4/06/2012

反発を生きてはいけない

常々、吉福さんが言っていること、それは、反発するということは執着するということと同じこと、ということだ。

誰かへの反発や、何かの証明のために生きてしまうなんてもったいない。

まあそれはいいとして。
ここ2日友達が泊りにきてて、一緒に波乗りした。楽しかった。サーフィン始めての人が乗れるようになってはしゃいでいる。始めて立って岸までいった人がはにかんだ顔で振り返る。うれしさを隠しきれない顔だ。親指をたててグッジョブを送ってやる。照れたように手を挙げた。
この瞬間が好きだ。小さなマサカの瞬間なのだろう。できないと思っていたことができた。できるかできないか不安でドキドキしていたことができた。おれにもできた!その喜び。そしてもちろん肉体的な快感。波を滑った浮遊間。それらが渾然一体となったあの懐かしきヨロコビ!

夜、家に帰って、疲れきった体のことを話題にしながら、友人はしきりにこどものころみたいだ、と言っていた。こどものころの夏休みみたいだ、と。そうなのだ。こんなふうに夢中で遊んで、体が芯からつかれている、この感じはいいじゃない!ね。
二日目、友達は砂に足の親指をつっこんだらしく、突き指した。必死にサロンパスを探しにいったが、どこかうれしそうだった。サーフィンの怪我はどこかうれしい。もちろん軽傷の場合に限るけどね。

こどものころ、近所の人たちとヨモギもちを作ったことがある。ちょうど今時、春先のころだと思う。みんなで近所の裏の空き地にヨモギをとりにいって、もちをついて混ぜる。あんまりよく覚えていないが、おばちゃんたちがヨモギを摘む姿と、もちがうす緑に染まっていく映像をかすかに覚えている。
なんでかわからないが、あの日は特別な日になっている。ぼくの中で。ときおりふっと思い出すのだ。とくに何かがあったわけじゃないし、とりたてて大感動した記憶もない。ヨモギもちの味も覚えていない。でもなにか、ヨモギを摘みもちをつく一連のプリセスが、静かで素朴に喜ばしかった日の記憶として頭のなかに余韻を残したのだろうか。

今日は何年ぶりかにそれを思い出した。朝起きて、ベランダにでたら、鳥が鳴いていたからか。
そして、「学研の科学」という雑誌が月イチで送られてくるときの興奮を思い出していた。
その中で、坂道についている輪っかのくぼみは何のため?という記事のことを思い出していた。あの、コンクリートの坂道なんかにある、滑り止めのためのくぼみだ。たくさんの輪っかが刻んである。それが何のためにあるか知らない時代がぼくにはあったのだ。あの輪っかは何のためにあるんだろう。雨に関係があるって書いてあるけど。そして、それが滑り止めのためにあると知って、なるほど!と感動したかどうかは覚えていない。ただ、雨の日に外へ出たいな、と思ったのはかすかに覚えている。こどもの頃、雨が降ると本当にカエルが鳴いていた!カタツムリが本当にあじさいの葉の上にいたものだ。

そんなころの空気の匂いのようなものをふわっと思い出したりしながら、友達が帰ったあとのシーツを洗濯した。



下の写真は友達と一緒にいった、ウブド近くにあるバリ舞踊の衣装屋さん。職人が水牛の皮を彫っている。とても上手。

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