7/13/2012

昨日は

ちょっと最近、ブログが書けなくなってきたので日記にしようと思ってる。
昨日あったことを書けばとりあえず、何かは書けるからね。

昨日は、また朝からダンキンドーナツで仕事。
もうおれ完全に常連だから、注文しなきても「コーヒー?」と聞いてくる。
なんかちょっと恥ずかしい。なんで恥ずかしいのだろう。
商売的には、貢献してるはずだし、この店が席が埋まることもないので長居しても害はないはず。でもどこかで、こんな毎日来て5時間も6時間も粘ってすみませんね、という気持ちがしてくる。これはなんだろうね。

まあ、いいとして、コーヒーとマフィンをたべて仕事開始。仕事以外にも動画みたり、いろいろしちゃうけど、とにかくまあやる。
そんで、昼過ぎに家にかえって、サーフボードとって海へ。いつものポイントへ。
おとついビーチに忘れ物してしまったサーフ着を弁当を売っているおばちゃんが持って帰って洗ってくれたらしい。ありがとうといって受けとり、海へ。
しかし、波は小さい。すぐ飽きてしまって陸へあがる。

気がつくと、真ん中のフィンが折れている!またやってしった。。
最近ではもうショックも起きない。もうこういうものなのだ。サーフボードは壊れる。治せばいいのだ。ということでフィンを買いにいく。いまいちなフィンしかないが、まあ知り合いの店なので文句言わずに買う。

ビーチに帰るとビーチボーイが、もっといいフィンがもっと安く知り合いから買えたのに、といわれる。そんなこといっても。。。なんかバリってこういうこと多し。ぼくが何かを買うと、かならず値段を聞かれて、もっと安いところがあった、といわれる。最初は悔しがっていたが、もういい。1円でも安く買おうという発想は人生を無駄にする思考だ。というか、面倒だ。だいたいオKでいい。

イギリス人サーファーが2人いた。結構気合い入ってる感じのプロな匂いがぷんぷん。話しかけようかと迷ったが、どこか気持ちが疲れており、やめた。最近、こういうこと多い。コミュニケーションへの欲望より、疲れた、という気分が勝ってしまう。なんか残念だ。昔は外国で外人見かけたら片っ端から話しかけてたときもあったなあ。。

最近、取り組んでいたiPhoneアプリの翻訳の仕事が一段落する。日本のアプリを英語化するという仕事。しかしこれは難儀した。この仕事を通しておれは気づいた。おれには日本語から英語への翻訳は不可能なのだ、と。
Google翻訳や辞書を駆使して、英語にすることはできる。まあ、意味は通るくらいの英文にはなっているだろう。しかし、それは本当に合っているのか、誤解を生まない文章になっているのかは、「わからない」のだ。文字通り、感覚としてわからないのだ。英語の自然感覚を持ち合わせていないということだ。

英語圏で販売される有料のiPhoneアプリの英語が、そんな「わらかない」レベルの英語でいいはずはない。これは現状のおれではどれだけ時間をかけても同じだろう。
幸いなことに、ネティティブの友達を巻きこむことに成功した。で、全文ネイティブ君にリライトしてもらったのだ。返って来た文を見ると、まるで違う文章になっている。あーこんなに違うのね。ということで、友人に頼り切ってなんとか納品完了。しかしなんともしんどかった。自分で最後ケツが拭けない、って仕事はしんどいんだね。つまり、最後の最後でおれがむちゃくちゃがんばればだいたいの仕事はなんとかなるわ、って結構思ってたりするタイプなんだけど、今回は、もうネイティブ君がやってくれなかったら終わりだなってことがビンビンにわかったので、なんか心穏やかじゃなかったです。でもすごくナイスガイなので、心配いらないんだけどね。でもほっと一息ないまです。


そして、昨日、とある動画を見ながらふと思い出していました。それは、あの震災直後の日々のこと。

あの頃、ぼくは本気でパニックになっていました。3.11の翌日から、原発がやばいことになってるらしいと知ってから、逃げた方がいいんじゃないかって毎日思いつめていた。信頼する知人からは逃げろコールがきていた。おれも真剣に逃げることを考えていた。が、逃げなかった。一番の原因は、仕事があったからだ。というか、こういうおかしな思考になっていた。今逃げたとする、会社は1週間程度休んだっていいはずだ、でも、その後どうする?放射性物質の降下が問題なら、事は1週間では済まないだろう、それならば、どこかで会社をやめるかどうか、みたいな決断をしなければならないだろう、しかし、苦労してやっと見つけた雇われ先なのだ、今後いまのおれの年齢でまともな雇われ先が見つかるだろうか。。また履歴書書いて、とかまっぴらだよなーと。

かたや、命の心配をしながら、そのことで眠れないくらい心配になりながらも、もういっぽうでは、再就職の心配でへきへきしていた。そして、周りの人に心配性だと思われるのもいやだった。でも、必死に放射性物質を緩和するという昆布を買いにいったり、食料を買いだめしたりした。もうちぐはぐのパニック状態だったのだ。

いま思えば、笑い話かもしれないが、ゲストハウスの友人と、もし放射能がまじやばくなったら、廊下のこの部分をビニール袋で封鎖しよう、などと話し合っていた。結構まじで。そこまで考えるなら愛知の実家に逃げればよいのだが、どこかで、思考がばらばらになっていたようだ。

で、あとから聞くと、どうも3月15日あたりに結構な量の放射性物質が東京にも降り注いでいたらしいじゃないですか。冗談じゃなかったってことでしょう。おれも食らってますよ。なんかおれ鈍かったのかなあ、といま思ったりしてます。生命体として鈍かったのかなあ、と。

まあでも、いろいろな情報が錯綜してるので、究極の本当のところはまあよくわからないままなんですが、でもね、やっぱり、なんか悔しさは感じたんですよ。生命の危機とまで感じて、体からアラートびんびん鳴ってたのに、再就職のこと気にして動けなかったということに。なんだかなあ、って。これがおれの実態なんだなって思った訳です。

あともう一個、やっぱり、自分だけ逃げたみたいに思われたくなかったというのもあるのかもしれない。ゲストハウスでみんなで住んでたし、東京に実家があってどこへもいき場所がないって友人もたくさんいる。高齢者の知人だっている。そのひとたちを置いて自分だけ逃げるのかっていうのも考えていた。
でもその一方で、ハウスの韓国人なんかには、できるだけ早く日本を出た方がいい、と指示していたのも事実。あのあと、ちょっと早まったかな、なにも帰国させる必要なかったかな、と思いつつ、でも今は、やっぱり帰ってくれてよかったかも、とも思った。つまり、完全にシロじゃないわけでしょう?15日あたりの危険度は。まあそんなこんなつらつら考えると内蔵のあたりがいやーな感じがしてきます。

とはいえ、僕の中にひとつの命題が生まれている。いや、昔からあるんだけど、生計をたてるとは一体なんぞや、ということ。生計のせいで、生計のせいで、生計のせいで、、、













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