9/30/2012

バンコク着きました

27日木曜日、無事バンコクに到着。
すぐに友達が迎えに来てくれてお酒を飲みに。友達も日本からちょうどバンコクに来ていたのだ。それから連日連れ立ってもらって、バンコク在住の日本人を何人も紹介してもらった。おかげで一気に知り合いが増えた。ありがたい。ほんと助かります。

そんなこんなで飲み続けて今日はおやすみです。 かねてよりウェブでチェックしてあったコワーキングスペースをお試しで行ってみた。思ったよりずっといいところだった。まず、立地もいい。静かな住宅街の中。駅から10分くらいか。特別に作ったような二階の建物で、ビルではないところもよい。かなりセンスいいな〜とびっくりする。今年の5月にできたそうだ。土日と通ってみたが、仕事がはかどる。しかし土日だけに閑散としていた。平日はにぎわうらしい。ここでローカルや外国人のフリーランサーと知り合えることを期待している。カフェでひとり仕事は少々あきたのだ。やはりオフィスっぽいところで働きたい。毎日通える場所が欲しい。そんな気持ちもやはり芽生える。こんどはそれを試してみようということだ。まるで会社のように毎朝通勤しようと思っている。朝9時から夜10時までやっているそうだ。かなり使える。

とここまで書いたところで、コーヒーを取りに行こうとしたら、コーヒーカップを落として割ってしまいました。。オフィスのカップです。わびです。何をやってるんだか。スタッフはやさしく、それ安いから気にしないで、と言ってくれました。

とりあえず、毎日通うオフィスが決まったことでだいぶ落ち着きました。いざとなれば朝から晩までここにこもっていたっていいわけです。仕事がはかどるというものです。なんせ昼間は暑い。昨日も今日も、昼間に数時間、アパート探しに歩いていたら、すぐに汗が噴き出し、頭がぼうっとしてきます。やばいな、という感じ。これ油断してると熱中症なるな、という感じです。バリ島から来た僕でさえ暑いのです。たぶん真夏の日本の感じでしょうか。

そして、先ほども書いたとおり、友達の配慮と好意により、いきなり日本人の知り合いができたので、ちょっとほっとしています。しかも在住が長い人たち。なにかあったら相談できるし、さみしくなったら酒が飲めるというものです。もつべきものは、ということです。

そして今日、 住む候補地をいろいろ練り歩いているとき、ふと、あれ、おれ何やってんだろ?という疑問が今更のようにやってきました。そのときこう考えていました。あとはアパート探して、ビザの取り方調べて、春までに免許の更新で日本に帰って、そのあとまたバンコクだとしたらビザは何をとればいいのかな、おっとこの旅の目的地であるバルセロナにいつごろいけるかな、などなどととりとめなく考えていたときのことです。

あれ、おれ何のためにこんなことしてるんだっけ?と疑問がふってきました。

なんで外国いるんだっけ。なんで移動してるんだっけ。

なんか、目的なく動いちゃってるよなーって。

というのも、連日、知り合った人に自己紹介するたびに、なぜバンコクに?と聞かれます。それで、なんとなく、とか、友達と合流するため、とか答えているのですが、相手は??という反応。いつまでいるの?と言われても、まだわからない、最低2ヶ月、たぶん春まで、そのあとまた戻るかも、などなど支離滅裂に聞こえても仕方ありません。

大抵の人は、バンコクに住みたくて来た、であるとか、○○をするためにタイに住むのだ、という目的があるのだろうし、在住が長い人は、意を決して移住を選んだということでしょう。それに比べて僕のこの腰の据わらなさははんぱないわけです。申し訳ない気持ちになるときもあります。

なんかこんなことでいいのかなーーって疑問が湧いてきます。
もちろん、選んでやってることなので、今回こそは意図と意志を持って動いてるつもりですが、それでも、じゃあ何のためにタイに来たのか?と問われるととたんにしどろもどろになってしまうのです。「いろんな国に滞在してみたくて」というのがギリギリのホンネです。ほんとそれだけなのです。

あとはそれをいかに続けれるか。サバイバルできるか、というだけのことなのです。

ところで、最近、サバイバル状況がまるで改善されてない自分に情けない思いでいっぱいです。簡単にいうと金に余裕がなかなか芽生えない、ということです。芽生えませんねー余裕。

ということで、バンコクはもう仕事、仕事、でがんばる所存です。がんばれるかな。。







9/26/2012

最後の日

今日はバリ島最後の日だった。あしたバンコクに発つのだ。
今日は、若干浅い眠りの感じで起きて、頭がぼうっとしていた。アパートのとなりにあるいつものワルンへ朝食を食べにいく。いつものようにおかませナシチャンプルーだ。今日も看板娘は無愛想だ。でもママはなんだか本当のママみたいにかわいがってもらった気がする。
そして、腹が満たされたらいつもの職場、ダンキンドーナツへ。いつものメンバーが迎えてくれる。コーヒーサトゥ?(1つ?)という声も飛んでくる。いつものように人差し指を一本立て、「サトゥ」と答える。
そして、いつものようにパソコンの電源をつないで、仕事を開始した。

