面白い出会いがあった。型破りな人生を歩んできた60代の男の人とビーチでお友達に。そのまま深夜まで話し込んでしまった。おれなんてほんと安パイな人生を歩んでるだけなんだな、と思わせられる話をえんえんと聞いていた。
お金も女もギャンブルも、仕事も、家庭も、人情も、ほとんどありとあらゆる経験を積んできてるその人に、おれは思わず聞いた。「○○さん、お金って結局何なんですか?なんでこんなに苦しいんですか?」
即答の返答が返ってきた。takaくん、お金っていうのはね、欲望のことだよ。
欲望がなければお金はいらないんだよ、と。インドのお釈迦様みたいな暮らしをして生きて行けるんだったら、お金なんていらないんだ、と。
いまね、これ以上書くのが面倒になったので話題かえるね。なんかすんません。
バリ島に来て、自分の欲望についてよく考えるようになった。
来る前は、バリの文化に触れて、少しスピリチュアルで、ヒューマンで、にこやかで、暖かくて、のんびりしてて、お金と無縁で、こどもたちの笑顔で、美しい田園風景で、そういうものに触れて、ちょっと人間らしい生活を取り戻そうかな、みたいなことをチラっと考えていたような気がする。
もちろんそういうものはバリにある。少し田舎にいけば目が洗われ、涙がにじんでくるような美しい生活の風景がある。
しかし、ここもインドネシア、えげつない欲望があらわになっている場所でもあるのだ。
およそ日本や先進国などは、その欲望がうすぼんやりしたオブラートでうまく包まれている。えげつなくぶつかり合わないようにうまくごまかされている。しかし、その実、この工業文明そのものが欲望の暴走機関車以外の何物でもないことが、ここにいると見えてくるような気がする。東南アジアはいままさに暴走機関車が動き出そうとキシめいているところなのだ。
およそ日本人は、他人のせいにしている。仕方ないからやっていることばかりだ。いや、日本人などとくくるのはおれのずるさなのだろう。日本で生まれ暮らしていた俺という人間、と置き換えてもいい。その人間は、仕方なくこう生きている、ような気分をかもしだしている。
しかし、あなたが仕方なくやっていることは、実は、欲望だ。
おれは、その60代の人生経験氏に聞いた。「お金というものは有限ですよね?世の中に存在しているお金の量って決められていますよね?ということは金儲けするということは、自分がたくさんお金をとれば、他の人の取り分が減るということですよね?あなたはお金をたくさん儲けてきたようですが、そのことをどう考えているんですか?お金を稼ぐことを肯定しますか?自分の中でどう解釈しているんですか?」と。
氏の解答はやはり即答であった。「肯定も否定もできないよ〜。」
詳しい解説はしません。メンドクサイのでね。
ただ言える事は、この長い会話の後で、ぼくはああ、と諦めの境地がやってきた。
それは、そうか、おれは、この欲望とずっとつき合っていくほかないんだな、という諦観だった。
お金が欲しい、それはやむことのない欲望なのだろう。いつだってもう少しお金が欲しい。そして、それがたとえ有限なもので、他人と取り合う他ないものだとしても、それでもぼくは欲しいのだ。自分が他人より少なくしかお金を取れてないと思えば、平等にせよ!と主張し、他人より多めにお金を取れていると思えば、まあそれはそれでよし、と思うだけのことが続いていくのだ。だってお金の取り分が減るなんてとんでもない、いま持っているものが持てなくなる、いま享受しているものを享受できなくなる、そんなのありえない、それどころかもっと先へ行きたいのに!もっとやりたいことがいっぱいある、欲しいものがいっぱいあるのだ。
お金は便利すぎるのだ。でもそれが人間が求めてきたことだ。
大きな話になりすぎた。ぼくはiPhoneを買わないだろう。他に使い道があるのだ。自分の欲望の優先順位が意識されてくる。
そうだ、書きたい事は1つ。すべては欲望なのだ。ぼくたちが苦しんでいるのは欲望についてなのだ。
状況や環境に苦しめられているのではない。そこに何か欲望があるから苦しいのだ。
その欲望を見つめたいと思う訳です。それはお釈迦様のように欲望から解脱せよ、ということはない。
自分の中にうずまく欲望を眺め回して、どの欲望を受け入れるか、どの欲望を実現させるべく動くのか、そういうことをおざなりにしてきたために、おれは、いつも「どうしたいのかわからない」を生きるほかなかったのかもしれない。
なんていうちょっと固い話になっちゃったな。ほんとはもっと生々しい感じなんだけどね。
欲望の肯定こそが生きるということじゃないのかな、っていうお話。
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