6/28/2012

コマネチ


やっぱり一番偉大なギャグはコマネチだという結論にいたった。

「そんなの関係ねえ」を見たときはなにか心が浮き立つものがあったし、新しい!って感動したけど、今はもう何とも感じない。飽きてしまえるものだった。
しかし、コマネチは違う。
これは何度やっても毎回味わいが違う。第一、意味がわからない。でも、やるとどこか気持ちがパカっと開く。それが偉大なギャグなんだとわかる。までに30年を要したのか。

ぼくの中に、コマネチのバリエーションが少なくとも25個くらいはある。どれが出るかは出た後になるまでわからない。それがコマネチだ。片手でもできるし、今ではバックハンドでもできる。背面でもできるし、ファイクも学んだ。でもまだ、新しいコマネチを開発できる気がしてならない。なによりそれがコマネチが偉大なギャグであった証拠といえるだろう。ビートたけし、おそるべし。

そういえば、以前エジプト帰りの友達が、エジプトでいきなりエジプト人に「コマネチ!」されたよ、ビックリした。と言っていた。コマネチは海を越えている。

コマネチを聞いてくれる人が側にいないと、ぼくは苦しくなる。いまのところ、コマネチをきいてくれる新しい友達ができていない。それがさみしい。うちの家族のように全く無視をしたってかまわない、ただそこにいて聞いていてくれればいいのだ。

今日はなんだか新しいコマネチが出そうな気分なんだ。今日は。

6/26/2012

憧れ


こぼれ落ちるものすべてを拾い上げることはできない。ならば、憧れるしかない。

敬愛する三木茂夫先生が言ったのだろうか、憧憬こそが人間の、いや生命の証しであると。
早く大人になりたいと、幼いころ確かに憧れたような気がする。
今のぼくは早く何になりたいのだろう。おじいちゃん?いや、別になりたくないなあ。
困った。

こどものころ、松田聖子が好きだった。小学生のころだ。歌番組で、その姿を見ると、どこか恥ずかしい気持ちがしたものだ。

スイートメモリーという曲が好きだ。
珍しく、Youtubeを貼ってみようじゃないか。
しばらくブログを書かないうちに、書き方を忘れてしまったような。




ぼくはこの曲の歌い出しを「幸せと聞かないで。嘘つくのは上手じゃない〜」と覚えていたが違った。本当は「懐かしい痛みだわ。ずっと前に忘れていた〜」だった。


吉福さんは以前「殺したいほど人を憎んだことがないという人は、嘘をついているんだ」と言っていた。そうだろうか。ぼくは殺したいほど憎んだ人なんかいないけど。


ここ2週間ばかりサーフィンできていない。
そのせいか、活力のようなものが少し落ちて来ているようだ。洗濯するのも、ご飯たべるのもめんどくさいといった始末だ。ぼくは頭の中に住んでしまうのだ。

仕事が溜まっているのである。早く片付けて、また海に戻りたい。あの塩水につかって、疲れたい。

とはいえ、今は頭を使う時期なのかもしれない。やっぱりそれが好きなのだ。

音楽的センスに憧れ、運動神経に憧れ、大きな声に憧れ、単刀直入な奴に憧れ、といような自分にはないものを持っている誰かや、自分には足りないものそのものに憧れるという憧れがある一方で、

幼稚園の女の先生に憧れ、親戚のお姉ちゃんに憧れ、あそこでピアノを弾いている女性に憧れ、といったような憧れもある、一方で、

外国に憧れ、空を飛ぶことに憧れ、ウルトラマンになることに憧れるといった憧れもあった。


よく、尊敬する人は父と母です、という人が本当にいるが、ぼくには理解できなかった。こどもの頃から理解できかなった。尊敬という感情はほとんど持ったことがない。親には。
しかし、上記で述べた憧れとはまた違った形でどこか憧れのような気持ちがかすかにあるのに気づくことがある。なりたいわけでも、一体化したいわけでも、欲しい訳でもない。
なにか近づききれない何か。触れられない誰か。それが両親だった。