すると、最近よくダンキンで会うバリ人の男の子が、ちょっと聞きたい事がある、と言う。なんでも、日本に行きたくて仕事を探しているとのこと。ホテルの住み込みの仕事が見つかったんだが、月給が1万3千円とのことだが、どう思う?と聞かれた。
1万3千円?なんども聞き返したがやはりそうだ。月給でそれはちょっと安過ぎると思うぞ、と回答。いくら住居費がただだからといって、1万3千円でそのほかのすべてを賄うのは大変だろう。きけば2年の契約だという。おれは、おすすめできない、と即答した。

しかしどうなのだろう。飛行機代も出るらしいので好条件と言えるのだろうか?いやいや、いくらなんでも安過ぎる。きっちり8時間労働させられるはずだ。きっと後悔するだろう。最低でも5万はもらえるところを探した方がいい、とアドバイスする。それがミニマムだ、と。

あと、北海道と大阪にも仕事の口があるということなので、そっちを検討せよ、と言っておいた。なんでも英語教師の仕事なら7万円くらいもらえるとのこと。そっちのがいいんじゃないか、と答えておく。

なんか面白い。バリ人が日本に来たがっている。ぼくは日本からバリに来た日本人だ。なんでも、もうバリはいやだ、渋滞もうんざりだ、他の国へ行きたい、とのこと。面白い。どんないい国であれ、ほかの国へ行ってみたい、という欲求が若者にはあるのかもしれない。などと思う。

そして、最後のサーフィンへ。りょーこも誘う。おもえばりょーことはほとんど毎日のように会っていた。とくに前半の半年などは、昼飯、晩飯を一緒に食べたりする仲だったのだ。そんな友達とラストサーフィンへ。

おれは、バリの神様に愛されたのかもしれない。そんな風に思うことがあった。それは、いつにないパーフェクトウェーブに乗せてもらえたのだ!今日はオンショアの風も強く、波は小さめ、うまい人たちはぜんぜん海に入ってなかった。ビギナーたちと一緒に波打つ波間をぷかぷか浮きながら、リラックスムードでサーフィンしていた。ちょっと人が込んできたな、と思って、人がいないほうけパドリングしていった、そのときである。右の方から、なんかすごいきれいに割れているDVDで見たような波が無人でやってきた。ここポイントね。たいがいいい波には誰かうまい人がもう乗っている。その場合は波をゆずらなくてはならない。それなのに、ざーーと音を立てて右から崩れていく、いかにも乗ってくれ!といいたげな波が、誰も乗せずにぼくのほうへやってくるではないか!まじか!おれは急いで方向転換、すでに波はすぐ背後にせまっている。もうシノゴノ言うひまはない。ぼくは前をしっかとにらみ、渾身のパドリングを開始した。そして、次の瞬間気がつくと、ぼくは波の上を走っていた。斜めに。右斜め前方へサーーと音もなくすべっているではないか!え、まじ?おれ斜めいけてる?しかし、見まがうことはない、右のほうに見えていた子どもがぐんぐん近づいてくるではないか。右に滑っている証拠だ。そして、その5歳くらいのこども(海の中で立ち尽くしている)を見ると、不安げな表情でこちらを見ているではないか!ん?あそうか!それがこっちへやってくるんじゃないか、と不安なのだ。どうしよう、どうすればよけられるんだ、どっちに逃げればいいんだ?よくわかる、さっきまでのおれがそれだ。ぼくは子どもに、大丈夫だよ〜みたいな顔をみせて、ぐいーーっとカーブしてこどもをよけた。そして着水。ちいさなガッツポーズがでた。

おもえば、書いた。七夕の短冊に。今後一年の抱負としてぼくが書いたのは「サーフィンで横にすべる」であった。そのときは、果たして一年で叶うか、いや、叶わないとしたらそうとう悔しいだろうな、という気持ちで書いた。しかし叶った。以外と早かった。

もちろん、まぐれみたいなものだ。次もやれと言われたらすぐにはできにだろう。だが味わった。たしかに横に滑るというサーフィンの醍醐味(の一端)を味わったのだ。とりあえず、満足していいだろう。ひとつ超えたのだ。

あーバリの神様のプレゼントかな。などと殊勝なことを思いながら、サンセットには少し早い、だが確実に沈み行く夕陽を見ていました。

などと言う矢先、りょーことの最後の晩餐を終えて帰宅する途中、サーフボードを2回もぶつけてしまい、がっつり傷ついてしまいました。さらに、家に買るととなりの子どもしーくん(3歳)が待ち構えていて、わーーと寄って来てバイクに積んであったボディーボードを強奪、ぼくがサーフボードの傷をチェックしている間にふとみると、コンクリの上にボディーボードを置いて、そのうえで波乗りサーフォンご機嫌バージョンで踊っていました。おいおいやめてくれーそれも結構いいやつなんだよーー!
で、もういいから早く部屋に入ろう、それもってきてね!と言うと、わかった!と叫んで、ボディーボード(ヤフオクで落としたけっこういいやつ)をガリガリと引きづりながらコンクリの階段を駆け上ってきたのでした。あー。。。バリの神様、ちょっとおつりを渡さなければならなかったのね、、、

ということで、引っ越しの準備もたいがいととのい、1年間も借りてしまったバイクを返しにいって、最後の洗濯をした後、いま、夜22時48分。明日早起きできるかな、なのでした。さて、明日、バンコク。地味に楽しみです。

