8/28/2012

おれはミドルタイドを狙う男

ここ2日ほど、朝、9時半に起きるようになった。急にいい時間に起きられる。不眠症の谷間にさしかかったのかもしれない。谷間ということは、普段は不眠症、ということですが。

そして昨日は、ドーナツで4時頃まで仕事して、クタビーチへ。ちゃんと潮の状態をウェブでチェックした上での通勤である。ずばり、ミドルタイドを狙うのだ。ミドルタイドとは、干潮と満潮の間だ。つーっても干潮(ロータイド)と満潮(ハイタイド)以外はミドルタイドなんだけどね。ハイタイドぎみのミドルタイドが一番いい波が立つ事がわかってきたのだ。

もう波乗りの話はいいや。なんか同じだ。

そうだ、ぼくは週に2日は波乗りに通うようになって5ヶ月、それでも毎日、小さな感動がある。それを書き残しておこう。それは、波あるかな〜とバイクにサーフボードを積んで走って、いっぱいとまってるバイクの列になんとか割り込ませて駐車して、ボードを抱えてビーチに降り立つ。あれ?だいたい波がないように見える。というか、ちょうどいいベストな波が立っていることはまずない。で、すこし観察する。少し待てばいい波が来るかもしれない。その時のために体力を温存しなければならないのだ。などと思いながら、海を眺めて座っていると、ビーチボーイがサーフィンしないのか?と不思議そうに声をかけてくる。ぼくは、波が上がるのを待っているのさ、と言う。おお、サーファーみたいだ、と思う。しかし、すぐさまビーチボーイに言われてしまう「カモーンtaka、何を待っているんだい、ほらそこにいい波が立ってるじゃないか!」と。

それでぼくもようやく、あれ?と今気づいたようなフリをして、あ、ほんとだ、波あるね、じゃ、いってきまーす、といってボードを道連れに海へ歩いていくのだ。
何度も同じことをしているからもうわかっているのだが、単におっくうなのだ。毎回。サーフィンはやっぱり疲れるスポーツである。波をかきわけかきわけ沖へ行かなければならないし、波がきたら必死でパドリングしなければならない。いざ始めてしまうと楽しくて疲れも忘れるのだが、それでも毎回、海へ入る前はおっくうでしかたがないのだ。

で、しぶしぶな感じで海へ入る。軽くストレッチして、リーシュコードを足に結んで、ボードを小脇に抱えておそるおそる海へ入る。この季節、水が冷たいのだ。「冷めて〜」わかっていても声似出してしまう。くるぶしくらいまで水につかって、いよいよ諦めて海へ深入りしようとするそのせつな、はっと空の広がりに気づく。あーー海だ。海なんだな。左右にえんえんと続く海岸線。遠くに見える建物、ゆるい魚眼レンズみたいに見渡しきれない空。ああと声が漏れる。気持ちいいな〜。

これである。この瞬間は、毎回、毎回、同じことを体験しているはずなのに、毎回、いいなあ、と小さく感動してしまうのだ。ああ、ここは海なんだなあ。


そういえば、ある学説によれば、人類はそのムカシ、何百万年も昔、波打ち際で暮らしていたそうである。ちょうどそのころの化石が出土しないのだ。その理由は化石が残りにくい環境で人類というか類人猿が暮らしていたからだという説だ。それを「アクア説」という。波打ち際で暮らし、魚や貝をとって生きていた。外敵が襲ってきたらザバザバと海へ逃げ込んだ。海中で親子でばしゃばしゃ遊んだ。その証拠が現代の我々にもあるという。それは水かきだ。我々の手の指の間に、わずかに水かきの痕跡があるという。たしかになんかそれらしい感じの皮膚があるね。これは他のサルにはない特徴だそうだ。そして何より、海と見ればわくわくして泳ぎたくなるような陸上動物はそれほど多くない。人間くらいだ。人間はその遠い記憶により、海が懐かしくて仕方がないのだ。それを生命記憶というらしい。ぼくを海へいざなっているのもこの生命記憶なのかもしれないのさ。


とはいえ、ふとももあたりまで海につかる頃には、そんなことはもはや一ミリも考えられず、ただほかのサーファーを避けながら、狙ったポイントへいち早くたどり着こうと、早足の水中歩行を試みるばかりなのだ。



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