ってまだ生きてるけど。

憧れの道を辿れば間違うことはないだろう。

出かけようとして3歳児に呼び止められる幸福。

今日、ドーナツ屋で帰り際、店員からつたない日本語で恥ずかしそうに「ありがとう」と言われた。
「ありがとうございます」ではなかった。そのそこはかとないよさ。



とはいえ、微熱っぽいようで本調子ではない。
いま、深夜のカフェで例によって例のごとく、ネットをやっている。
誰とも話さなくても平気な日々が最近続いている。さみしくない。むしろ、少し避けている。

まだ眠くない。帰るタイミングを逃してしまった。


えらくもない奴らが集まると社会という偉い奴になる。
おれは世間と呼ぶけどね。社会でもいいよ。

いま、大人が世間に怯えている、と五味太郎は言っている。

いま大人に足りないものは、憧れ

6/13/2012

腰痛いてて

不覚にも腰痛になってしまった。もう3週間くらいわずらっている。ストレッチなどしているが、なかなか治らない。肩も痛めた。

原因は2つ。サーフィンで無理し過ぎたのと、バイクに乗り過ぎ、だろう。
とくに、バイクはサーフボードを積むことが多いから、少し重心を傾けて乗るくせがついてしまった。つまり、背筋をゆがめて乗っている。たぶんこれが一番悪いのかも。

今日は友達が日本から来るとのことで待っているが、実感がわかない。本当に来るのか。突然、来週いくから、との連絡があったのでした。

ところで。

世界最大の不思議「仕事」について今後、考察してみたいと思っています。

いったい仕事とは何か。

日本人の、友人達のお悩みに耳を澄ませていると、たいていは仕事のことが悩みなんですよね。あー、仕事楽しい、喜びに溢れているよ、と言う人は1割いるのかどうか、が実感かなあ。おれだってそこまでは言えないかな。今の仕事は好きだけど。で、これってちょっとした謎。なんでかなーって。

かつての仕事は、たとえば農民なら農業だよね。これも過酷だったのかな。そうだよね。まだ産業革命以前は常に収穫量が足りないって状態だっただろうしね。だから口減らしなどという風習もあった。その当時、仕事が楽しいかどうかなんて言ってる場合ではなかったはずだ。そして産業革命、工業化があって、国民の多くが企業に所属して働くようになっていく。それくらいからは、仕事が楽しいとか、楽しくない、とかあるかもしれない。つまり、給料は一定だから、あとは内容に関心が向くようになったのだろう。

あれ?何の分析してるんだっけ。あ、とにかく今や仕事というのは、なにか複雑なネットワークの中でするものになったと言えるね。田んぼ耕すのに比べれば。

つまりは、仕事の満足感って人間関係の満足感なのかな?その仕事で日々体験する人間関係への満足感。そうなのかもしれない。

しかし、こんどは仕事というものが人を縛るものになっているという事実について見て行く。バリにいて、多くのサーファーに出会う。ヨーロッパのサーファーは長期で来ていることが多い。最低一ヶ月。長いと半年とか。それでもそれが終われば帰国する。お金を稼がなければならないからだ。ぼくはラッキーだとラッキーだと言われる。バリ島にいながらもいくばくかの収入を得られるからだ。たしかにそう考えればそうなる。逆に言えば、お金を稼ぐということが、母国以外では結構大変、という事実によって人は移動を制限されている。

母国どころか、東京の会社に勤めているなら、通勤圏内に住むしかない。そうやってつなぎとめられている。それ以外に、人を縛る要素は今の日本にはないように見受けられる。もちろん、寝たきりの親の介護をしなければならない、とか、子どもが高校を出るまで引っ越しできない、などはあるだろう。と考えると、あるね。移動を縛るもの。

ん–論理が立たなくなって来た。

まあ何がいいたいかと言えば、現代における仕事というのは、その母体となる社会の構成員たちの集合意識によってその性格が規定されるということだ。

簡単にいえば、日本国民の大半が、移動の自由を望むようになれば、そうできるように多くの仕事の形態も変わっていくだろう。というようなことだ。

なにも移動に限ることはなくって、とにかく集合的に何を望んでいるかが社会の大まかな仕組みを規定することはまずまちがいないと思う。その集合的に、というものは、もしかすると、いわゆる無意識的に、というレベルの願望かもしれない。