9/24/2012

斜めに行けた日

昨日、もしかすると、はじめて、サーフィンで斜めに(横に)滑れた記念すべき日なのかもしれない。

こういうことがあった。
昨日、サーフィンを教えることになっていて、少し時間があったからひとりで遊んでいた。波は小さく、うねりはなくスープばかり。だから何ら期待をいだかずに、準備運動ぐらいのつもりで遊んでいた。すると、すこしうねりらしき波がひゅーっとやってきた。あ、あれ乗ってやれ、と思っていつものようにパドリング開始、波がきたので、よっこいしょっと立とうとしたら、あれ?なんか左の脇のあたりから押されている感覚が。あれ、横から押されてるよー、いっしゅんどうしようか迷う。ぼくは、サーフィンレッスンで一番大事なポイントとして生徒達に口をすっぱく言っているのが「前を見る」ということ。下を見るとバランスをくずしてします。かならず、遥か遠く、まっすぐ前方を見ながらボードに立て、ということだ。どうしても足下をみたくなるが、それではだめなのだ。

ということもあって、まっすぐ前を見ながらパドリング、テイクオフしようとしていた矢先だった。まっすぐ前をみて、そっちの方向に行こうとしているのに、波が横から押してきたのだ。脇を差される感じだ。おいおい、おれまっすぐ行きたいのに、横から押すんじゃネエよ、と一瞬だけ思う。だけど自然とボードが右斜めにわずかに向けられてしまって、どうしてもまっすぐならない。あ、そうか、これは横にいけばいいのかも。ということで、右斜め、ボードが向けられた方向に向かって立ち上がってみた。
すると、するーーーっと岸のほうまで連れていかれた。しかし、なんとなく海面を見つめてしまったので、自分が実際にどの方向に滑ったのかは定かではない。本当はまっすぐ滑っただけなのかもしれない。だが、体感的には「あれ?これ新しい!」という未体験な感触があった。するーーと滑って着水。あれ?もしかしていま横にすべったのかも?という感じになった。

その後、ていのいい波が来なかったので、もう一度それを味わうことができなかった。が、これはもう僕のなかでは「横に滑った記念日」にしようと決めた。たぶん横に滑ったのだ。ささやかながら。

というわけで、もうバリもあと4日というときに、次のステップへの足がかりをつかんだ気がした。してしまった。一瞬、あ、しまったバンコクなんか行くんじゃなかった。このままサーフィン練習すれば横に滑れるようになるのかも、という思考がよぎる。しかし、しかし、そんなものだろう、とも思い直す。これはバリ島が最後にくれたささやかなせんべつなのだと解釈した。

だが、忘れないように書き残しておこうと思う。次回、バリ島に帰ってきたときは、あの日の感触から始めるのだ。波が勝手に横から押してくる。それに素直に乗っていく。それだけでいいのだ。そこには、緻密な計算も多大な腕力も必要なかった。たぶんあれこそが、正真正銘、波に乗る、ということなのだ。あのスムーズさが鍵だ。

次回は、ここから始め、これを追求する。どうせ体育系ではないおれだ、いかに労力を使わずに波に乗るか、その研究をはじめるのだ。それこそがおれのサーフィンなのだ、という革新の芽生えをもって、今日の記念碑とする。

つーか、サーフィンやっぱ面白いわ。


9/22/2012

元寇

9月からオンラインで歴史のコースをとっている。オンライン学習をお試しするのだ。「coursera.org」というサイトで、英語の勉強もかねている。コンテンツはとてもよくできていて、毎週一時間くらいの講義の動画をみて、エッセイを書くらしい。エッセイのほうはたぶん書かないw

で、そのコースは西暦1300年以降の世界の歴史についてなのだが、初回にシルクロードとモンゴル帝国の話題がでてきた。チンギスカーンである。13世紀当時、モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻した。ヨーロッパまで侵略。ものすごく軍事力が強かったということだろう。幸運にも日本は侵略してきたモンゴル軍を二度に渡って九州で撃退している。日本の防衛力も優れていたということだろう。もちろん侍の時代である。鎌倉幕府の時代だ。

記録を見ると恐ろしいもので、モンゴル軍は最初、対馬を占領、何千人という日本人を殺したり奴隷にして連れていこうとしたらしい。それが当時の戦争のスタンダードだったのだ。侵略された土地の住民は殺されるか、奴隷になる。

そして、日本にも実際にモンゴル軍が攻めてきた。侍が撃退したからいいものの、負けていたら少なくとも九州の人たちは奴隷になっていただろう。奴隷として大陸に連れていかれるか、九州が占領されていただろう。本土まで来たかもしれない。

そんなことを許すわけにはいかない。侍はよく戦った。九州に住む人たちを守ってくれたのだ。もちろん侍というのは住民を支配していた支配層であるのも事実だ。農民を圧政していた可能性もある。とはいえ、モンゴル軍なら虐殺か奴隷化である。はやり、侍たちは同じ日本に住む人間として、同胞を守ったというのが実際だろう。

そしていま、尖閣問題。まだ戦争状態ではないが、これをどう考えるか。もちろん、まだまだそんな場面ではないが、もし中国が尖閣を占領、その勢いで沖縄、九州まで占領しにくる、などのシナリオがあり得るだろうか。そしてそのあかつきには日本人を虐殺、もしくは奴隷化するということは。もしあり得るのであれば、あらゆる軍事力を駆使して阻止しなければならない。元寇と同じだ。

