり。村人全滅したり。話で聞くのと写真で見るのは違う。
もちろんここはベトナム、ベトナム側のプロパガンダとして機能している博物館のはずである。それでもそこに写っていることは事実の一部であることは間違いないのだ。
ぼくは、うわーーと思って、戦争は僕の手にはとても追えない、と思った。
戦争になると、あり得ないことがドンドン起きて行く。1つでも大事件だということが、毎日のように起きていく。命の取り合いの場、それは、日常とはかけ離れた非現実空間になってしまうのだということがミシミシと伝わってきた。
たぶん、良い戦争のやり方などないのだ。戦争になれば、戦場では泥臭い生きるか死ぬかのやり取りが必ず発生するのだ。その現場では、日常で培った倫理や道徳、理性なんてものはぶっ飛ぶのだろう。というか、戦場に行く若者の多くは、極限状態で自分がどう振る舞ってしまうか知らないはずである。あまりに日常とかけ離れた未体験の場所だから。
僕だって、もしうっかり戦場に送られたら、何をしでかすかわからない、と思う。ライフルを持たされて、ジャングルを歩いていたら、敵かもしれない村人が現れたら。打たなければ爆弾を投げ付けられるかも知れない状況になったら。打ってしまうだろう。それが戦場の正義なんだと心に言い聞かせて。
べつに民間人を殺した兵隊を擁護しているわけではない。でも、なにか戦場とは圧倒的な場所なんだ、というのだけはわかったのだ。あそこに立った時点ももう負けなのだ。
戦場に立たないようにする、立たせないようにする、そこが勝負のしどころなんだ、と感じる。館内を一周するころには、すっかり心は左翼になっていた。
というか、始まってしまったら、絶対に手に負えなくなる、それが戦争なんだと思った。
戦争には戦争が始まるだけの状況とプロセスがあったはずだ。直前になって戦争だけを回避することなどできない相談なのかもしれない。ただ、正しい戦争とか、適切な戦争をするということは、ほぼ無理であり、いずれは獣を野に放つことになるのだ。
やばい、やばい、これは手に負えない、こういう世界からはずっと遠ざかっておきたい、日本が戦争なんで、ぶるぶる、あり得ないことだ、という背筋寒い感がゾクゾクと襲ってきた。これはやばい、無理、やめたほうがいい。絶対。
そして、今回も何やら大きなテーマを書いてしまったが、もっと身近な幸せを追求して生きよう、と逆に改めて心に誓う気持ちになった。もっと手に負えるところで生きていこう、手に負えないことには手を出さないようにしよう、と。
戦争、あれは手に負えないよ、やばいです。
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