たとえばこういう構造のことを少し考えたい。
前にも書いたが、僕は今、こんな風に自由だけど不安定極まりない生活をしている。将来の展望もほぼない。暗中模索だ。収入だってかなり低い。そんな奴がいたとして、友達としては面白だろう。何かと話題にもできるし、なにせ、最低あそこまでは大丈夫、みたいな気持ちにはなれる。しかし、自分の姉妹の結婚相手としてならどうだろう。よっぽど人格的に優れている人じゃなければ、まず反対するだろう。この僕自身が反対するだろう。そんな、いいかげんそうな奴はやめておけ、と。わざわざ苦労の種を背負い込むことはない。

あれ、ちょっとわびしい話になってきちゃった。

じゃあ、もっとちがう話をしよう。たとえば、おれはこうして自由にしていて、一般の男性として、まあつまりは夫として求められるであろう諸条件を満たしていないし、今後も満たすつもりがあるかは怪しいものであるのだが、つまりは、自分はこれでいいや、と思っているのだが、女全般などを眺めるに、やっぱり女は料理ぐらいできなくっちゃね、と正直思っているのだ。とくに一緒に暮らすような女はね。そうでなくとも、一般に、女は家事できないとね、って実は思ってイルのだ。

だから、おれはこんな風に自由にしているが、同じように自由にいている女はあまりすきじゃないのだ。結婚するならもっと家庭的な女がいいなあ、って思っていたりする。
そんな虫のいい話があるか!とお叱りを受けるだろうが、まあそういう精神構造ってあるよね?って話としてお聴き流していただきたいのであるのだが。

自分は棚上げしちゃうぞ、みたいな。
自分は棚上げした上で、理想の社会、正しい社会を語っちゃうぞ、みたいな。

文部省で理想の児童の姿などを議論しているおっさん達のプライベートをひとつひとつひっぺがしてやったら眼もあてられないことがゴロゴロでてくるのはもうわかっている、というかね。いや、文部省をやり玉にあげるにはフェアじゃないけど、どこでもそうだよね。どの大人だって一皮むけば、何がでてくるかわかったものじゃない。

そういうものをないものとして、議論を進めるという変わった風習がこの国にはある。いや、たぶんどこの国にもある。

んーますます何がいいたいかわからなくなってきた。腰が痛いからかなあ。あ、あと一時間で空港に飛行機が到着するな。迎えにいかなくちゃだから、とりあえず、ここでいったん投げとく。











6/11/2012

夢の決着

バリ島にいる理由のひとつに、夢の決着がある。
24歳のころから海外生活が夢だった。本当は20代のうちに叶えるつもりだったのだが、いろいろあって一度引っ込め、もうひとつの夢だった「海外放浪」に切り替えたのだった。いや、そんな意識的な行為ではなく、海外に引っ越してしまう、というエネルギーがもはや失われていたのだろう。そのかわりにたくさん旅をした。

しかし、どこかまだ満たされないものがあって、やはりどこか外国に住む、という行為をしてみたかったようなのだ。その夢がひきずりこじれにこじれ、いまバリ島に漂着したという次第だ。バリでよかったのか、と言われると、夢見たとおりではない、と言わざるをえない。当時の目的地は、アメリカ合衆国だった!カリフォルニアに住んでみたかった。

しかし今、カリフォルニアへの熱にうかされたような気持ちはもう冷めてしまっている。サンフランシスコに何度足を運んだことだろう。それは911以降かもしれない。どこか憧れが薄れてしまった。

いま、インドネシアにいて、当時の夢の、ひきずったままの脱ぎきれない皮のジャケットのような夢は、半分くらい決着がついた感じだ。まがりなりにも海外に住んだ。最低1年、そう思ってはいたが、それは間もなく達成されるだろう。しかしまだ半分はくすぶっている、それは、まだ外国の社会に混じり込んだという実感がないせいだろう。今のところはただ海外に居るだけに近い。あとの半分は結構ハードル高いよね、もうそっちはいいかなあ、という超メンドクサイ気持ちと、いや、ここまで来たならネクストステージを味わってみたい、という気持ちの両方が混在している。