しかし、ここからが難しい。近代戦以降、国民を守るための戦争が、国民を大量に殺してしまうという新展開のことだ。ミサイル、核、空襲、それらが駆使されれば、もう戦争=住民大量死は免れない。それが第一次世界大戦以降で起きたことなのだ。

中国の戦艦を上陸させなければいい、ということではないだろう。ミサイルが飛んでくる。核もある。ならば、先制攻撃であちらの軍事施設を破壊するしかない。住民も巻き添えを食うだろう。報復もあるだろう。もう大戦争だ。それはできない。

最終的には戦闘行為以外で決着をつけるしかないのだ。

もっと単純化して僕の考えをいうと、もちろん、とっても極端なケースを想定することになるが、中国がまさかの侵攻を開始して、日本国民が殺されたり奴隷化されることがあれば、軍事力をもってそれを阻止するのは当たり前のことだと思う。是が非でもやらなければならない。それが国家の義務でもあるはずだ。ところが尖閣には住民がいないらしい。ならば、まだその事態は起きない。領土の問題だ。そこは、まだ、交渉でうんぬんする場面だと思われる。うっかり戦闘行為を行なって戦争に発展して人がたくさん死ぬようでは元も子もないのだ。

というかぜんぜんそんな事態ではない?wなんとなく外国にいると危機感の肌触りが伝わってこないので、よくわかりません。僕自身といえば、戦争には遥か遠いと思っています。というか、両国政府が結託して何かたくらんでんじゃないの?というほうが信憑性がありますね。どうなんでしょうね。。









9/20/2012

転校生だった

あのころ転校生だった。中学一年生のときだ。

ぼくは、小学校卒業と同時に、父親の生まれた土地に引っ越しことになった。家を建てたのだ。当時住んでいた町からは一時間程度のところだった。少し田舎。ぼくははっきりと覚えている。引っ越しの日、車に乗っていた。ラジオから東京JAPの「摩天楼ブルース」が流れていた。ぼくは、窓の外、だんだん田舎になっていく風景を見ながら、「中途半端な田舎に来ちゃったな」と思った。ぼくは田舎といえば牧場のような風景を期待していたのだ。だが、田んぼや空き地の間に、中途半端に都会風の家が点在するような、そんな風景だった。(いまでは故郷として愛していますよw)

引っ越しそうそう、中学の入学式があった。ぼくは新入生だ。なんと男子は全員坊主とのこと。なんでこんな田舎に来てしまったのか、と嘆いた。式が終わって新しい教室に座っていると、なんだが騒がしい。みんながぼくを見ている。ざわざわしている。そして口々に「転校生?」とつぶやいていた。転校生?入学式そうそうに転校生はないだろう、と思ったが、あったのだ。その中学は下の小学校からそのまま持ち上がりで、すでに全員知り合い、という学校だったのだ。つまりぼくは、入学当初から転校生扱いになってしまったのだ。

そんなこんなしながらも、友達はすぐできた。すぐに遊びにさそってくれた子もいた。そして驚いたことがゲームの普及率だった。ほとんど全員が任天堂のファミリーコンピューターを持っていた。以前住んでいた場所では、仲間うちでひとり持っているか、という状況。ここではどこの家にいってもファミコンがあった。

そんなことを思い出すのは、きっと来週にはバリ島を出るという臨場感が高まってきたせいだろう。お引っ越しだ。もちろん、早ければ来春にも(もしかするともっと早く)戻るつもりだ。だけど、はやりお引っ越しなのだ。少し感傷的になる。あの人にも会っておいた方がいいだろうか。。なんておおげさなw

それとも、いま、何気なしいに懐メロを聞き始めたからかもしれない。いま「そして僕は途方に暮れる」がかかっている。その前はトムキャットだ。

そして、そんな中学入学式の風景をあとあとで見た事がある。学校がビデオを回していたのだ。そのビデオをたしか、中学3年くらいのときに、いや、もしかすると卒業してから遊びにいったときに、見た。入学式の風景や、お母さんに手を引かれて歩く学生服の新入生達たちが写っていた。突然、ぼくらしき人物がうつった。自分のことは間違えないものである。たしかにぼくである。でも眼をこらして二度見してしまった理由は、その小ささだった。そこは下駄箱らしき場所、母の後ろをちょこちょこ歩いている僕は、母より背が低かった! 母はどちらかというと背が低い方に入る。それよりも頭ひとつ小さかった。そんな物体がひょこひょこと心配そうに歩いているのを見た。あれは一体誰だ。12歳から15歳、中学の三年間で、ぼくはまるで別の物体に進化したのである。それはもう本当に。







9/19/2012

友帰るそしてバンコク

一週間いた友達が帰っていった。水中メガネを忘れていった。近視の度が入ったいいやつだ。無事帰国したとの連絡がきたので、水中メガネ忘れてるよ!と言うと、捨ててください、との返答。もう使い古しだからとのこと。度付きをぼくが使うわけにいかないので捨てることにする。

