6/08/2012
自虐史観
昨日、アメリカ人のサーファー君と話していて、感慨深いことがあったので書いておく。
会話の途中から抜粋するとこんな感じ。
サーファー君「・・・というわけで、僕はアメリカ人のマジョリティとは違うんだよ。学校に行ってるときも、みんながやることとは違うことをしていたんだ。みんながあそこへ行こう!と言う、大抵の場合、ぼくはそこへ行きたくない。そういうときは、僕は行きたくない、とシンプルに言っていたんだ。ひとりぼっちになることもあったが、僕は気にしないことにしていたんだ。」
ぼく「へーー。でもアメリカって自由の国でしょう?みんなが好きなことをしてるんじゃないの?」
サー君「とんでもない!アメリカが自由の国だって?笑わせるぜ。好きなことをしている?みんな周りと同じ行動をひたすらとってるよ。どこの国でも同じさ。」
ぼく「そうなんだ?アメリカこそ自由の象徴だと思ってたんだけどなあ」
サー君「アメリカのどこに自由がある?みんなunder the thumb(親指の下)さ。この言葉知ってるか?アメリカ国民はみんな企業の言いなりだよ。自由なんてどこにもない。アメリカが自由とインデペンデント(独立)の国だって?ファック!それは大嘘だよ。
アメリカの独立の意味を知ってるか?イギリスから独立したことを独立と言っているんだ。なんのことはない、ただ植民地だったアメリカがイギリス本国に税金を払いたくないばっかりに戦争を始めたってことさ。それを独立戦争と呼んでいるんだ。なんのことはない、イギリス人とイギリス人が戦ったのさ。金のためにだ。
アメリカの歴史を見てみろよ、そこに住んでいた人を皆殺しにして、他の国から奴隷を連れてきて、あげくの果てには金のために同国人同士で戦争したんだ。これのどこが自由と独立なんだよ、アメリカの自由と独立とはイギリスからの自由と独立さ。ちんけな自由と独立ってわけさ」
あまりの迫力の僕はぽかんと見ているしかなかった。サーファー君、お怒りのご様子。
しかし、僕は彼がこれを早口でまくしたてるのを、かすかな感動と共に聞いていた。そういうことを言うアメリカ人が出て来たのかと。
いや、もしかしたら、アメリカ人の結構多数がこういう認識を持っているのかもしれないが、アメリカ人の口からこうした発言を聞くのは初めてだった。
おれはこの話をききながら、そうだ、その通りだと思う気持ちがぼくの中に確かにあることを感じていた。アメリカはむちゃくちゃなことしてきたよね?その歴史の始まりから。そういう認識がぼくの中に明らかにある。
でも、サーファー君が怒りをこめてまくしたているのを聞きながら、ぼくは「なにもそこまで言わなくても。。。」と思ったのもまた事実だった。アメリカの歴史に悪い部分ばかりがあるわけじゃないし、アメリカが自由の国だっていうのはある部分では本当だと思うよ、と。見習いたい部分がいくらもあるよ、と。とくに個人の自由という側面においては。
しかし、ふとこう思った。あれ、これっていわゆる自虐史観ってやつだよな〜、と。USA版の自虐史観だ。自虐史観はよくないと思う。精神にとってよくない。でも、君の認識は正しい、と言いたい気持ちも確実にあった。
歴史認識とは難しいもので、そこには必ず善悪の判断が入り込んでくるし、個人のアイデンティティにも深く食い込んでいるので、適当な気持ちで触れるとダメージを受けかねない。
ぼくもインドネシアにいて、かつての日本軍がインドネシア人に何をしたのか、ちらほら耳に入ってくる。その真偽は定かではないが、その真偽を確かめるのが恐ろしい、という気持ちになるような話が耳にとびこんでくる。
かつて、もしかすると現在でもいわゆる「教科書問題」というのがあった。たいていは歴史の関する認識の違いの闘いだ。右翼、左翼などというくくりもあるが、ぼくは、もしかして!と今ひらめいたことがある。もしかすると、歴史というのは、こどもに教えるべきことではないのかもしれない。
例えば、日本の小中高での歴史の授業は、左翼的で、自虐史観的で、一億総懺悔的で、敗戦で挫かれてしおれたままの精神性をこどもたちに植え付けようとしている、との批判がある。こどもには、日本の歴史をポジティブなものとして教えなければ、自分のルーツに誇りがもてなくなり、精神の成長をゆがめてしまう、という意見がある。ぼくもそれはわかる。賛成できるのだ。
だからといって、アメリカのように、アメリカ万歳的な教育をするのがいいことなのかというと疑問だ。だめだと思う。フェアな精神性を培うことができなくなるだろう。じゃあ、理性的で妥当な歴史を誰が教えるのか?誰が定義するのか?ぼくはそれは難しいことだと思う。大人の間でもまるで決着がついていないのだ。何十年もたった後でも。
歴史認識とは、個人が大人になってから、自分自身の中に形成するかないものなのかもしれない。学校教育には不向きなものなのかもしれないと、ふと思ったのだ。
一億人それぞれの歴史認識があったっていいのだ。一億人の歴史認識がびっちり揃うことのほうが恐ろしいことなのかもしれない。
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