もっとエネルギーがある20代のうちに、本格的に外国社会に頭を突っ込んでおけばよかったと思ったりする。きっともみくちゃにされるのは必然だろうからだ。

今書きたいのはなんだ、そうだ、夢には決着をとらなければいけない夢があり、それはきっと理由がわからないものなのだろう。

ぼくが海外で暮らしたい、という夢を諦められなかったのは、国際社会で活躍したいから、とか、日本がダメになりそうだから今のうちに英語力を磨いておこう、とか、おれって日本人といるより外国人といるほうが気が楽なんだよね、とか、そういうことでは一切ない。

ただ、そういうことをしてみたかった、というだけだ。はやるような気持ち。そういう気持ちを24歳のころに持ってしまった。たしか「異文化交流」をしたいのだ、と人には話していたように思う。しかし、それもちょっと違う。実は外国人にそんなに興味なかったりする。たぶんそれより、日本という国にいない自分、日本社会というものからある程度期離反された自分、というのを体験したかったのだろう。そのために、異文化を使おう、という。
いや、違う、やはり実際に異文化に興味がある、という一面もよく探ればあるようだ。今そういうサインが来た。というように、どうにも決着がついていない何かが自分の中にあって、面倒クサガリの自分をどうにかここまで押し込んできた。まったくばかげたことだと思うけれど、そこまでもわがままだった自分にひたすら驚くしかないのだ。

他人のためには一秒だって生きたことのないおれも、家族をもち父親になることがあるのだろうか。この年になると、人生設計というものがむなしく聞こえる。24歳のころは、30歳までにあれしてこれして、35歳までにこうなって、などという人生プランを持っていたように思う。いま、そういうものをはるかに超えてしまった。いつのまにか。40歳以降の自分は、24歳のころの自分のプランにも入っていなかった。なぜならば、すでに大成功を収めているはずだったからだ。ところが、今思い返せば、18歳のころの自分には40歳以降の人生プランがあったことを思い出す。あまりにも遠い故になんでも考えられたあの頃。

そう、もはや人生設計というのを持てるほど時間が残されているように感じない。だから、10年後のプランなどというのはむなしく響くだけだ。だから、もう1年後のプランだけを盲目的に近視眼的になんとか見て行くことができるだけだ。1年後、1年後、となんとか生き延びてるうちに寿命がくる、なんてのが悪くない人生と言えるのかもしれない。

なんて思っていると、80歳の知人からメールが舞い込む。あんたは私の半分よ。

あ、まだ若者という役割を演じる余地があるのか、とはっとする。ならば、ご期待に添えるよう、






6/08/2012

徳が高い人

最近つるんでいる英人のサーファー氏は徳が高い人である。

どういう人か。
サーファー氏とは僕がいつもいくサーフポイントで出会った。サーファーらしからぬ、まったりとしながらも紳士は感じが漂っていた。出会った時はぽつんと昼寝をしていた。

毎日顔を会わせるのでいつしか一緒に海に入ったり、ご飯を食べにいくようになった。
バリには三回目だという。休暇を利用してサーフィンに来ているのだという。6週間いる予定だそうだ。

一緒に海に入ってちょっと驚いた。サーファー氏、上級者じゃない。一ヶ月前のぼくくらいの腕前だ。もうサーフィン歴15年だと言っていたはずだが。。しかし、小さな波にのり、振り返った笑顔は満面だった。ほんとにサーフィンを楽しんでいるんだな〜。こっちまで楽しくなってくる。

小さな波を何度も何度も日が暮れるまで楽しんでいた。
ぼくはなんだかこの人は徳が高い人だなあと思った。なんというか、欲が少ないというか、自分を満たすために多くを必要としていないように見えた。波と遊んでいられればそれでもう十二分に楽しいのさ、他に何がいるのさ?っていう感じだ。

