6/26/2012

憧れ


こぼれ落ちるものすべてを拾い上げることはできない。ならば、憧れるしかない。

敬愛する三木茂夫先生が言ったのだろうか、憧憬こそが人間の、いや生命の証しであると。
早く大人になりたいと、幼いころ確かに憧れたような気がする。
今のぼくは早く何になりたいのだろう。おじいちゃん?いや、別になりたくないなあ。
困った。

こどものころ、松田聖子が好きだった。小学生のころだ。歌番組で、その姿を見ると、どこか恥ずかしい気持ちがしたものだ。

スイートメモリーという曲が好きだ。
珍しく、Youtubeを貼ってみようじゃないか。
しばらくブログを書かないうちに、書き方を忘れてしまったような。




ぼくはこの曲の歌い出しを「幸せと聞かないで。嘘つくのは上手じゃない〜」と覚えていたが違った。本当は「懐かしい痛みだわ。ずっと前に忘れていた〜」だった。


吉福さんは以前「殺したいほど人を憎んだことがないという人は、嘘をついているんだ」と言っていた。そうだろうか。ぼくは殺したいほど憎んだ人なんかいないけど。


ここ2週間ばかりサーフィンできていない。
そのせいか、活力のようなものが少し落ちて来ているようだ。洗濯するのも、ご飯たべるのもめんどくさいといった始末だ。ぼくは頭の中に住んでしまうのだ。

仕事が溜まっているのである。早く片付けて、また海に戻りたい。あの塩水につかって、疲れたい。

とはいえ、今は頭を使う時期なのかもしれない。やっぱりそれが好きなのだ。

音楽的センスに憧れ、運動神経に憧れ、大きな声に憧れ、単刀直入な奴に憧れ、といような自分にはないものを持っている誰かや、自分には足りないものそのものに憧れるという憧れがある一方で、

幼稚園の女の先生に憧れ、親戚のお姉ちゃんに憧れ、あそこでピアノを弾いている女性に憧れ、といったような憧れもある、一方で、

外国に憧れ、空を飛ぶことに憧れ、ウルトラマンになることに憧れるといった憧れもあった。


よく、尊敬する人は父と母です、という人が本当にいるが、ぼくには理解できなかった。こどもの頃から理解できかなった。尊敬という感情はほとんど持ったことがない。親には。
しかし、上記で述べた憧れとはまた違った形でどこか憧れのような気持ちがかすかにあるのに気づくことがある。なりたいわけでも、一体化したいわけでも、欲しい訳でもない。
なにか近づききれない何か。触れられない誰か。それが両親だった。

ってまだ生きてるけど。

憧れの道を辿れば間違うことはないだろう。

出かけようとして3歳児に呼び止められる幸福。

今日、ドーナツ屋で帰り際、店員からつたない日本語で恥ずかしそうに「ありがとう」と言われた。
「ありがとうございます」ではなかった。そのそこはかとないよさ。



とはいえ、微熱っぽいようで本調子ではない。
いま、深夜のカフェで例によって例のごとく、ネットをやっている。
誰とも話さなくても平気な日々が最近続いている。さみしくない。むしろ、少し避けている。

まだ眠くない。帰るタイミングを逃してしまった。


えらくもない奴らが集まると社会という偉い奴になる。
おれは世間と呼ぶけどね。社会でもいいよ。

いま、大人が世間に怯えている、と五味太郎は言っている。

いま大人に足りないものは、憧れ

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