そして、突然ですが、来週からぼくはバンコクにしばらく行きます。
どっちみち一時出国しなければいけなく、どこに行こうか迷っていたところ、友人がバンコクに来るということで合流することに。そして、どうせなら一ヶ月くらいいてみよう、ということで、バリ島の部屋を引き払うことにしました。思えば、バリ島もちょうど一年住んだ。来たときに、季節がぐるっとめぐるまで、一年はいてみよう、と漠然と思ったのを思い出す。そして季節が巡りました。といっても雨期と乾期しかないんだけどね。そう、バリ島はそろそろ乾期が終わり、雨期が近づいています。まだ雨は降りませんが、徐々に夜が蒸し暑くなってきています。ビーチの風向きも少しずつ方向転換しはじめています。

これから雨期になるとぼくのホームビーチであるクタビーチは、波が悪くなってきます。風が沖から岸に向かって吹きはじめるのです。沖から吹く風は波の形を崩してしまうのです。サーフィンがしずらくなるということです。そして、ゴミも岸辺に吹き寄せられるようになって、海中もゴミだらけになります。ということもあって、どこかほかの国へいくなら雨期だな、と思っていたところでした。

一年、あっという間でした。
最初の半年は勝手が分からず、仕事もパニクって、サーフィンができるビーチも見つけられず、右往左往でイライラしていました。でも、そんな中で、バリ人の友人ができ、バリ式の結婚式を見せてもらったり、こどものお祝いに参加させてもらったり、今思えば結構ディープな体験をいきなりさせてもらっていたことに気づきます。ロジョール、ありがとう! こんど酒買って帰るからね。

そして、クタという地域に引っ越して、ようやく波乗りを開始。一時は本当に毎日通って、みるみる痩せていきました。頬もげっそりしちゃって、心配されたものです。今はペースを落として週に1、2回。体力的にもだいぶ慣れてきました。その証拠に、またお腹の奴がぷっくりとふくらみはじめています。お前は本当にタフなやつだ。。落ち着いたらすぐ成長をはじやがる。

そんなこんなのバリ島生活でしたが、ここでいったん区切りをつけようと思います。
次はバンコク、そして一時帰国を予定しています。

バンコクでの目的は2つ。1つは仕事に集中すること。どうせサーフィンできない場所にいくのですから、いっそのこと仕事にもっと注力してみようと思っています。まあ性格上。続くかはわかりませんが。あわよくばいろいろ展開させていきたいですね。そしてもう一つは、友達をつくることです。バリ島でも友達はできましたが、もっとどんどん人と会って、どんどんいろんな国のひとと知り合っていきたと思っています。まあ性格上、自分から話しかけられるかはわかりませんが。。

そんなこんなで、久しぶりの大都会、わくわくしています。しかし、若干、いまさら都会になじめるのか?コンクリートジャングルに住めるのか?という危惧もあります。毎日海を見て暮らしていました。バリの空は本当に青いのです。

まあでも性格上、だめならだめで、さっさと諦めて移動しますので、心配いりませんね。バンコクは実に15年ぶり、どこまで変わっているか見当もつきません。

しかし、なんやかんやいってもバリ島、一年いたので、小さな故郷くらいの感覚にはなっているのかも。帰って来れる場所です。友達もいます。勝手もわかっています。

という感傷に浸っている間はないのです。バンコク行き、急に決めたので、いまさらいろいろ調べていますが、思ったよりずっと物価が高いです。バリ島よりはずっとお金がかかりそう。これはほんとにガンバらないとやばいことになるな。。また新たな冷や汗がにじむ、バリ島、雨期の予感がする蒸し暑いダンキンドーナツの正午なのでした。



9/16/2012

友達がきている

いま、吉祥寺ゲストハウス時代に一緒に住んでいた友達が遊びにきています。
毎日、狂ったようにしゃばり倒しています。ぼくが、です。

思えば、彼とは毎朝井の頭公園で待ちあわせて駅まで道のりをおしゃべり散歩した仲なのです。毎日、毎日、人生について語っていました。

そして、いま、一年ぶりに再会して、また同じ話をしているおれたち。回答のない人生よもやま話です。でも、この1年でお互いの状況は少し変化しており、具体的な内容こそはちがいます。直近の悩みの内容が1年たって変わっています。当たり前といえば当たり前の話でしょう。環境が変われば悩みも変わるのです。ところが、彼がきてから5日間、毎日24時間一緒にいるわけですが、話のネタも完全に尽きて、そうなると、見えてくることがあります。それは、お互いにまあ、お互いというか、ぼくは、ということにしますが、まあ、よくよく目を凝らせばもう10年くらいのスパンで同じ大きなテーマを突破できずにぐるぐるしているというのが見えてくるものです。そこらへんにくると、もはやおしゃべりでは何の解決にも安らぎにも癒しにもならないということがわかってきます。

まあでも、エネルギーの放散としてのおしゃべりは、ぼくには本当に必要だということがわかります。何の因果かひとりで黙々とやる翻訳という仕事を選んでしまいました。これがことのほか、つらいです。しかし、おしゃべりしながら翻訳できませんから、しかたがありません。おしゃべりしながらだとむしろ効率があがる、そんなワーキングスタイルを身につけたいものです。