もちろん、彼も本国に変えればエンジニアという仕事がある。海まで6時間かかるらしいから、帰国してしまえばサーフィンはおぼつかないだろう。また次のバケーションまで待つしかないだろう。そのライフが充実したものなのか、ぼくにはわからない。とはいえ、彼は、15年まえにロンドンから6時間かけて海に通ってサーフィンをはじめ、果ては6週間の休暇を使ってバリ島に来るようになったのだ。彼はサーフィンが好きなのだ。そして、それをひっそりと充実して楽しんでいるように見えた。

自分が充実するために人を利用しなくていい人、多くのリソースを必要としない人、そういう人が僕には徳が高いひとに見える。でもこれは微妙なところで、ただあきらめて退屈な人生を生きている人や、本当の気持ちがわからないほど自分を押さえ込んでしまった人にも、そういう人はいるだろうが、ぼくが言っているのはそういう人とはちがう。多くを必要としないが、充分に満たされている人のことだ。活き活きと生きている人のことだ。そういう人はたいてい、ひっそりと生きているのだろう。

この英国紳士のサーファー氏が、果たしてぼくが見立てた通りの徳の高い人なのかはわからない。まだつきあいが短すぎるのだ。でも、このサーファー氏といるとどこかほっとする。それは今、事実なのだ。

ところが、このサーファー氏、英国人なので英国なまりの英語を話す。これが聞き取れないのだ。どれくらい聞き取れないかというと、maybeとかsometimeとか、waterが聞き取れない。ということは、ほとんど何も聞き取れないということだ。

だから何度も何度も聞き返して、なんとか最低限の会話をしているといった次第。もう会話の80%はいいかげんにあいづいを言っているだけなのだ。相手が何かいっているときはReally?とかあいづちを打っていればそれとなく会話は続いて行くのだ。何か聞かれたときははちょっと困るが、わかるまで聞き返すか、面倒なときはmaybeとか言っておくこともある。そんなコミュニケーション障害がある間柄なのだが、多分今日も一緒にご飯を食べるだろう。もうあと数週間で彼は帰ってしまう。


とここまでするすると書いて、んーちょっと足りないなと思ったので書き足す。
なんというか、やっぱりきれいごとにすぎたかな、と思った。
たぶん英国紳士氏も、長い付き合いをすれば、ここはちょっとね、という部分がいくらもでてくるに違いなく、ひっそりと生きている徳の高い人を見つけた、などと悦に入ってるわけにはいくまいな、と反省してしまったのです。こと外国人など見ていると、割り引いて美化するか、過剰に悪く見てしまうものなのかもしれません。なんかよくわからんけど、反省。




自虐史観



昨日、アメリカ人のサーファー君と話していて、感慨深いことがあったので書いておく。

会話の途中から抜粋するとこんな感じ。

サーファー君「・・・というわけで、僕はアメリカ人のマジョリティとは違うんだよ。学校に行ってるときも、みんながやることとは違うことをしていたんだ。みんながあそこへ行こう!と言う、大抵の場合、ぼくはそこへ行きたくない。そういうときは、僕は行きたくない、とシンプルに言っていたんだ。ひとりぼっちになることもあったが、僕は気にしないことにしていたんだ。」


ぼく「へーー。でもアメリカって自由の国でしょう?みんなが好きなことをしてるんじゃないの?」

サー君「とんでもない!アメリカが自由の国だって?笑わせるぜ。好きなことをしている?みんな周りと同じ行動をひたすらとってるよ。どこの国でも同じさ。」

ぼく「そうなんだ?アメリカこそ自由の象徴だと思ってたんだけどなあ」

サー君「アメリカのどこに自由がある?みんなunder the thumb(親指の下)さ。この言葉知ってるか?アメリカ国民はみんな企業の言いなりだよ。自由なんてどこにもない。アメリカが自由とインデペンデント(独立)の国だって?ファック!それは大嘘だよ。

アメリカの独立の意味を知ってるか?イギリスから独立したことを独立と言っているんだ。なんのことはない、ただ植民地だったアメリカがイギリス本国に税金を払いたくないばっかりに戦争を始めたってことさ。それを独立戦争と呼んでいるんだ。なんのことはない、イギリス人とイギリス人が戦ったのさ。金のためにだ。

