1/19/2013

ラディカル・オーラル・ヒストリー



 今日は僕にとって大切な本を紹介しよう。
『ラディカル・オーラル・ヒストリー:オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』だ。

この本との出会いはよく覚えている。あれは5〜6年前か、ぼくは神戸三宮のジュンク堂にいた。毎日、本屋に行くのが日課だった。毎日本を買うのも大変なので、たいていは立ち読みをして、気に入った本があれば買う、という日々だった。

あるとき、ふと、黄色っぽいオレンジ色の背表紙が気になった。つかつかと近づいて手に取ってみた。かなりの大型本で、アボリジニがどうたら、と書いてあった。まず、表紙のポップな感じがいいなあ、と思った。そして、ペラペラとめくってみた。

正確には記憶していないが、冒頭、著者がぼくに語りかけてきたのにびっくりした。
記憶のイメージだけを頼りに書くと、

「やあ、ぼくは保苅 実、歴史を研究している大学院生だよ。僕は今、アボリジニの村でオーラルヒストリーのフィールドワークをしているんだ。これから僕が面白いことを語って聞かせるから、楽しみに聞いて欲しい」

みたいなノリだった。まさにこういう友達に話すみたいな文章がつづられていた。そして、どうしてこの研究に入ったか、従来の歴史学にどんな疑問を抱くようになったか、などなどが、静かでユーモアながらも熱い情熱を感じさせる文章でつづられていた。

僕はなぜか急に興奮し、これは絶対買わなくてはいけない本なのだ、と決めてしまって、速攻でレジに持っていった。そして、すごくうれしい気持ちになった。

家に帰って、僕にしては珍しく、鉛筆で線をひきながら、興奮しながら読んだ。内容はうまくは語れない。従来の文化人類学のあり方を批判しているのはよくわかった。西洋の、ないしは先進国の視点で、先住民の話すことを「解釈」することの短絡さ、傲慢さを突き上げようとしているのがわかった。先住民の話す歴史神話を、解釈ではなく、そのままの事実として聞くことはできないのか、ないしはそうすべきなのではないか、という問いかけがあった。

たとえば、あるアボリジニの長老は、ジョン.F.ケネディーが我々を助けるために村にやってきた、と言った。そのような史実はない。だが長老はそう言う。こうした場合、文化人類学的には「解釈」を行う。これは何かのたとえ話をしているのだ、と解釈したり、ケネディーとは何か別のものの象徴なのだ、と解釈したり、さらに言えば、なんらかのきっかけで彼らはそう思い込んでしまった、と片付けてしまったりする。

ところが著者は、それではいけないのではないか、と言う。ジョン.F.ケネディーは本当にアボリジニに会いにきたのではないのか、と問うのだ。

これ以上は実はぼくもきちんと考えられていない。というか、考えれば考えるほど自分が「解釈」をしようとしていることに気づくばかりだった。

そして著者は歴史には身体性があると言う。歴史とは身体で感得すべきものなのではないか、と問うのだ(正確な言葉使いは忘れたので、はちょっと僕流になってます。。)。

そして著者は彼らの歴史を身体で聞くために、アボリジニの村に足しげく通い、共同生活をしながら学ぼうとしていた。

いま思い返しても面白く思う。ぼくは今でもこの著者の主張をきちんと理解していないのだ。よくわからないけど、僕もそう思う、みたいな感覚があるばかりだ。ロジカルにはなかなか近づけない内容だったのだろう。よくわからないけど、僕もそれが大事なことだと思うんだよ、よくわからないけどって。

そして、本書の後半は、著者が死に向き合っていく手記が手短に語られる。彼は本書の出版を待たずしてがんで亡くなってしまうのだ。最後まで明るく、希望が語られているように見えた。

本書の最後で、著者は自身が尊敬する歴史学者のことばを引用する。

「書くということは、深い井戸に石を落として、水しぶきが聞こえるのを待っているかのようだ、と言ったことがある。だが友人は、それは違うと言う。彼によれば、書くということは、グランドキャニオンにバラの花弁を落とし、爆発を待っているようなものだ、と。」

そして、最後の署名の前に、こんな言葉で締めくくるのだ。



さて、僕もこうして、一枚の花弁を投げ込むことができた。
ゆっくりと爆発を待とうではないですか。

保苅 実




彼が落とした一枚の花弁は、僕の中に何かを起こしたのは間違いない。それは爆発とは呼べないものかもしれないが、僕の中の何かを興奮させ、どこか「うれしい」という気持ちを遠い空に向かって放たせた。

このうれしさは何だったのか、それをいま、感じている。それを感じているこの瞬間がもう、少し、うれしいわけで、つまりはやはり大切な本なのだ。


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