そして、毎日波乗りをしたり、観光したりして、今日はちょっと二人ともお疲れモードです。ずっと寝ています。今日はどこで何をしたらいいのだろうか。。ネタもつきてきました。

xxxxx

とここまで書いて、結局は波乗り、そして夜遊びにいってきました。まあまあ楽しんでくれたようです。

そしてぼくは、自分が本当にばかなんだということを本当に今、かみしめています。
どうしても破綻のほうに行動が向いてしまう、そんな傾向が間違いなく、あります。
人生を着実に積み上げていく、そんな生き方をどうしてもしたくない、というかたくなな何かが僕の中にあるのです。投げやりになりたい。なげやりに生きてしまいたい。そんな気持ちがぼくの中でふくらし粉のようにふくらみ、ぼくをどんどん追いやっているのです。もちろん僕はもう大人なので、本格的に路頭に迷う前に、なんとかします。それはします。しかし、もう、どにでもなれ!そんな僕のなかに鬼がいて、おまえ、もう、どうにでもなれ!とけしかけてくるのです。この鬼を(ちょっとかっこつけすぎ?)、この鬼をどう飼いならすか、それがこれからのテーマになりそうです。鬼が言い過ぎなら、ネズミ男でもいいです。ネズミ男をどうてなずけて、一応まっとうな範囲の人生に着地するか、それがいまからのぼくの闘いです。応援が必要です。声援を!もっと光を!






9/06/2012

どこか滑稽な

ほんとにおれは出不精なんだ、とつくづく思っているダンキン9時間滞在チュウです。

最近朝起きる時間は一定して来た。だいたい9時45分。面白いことに、二度寝して自堕落な後悔と開き直りのひとときをまんじりともせず過ごした上で、ああ、どうせ昼とかなんでしょ、もう、と思いながら、しぶしぶ起きると、あれ、まだ10時前?!そんな日々です。

朝はまず軽く瞑想します。きっかり5分です。最初は20分だったのですが、日に日に短くなって、今ではこれだけは死守しようの5分です。
なんとなく、瞑想を習慣化したいと思いながら、挫折を繰り返してのとりあえずの5分です。そんで、シャワーを浴びて、次に行なうことは、朝飯かいますぐか、と迷う事です。となりの食堂に朝飯を食いにいくか、それとも、いますぐダンキンにいくかです。なぜ迷うのか。そう、ぼくはやる気がなることを恐れているのです。たまに、朝飯を食ったあと、なんとなくまた寝てしまったり、だらだらして昼になってしまったるすることがあります。そんなことならいっそ早くダンキンにいってコーヒーをかきこめば、なんとか仕事モードになることができるのがわかっているからです。で、今日は、昨夜食べ過ぎたということもあり、朝食抜きを選びました。ダンキンへレッツゴーです。バイクでビーンと5分ほど走って、ダンキンへ。今日は、まあまあ仕事を進めることができました。

そして、お昼も回る頃、もうひとつの迷いがやってきます。いつもの迷いです。それは、今日はサーフィンに行くのか、行かないのか、です。このまま仕事を続けたほうがいいんじゃないか?ということです。いつも仕事が波に乗れるわけではありません。今日はなんとなくいい感じ、仕事がはかどっています。こんな日はできるだけ仕事を片付けてしまったほうがいいのではないか、と思うのです。しかし、午後も3時を回ると集中力が落ちてくることもわかっています。それならいっそ、サーフィンに行ってしまったほうがよくはないか?むしろリフレッシュになるんじゃないか?という迷いです。
もうかれこれ1年たつのに、同じ迷いに迷い続ける、ぼくは怠け者なんでしょう。

ええ、わかってします。仕事をきちっとプランすればいいだけです。月にこれだけの仕事をする、ということは今日はこれだけ、というふうに決めておけば、今日やるべき仕事を終えたかどうかで判断できます。終えたならサーフィンです。終えていないなら、仕事です。単純明快。しかし、そのプランすることを怠けているがゆえに、毎日が優柔不断のカーニバルになってしまうのです。

ばかです。

そして、今日は、思わぬ助けが入りました。ウェブで波情報をチェックしたら、今日は波が高過ぎる、との情報をキャッチ。なんとなく、迷いが薄れてきます。ならば、仕事続行じゃない?

ということで、今日は仕事デイになりました。といいつつ、今週はまだ一回もサーフィンしてません。。どういうことなんだろう?自分でもわかりません。たぶんばかだからです。

おれってばかなんだなあ。これは実は、やっとここ最近、晩年になって気づいてきたことで、大変に困っています。いままで、若かりしころは、自分はひたすら頭がいいんだと思ってきました。周りからもそう言われたりしていました。しかし、いまは、自分が頭がいいというのはいまだにそう思っていますが、それと同じくらい、いや、もしかすると若干上回るくらいに、ばかなんだ、もっとちゃんと言えば頭が悪いんだということがチラ見えてきました。

まあいいでしょう。

今日はそんな私事を書こうと思ったわけじゃないんです。
寺山修司のことを書きたかったのです。でももう書く意欲がどこかへ行ってしまいました。血は立ったまま眠ってしまったようです。

いな、いろんな人が世の中に生きていて、新しい命も生まれてきました。そのすべてが思い出のようです。母親から、姉の娘、すなわち姪っ子の写真が送られてきました。まだ1歳です。その写真を見ていると、まるで古いアルバムの写真を見ているかのような気持ちになりました。どこか姉におもかげが似ているせいかもしれません。もうおまえらは、おれの中では、生きながらにして思い出になっているのですよ。