アメリカの歴史を見てみろよ、そこに住んでいた人を皆殺しにして、他の国から奴隷を連れてきて、あげくの果てには金のために同国人同士で戦争したんだ。これのどこが自由と独立なんだよ、アメリカの自由と独立とはイギリスからの自由と独立さ。ちんけな自由と独立ってわけさ」


あまりの迫力の僕はぽかんと見ているしかなかった。サーファー君、お怒りのご様子。

しかし、僕は彼がこれを早口でまくしたてるのを、かすかな感動と共に聞いていた。そういうことを言うアメリカ人が出て来たのかと。

いや、もしかしたら、アメリカ人の結構多数がこういう認識を持っているのかもしれないが、アメリカ人の口からこうした発言を聞くのは初めてだった。

おれはこの話をききながら、そうだ、その通りだと思う気持ちがぼくの中に確かにあることを感じていた。アメリカはむちゃくちゃなことしてきたよね?その歴史の始まりから。そういう認識がぼくの中に明らかにある。

でも、サーファー君が怒りをこめてまくしたているのを聞きながら、ぼくは「なにもそこまで言わなくても。。。」と思ったのもまた事実だった。アメリカの歴史に悪い部分ばかりがあるわけじゃないし、アメリカが自由の国だっていうのはある部分では本当だと思うよ、と。見習いたい部分がいくらもあるよ、と。とくに個人の自由という側面においては。


しかし、ふとこう思った。あれ、これっていわゆる自虐史観ってやつだよな〜、と。USA版の自虐史観だ。自虐史観はよくないと思う。精神にとってよくない。でも、君の認識は正しい、と言いたい気持ちも確実にあった。


歴史認識とは難しいもので、そこには必ず善悪の判断が入り込んでくるし、個人のアイデンティティにも深く食い込んでいるので、適当な気持ちで触れるとダメージを受けかねない。

ぼくもインドネシアにいて、かつての日本軍がインドネシア人に何をしたのか、ちらほら耳に入ってくる。その真偽は定かではないが、その真偽を確かめるのが恐ろしい、という気持ちになるような話が耳にとびこんでくる。

かつて、もしかすると現在でもいわゆる「教科書問題」というのがあった。たいていは歴史の関する認識の違いの闘いだ。右翼、左翼などというくくりもあるが、ぼくは、もしかして!と今ひらめいたことがある。もしかすると、歴史というのは、こどもに教えるべきことではないのかもしれない。

例えば、日本の小中高での歴史の授業は、左翼的で、自虐史観的で、一億総懺悔的で、敗戦で挫かれてしおれたままの精神性をこどもたちに植え付けようとしている、との批判がある。こどもには、日本の歴史をポジティブなものとして教えなければ、自分のルーツに誇りがもてなくなり、精神の成長をゆがめてしまう、という意見がある。ぼくもそれはわかる。賛成できるのだ。

だからといって、アメリカのように、アメリカ万歳的な教育をするのがいいことなのかというと疑問だ。だめだと思う。フェアな精神性を培うことができなくなるだろう。じゃあ、理性的で妥当な歴史を誰が教えるのか?誰が定義するのか?ぼくはそれは難しいことだと思う。大人の間でもまるで決着がついていないのだ。何十年もたった後でも。

歴史認識とは、個人が大人になってから、自分自身の中に形成するかないものなのかもしれない。学校教育には不向きなものなのかもしれないと、ふと思ったのだ。

一億人それぞれの歴史認識があったっていいのだ。一億人の歴史認識がびっちり揃うことのほうが恐ろしいことなのかもしれない。

6/07/2012

まてよ

昨日、ふと「待てよ?」と思うことがあった。
あれはいつものようにバイクで走っていて、工事現場の仕事を終えたインドネシア人たちがトラックの荷台に山積みになって帰っていくのを見ながら、ああ、彼らの日給はぼくの昼飯代よりも安いのだ、とまた経済格差について不快な気持ちになろうかとしたその刹那、その刹那に、ふと、あれ?でもさ、インドネシアに金持ちもいるよね?という思いが頭をよぎったのだ。
そういえばシンガポールで会ったジャカルタ在住というインドネシア人華僑は結構羽振りがよさそうだったり、バリ島だって、地主やホテルのオーナーは高級車を乗り回している。そういえば、ぼくが前に住んでいたアパートホテルのオーナーは、Canonの高級カメラを持ち歩き、Macbook Proをかちかちやっていた。車もいいのを何台も持っているし、趣味で乗りもしないビンテージベスパを集めていた。

