2/26/2012
行き当たりばったり
なんだかなー。考えていました。
もしかするとオレはー大きな勘違いをしてきたのかもしれないなー。
と。
ぼくはほぼ毎日、毎時間、「これからどう生きていけばいいか」と悩み続けています。そして、なにか自分がやるべきこと、古い言葉で言えば「天職」なるものを早くみつけたい、早く充実の日々にたどり着きたいとあがいているようなつもりでいました。
が、実際にはそれほどあがいていない気もします。結構のんべんだらりとしている。
そして、なによりも、実績として、そう動かしようのない実績としては、この40年近い人生を、すっかり、行き当たりバッタリで生きてきてしまった。
それは隠れようのない事実なのだった。
その、行き当たりバッタリの「バッタリ」には、バッタリと倒れていた日々が含まれていることは言うまでもないでしょう。社会人になってからの人生17年ほどのうちじつに5年間くらいはバッタリしていたのです。それは事実です。
もうそのようにここまで生きてしまった。20代、ともすれば10代のうちから自分の進むべき道を見定め、コツコツとあるいは激しく努力してきた人々と、同じ様であるわけはなかったのです。もうそのように生きてきてしまった。
その事実を見つめない事には、この先を歩めない、そう思うに至ったのであります。
もう、そう生きてきてしまった。
さみしいような、懐かしいような気持ちがいたします。
そして、社会に出て20年近くもたつというのに、いわゆる「通用するスキル」を積み上げてこなかったというのも、まぎれもない純然たる事実なのです。中途半端にいろいろあるわけですが。
いま、その事実を向き合って、少しでも自分を評価さしあげたいと思うならば、その行き当たりばったりなりに、それなりに、なんとかしのいできた、途中、数々の人の多大なお世話になりながらも、なんとかしのいできた、そのポイント以外に何もない、ということを、言わずモガナなのであります。
ええ、立派なモガナなのです。
そのモガナといたしましては、もう今後もこのような生き方を修正できるとは思わず、このモガナ道を極めたほうがむしろ有利なのではないか、それしかないのえはないか、と思える日々を過ごしておるところでございます。
そうだな、ほんとうにそのように生きてきてしまった。でもどこか頭の中では、今は仮の姿であり、どこかの時点から怒髪天をつくような、蒼天を駆けめぐりまくるような快進撃が、自分に始まるのではないかとどこかで期待してはや数十年なのです。
きっと始まらないでしょう。きっとそういう風には始まらない。もっとひそやかかつしめやかにすべては進行するのでしょう。
ならば、この行き当たりばったり力を鍛え上げながら、明日はどっちだ、とつぶやきながら、そういう風にいて生きながらえて、そしてあわよくば、これぞオレの生き甲斐なのだというものを、つかみ取りたいと思うのです。
って結局、見つけたいわけかよ。
この思考回路はなかなかなくならないようにです。
でもね、比重を変えましょう。未来の天職を考える時間を減らして、ネクスト、いやさ、ナウ、どうするか。どうしのぐか、そっちに比重を置き換えましょう。頭の中の。そうのように生きてみて、どこに出るか、出たとこ勝負で笑っていられるか、そういう戦いをしていくしか、ないのが、もはやオレです。
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