生きながら思い出になっているあなたがたは、せいぜい精一杯生きて欲しいものです。そしてぼくの思い出を満たしてほしいものです。

昨日のことです。いつものようにダンキンでMacbook Proを叩いていたら、バリ人のこどもが3人やってきました。長男はiPadを抱えています。金持ちです。たぶん一番上が8歳くらいの男の子、そして5歳の弟、3歳の妹、という布陣でしょう。
彼らは最初、お店にはいるとすぐさま、壁に流れる滝のようなオブジェを触りにいきました。オブジェといっても本当の水がチョロチョロと流れています。それを躊躇なく、いきなり触りにいきます。3人とも触ります。まずさわっとこう、ということです。

50回くらい来てるおれだってまだ触ったことがない水を。どこかうらやましさを感じます。なぜ、そんな躊躇なく触れるのか。汚いかもしれないし、なんか変かもしれないのに。そして、5メール先のおれを見つけると、まっすぐな目でみつめながら、ずんずんと歩いてきました。3人とも。そして、ジャパン、ジャパン、みたいなことを口走りながら、すごい近くまできて、パソコンを覗き込んできました。何の躊躇もなく、です。3人ともジャパン、ジャパン、みたいなことを口走り、ぼくが英語で聞いたことにはいっさい答えず、じっと興味深そうに見つめたあと、突然、興味を失いあっちへ行ってしまいました。3人とも。

なんかおれはドキドキした。くやしいぞ。おまえらにどきまぐさせられた。おまえらはなんでそんな躊躇なく、外人のところにきて、パソコンをのぞきこめるのだ。そしてあいそ笑いひとつせずに立ち去れるのだ。こどもか。

あのような躊躇しない生活態度がぼくにもう少しあれば、もう少し友達もできて、もう少しいろいろな体験ができて、あわよくば女性ともお近づきになれるのに。。などと思っていたのが昨日のことのようです。昨日です。

それでぼくは、いま、女に際限なくもてたという寺山修司のドキュメンタリーをYouTubeで見ながら、いかほどのヒントでもつかまんと努力しているところなのです。お腹をすかせながら。そうです、今夜のご飯はもう決まっています。麻婆豆腐を食べに行きます。

それでは、みなさん、ごきげんよう!




9/04/2012

ばいばいする気持ち

こどもシリーズ

今日、かねてより引っ越しを検討している地域に朝から言ってみた。パソコンもって仕事をかねて。さながらちょっとした出張気分だ。

現地に到着。まずは海を見に行く。波をチェック。ドーン!なんかでかい波がたっていた。恐い、と思う。もし引っ越したらこの海に通うことになる。おれは本当にもうそこまでの実リキがあるのか?と今一度自分に問いかけた。

そして近所のカフェの張り紙をチェック。不動産情報などが貼ってあるのだ。しかし、どれも金持ち向けの物件ばかりだった。まあそんなもんだ。あとは足で探すしかない。

ということで、バイクにまたがり、そういえばここらへんの土地勘がまだ足りないよな、ということでぐるぐるしてみることに。ブーーとバイクであてどなく走ってみた。すこし裏路地にはいったときのことだ。ふと見ると、道路沿い、民家の前に数人の人が見えた。家族だ。なにかおしゃべりしているのだろう。通り過ぎるとき、10歳くらいの女の子がひとり、こっちに気づいた。そして、さりげなくバイバーイとしてくれた。にっこり笑って手を振ってくれたのだ。胸がちくっと感動する。うれしい。だがしかし、まあ珍しいことではない。ここバリでは、少し田舎にいけば子供たちが手をふってくれたりする。
でもだ。しかしだ。なぜ、手を振ってくれるのだろう。そんな疑問がふとやってきた。バイクで通り過ぎるぼくに手を振る意味なんてないはずだ。現に大人達はだれもこっちに気づきもしなかった。子供たちだけがぼくをめざとく見つけ、いつもいつもではないが手をふってくれるのだ。二度と会わないであろう人物に。この余裕はいったいなんだ。こどもたちはなんでこんなに余裕があるのだろうか。

ひとりのこどもが、じゃあねー!と手をふってくれた。そんなことだけで、おれはその地区をさらに一周する元気をもらうことができたのだった。




何か間違っている

先日、こんなことがあった。

最近よく手伝いにいっているエコファーム「natural」でのこと。その日は土のかたまりをバケツの中にいれる作業をしていた。隅っこに固まっている土のかたまりを、シャベルで崩してバケツにいれるのだ。それを別の場所に運んでいくためだ。

で、ぼくが土のかたまりを崩していると、遊びに来ていたこどもたちがワーーと寄ってきて、ぼくも手伝うよ!と言ってくれた。1歳から10歳くらいまでの4人のこどもたちだ。とってもかわいい。よし、じゃあ一緒に土をバケツに入れてくれ!ということでスコップを渡した。

そんな中でのひとこまを今から思い出す。
ぼくの右隣で、3歳くらいの女の子がしゃがみこんで土をたたいていた。バケツにいれる土を崩してくれているのだ。そして、ふと僕を見上げて「きょうはうみにいかないのかな?」と聞いてきた。え??なになに??突然ふられてとまどう。なになに?と言うと、もう一度言ってくれた。「きょうは海へいかないの?」