そうか、べつに国と国とに経済格差があるのが問題というわけでもないんだ。日本とインドネシアの経済格差ばかりが気になり、いわゆる先進国の金満国に生まれた日本人のぼくが円高を利用してインドネシアでまったり暮らそうとしていることを、どこか気まずいことのように感じていたが、つまり、ぼくは搾取側で彼らは搾取される側、みたいに感じている部分もあったのだ、よくよく眼をこらしてみると、いや、ぜんぜん眼などこらさなくても普通に見渡せば、インドネシア国内の経済格差のほうが断然激しい。

ジャカルタにはビルが建ち並らび、スーツのビジネスマンたちが闊歩している。もちろんインドネシア人たちだ。政府の高官や企業の重役はプール付きのデラックスな家に住み、家政婦をやとって高級外車を乗り回す。海外も飛び回っている。その一本裏道に入ればスラムが広がり、今にも飢え死にしそうな人々が真っ黒になってそぞろ歩いている。見慣れたアジアの光景だ。バリ島だってその片鱗は見えるし、現に昨日友達になった36歳のインドネシア人は、今は食堂のオーナーになっているが、10代のころは道ばたで寝ていたという。いわゆるストリートチルドレンだったらしい。

それがこの国の現実なのであり、つまりはそれはインドネシアの国内問題なのだ。
国の富裕層の人たちに、平等の意識とか、国民みんなが貧しくない暮らしをできるように、と願う気持ちがあれば、こんな風にはなっていないはずだ。もはや諸外国の支配ははずされ、まぎれもな独立国家なのだから。

つまりは、政府や金持ちの人たちが、下々の奴らのことなど知らん、勝手に道で寝てろ、と思っているから、こんな風な露骨な格差社会ができあがっているのだろう。それはインドネシアの問題で、おれの問題ではないのだ。すくなくとも俺の頭を悩ます前に、てまえらの頭を悩ませるのが先だよね、と思える。

だからオッケー!と言うつもりがあるわけではないが、国内の貧富の差、これはほぼどこの国にもあるし、ぼくがバリ島で貧しい人々をみかけて気に病むことがあったとしても、それはぼくが何かをする前に、インドネシア人同士で何かをすべきなんじゃないの?とは思えるのだ。

よく、資本主義がどうだのこうだのという議論があるが、歴史をひも解いてもみても、どの時代、どの地域でも貧富の差というものはあった。永遠にあった。どんな経済状態の国や地域でも、お金持ちと貧乏人というのがいて、お金持ちが食いきれない食べ物で腹をこわしているときに、貧乏人は飢え死にしていたのだ。それが人間がつくってきた社会の歴史なのだ。

6/05/2012

Doサーフ!

最近、ほんとにここ数日のことだが、サーフィン仲間ができた。
毎日同じポイントで顔を会わすサーファーが2人できたのだ。二人ともサーフィン目的での来バリであり、ほぼ一日中、サーフィンをしているひとたちだ。行けばそこに仲間がいる、これこそが僕が求めていた環境だ。サンセット後のビーチで暗くなるまでおしゃべりしていたら、なにか胃のあたりからジーンとうれしい気持ちが広がった。ああ、楽しいな、というシミジミした感じ。

しかし、幸福は長くつづかないものなのか、彼らはじきにバリから去ってしまうという。一人は長い旅の途中、一人はバケーションを利用しての来バリだから、いたしかたないのだ。そうそう、ちょうど彼らが、サーフィンの上達度的にぼくのちょい上とちょい下というレベルなのがいいのかもしれない。一緒に海に入るのがとても楽しい。

バリのさみしさのひとつに、行き交う人がすぐに入れ替わってしまうというのがある。つまり、やはり観光地、出会う人の多くは観光客だ。せっかく仲間ができたと思っても、彼らは帰ってしまう。僕は取り残されるのだ。もちろん、現地在住のいい仲間もいる。シンガポールから帰って久しぶりに在バリの知り合いたちと顔を合わせた。やはり友達とはいいもので、気分があげあげになった。思えば、ここ数ヶ月、自分から誰かに連絡をとることもなかった。2人ばかりメールをいれてみると、すぐに返事があり、すぐに会うことになった。久しぶりに会ってやはり楽しかった。さみしがっていた理由のひとつは、自分から誰も誘ってないからだ、という単純な事実が見えた気がした。これから意識して定期的に人と会おうと思う。そうじゃないと、行けばそこに誰かがいる、という環境を今の僕は持っていないのだ。思えば、日本に居る時は、会社だったり、ゲストハウスだったり、いきつけのカフェだったり、毎日いつものメンツに会う場所があった。そういうものを人は必要とするのだろうか。旅でもない日常で、いつものメンバー、がないというのはことのほかさみしいことなのだと実感する。

しかしこのさみしさを飲み込んでも、僕が得たものはそれなりなのだろう。直ちにもとの生活に戻りたいとは今は思わない。というか、よくよく考えてみれば、戻るべき元の生活などはなかった。日本に居る時、いつの時代も、どこか気持ちが落ち着かず、このままじゃ嫌だ、何か現状を変えたい、と常に思い続けていたのだ。今もそれがそれが形を変えて続いているだけなのだろう。パーフェクトはあり得ないのかもしれない。もしかするとこんな感じがずっと続いていくのかもしれない。この何かが足りない感じが。そんなこんなで人生の終点までいってしまうのかもしれないな、とひらめいたりする。

そんな不足感のなかでも、出会っていくものはあって、行きずり過ぎていくものこそがリアルなのかもしれないし、そして今はサーフィンをやっている。少なくともそれはぼくの人生に新しく付け加わった要素で、ある意味孤独なスポーツでありながらも、他では満たせない何かを満たしてくれている気もする。

なんとなく、いい感じで書き進んでしまったが、ほんと、毎日ペースがなかなかつかめずに試行錯誤になっている。もっとイージーな奴になりたいのにな。アメリカ人の友達とか見ていると、ほんとイージーにやっててうらやましくなる。こうしたい、というのが明確で、あれこれ悩まないみたい。もちろん個人差があるはずだが、TAKA, Take it easy!などと言われると、ああ、やっぱりおれは考え過ぎなんだろうな、とへこんでしまう。この考え過ぎの元凶を今この瞬間、つかんでいる気がする。つまり、それは、なにかもったいないことが起きてしまうのではないか、という恐れがつねに僕を覆っているのに気づくのだ。

たとえば、こっちの約束とあっとの約束どっち行こう?こっちに行くとあっとの友達と関係を深めるチャンスを逃してしまうかもしれないし、あっちに行くとこっちの要件がおじゃんになってしまうかもしれない、などなど常に迷っているのだ。

波乗りと仕事もよく天秤にかけられる。もちろん仕事優先でやっているのだが、例えば今日は一日仕事デイだと決めていみて、もしかして今日波が超よかったらどうする?とか小一時間迷ってたりするし、逆のケースで、今日は波乗りを楽しもう、と思っていても、そんな余裕がお前にあるのか?一本でも多く仕事をこなしたほうがよくはないか?後で泣きをみないか?などなど脳裏をよぎりまくるのだ。

とはいえ、過去の選択で何を悩んでいたかはもう思い出すことはできない。つまり、過去の選択を悔やんだりはあまりしないのだ。だから、迷う必要も本当はないのだろう。でも、ありとあらゆる選択に悩んでしまうのだ。

また悩みの話になってしまった。。

さて、帰りますか。(今、いつも仕事で使っているダンキンドーナツにいました)