んーよくはわからないが、想像するに、今日は海へ行こうという話になっていたのかもしれない。その子の家族の間では。つまり、お父さんやお母さんが朝にそう言っていたのかもしれない。でもなんか畑にずっといてちっとも海にいく気配がない。それで、ふと疑問に思ってぼくに聞いてみたのかもしれない。なぜ僕に聞くのだ?と思うけれども、もしかすると彼女の中では、僕も大人だから、大人たちの予定を知っているだろうと思っているのかもしれない。僕は「あれ?今日は海に行く予定なのかな?この後に行くのかな?」などと言ってとりあえずお茶を濁しておく。

しかし、かわいい。おれに聞いてくるところがかわいい。なんかおれが忘れ去っている世界の見方がそこにはある気がする。大人はなんでも知っている、なのかもしれないし、みんな友達、なのかもしれないが、なにか今のぼくにはわからない感覚をこの3歳の子は行きている。

しかし、書きたかったのはこのことではない。
小一時間たって、その子の家族がそろそろ帰ります、ということになった。お母さんが呼びにきて、あんたたちほら帰るよ!ということになる。
こどもたちは車に乗り込んでいった。ぼくは、その3歳の子の帰りぎわに、「◎◎ちゃん、、ありがとうね」と笑顔で言ってみた。とりあえず、よく手伝ってくれからお礼を言っておこうとおもったのだ。その子は無表情でふりかえると、いったいなにを言っているのだ?というようなポカンとした顔をして、また振り返って行ってしまった。

あれ?今のはなんだ?ぼくはちょっとたじろいた。笑顔で「うん、ばいばい!」くらいの反応を期待していたのだ。ものすごく不思議そうな顔で一瞥されてしまった。それが別れのあいさつとなった。

いったいこれはなんなんだろうか。ぼくは何かを忘れてしまったのだろうか。そのとき、ぼくの中に起きた気持ちは、「あ、なにか間違えたんだな」ということだった。そう、なにかそのときぼくは「◎◎ちゃん、ありがとね」以外のことばをかけるべきだったのだ。なぜかそんな気がした。でも、それが何かわからなかったし、やはり手伝ってくれた子どもにお礼をいっておかねばならなかったはずだ。だから、わざわざうろ覚えだった名前をバチッと思い出して名前付きで呼んだのだ。それでも何かを間違えてしまった。そんな印象だけが残った。




9/03/2012

人と移動

人にとって移動とはどれほど大切なことなのだろうか。そんなことを考える。
それはなにもおおげさな話じゃなくて、毎日の通勤や通学も移動に含まれる。なぜそんなことを考えたかというか、今日からまた始まったのだ。そう、バリの大渋滞が!!
ついに、2週間あまり続いた祭日が終わってしまって、人々が活動を開始した。するとどうだろう、うそのように空いていた道路があっという間にいつもの大渋滞道路に変貌してしまった。。ああ、あれはいっとくの夢だったのね。。空いていれば30分の距離に5時間くらいかかる、そんな大渋滞が日常化しているのが、ここバリの幹線道路なのです。

しかし、この渋滞は同時に、バリ島の活気も示しています。それだけ人が活動しているとうことですね。大半は通勤。それから、お店に物を運んだり、お客を運んだり、などなどです。それはたぶん、いいことです。活気がないよりずっとましです。

そして、なによりバリの人たちに必要不可欠の足となっているのは、HONDA、YAMAHA、といった日本メーカーのバイクたちです。もう老若男女がひとり一台もっている感じ。そして一日中、走り回っているのです。

なぜこれほどまでに移動するのか。そういえば、バリの山の方の田園風景がきれいな片田舎にいったときも、バイクだけはみんな乗っていました。10歳ぐらいのこどもまで。ど田舎といえども、バイクは乗るのです。つまり、何がいいたいか。バリの結構田舎の農村地帯でも、徒歩だけで生活するような状況ではない、ということです。人々はのんびりしていますが、しかし、やはり車は必要なのです。

それは日本も同じでしょう。どんな田舎にいったって、おじいちゃんおばあちゃんだって軽トラくらいは乗っています。むしろ田舎のほうが車は必要不可欠。そう、不可欠なのです。

人は移動しないと生きていけないのでしょうか。たとえば、田舎にこもって小さな村をつくり、そこだけでひっそりと暮らしていくことだってできそうです。20世帯もあればいろいろな役割を分担して生きていけるでしょう。しかし、やっぱり外との連絡はつないでおきたい、交易だって行ないたい、そういう風に文明文化は発展していったのではないでしょうか。そして、現代では、やはり移動には車なのです。


バリ島はその活気のせいで、バイクと車のせいで、市街地はめちゃくちゃ空気が悪いです。排気ガスが満載です。家にかえると服が真っ黒になっており、眼もかゆくて、ノドも痛いです。ガソリンも粗悪なのかもしれません。それでも、みんな車なバイクに乗るのを減らしましょう、とは言えない気がします。ぼくだっていやです。移動は人の営みの基本的なものだと思うのです。ですから、せいぜい、鉄道を引きませんか?とか、排ガス規制をもうちょっとやりましょう、とかそういう提案しかできません。


なにがいいたいのか?ちょっとわからなくなってきましたが、移動は常にしたい、だから、移動を減らす工夫より、よりクリーンに移動する工夫をするしかないじゃないか、という未来に対する思いがあるということです。すくなくともぼくは移動したいですから。

そして、移動とならんで人々が欲してやまないのが通信でしょう。移動と通信、そればっかりは人間、やめられないよね、というなんだかおかしな結論で終わる事にしましょう。仕事がまってるのでね!